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「知恵に伴う柔和さ」を示す助言者たちものみの塔 1973 | 12月1日
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かもしれないまちがった答えを与えるよりも,自分が知らないことを認めるほうがはるかにましです。そうです,「黙すに時あり 語るに時あり」です。そして語る時は,正確な答えを見いだす機会を得た時です。―伝道 3:7。
実際に,質問によっては,答えないでおくほうがよいものもあります。単なる思わくで,現実に存在する事態もしくは問題とは関係のない質問もあるでしょう。そのような質問は多くの場合「何にもならず,調べるための問題を出すだけで,信仰に関連して神からのものを分かち与えることにはなりません」。そうです,それはただの「むだ話」です。(テモテ前 1:4-7。テモテ後 2:14)たとえ質問者がかなり執ようでも,賢い助言者はそれに巻き込まれないようにするでしょう。―箴 12:8; 17:27,新。
『議者おおければ謀計かならず成る』
むずかしい質問や困難な問題に直面した時,祈りや自分で勉強するのは,いつでも重要なことです。しかし賢明な人は,『議者おおければ謀計かならず成る』ということも忘れません。(箴 15:22)ほかの長老たちに相談することは,知恵と経験を出しあうことになります。(箴 13:10)その結果,より平衡のとれた見方ができます。それにまた,ある人が重大な問題に関して助言を求めている点の討議に別の長老を招けば,後ほど長老の言ったことを誤って引用され,その結果誤り伝えられるということがないよう,長老の保護になります。(申命 19:15。士師 12:1-3と比較してください)しかしながら,長老が,ある人の問題を検討するのに別の長老をそれに加わるよう招いたからといって,それは質問者に,自分は今ある種の「審理」を受けている,と感じさせる理由にはなりません。むしろ,最初に相談を受けた長老は,他の長老の援助から益を得られると自分が考えていることを,謙そんに認めます。
会衆内のある長老たちは審理委員として奉仕する責任を与えられています。しかしそれは,むずかしい決定に直面した時,助けを求めてはいけないということではありません。最終的な決定は彼らが下しますが,審理委員も他の長老たちの援助を求めることができます。興味深いことに,ユダヤ人のミシュナによると,イスラエルの村の裁判所の裁判官の人数は,事件の軽重によって変化しました。―「聖書理解の助け」385ページ(英文)をごらんください。
『議者が多い』ということには確かに価値があります。しかし数字だけが正しさを保証するのではありません。多数者もまちがうことがあります。確実に正しい決定をさせる決定的要素は,いつの場合でも,聖書と神のことばです。真の知恵にかなう柔和さは,謙そんに,慎み深くそれらに従うことを要求します。
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覚えていますかものみの塔 1973 | 12月1日
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覚えていますか
あなたは最近の「ものみの塔」を注意深くお読みになりましたか。そうでしたら,次の点を覚えておられるでしょう。
● イエスはどのような方法で,神のみ名をご自分の追随者に「知らせる」,あるいは「明らかに示(す)」ことをなさいましたか。―ヨハネ 17:6,26,新。
イエスは神のみ名を正確に発音しただけでなく,人としてのご自身およびその言行によってみ父の属性,律法,ご意志また目的を明らかにし,そうすることにより,その名によって示されているかたを知らせた。―451ページ。a
● コリント後書 1章20節(新)で述べられているように,神の約束はどのように,『イエス・キリストにおいて「しかり」となった』でしょうか。
イエス・キリストによって ― 一個の存在者としての彼そのものによって,また彼が行なった事がらによって ― 神の約束はすべて成就を見る。自分の命を人類のための贖いとして犠牲にすることにより,イエスは,エホバ神がそうした約束を遂行するための法的基礎を備えた。―453,454ページ。
● イエスは大祭司として,いつ,またどのような意味で対型的なのがれの町にいる,「大患難」を生き残った人たちに対して死にますか。
このことは,その「大患難」を生き残った人びとが人間としての完全な状態に達した,イエスの千年統治の終わりに生じる。イエスの犠牲の血によって彼らを清めるイエスの祭司としての奉仕がもはや必要でないという意味において,イエスは彼らに対して死ぬ。―503ページ。
● エホバの証人はなぜ,たばこを常用している人にバプテスマを施さないでしょうか。
たばこはからだを汚し,健康に有害である; それゆえ,たばこの使用は命の与え主,エホバ神に対する不敬の念を表わす。またそれは,『肉と霊のあらゆる汚れから自分を清めよ』という,クリスチャンに対する聖書の戒めに反する。さらに,たばこには惑溺性の麻薬,ニコチンが含まれている。ゆえにたばこは,「麻薬の使用」を意味するギリシャ語ファーマキアの語源を供するものになったのと同様の,惑溺性のある麻薬の部類に入る。自分自身がそのような麻薬を使用しているか,あるいはそうした習慣にふけるように他の人びとに勧めているかどうかにかかわりなく,「麻薬使用者たち」は神の是認を得ないことを聖書は明確に示している。(ガラテヤ 5:20。黙示 9:21。コリント後 7:1)―531,532ページ。
● わたしたちはどのようにして,『エホバの日の臨在をしっかりと思いに留める』ことができますか。―ペテロ後 3:12,新。
エホバの裁きの日がごく間近に迫まっているかのように日々生活することによってそうすることができる。その日を遠い将来のこととみなし利己的な事がらを追求する時間は十分あるから,それをしてから回心してエホバの怒りの日の滅びを免れるようにする時間はあると考えるようなことはしない。―554ページ。
[脚注]
a すべて1973年の「ものみの塔」のページ数をさします。
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読者からの質問ものみの塔 1973 | 12月1日
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読者からの質問
● ユダが,聖書に述べられているように,自分で遊女と考えた女と性関係をもったことは,悪いことではなかったのですか。―アメリカの一読者より
現実には,ユダは遊女と関係を持ったのではなく,期せずして自分のむすこシラの代わりに逆縁結婚をし,正当な子孫をもうけたのです。その背景を考えてみましょう。
2番目のむすこオナンが神の裁きを受けて死んだあと,ユダは嫁のタマルを,3番目のむすこシラが彼女と結婚できるほど成長するまでと言って,その父の家にもどしました。しかし,シラが成人したあともユダはシラをタマルと結婚させませんでした。そこでユダが妻を亡くしたとき,タマルは遊女にふん装して,ユダが通る道にすわっていました。それをユダは自分の嫁と気づかず,遊女と考えて,彼女と関係を持ちました。―創世 38:11-18。
タマルは3番目のむすこシラと逆縁結婚をすることになっていたので,ユダはタマルが妊娠していることを知ったとき,売春のかどで彼女に死を言い渡しました。しかし,ユダ自身が知らずに彼女を妊娠させたことがわかったとき,ユダは言いました。『彼は我よりも正し [なぜですか] われ彼をわが子シラにあたえざりしによりてなり』。ユダはその時結婚していませんでした。彼はやもめでした。ですから自分の妻に対し罪を犯してはいませんでした。そしてユダが独身の遊女と感ちがいをした,ふん装していたタマルは,結婚の神聖なきずなのもとにはありませんでした。遊女と考えていた女を見いだせなかったとき,ユダは,そのような遊女がそのあたりにいることが知られていないのに,神殿売娼婦と関係を持ったなどと言えば恥をかくかもしれない,ということに気づきました。―創世 38:20-26。
タマルについていえば,彼女が行なったことは姦淫ではありませんでした。彼女のふた子のむすこは,恥ずべき罪の子,姦淫の子,とは考えられてはいませんでした。というのは,ベツレヘムのボアズが逆縁結婚をしてモアブの女ルツをめとった時,ベツレヘムの長老たちはボアズにこう言ったからです。『ねがわくはエホバがこの若き婦よりして汝にたまわんところの子によりて汝の家かのタマルがユダに生みたるペレズの家のごとくなるにいたれ』。(ルツ 4:11,12)ですからペレズはイエス・キリストの品位ある先祖に連らなっています。(マタイ 1:1-3。ルカ 3:23-33)ペレズの母親タマルは,性的欲望のために若い男性を求めたのではなかった点で,ルツと同じでした。―ルツ 3:10。
ユダの場合は,遊女と関係していると考えていました。この点,彼の行ないは正しくありませんでした。というのは,人間に対する神の最初の目的は,人間がその妻と性関係を持つことであって,遊女で地を汚すことではなかったからです。それでもユダは,神の特定の律法の命ずるところに違反したという意味においては,罪を犯しませんでした。なぜなら,モーセの律法はずっと後になって与えられたものだったからです。―創世 2:24。レビ記 19章29節と比較してください。
ユダとタマルに関する話は,聖書の内容をおもしろくするために載せられているのではありません。約束のキリストすなわちメシヤであるイエスに至るまでの人間の家系が,どのようにして保たれたかを示す歴史的叙述の重要な部分なのです。
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