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「御心が地に成るように」(その34)ものみの塔 1960 | 5月15日
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にヱホバの証者です。彼らは,ヱホバの聖所級,すなわち『生ける石』で成り立つヱホバの宮,ヱホバの『霊的な家』です。ヱホバは御霊によつてそこに住まわれます。栄光をうけたイエス・キリスト,すなわちミカエルは,この生ける聖所の主要な隅石です。それで,彼はこの聖所の君であり,彼は御自身を岩として,その上にこの聖所を建てます。この聖所級の残れる者を守り,彼らをその圧迫者たちから救い出すのは,彼の義務です。
17 彼が彼らの君になることは,なぜいままでになく当然の理由がありますか。
17 ミカエルなる彼がいま彼らの君であることはいままで以上に当然の理由があります。なぜですか。なぜなら,彼は御国の共同相続者の『小さな群れ』のために,御自分の人間としての生命を捨てられた方であり,そしてヱホバの正しい羊飼だからです。『その名をイエスと名づけなさい。彼は,おのれの民をそのもろの罪から救う者となるからである。』(マタイ 1:21,新口。ヨハネ 10:11-15。ルカ 12:32。ロマ 8:16,17)君である彼は,いままで以上に大きな力を持つています,なぜなら彼は『自らをひくくし,死にいたるまで,苦しみの杭の死にいたるまで従順であられた。それゆえに,神は彼をより高い地位にあげて,すべての名にまさる名を彼に与えられたのである。これはイエスの名において,天にあるもの,地にあるもの,地下にあるものすべてがひざまづき,また凡ての舌は,「イエスキリストは主である」と言い表わして,父なる神に栄光を帰するためである。』(ピリピ 2:8-11,新世。マタイ 28:18)1914年,彼は全宇宙を支配するヱホバの首都制度の支配している王になりました。彼は平和の君であることを証明するでしよう。―イザヤ 9:6。
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ヱホバの証者の年鑑からの抜萃ものみの塔 1960 | 5月15日
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ヱホバの証者の年鑑からの抜萃
台湾
人口 9,506,000人
最高伝道者数: 2,063
比率: 4,607人に1人
この島には台風,洪水,地震が数多く生じ,戦争の脅威が絶えずあるので多数の人々は別の地で生活する方が良いと昨年中決定しました。しかし,一つの島から別の島へ移つても,また一つの国から別の国へ移つても平和を見出すことは決してできないでしよう。平和を見出すただ一つの方法は,ヱホバの制度内にいて,平和を求め追てうことです。全世界のヱホバの証者は,幸福にもヱホバ神を代表しています。彼らは美しい民の群れのように見えます。預言者イザヤは,次のように書きました『良き音信をつたえ……ミオンに向かいてなんじの神はすべおさめたもうという者の足は,山の上にありて,いかにうるわしきかな。』ヱホバ神と御子キリスト・イエスを信ずる人のすくないこの台湾の国で音信は人々のところに伝えられています。そして,人々が聞いても聞かなくても警告は与えられています。良いたよりの伝道はつづいており,そのたよりによつて多くの人の心はよろこびを感じました。
地方の偏見にうち勝つため,新世社会がどんなものであるかを人々に見させることは必要です。この目的のために,巡回大会はすばらしい成功をおさめました。私たちは小さな町や村に行つて良い証言を与えることができました。小さな村で行なわれる巡回大会の計画を聞いたカトリックの司祭は,四日間の民謡と踊りのお祭りを大会前の1日前に始めるように取りきめました。その地のカトリック教会員の数はすくないので,司祭は遠い村々から400人ほど集めて,できるだけ大ぜいの人を巡回大会から引きはそうとしました。その司祭は,町の当局に交渉して村の会場を借りようとしましたが,その場所はすでにヱホバの証者に約束されていたので,その場所から200ヤード離れた一教会員の前庭に踊り場を設けました。最初の夜,神様は彼らを特別に恵んで良い天候を与え給うたと,彼らは語りました。ところが,金曜日の夜になると,猛烈な雨が降つてきて,その庭は池に変り,踊りは中止されました。兄弟たちの使用した会場も溢れました。しかし,それは水で溢れたのではありません。真理に飢えかわいた人々は,ぞくぞくつめかけて,兄弟たちが良く準備した話を聞きました。出席者数は,予想をはるかに上廻りました。司祭たちも出席して,村の人々に大会の会場から出るよう説得しましたが,成功しませんでした。その地の小さな会衆は,それ以来たいへん良く拡大しています。
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イエスはどのように死なれたかものみの塔 1960 | 5月15日
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イエスはどのように死なれたか
地上における宣教が終る頃のイエスの日々は,はげしい試練で満ちていました。死ぬ時が近づいたのを気づかれた「イエスは,エルサレムへ上るとき,十二弟子をひそかに呼びよせ,その途中で彼らに言われた,『見よ,わたしたちはエルサレムへ上つて行くが,人の子は祭司長,律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼を死刑に定め,またあざけり,むち打ち,杙にしばりつけるために異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう』」。―マタイ 20:17-19,新世。
ニサンの14日,すなわち過越の日,ご自身の死を記念する記念日を弟子たちと制定されてからイエスは,彼らをオリブ山に連れて行かれました。「そのとき,イエスは弟子たちに言われた,『あなたがたは皆,わたしにつまずくであろう。「わたしは羊飼を打つ。そして羊は散らされるであろう」と書いてあるからである。』」(マタイ 14:27,新口)イエスは,ずつと昔に記録されたゼカリヤ書 13章7節のこの預言が,ほどなく成就するのを知つておられて弟子たちの上にやつてくる大きな試練に備えておられたのです。
ゲッセマネという園に着いた時,ペテロ,ヤコブ,ヨハネを一緒に連れて行かれ,「甚しく驚き,また悩みはじめて,彼らに言われた,『わたしの魂は心配のあまり死ぬほどである』」。「アメリカ標準訳」の義解によるとイエスは,「わたしの心臓はいまにも破れそうである」と言われました。「そして少し進んで行き,うつぶしになり,祈つて言われた,『わが父よ,もしできることなら,この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし,わたしの思いのままにではなく,みこころのままになさつて下さい。』また二度目に行つて,祈つて言われた,『わが父よ,この杯を飲むほかに道がないのでしたら,どうか,みこころが行われますように』」。(マルコ 14:32-34,新世。マタイ 26:37-39,42,新口)イエスは心に大きな負担をおわれていたのです。イエスにとつて最も大きな心配は御父の御名の立証でありました。また,ご自身の生命はもちろん,人類の救いも,イエスの行動いかんにかかつていたのです。
イエスが地上で宣教を開始された当初,悪魔は荒野でイエスを誘惑し,イエスに忠実の道を踏みはずさせようとしましたが,イエスはヱホバだけにつかえました。「そこで悪魔はイエスを離れ去り,そして,御使たちがみもとにきて仕えた。」イエスの人間としての生涯の終りにやつてきたい試練の時もやはり,「御使が天からあらわれてイエスを力づけた。」― マタイ 4:11。ルカ 22:43,新口。
ここで,イザヤ書 53章10節に記録されている,イエスの死に関する預言,「ヱホバはかれを砕くことをよろこびてこれをなやまし給へり」を,よく考えて見るのはおもしろいことです。これはいつたいどのように真実となりましたか。
ゲッセマネでイエスは甚しく苦しまれました。「イエスは苦しみもだえてますます切に祈られた。そして,その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」(ルカ 22:44,新口)ヱホバはこのことをゆるされました。ですから,イエスをその園の中で病気にさせたのは,ヱホバであつたと言えるでしよう。イエスの苦しみは,血のような汗が地にしたたるほど激しかつたので,それが短かくされなかつたなら死なれたかも知れません。しかしながら,イエスがかかつたその病気は,イエスの神経の感度を減殺し,まだ経なければならない事がらに耐えやすくしたのではないかと言われています。私たちは,イエスが刑柱にくぎ付けにされるまえに,病気になるのをゆるされた点にヱホバのあわれみを知ります。
イエスは,とらえられて模擬裁判にかけられた後,祭司に導かれた群集の必要な要求によつてむち打たれ,杙にはりつけられるために渡されました。それはひどい経験でしたけれども,痛みは,その前に経た神経を殺す経験によつてある程度かるくされたにちがいありません。刑柱の上で長い間苦しませたり,あるいは兵士に骨を折らせて命を終わらせるかわりに,「ヱホバはかれを砕くことを」よろこばれました。すなわち杙にはりつけられた数時間後に命を終わらせられました。イエスは何が起つているかを知つて呼ばれました,「わが神,わが神,どうしてわたしをお見捨てになつたのですか。」そして悲しみを克服され,「声高く呼んで,ついに息をひきとられた。」この出来事を説明するに当つて,ウイリアム・ストラウド医学博士は「キリストの肉体的死因」という本に,クルーナーとかいう人の次のような見解をのせています,「心配と胸騒ぎで心臓が過度に充血し,また窒息のおそれがある場合は,誰でも大声で叫ぶのが普通である。」察するところ,心臓が破れたか,あるいは大動脈の一つが破裂したかして,イエスは死なれたようでした。
このことは,ヱホバの御目的のもう一つの重要な部分の成就を可能にしました。「血を流すことなしには,罪のゆるしはあり得ない。」(ヘブル 9:22,新口)またイエスの死については,「彼は自分の魂をそそぎだして死にいたらせた」とも書かれています。(イザヤ 53:12,新世)信仰をもつユダヤ人を律法ののろいから救うためには,イエスは「杙の上」で死なねばなりませんでした。しかし杙上の死では,血が「そそぎ出され」ません。しかし,それは,信ずる人類すべての罪を取り去るための神の御要求に応ずるために必要なことでした。(ガラテヤ 3:13)でもヱホバが,イエスの手と足をくぎづけにさせ,また心臓あるいは大動脈の一つを破裂させてイエスを砕かれたので,血液は心嚢あるいは胸腔にそそぎ込みました。それで,兵士のひとりが槍を取つてイエスのわきを刺した時「血と水とが流れ出」ました。(ヨハネ 19:34,新世)このようにしてヱホバは,御子の苦しみをはやく終わらせることに喜びをもたれる一方,霊感された預言者たちによつて書かれたすべての事がらを成就させ,また救いのための要求が果されるのを可能にされたのです。
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