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イエス・キリスト ― 歴史上の人物ものみの塔 1975 | 7月15日
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インド総督アーウィン卿に次のように語ったことがあります。「あなたの国と私の国が山上の垂訓の中でキリストの述べた教えに基づいて話し合うならば,我々両国の問題はおろか全世界の問題が解決されていたであろう」。老練なアメリカの精神科医J・T・フイッシャーは,成功を収めた医師としての晩年に,山上の垂訓は世界の哲学者,心理学者,詩人が提供できる最善のものをはるかにしのいでいると書いています。
イエスの奇跡についてはどうか
福音書の中で他のどの面よりも,多くの人にとっておそらくつまずきの石となってきたのは,奇跡の記録です。奇跡が普通の出来事として述べられているならば,あるいは異論の余地があるかもしれません。しかし福音書の場合はそうではありません。福音書は,イエスが確かに神の子であることを確証する異常な出来事として奇跡を述べています。次のように記されています。「確かにイエスは,弟子たちの前でほかにも多くのしるしを行なわれたのであるが,それはこの巻き物の中には記されていない。でも,これらのことは,イエスが神の子キリストであることをあなたがたが信じるため……である」。(ヨハネ 20:30,31)イエスがご自分は神の子であることを単に主張するだけでは,確かに不十分であったでしょう。イエスはそのことを証明できなければなりませんでした。またそれをするのに奇跡を行なうよりも勝った方法があったでしょうか。
しかし奇跡は自然界の法則に反するという論についてはどうですか。この点について,宇宙線の発見者ビクター・ヘスはかつて次のように述べました。「奇跡は自然界の『法則』の『必然性』と相いれないと,時に言われる。しかしそうではない。……物理の法則の多くは,実は統計的に述べているに過ぎない。それは非常に多くの事例の中で平均的に当てはまるものである。個々の場合には,それは意味を持たない。……科学者は奇跡が事実であることを疑わなければならないだろうか。科学者として私は否であるとはっきり答えよう。人間や自然の万物を創造した全能の神は,もしそうすることが良いと認めるならば,物事の,自然で普通の成り行きを一時,停止したり,あるいは変えたりしないであろうか。全能の神にとってそれはしごく当然であると,私は思う」― W・ホウェイ編「偉大な科学者の信仰」,10ページ。
またイエスの奇跡の真実さを裏付けているのは,奇跡が目撃者に与えた影響です。W・ペイレー博士が述べているように,彼らは「労苦,危険,苦しみの中を生きた。彼らは自分たちの宣べ伝えた出来事の真実さのゆえに,それらの出来事を信じたというだけの理由で受けた苦しみを甘んじて受けた。また……同じ動機から,行動の新しい規則に従った」―「ウイリアム・ペイレー著作集」,300ページ。
事実を避けることはできません。前述の証拠に照らしてみるとき,客観的かつ合理的な見方をする人はただ一つの結論に達します。すなわちナザレのイエスは実在しただけでなく,聖書に描かれたイエスの生涯の記録は,歴史上の人物であるイエスの生涯を明らかにしているということです。
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真理は人の生活に大きな変化をもたらすものみの塔 1975 | 7月15日
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真理は人の生活に大きな変化をもたらす
「インドでも,偽りの宗教の教えにひたっていた人たちが真理に接して,生活に大きな変化をもたらしています。ヒンズー教のある宗派の信者は,男根崇拝の象徴物を首にさげています。その派のある神殿のプージャリ(司祭)が証言を受け,『真理』の本を求めて読み,その内容に深い感銘を受け,ほどなくして聖書研究に応じました。その結果は実に興味深いもので,その人と家族はともに男根崇拝の象徴物をからだから取り去り,ヒンズー教の神話の偶像や宗教画を家から一掃し,今では王国会館の集会に出席しています」。―「エホバの証人の1975年の年鑑」より。
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