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  • メシア ― 彼は何を成し遂げるか そしていつ?
    目ざめよ! 1976 | 7月22日
    • その成長が神によって『おおわれた』ことは,アダムからの罪がないことを保証しており,したがってイエスは完全な人間でした。こうしてメシアは人類を罪と死から贖う高価な贖いの価を払うことのできる立場にありました。―詩 49:7。マタイ 20:28。

      ダニエル書 9章25-27節(口)によれば,「メシヤなるひとりの君」は「[七十]週[目]の半ばに」「断たれ」ます。イエスが西暦33年春の過ぎ越しの日に死なれたことは,これと全く一致します。それは正確に『週年』の半ば,すなわちイエスのバプテスマから三年半後でした。―マタイ 26:2。ヨハネ 13:1,2。

      イエスは約束のメシアでしたか。ここにあげた事実はその結論を明白に指し示しています。しかしこの種の証拠だけでは十分に納得しない人も多いことでしょう。何かそれ以上のものが必要です。そしてそのような証拠があります。それはどんな面の証拠ですか。

      『天才の精神』

      イエスの生涯は聖書預言の中にあらかじめ定められた日付と場所に一致するというだけの事に尽きるのではなく,はるかそれ以上のものであり,この事に留意するのは大切です。イエスの教えと行動は紙に書かれた単なる言葉ではありません。イエスは人でした。イエスがメシアであったかどうかを決めるのに,その「精神」つまりイエスをイエスたらしめ,その語った事,行なった事をイエスに語らせ,行なわせる推進力となった心の態度を考慮しなければなりません。この点についてユダヤ人の学者クロード・モンテフィオーレは「共観福音書」の中で次のように書いています。

      「イエスの教えには,ある種の精神と情熱とがある。人はそれを味得するか,しそこなうかのいずれかである。……世界にこれほど大きな影響を与えたイエスの教えは,命令の詳細な羅列以上のものであり,またそれ以外のものである。それは部分の単なる寄せ集めではない。それは全体であり,精神である。その精神には天才の特性がある。それは偉大であり,活気づけるものであり,雄大である……

      「福音書の中でイエスが話者となっている,例えば1,000の句を選び,そのうちの970に非常によく似た別々の言葉があったとして,たとえそれらを集め,すてきな小さい本に作り上げたとしても,出来たものはその宗教的価値において同等な代用物とはならないであろう。まとまり,気品,精神,特質はすべて失われてしまっているであろう。あるいは,むしろこれらのものを,断片と豆記事の優雅な寄せ集めの中に吹き込むことはできなかったということであろう」。

      マタイ,マルコ,ルカおよびヨハネの四つの福音書の記述をヘブライ語聖書の光に照らして注意深く研究することにより,イエスの教えの「精神」を汲み取る努力を実際に払ったことがありますか。そうすることは,メシアのまず果たすべき役割を理解する助けとなるでしょう。また神の「油そそがれた者」に関して広く一般の人々の期待した事柄が,ナザレのイエスによって当時成し遂げられなかった理由を理解できます。しかしイエスの成し遂げた事柄は,全人類が近い将来にすばらしい祝福を受けるための土台を据えるものでした。それはどんな種類の祝福ですか。あなたは生きてその到来を見るでしょうか。

      最終的に成し遂げられる事柄は今の時代に成就し始める

      ヘブライ語聖書には,栄光を受けた天の王としての「人の子」すなわちメシアに関する預言もまた含まれています。神は天の王としてのメシアに「主権と光栄と国とを賜い,諸民,諸族,諸国語の者を彼に仕えさせ」ます。(ダニエル 7:13,14,口)その天の王国の支配の下で人類は全地に復興する楽園に住み,完全な健康を与えられて永遠の命を享受することでしょう。(詩 133:3。イザヤ 33:24; 35:5,6と比べてください。)死者でさえも復活を受けて生命にもどるのです。(ヨブ 14:13-15。ダニエル 12:13。ヨハネ 5:28,29)このすべては,メシアがご自分の完全な人間の生命をすすんで犠牲にされたことによって可能となるのです。しかしこのような祝福の時はいつ到来するのですか。

      イエスは当時のユダヤ人の間で広く期待されていた事に反して次のように説明されました。『神の王国はきわだって目につくさまで来るのでは……ありません』。(ルカ 17:20)ではその王国の近づいた時,どうして確かに知ることができるのですか。

      「事物の体制の終結のしるし」として,とりわけイエスは大規模な戦争,重大な食糧不足,地震,不法の増加および他の「苦しみの劇痛」を預言されました。(マタイ 24:3,6-8,12; 啓示 6:1-8と比べてください)このような出来事は,画期的な年となった1914年以来,先例を見ない規模で人類を悩ましてきたのではないでしょうか。イエスの預言によれば,この経験をする世代はメシアの支配の祝福が全地に及び始めるのを見るでしょう。(マタイ 24:34。ゼカリヤ 9:10)それは今日生きている人々にとって最良のニュースではありませんか。

      ヘブライ語聖書は「メシヤなるひとりの君」がまず最初に果たす,罪をおおう役割を述べ,またメシアの現われる年として西暦29年を正確に示しています。(ダニエル 9:25)メシアの犠牲の死は『週年』の半ば,すなわち3年半後に遂げられます。(ダニエル 9:26,27。イザヤ 52:13–53:12)ナザレのイエスの生涯は,これらの預言またメシアがまず成し遂げるわざを示した他の預言すべてに全く符合します。これに照らして見る時,福音書の記述はきわめて真剣かつ注意深い研究に値するのではないでしょうか。あなたはこのような研究をすすんでされますか。全地に及ぶメシアの支配の祝福にあずかることを願う人にとって,そうすることは絶対に必要です。

  • 『時はすでに過ぎた』
    目ざめよ! 1976 | 7月22日
    • 『時はすでに過ぎた』

      1649年のこと,イタリアのベニスで二人のユダヤ人が「七十週」の意味をめぐって討論しました。(ダニエル 9:24-27)その一人はキリスト教を受け入れていたのです。二人の討論者は裁定者として土地の上席ラビであるシモン・ベン・イサク・シムハー・ルザトーを選びました。この討論にはルザトーの弟子である特待生サムエル・ベン・ダビデ・ナミアスとその兄弟ヨセフが同席しました。ナミアスはその模様を記録しています。

      「二人の反対者は初め彼ら同志,勇敢に討論した。しかしクリスチャンが明らかに勝利を得そうな形勢になってきた時,論争の審判者として高いところに座を占めていたルザトーは突然に両手でテーブルをたたき,こう言った。

      「『諸君も知っている通り,問題の聖句は最もすぐれたラビたちすべてを当惑させ,天地の区別も分からなくなるほど,彼らを途方に暮れさせているものである』。それから同様な言葉を他にも二,三つけ加えてのち,彼は指を唇にあててこう言った,『さあ,我々は沈黙することにしよう。そして本を閉じることにしよう。なぜならダニエルのこの預言についてこれ以上,思索するならば,必ずや我々すべてがクリスチャンになってしまう結果になるからである。メシアのすでに来たことがその預言中に明白に示されており,メシアの来ることについて言えば,時がすでに過ぎたことは否定できない。彼がナザレのイエスであるかどうかについては,わたしの意見を急いで述べることは差し控えたい』。

      「このようにして討論会は終わり,それと共にわたし自身またわたしの兄弟の胸の中ではユダヤ教に対する愛着が失われてしまった。それ以来我々はそろってキリスト教に帰依する決意を抱くようになったのである」。―ギウリオ・モロシニ(イエスがメシアであることを受け入れたのちのナミアスの名)著ヴィア・デラ・フイード[信仰の道]。1683年にローマで印刷されたもの。

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