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イエス・キリストはどんな方なので,わたしたちすべてに必要なのですかものみの塔 1976 | 4月15日
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それにより出現する結果となりました。この人物は,子羊のようでもありましたが,また「ユダ族の者であるしし」および「ダビデの根」でもありました。神の聖書のすべての証拠は,この人物が,西暦前2年の初秋にダビデの町ベツレヘムで生まれたイエス・キリストであることを指し示しています。彼が犠牲の子羊のようになることと一致して,彼の誕生は神のみ使いにより,神が選ばれた証人,つまり夜羊の群れの番をしていた羊飼いたちに発表されました。―ルカ 2:4-18。マタイ 2:1-18。
18 『ダビデの胤から出た』その人は,死からの復活によりだれの子と呼ばれましたか。
18 このことすべては,クリスチャン使徒パウロが言った通り「良いたより」でした。「その良いたよりは,神がご自分の預言者たちを通じて聖なる書の中にあらかじめ約束されたもので,神のみ子に関するものです。そのみ子は,肉によればダビデの胤から出ましたが,聖なる霊によれば,死人の中からの復活によって神の子と力づよく宣言されたかたです。―そうです,それはわたしたちの主イエス・キリストです」― ローマ 1:1-4。
19 イエスは復活によりどんなレベルで神の子と宣言されましたか。しかし以前地上におられたときにはどんな者でしたか。
19 ところで,人が真の意味で神の子であることについて言うなら,ルカ 3章23節から38節に示されているイエス・キリストの肉の家系によると,最初の人間アダムは「神の子」でした。しかし彼は天の父に背いて死に,わたしたちすべてに罪と死をもたらしました。彼は依然死んだままで,死から復活させられていません。彼は神の子としての身分を失いました。しかしイエス・キリストは霊的レベルで復活させられ,そのようにして地上で持っておられたよりも大きな力を持つ神の子として新たに宣言されました。しかし地的レベルにおられたときでも,そしてマリアという名のユダヤ人の処女を通して肉体を持つ人間として生まれてはいても,イエスは神の子でした。その事実を疑う理由はありません。なぜでしょうか。
20 バプテストのヨハネはイエスが神の子であることを証言しましたが,それはただ自分自身の考えから割り出したものではなかったと言えるのはなぜですか。
20 当時の切迫した事態は,「神の子」が地に来ることを必要としていました。イエス・キリストはその必要な神の子であることを明らかにされました。30歳で成人されたとき,ゼカリヤという名のユダヤ人祭司の息子バプテストのヨハネにより水のバプテスマをお受けになりました。ヨハネはイエス・キリストのことを人々の前で何と発表したでしょうか。バプテストのヨハネは自分の弟子たちに,イエス・キリストは神の子である,と言いました。ヨハネはそのことを知っていました。それはただ自分自身の考えから割り出したのではありません。なぜなら,ヨハネはイエスにバプテスマを施した直後,天から神の声がして,「これはわたしの子,わたしの愛する者であり,この者をわたしは是認した」と言うのを聞いたからです。(マタイ 3:13-17。マルコ 1:9-11。ルカ 3:21,22)ですからヨハネは公然と,「わたしはそれを見たので,このかたこそ神の子であると証ししたのです」と言いました。―ヨハネ 1:34。
21 なぜイエスは人間の,つまり肉身を備えた父親を持ち得ませんでしたか。彼の父であることをだれが明らかにしましたか。
21 しかしながら,神の子としてのイエスの身分は,ユダヤ人の処女マリアを通して人間として誕生したときに始まったのではありません。イエスは,アダムの男子の子孫と性関係を一度も持ったことのない処女から生まれたのですから,人間の,つまり肉身の父親があったはずがありません。どのみ使いも彼の父親ではありませんでした。なぜならマリアは,箱船建造者のノアの時代のかの悪名高いネピリムの母親たちの場合のように化身したみ使いと性関係を持つようなことはしなかったからです。(創世 6:1-4)マリアに現われて,彼女がどのように奇跡的にイエスの母親になるかを説明したみ使いガブリエルも,マリアの初子の父親ではありませんでした。(ルカ 1:26-38。マタイ 1:18-25)現代科学は今日,イエスの処女懐胎を不可能と主張してそれに反論するかもしれません。しかしみ使いガブリエルは,「神にとっては,どんな布告も不可能なことではないのです」と言って,マリアの思いに起こりそうな疑問をすべて取り除きました。(ルカ 1:37)そのことと一致して,神はご自分がダビデの家系に生まれた赤子イエスの父であることを明らかにされました。
22 ヨハネの言葉および神に対する祈りの中のイエスの言葉は,イエスが天で神の子であったことをどのように示していますか。
22 以上のことはすべて真実です。しかし,ベツレヘム-ユダにおけるイエスの誕生は,神の子としてのイエスの存在の出発点でしたか。そうではありません。イエスより六か月ほど先に生まれたバプテストのヨハネは,自分がバプテスマを施したイエスについて公然と次のように言いました。「見なさい,世の罪を取り去る,神の子羊です! これこそ,わたしのあとに,わたしの前を進んだ人が来る,わたしより前に存在されたかただから,とわたしが言ったそのかたです」。(ヨハネ 1:29,30)ところで,バプテストのヨハネ以前には人間として地上に存在しておられなかった以上,イエスはヨハネより前にはどこにおられたのでしょうか。それは天です。イエスは神の子として天におられたのです。そこで天の父とじかに接しまた交わられたのです。イエスが,エルサレム城外で殉教者としての死を遂げる前夜,天の父に対する祈りの中で,「わたしは,わたしにさせるために与えてくださった業をなし終えて,地上であなたの栄光をあらわしました。それで,父よ,世がある前にわたしがみそばで持っていた栄光で,わたしを今ご自身のかたわらにあって栄光ある者としてください」と言われたわけが,これで分かるわけです。―ヨハネ 17:4,5。
23 神はどこからそのみ子を世に遣わされましたか。どのようにして?
23 そういうことで,イエス・キリスト,「神の子羊」となった人は,目に見えない天の領域で,神の子として天の父のそばにおられたのです。したがって,イエス・キリストという名で,神の人間である子となるためには,全能の神が彼の命を天からユダヤ人の処女の胎内の人間の卵子の中に移さねばなりませんでした。このようにして神は,ベツレヘムで彼が誕生したときにも,引き続き彼の父であられました。神は天からのみご自分の子の命を奇跡的に移し,そうすることによってご自分の子を『遣わす』ことができました。イエス・キリストがユダヤ人の支配者ニコデモに言われた通りです。「神は[人類の]世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされたからです。神はご自分の子を世に遣わされましたが,それは,彼が世を裁くためではなく,世が彼によって救われるためなのです」― ヨハネ 3:16,17。
24 わたしたちはなぜ「子羊」としての神のみ子を必要としていますか。
24 以上のようにしてわたしたちは,神がどのようにしてわたしたちの永遠の救いに必要な一人の人,つまり完全な,罪のない状態でエデンの園にいたときのアダムと同等の一人の人を備えてくださったかを知ります。この人だけが,「世の罪を取り去る,神の子羊」として自分自身を神にささげ犠牲とすることができたのです。(ヨハネ 1:29)これにはわたしたちの罪が関係しているので,わたしたちは彼を必要としています。
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わたしたちはなぜイエス・キリストの王国を必要としていますかものみの塔 1976 | 4月15日
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わたしたちはなぜイエス・キリストの王国を必要としていますか
1 イエスはどの「神」の子として生まれましたか。それが偶然でなかったのはなぜですか。
西暦一世紀のあるとき地上におられた神のみ子について,わたしたちは一つの重要な事がらに気づきます。彼はインドのあるヒンズー教徒の家には生まれませんでした。またチベットのある仏教徒の家に生まれたのでも,古代中国の王家,またはローマの皇帝カエサルの家に生まれたのでもありません。(エステル 1:1。ルカ 2:1,2)むしろ彼は「肉によればダビデの胤から出ました」。(ローマ 1:3)それは偶然ではありませんでした。この神の子は「ダビデの胤」として生まれる必要があったのです。神が,ベツレヘムのダビデの肉の家系の者であるユダヤ人のおとめを,イエス・キリストの母親となるべくお選びになったのはそういう理由からでした。(ルカ 1:26-32)このマリアは,彼女を奇跡によって懐妊させた神の崇拝者でした。ですから彼女の子は,ヒンズー教のいずれかの神または仏教のいずれかの神の子でも,ローマのジュピターまたはギリシャのゼウスの子でもありませんでした。―ルカ 1:34-55。使徒 14:12,13。
2 なぜイエスは,犠牲の子羊となるために,レビ族のもの,またアロンの家系の者として生まれる必要はありませんでしたか。そしてイエスはどの日に死なれましたか。
2 古代イスラエルにおいて,ダビデ王の部族はユダの部族でした。それは犠牲をささげる祭司が取られることのない部族でした。それでもイエス・キリストは,ユダ族の「ダビデの胤」として生まれ,なおかつ「世の罪を取り去る,神の子羊」となることができました。(ヨハネ 1:29)レビの部族の者,またイスラエルの祭司たちが取られた祭司の家系であるアロンの家系の者となる必要はありませんでした。ダビデの部族であるユダの部族に生まれてもなお,完全で罪による汚れがない故に神に受け入れられる犠牲にふさわしい,完全で罪のない人間であり得ました。神の子として天で保っておられた完全さと罪のない状態は,彼が地上に遣わされて,エデンの園で創造された日の完全で罪のないアダムと全く同等の人間となられた時にも変わりませんでした。「すべての人のための対応する贖いとしてご自身を与え」るためには,イエス・キリストはそのような人である必要があったのです。(テモテ第一 2:5,6。マタイ 20:28)イエスは,西暦33年の過ぎ越しの日,つまりユダヤ人が過ぎ越しの子羊を犠牲としてささげ,同民族が古代エジプトから救出されたことを祝ってその肉を焼いて食べる日に,罪を贖う犠牲としてご自分の血を注ぎ出されました。
3 レビ記 17章11,12節は血についてなんと述べていますか。したがってわたしたちがイエスの血から受けるのはどんな益ですか。またどのように受けますか。
3 神は,古代イスラエルとの契約の中で,レビ記 17章11,12節にある次の言葉を述べられました。『そは肉の生命[または魂]は血にあればなり 我汝らがこれをもて汝らのたましいのために壇の上にて贖罪をなさんためにこれを汝らに与う 血はその中に生命[魂]のある故によりて贖罪をなす者なればなり……汝らの中たれも血をくらうべからず また汝らの中にやどれる他国の人も血を食うべからず』。ですからイエス・キリストは,神への犠牲としてご自分の血を注ぎ出されたとき,罪深いアダムの子孫であるわたしたちすべてのための贖いの犠牲としてご自分の命を注ぎ出されたのです。イエスはご自分の完全な人間の犠牲の命の血を天の神にささげられたのです。ですからわたしたちは,その益を受けるためにイエスの血を食べる,または飲むわけにはいきません。イエスの命の血から益を受けるには,その血が,わたしたちの負っている死をもたらす罪を十分に贖うものとして,それに信仰を働かせなければなりません。―ヘブライ 9:11-14,24。
4 イエスの血に関するシモン・ペテロの言葉は,啓示がイエスを子羊として特筆していることをどのように適切なものにしていますか。
4 第一世紀のユダヤ人で,イエスの血が贖う価値を持っていることを信じていた人の一人は,かつてガリラヤの海の漁師であったシモン・ペテロでした。彼は仲間の信者たちに手紙を書いたとき,次のように述べました。「あなたがたが父祖より受け継いだむなしい行状から救い出されたのは,朽ちるもの,つまり銀や金によるのではないからです。それは,きずも汚点もない子羊の血のような貴重な血,すなわちキリストの血によるのです」。(ペテロ第一 1:18,19)これでわたしたちは,ヨハネへの啓示がイエス・キリストのことを絶えず「子羊」,「ほふられた」子羊として特筆しているのが適切であることを理解できます。(啓示 5:6)わたしたち人類はすべて,そのような贖いの子羊,つまりその血でわたしたちの罪を清め,わたしたちから死の宣告を取り除き得る子羊を,確かに必要としています。この子羊の犠牲を通して与えられる命がなければ,将来神のみ前に清い良心を抱いて何かを享受できる人は一人もいないのです。ですから実際にわたしたちはこの子羊なしでやってゆくことはできません。
5 イエス・キリストは,犠牲として自分をささげることにおいて,イスラエルの贖いの日のだれの実体として奉仕されましたか。
5 イエス・キリストは,犠牲の子羊としてご自身をささげ尽くし,神の大祭司として奉仕されました。その大祭司は,イスラエルの最初の大祭司,すなわちレビの部族のアロンによって予影されていました。その後の,古代イスラエルの犠牲をささげる大祭司はすべて,モーセの兄弟であるこのアロンから出ました。このことも,全人類がイエス・キリストを必要としている,そしてイエスが,年に一回の贖いの日ヨム・キプルに犠牲の血を神殿の至聖所に携え入れるイスラエルの大祭司の実体として奉仕されることを必要としている,もう一つの理由です。
6 クリスチャンになったユダヤ人は,罪の贖いをだれに仰ぎ求めるよう告げられましたか。なぜですか。
6 復活されたイエス・キリストは,この贖いの日の場面を実行され,地から天に戻られて神のみ前に現われ,全人類の罪を贖うご自身の完全な人間の犠牲の功績もしくは価値をささげられました。そういう理由から,クリスチャンになったユダヤ人は,もはやアロン系の大祭司に頼るのではなくてその実体に頼るよう勧められました。その言葉はヘブライ 3章1,2節に次のように記録されています。「そのようなわけで,聖なる兄弟たち,天への召しにあずかる人たちよ,わたしたちが信仰を告白する使徒また大祭司,イエスを思い見なさい。彼は自分をそのようにしたかたに対して忠実でした。モーセもまたそのかたの家全体にあって忠実であったのと同じです」。
大祭司以上のものが必要
7 イエス・キリストはどんな点で,わたしたちのためにふさわしい大祭司ですか。そして啓示は1章のどこで,イエスがそのような大祭司として奉仕していることを描いていますか。
7 ヘブライ人への手紙は,大祭司としてのイエス・キリストが,アロンとその後継者たちよりもいかに効果的に奉仕されるかを,クリスチャンになったユダヤ人にさらに説明し,7章26節で次のように言葉を続けます。「このような大祭司,忠節で,偽りも汚れもなく,罪人から分けられ,もろもろの天よりも高くなられたかたこそわたしたちの必要にかなっていたのです」。ヨハネへの啓示 1章12節から18節には,クリスチャン会衆の大祭司として奉仕される,栄光をお受けになったイエス・キリストが描かれています。しかしながら,第五章はイエス・キリストを神の大祭司以上の者として描いています。このことは,イエスが犠牲の子羊でありわたしたちの大祭司であるという理由以外のもう一つの理由で,わたしたちすべてがイエス・キリストを必要としている事実を強調します。
8 啓示 5章9,10節の中ではどんな名称が子羊に与えられていますか。このすべては,祭司職のほかに何に言及していますか。
8 啓示 5章5,6節は,ほふられた子羊が「ユダ族の者であるしし,ダビデの根」であることを明らかにしています。それらの名称は,子羊イエス・キリストに関するある事を暗示しています。9,10
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砂の重さものみの塔 1976 | 4月15日
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砂の重さ
◆ 『これは海の砂よりも重からん』。忠実なヨブは,自分が耐えねばならなかった苦しみについてこう述べました。(ヨブ 6:3)砂の重さを考えてみるなら,その苦しみの大きさを一層良く理解できます。わずか一立方㍍の湿った砂の重さは,約2㌧もあります。
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