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神の支配権を行使する主要な代理者を生み出すものみの塔 1973 | 2月15日
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神の支配権を行使する主要な代理者を生み出す
「神はこのかたを主要な代理者また救い主としてご自分の右に高めました。それはイスラエルに悔い改めを,また罪の許しを与えるためです」― 使行 5:31,新。
1 神聖な支配者の主要な代理者を無視することはわたしたちの救いになりません。なぜですか。
わたしたちは,宇宙の神聖な支配者がご自分の主要な代理者,また救い主として高めるかたを無視することができません。その主要な代理者を無視して神聖な支配者を崇拝しようとしても,それはわたしたちに救いとはならないでしょう。神聖な支配者は,その主要な代理者を通してのみ,神聖な支配者の約束した祝福された新秩序での完全な生命と幸福への救いを得る手段をわたしたちに与えてくださるのです。あらゆる場所の人びとはこのきわめて重要な事実を知る必要があります。
2 エルサレムのサンヘドリンが行なったどんなことを考えるなら,その司法院がその事実を知る必要のあったことがわかりますか。
2 1,900年前,エルサレムにいた高位僧職者たちもその事実を知る必要がありました。彼らは国の最高法院,サンヘドリンを構成していました。何週間か前に下した判決で彼らは多くの論争を引き起こしたかの人物,イエス・キリストに死刑を宣告していました。今彼らの前には,その論議の的となった人物のおもだった追随者12人がいます。証言に立ったシモン・ペテロと他の11人の追随者は,あなたがたが死罪に処したかたは,神の「主要な代理者また救い主」とされた,と議会に告げました。そして議会の命令に対し,次のように答えました。
3 サンヘドリンの命令に対する答えとして,罪に処せられた人物の12人の追随者は,服従と主要な代理者にかんし,なんと述べましたか。
3 「わたしたちは,支配者として人間より神に従わねばなりません。わたしたちの父祖の神はイエスを起こされましたが,あなたがたはそのかたを杭に掛けて殺しました。神はこのかたを主要な代理者また救い主としてご自分の右に高めました。それは,イスラエルに悔い改めを,また罪のゆるしを与えるためです。そして,わたしたちはこれらの事の証人であり,聖霊もまたそうです。神はそれを,支配者としてご自分に従う者たちにお与えになったのです」― 使行 5:29-32,新。
4 主要な代理者また救い主となるよう高められたかたは,イスラエルに何を与えることになっていましたか。神のどんな契約に従って?
4 エルサレムの最高法院が好もうが好むまいと,刑柱に掛けられたかのイエスは死からよみがえり,しかも神の右にいて,神聖な支配者の主要な代理者また救い主として,イスラエルの民のために行動することができました。何をするための「主要な代理者また救い主」ですか。「イスラエルに悔い改めを,また罪のゆるしを与えるためです」。この「罪のゆるし」は,神聖な支配者がご自分の選んだ民と結ぶことを約束していた「新しき契約」に従ってくることになっていました。―エレミヤ 31:31-34。ルカ 22:20。
5 (イ)イエスの死以前には,だれがイスラエルに悔い改めを説きましたか。(ロ)罪の悔い改めとゆるし,およびサンヘドリンの議員たちと神との関係について,どんな質問は適切ですか。
5 そのエルサレムの議会は,イエス・キリストが地上に姿を見せる前から,バプテスマのヨハネが,「悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と説いていたことを知っていました。それから,バプテスマのヨハネが投獄されたあと,ヨハネからバプテスマを施されていたこのイエス・キリストが同じ音信を取り上げ,「悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と伝えました。(マタイ 3:1,2,13-17; 4:12-17,新)これは,エルサレムのサンヘドリン評議会の扇動によるイエスの死に至るまで継続されました。今やイスラエルには,悔い改めの問題に関して何かの変化が生じたでしょうか。ゆるされる罪というのは何だったのでしょうか。議員たちは彼らの前に立ったシモン・ペテロのことばに考えさせられなかったでしょうか。彼らと神との関係はどのような影響を受けていたでしょうか。その関係は以前と同じ基礎に基づいていましたか。では調べてみることにしましょう。
6 エホバはなぜご自分の民をエジプトから買いもどすことを余儀なくされましたか。エホバはそれをどのように行なわれましたか。
6 イスラエル民族はヤコブ(イスラエル)とその子孫が215年エジプトの国に滞在している間に存在するようになりました。(創世 49:28-33)ヤコブのむすこで,エジプトの総理大臣であったヨセフの死後しばらくして,イスラエル人は奴隷にされ,同民族の撲滅が企てられました。その後神は,ご自分が予告しておられた時に,それらヤコブ(イスラエル)の子孫を,『エジプトの地から,奴隷の家から』導き出されました。それは神が,西暦前1513年のニサンの14日に,エジプトで,彼らに新しい晩さん,すなわち過越の晩さんを祝うようお命じになったあとのことでした。その日の夕暮にイスラエル人は小羊をほふり,その血を自分たちの家の入口の両方の柱とまぐさに振りかけ,それから小羊を丸焼きにし,血のしるしのついた,閉ざされた戸口の内側でそれを食べました。神はその過越の小羊の犠牲を受けいれ,彼らが犠牲の夕食をしたのち,彼らをエジプトから救い出しました。神は,いわば,その犠牲にされた過越の小羊を通して彼らを買い取られたのです。(出エジプト 12:1から13:18まで)したがってイスラエル民族は,「神が行って,自分のためにあがなって民とし」た人びとでした。―サムエル後 7:23,口語。
7,8 (イ)紅海で,神はどのように,イスラエルの人びとに対するご自分の所有権をさらに確立されましたか。(ロ)エホバはシナイ山でイスラエルと何にはいろうとされていましたか。神はご自分の申し出としてモーセに何を告げるように言われましたか。
7 神は預言者モーセの指導のもとに,買いもどしたイスラエル人を導いて紅海を無事に通過させました。しかし追跡してきたエジプト軍は,イスラエル人のうしろででき死させられました。(出エジプト 14:1から15:21まで)イスラエル民族のこの奇跡的な救いは,イスラエルに対する神の所有権をさらに確立するものとなりました。彼らはほんとうに神のものでした。エジプトを出てから月暦で3か月め(シワン)に,神は彼らをアラビア半島のシナイ山のふもとに連れて来ました。預言者モーセは,神とイスラエル民族との間の仲介者として,この買いもどされた民のために神と交渉すべくシナイ山(ホレブ)に登りました。今やひとつの契約が,すなわち神とこの買いもどされたイスラエルの人々との間の厳粛かつ有効な約定が結ばれるべく事が運ばれました。神がモーセに向かって,人びとに告げなさいと言われたことに注目してください。
8 『汝らはエジプト人に我がなしたるところの事を見わがわしの翼をのべて汝らを負いて我にいたらしめしを見たり されば汝らもしよくわがことばを聞きわが契約を守らば汝らはもろもろの民にまさりてわが宝となるべし 全地はわがものなればなり 汝らはわれに対して祭司の国となり聖き民となるべし』― 出エジプト 19:3-6。
9 神はご自分の権利に基づいてイスラエルをご自分との聖なる契約に入れようとされましたか。それとも,どのように問題を扱われましたか。
9 こうして,契約に伴う義務は明示され,神に属する「祭司の国」,「聖き民」をつくり出すという明確な目的が契約に与えられました。ここで見のがしてならないのは,神がイスラエル民族にこの契約を押しつけなかった,という点です。『わたしはエジプトで奴隷であったおまえたちを買いもどし,また紅海の水からおまえたちを救った。だからおまえたちは当然わたしのものであり,わたしが買い取ったのである。わたしはおまえたちを好きなようにすることができる。わたしの言うことは法律となり,おまえたちはそれに従わねばならぬ』とは神は言われませんでした。それどころか,神が人々に告げるようモーセに指示したことは,神に買いもどされた人々が果たして,神との聖なる契約にはいることを望んでいるか,進んでそれにはいろうとするかを,神が知ろうとしておられたことを暗示しています。独裁的に,専横に,彼らに契約を押しつけることをせず,むしろ神は彼らがその問題に関し自分の意志を表明するのを待たれました。もし彼らに喜んでする気がなければ,契約は結ばれなかったのです。
買いもどした民の意志の表明を待つ
10 その契約はなぜ仲介者を要求しましたか。そして神はその問題において人間の何を認められましたか。
10 これは双務契約,すなわちふたりの当事者間の厳粛な約定もしくは約束となるものでした。至高の聖なる神と,アダムとエバから罪と死を受け継いだ不完全で罪深い人間との間の契約になるのですから,この契約は,信仰のゆえに神が義人と認める仲介者を要求しました。それはレビ人アムラムのむすこモーセでした。(ガラテヤ 3:19,20)片方の当事者である神は契約の締結を望んでいることを示されましたが,契約にはいるよう招かれた他方の当事者の意志はどうでしたか。神とイスラエルの契約の正式の成立は,招かれた下位者の意志の表明にかかっていたのです。それほどまでに神は人間の意志を認めておられました。
11 提案された契約に対してイスラエルはどんな態度を示しましたか。エホバは彼らがその態度を示すまで,彼らに何を述べられませんでしたか。
11 人々は,この場合,民族全体の長老たちによって代表されていましたが,申し出された契約に対してどんな態度を取りましたか。聖書には次のように記録されています。『ここにおいてモーセきたりて民の長老たちを呼びエホバの己に命じたまいしことばをことごとくその前にのべければ 民みなひとしくこたえて言いけるは エホバの言いたまいしところはみなわれらこれをなすべしと モーセすなわち民のことばをエホバに告ぐ」。(出エジプト 19:7,8)エホバ神は,人々の側からの,その進んでしようとする意志の表明を聞くまでは,申し込んだ律法契約の基礎となる律法である十戒を,シナイ山の頂上から彼らに述べることをされませんでした。―出エジプト 19:9から20:22まで。
12 (イ)したがって,契約にかんするどんなことは,人びとにまかされていましたか。(ロ)イスラエルが契約に対して取った行為をわたしたちはどう考えるでしょうか。ロマ書 6章13節ではどんな描写的なことばで表現されていますか。
12 神の申し出を受け入れるか退けるかは,人びとの自由な選択にまかされていました。『もろもろの民にまさりて』エホバの『宝』となるか,それとも出された条件のゆえにそうなることを拒むかは,自由な道徳行為の作因に基づく彼らの決定にまかされていたのです。それで,この買いもどされた人びとが,神の申し出に対し,ひとりの人間のようになって,『エホバの言いたまいしところはみなわれらこれをなすべし』,あるいは文字通りに,『わたしたちはこれを行なうでしょう』と言ったとき,彼らは何をしていたのでしょうか。言い換えれば,わたしたちは彼らの行為をどう考えるでしょうか。それは,エホバ神の言われた通りにエホバ神の意志を行なうべく自らをエホバにささげる行為であった,と言うのは過言でしょうか。それは,クリスチャン使徒パウロがローマの会衆に対して言ったことに匹敵するものでしたか。彼はこう言いました。「死人の中から生かされた者として,自分自身を神にささげ,自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい」。(ロマ 6:13,口語)「アメリカ訳」はこれをもっと強く,「自分自身を神に献じなさい」と訳しています。「新英語聖書」: 「神の意のままになるようにしなさい」。「改訂標準訳」: 「神に身をまかせなさい」。モファットの「新しい訳」: 「あなたは神に献身しなければならない」。
13,14 (イ)エホバが契約をイスラエルに押しつけずにむしろ申し出られたのはなぜですか。イスラエルは彼らの答えによって事実上何をしていましたか。(ロ)いつ彼らは彼らの意志を再度表明しましたか。
13 エホバはイスラエル人に対して,『わたしはおまえたちをエジプトから買いもどし,また紅海から救った。そのうえ,おまえたちはわたしの友アブラハムの生来の子孫である。だからおまえたちは,わたしとのこの契約にはいらねばならない』というような,強圧的な説得をすることをされませんでした。神が自分と契約関係を持つよう彼らに申し出られた理由がそうしたことにあったのは事実です。また神は確かに,彼らを契約に入れるために彼らの前に有望な将来を置かれました。しかし,エホバを自分たちの神としてエホバの民となるかどうかは,イスラエル人の選択にかかっていました。したがって,『エホバの言いたまいしところはみなわれらこれをなすべし』と言った時に,彼らはエホバの民となるべく,そして契約の中で述べられるエホバの意志を行なうべく,献身していたのです。その後,十戒が与えられ,さらに一連の律法がモーセに告げられたのち,契約は動物の犠牲の血を通して有効にされました。それによってイスラエルは,エホバ神との履行すべき契約のもとにある,神の献身した民となりました。その時には人びとは,さらに深い知識をもって,エホバの意志を行なう彼らの決意を再度表明しました。出エジプト記 24章7,8節の記録は次のように述べています。
14 『しかして[モーセ]契約の書をとりて民に読み聞かせたるに彼らこたえて言う エホバの宣うところはみなわれらこれをなしてしたがうべしと モーセすなわちその血をとりて民にそそぎて言う これすなわちエホバがこのすべてのことばにつきて汝と結びたまえる契約の血なり』― ヘブル 9:18-20もごらんください。
15 その契約の存続期間はどのくらいでしたか。だれに対して拘束力を持ちましたか。
15 シナイ山にいた,買いもどされた民の成員と結ばれたその契約は,そこにいた者たちに対して拘束力を有しただけでなく,彼らの肉の,つまり生来の子孫に対しても拘束力を持ちました。それは「不定の期間にわたる契約」でした。(レビ 24:8,新)そのために,彼らの生来の子孫はすべて,その契約が存続するかぎり,神との契約関係にありました。したがって,シナイ山における同契約の成立後に荒野で生まれたイスラエル人は,荒野における強制的放浪の40年め,すなわち最後の年にも,神とのその契約関係にありました。ですから彼らは依然として献身した民もしくは国民でした。
16 モアブの平野で,多くの者は,エホバとの契約関係にとどまる意志のないことをどのように示しましたか。
16 しかしながら,その最後の年(西暦前1473年)に,その献身した国民の多数はエホバ神との契約関係にとどまることをよしとしませんでした。彼らはモアブの平野でそのことを示しました。民数紀略 25章1節から5節にモーセはそのことを次のように記録しています。
『イスラエルはシッテムにとどまりいけるがその民モアブの婦女どもと淫をおこなうことを始めたり その婦女どもその神々に犠牲をささぐる時に民を招けば民はゆきて食うことをなしかつその神々を拝めり イスラエルかくバアルペオルに付きければ[イスラエルはいっしょになって去った。アメリカ訳; 奉仕した,改訂標準訳],イスラエルにむかいてエホバ怒りを発したまえり。
『エホバすなわちモーセに告げて言いたまわく民の首をことごとくつれきたりエホバのためにかの者どもを日にさらせ しかせばエホバの烈しき怒イスラエルを離るるあらんと ここにおいてモーセ,イスラエルの士師たちにむかい汝らおのおのその配下の人びとのバアルペオルに付ける[いっしょになって去った,アメリカ訳; 奉仕した,改訂標準訳]者を殺せといえり』。
17 (イ)エホバとの契約を破ったために,何人がそこで死にましたか。(ロ)エホバはホセア書 9章10節で,彼らがバアルペオルに付いたことにかんしてどのように述べておられますか。
17 『エホバ宣うところはみなわれらこれを』なすべし,という約束を破った結果死んだ者は2万4,000人いました。(民数 25:9。コリント前 10:8)それから700年以上たったのちに,エホバは預言者ホセアを通して,この驚くべき事件に言及されました。まず,イスラエル国民がエホバにとっていかに望ましいものであったかを告げ,ついでイスラエル人の多くがどのようにエホバに忌むべきものとなったかを告げられます。エホバは言われます。『むかしわれイスラエルを見ること荒野のぶどうのごとく汝らの先祖たちをみることいちじくの木の始にむすべる最先の果のごとくなししに 彼らはバアルペオルにゆきて身を恥辱にゆだねその愛する物とともに憎むべき者とはなれり』。(ホセア 9:10)モファットの聖書翻訳は,「彼らはいまわしいバアルに身をゆだねた」となっています。(リーサーの訳も同じ)イスラエルが別の神に行くために離れようとしていたのはエホバ神であったので,「改訂標準訳」は,「彼らは…バアルに身をささげた」と述べています。(アメリカ標準訳; 新アメリカ聖書; 新英語聖書も同様に訳出している)
18 (イ)ユダヤ出版協会のホセア書 9章10節の翻訳は,エホバに対する彼らの行為の不忠節をどのように明らかにしていますか。(ロ)その不忠節は,エゼキエル書 14章7,8節の中の同じヘブル語と関連してどのように明らかにされていますか。
18 それらの不忠実なイスラエル人は,唯一の生ける真の神にささげられていたのですが,いま彼らはバアルに身をゆだねる,すなわち献身するためにその神から離れました。その不忠節な行為を明らかにするために,「ユダヤ出版協会聖書」は,「彼らは恥ずべき物のために分離した」と述べています。ここの重要なヘブル語の動詞は「ナーザル」で,これはユダヤのナジルびとが,神のために特別に自らを聖別するときに行なった事と関連して使われています。(民数 6:1-8)西暦前607年のエルサレムの破滅より少し前の預言者エゼキエルの時代にも,モーセの時代の不忠実なイスラエル人がモアブの平野で行なったと同様のことを行なったイスラエル人がたくさんいました。それら不忠節な者たちにかんして,エホバは預言者エゼキエルに次のように言われました。
『すべてイスラエルの家およびイスラエルにやどるところの外国人もしわれを離れて[ナーザル]その偶像を心の中に立たしめその面の前に罪に陥しいるるところのつまずきをお(く)…時は我…これをわが民の中より絶ちさるべし 汝らこれによりて我がエホバなるを知るにいたらん」― エゼキエル 14:7,8。
19 (イ)不忠節なイスラエル人のバアルペオルに対する献身は,他の献身を含みますか。(ロ)バアルペオルのために分離したと言う代わりに,民数紀略 25章3節は明確になんと述べていますか。
19 このように,そのことばは,それら分離したイスラエル人が,最初はエホバ神と契約関係にあったこと,そして彼らの先祖たちが,仲介者モーセに向かって,『エホバの宣うところはみなわれらこれをなしてしたがうべし』と言うことによって彼らをその契約に入れたことを示しています。(出エジプト 24:7; 19:8)しかし今,彼らはその契約を破棄し偶像崇拝に走ることによってエホバへの献身をやめ,偶像として崇拝されていた物に献身していました。民数紀略 25章3節は,イスラエル人がバアルのために分離したと言う代わりに,明確に,『イスラエルかくバアルに付きければ[奉仕した,改訂標準訳; アメリカ訳; 隷従した,ロザハム訳; 加わった,ヤング訳; モファット訳; リーサー訳; エルサレム聖書; 5節も同じ]』と述べています。もしわたしたちがエホバ神となんらかの関係を持っているなら,これは今日のわたしたちに対して警告となるべきものです。(コリント前 10:6,11)わたしたちはそれと同じ致命的な誤りを犯したくはありません。それは神聖な支配者に対する不忠節を,あるいは反逆を意味します。
新しい契約へ導く
20 (イ)最初の契約には難点がなかったわけではありません。なぜですか。そのために何が待たれましたか。(ロ)どの預言者を通して新しい契約は予告されましたか。モーセはよりすぐれた仲介者についてなんと述べましたか。
20 エホバがモーセを通して,献身したイスラエルの民と結ばれた契約は,「不定の期間にわたる契約」でした。イスラエル人と彼らの仲介者モーセが不完全であったために,シナイ山で結ばれた契約には難点が全くなかったわけではありません。そのためによりよい契約,新しい契約が待たれました。それでエホバ神は新しい契約を意図され,その二番目の契約にいれられる特権は生来のイスラエルの民に提供されることになっていました。この新しい契約が新しい仲介者を通して成立する600年以上前に,エホバはそのことを,そのよりすぐれた仲介者の到来前の7世紀に住んでいた預言者エレミヤを通して預言されました。(エレミヤ 31:31-34。ヘブル 8:6-13)このよりすぐれた,より偉大な仲介者の来ることは,預言者モーセによって予告されていました。モーセのことばによると,そのきたるべき仲介者はイスラエル人の中から起こされます。彼は生来のイスラエル人です。―申命 18:15-19。使行 3:22,23; 7:37,38。
21 (イ)いつ,どこで,そしてどんな発表とともにこのよりすぐれた仲介者は誕生しましたか。(ロ)イエスはなぜユダヤ人の過越を祝いましたか。その最後の祝いの席上でイエスはご自分が何であることを明らかにしましたか。どのように?
21 西暦前2年,そのよりすぐれた仲介者は,ダビデの町ベツレヘムで,ダビデの子孫として生まれました。彼は同時に神の子でもありました。その誕生にさいして神のみ使いは,ベツレヘム近くの野原にいた羊飼いたちに次のように高らかに告げました。『この民,一般におよぶべき,大いなる歓喜の音信を我なんじらに告ぐ,きょうダビデの町にて汝らのために救主うまれたまえり,これ主キリストなり』。(ルカ 2:10,11)ユダヤ人の母親から生まれたので,この「主キリスト」となる人は生来のユダヤ人であり,またモーセが神とイスラエルの間の仲介者となってつくられた律法契約の下にありました。これを確認するものとして,ガラテヤ書 4章4節には次のようにしるされています。『されど時満つるにおよびては,神その御子を遣わし,これを女より生まれしめ,律法の下に生まれしめ給えり」。イスラエルとの契約の律法の下にいたために,イエス・キリストは過越の夕食を祝いました。西暦33年の最後の過越の祝いの席上で,イエス・キリストは,自分が,約束されていた新しい契約の仲介者であることを示しました。どのようにしてそれを示しましたか。主の夕食と呼ばれているものを開始され,ぶどう酒の杯を彼の忠実な使徒たちに渡したときに次のように言われました。『この酒杯は汝らのために流す我が血によりて立つる新しき契約なり』。(ルカ 22:20)イエスはその契約を有効にするためにご自分の血を流されたのです。
22 (イ)イエスは,新しい契約の仲介者になることをいつ引き受けましたか。(ロ)なぜヨハネは最初イエスにバプテスマを施すことをためらいましたか。
22 しかしながら,主イエスは,預言者モーセの場合と同じく,新しい契約の仲介者となることを引き受けなければなりませんでした。イエスはいつそれを引き受けましたか。ヨルダン川でバプテスマを受けた時です。30歳の時にナザレの大工の仕事場を去り,水の浸礼を施してもらうためにバプテスマのヨハネのところに行きました。ヨハネにとってそれは新しいバプテスマでした。マルコ伝 1章4節(口語)に書かれているように,その時までは,「バプテスマのヨハネが荒野に現れて,罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた」のです。(ルカ 3:3)しかし,神の子イエスは,罪のゆるしを得るための悔い改めの象徴としてバプテスマを受けるために,バプテスマのヨハネのところへ来たのではありません。イエスは完全で罪がありませんでした。(ヘブル 7:26)イエスはやましい良心をいだいてヨハネのもとに来て,「明らかな良心を神に願い求め」ようとしたのではありません。(ペテロ前 3:21,口語)ヨハネはそのことを知っていました。ヨハネは「それを思いとどまらせようとして言った,『わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに,あなたがわたしのところにおいでになるのですか』」と書かれているのはそのためです。しかしイエスはなんと答えましたか。
23 イエスはヨハネにどのように答えましたか。また,イエスは律法を守ってきたのになぜ,「すべての正しいことを成就するのは,われわれにとってふさわしいことである」と言われましたか。
23 「しかし,イエスは答えて言われた,『今は受けさせてもらいたい。このように,すべての正しいことを成就するのは,われわれにふさわしいことである』」。(マタイ 3:13-15,口語)イエスはどういう意味でそう言ったのでしょうか。イエスは生来のユダヤ人として,モーセの契約を完全に守りました。この点にかんしてイエスは後日,山上の垂訓の中で,「わたしが律法や預言者を廃するためにきた,と思ってはならない。廃するためではなく,成就するためにきたのである」と言われました。(マタイ 5:17,口語)言うまでもなく,イスラエルと律法契約を結んだことは神の意志でした。しかしイエスは,地上での生活において,バプテスマを受ける時までずっと,神の意志を行なってきました。ですから,「すべての正しいこと」というイエスのことばは,律法契約以上の,しかも律法契約の象徴的な主眼点を成就するものとなる何物かを意味しました。これが「すべての正しいこと」でした。というのは,イエスがそれを成し遂げるのは,神の意志だったからです。したがって,イエスがバプテスマの時に引き受けたのは,それを行なうことでした。
24 ヘブル書 10章5-10節によると,イエスはご自分をバプテスマのために差し出すことによってどの特定の預言を成就していましたか。
24 バプテスマのために自分の身を差し出すことによってイエスは実際に,ご自分が言われたとおりに,「預言者」のことばを成就したのです。使徒パウロは,ヘブル書 10章5節から10節の中で,イエスがどの預言を成就したかを示しています。そこには,イエスがバプテスマを受けにこられた時について書かれています。『このゆえにキリスト世にきたるとき言い給う「なんじ犠牲と供物とを欲せず,ただわがためにからだを備えたまえり。なんじ燔祭と罪祭とをよろこび給わず,その時われ言う『神よ,我なんじの〔意志〕を行なわんとてきたる』我につきて書の巻にしるされたるがごとし」と。…この〔意志〕に適いてイエス・キリストのからだの一たび献げられしによりて我らは潔められたり』〔新〕。イエスはそのようにして詩篇 40篇6節から8節を成就していたのです。神の『意志』は,イエスがご自身を,その『からだ』を犠牲としてささげることを要求したのです。
25 (イ)ではイエスの水のバプテスマは何の象徴でしたか。(ロ)イエスはすでにどのようにささげられ,あがなわれていましたか。
25 預言がそれを要求していた以上,神の特別の意志を行なうべく来ることをせず,したがって,バプテスマのためにご自分の身をヨハネに差し出さなかったとするなら,イエスはやましい良心を持つことになったでしょう。イエスの受浸が象徴的なものであったことは明らかです。イエスのバプテスマは,「悔い改めの象徴としてのバプテスマ」ではありませんでした。それはイエスが神の意志を行なうために来る,すなわちご自身を差し出すことの象徴で,その神の『意志』には,イエスのからだを犠牲としてひとたびささげることが含まれていました。イエスは生来のユダヤ人でしたから,すでにモーセの律法の下にあり,当時の地上にあって『エホバの言いたまいしところ(を)みな』行なうべく神に献身していた唯一の国民の一員でした。また,マリヤの長子でしたし,マリヤの夫ヨセフはその長子を自分自身の長子として養子にしていましたから,イエスはエホバのために聖別されており,エホバのものでした。(出エジプト 13:1,2)その理由で,イエスが世俗の仕事に携わるためには,イエスはヨセフとマリヤによってあがなわれなければなりませんでした。(民数 3:13-51; 18:14-16)ですからイエスのバプテスマは,神へのイエスの献身を表わすものではなく,自分を犠牲にするに至るまでも神の意志を行なうために,自分自身をささげることを表わしました。
26 (イ)自分自身をささげたイエスを受け入れたことを,神はどのように示されましたか。(ロ)イエスはどこまでその神の『意志』を行ないましたか。
26 エホバ神はバプテスマを受けたイエスに聖霊をそそぎ,天から声を出して,「これは我が愛しむ子,わがよろこぶ者なり」と述べ,ご自分のみ子イエスが自分自身をささげたのを受け入れたことを表わされました。(マタイ 3:16,17)それ以来バプテスマのヨハネは,油そそがれたイエスを「世の罪を取り除く神の小羊」として公けに知らせました。(ヨハネ 1:28-36,口語。使行 10:37,38)イエスは人間として地上にいたとき,最後に至るまで神の意志を遂行しました。自然の人間のからだをもって地上にいた最後の夜,イエスは神に祈り,こう言われました。『わが父よ,もし得べくばこの酒杯を我より過ぎ去らせ給え。されど我が意のままにとにはあらず,〔ご意志〕のままになし給え』。(マタイ 26:39-44〔新〕)翌日の午後3時ごろ,イエスは刑柱にかけられていた時,ヨハネ伝 19章30節(口語)が伝えているように,『すべてが終った』と言われ,首をたれて息をひきとられた」のです。こうして,神のご意志どおり,イエスのからだはひとたびささげられました。
27 (イ)イエス・キリストはどんな復活を受けましたか。なぜですか。(ロ)その時イエスはどのように全人類を所有するに至りましたか。そのために将来,死者に何が起こりますか。
27 完全な人間のからだを犠牲としてささげたことと調和して,イエス・キリストは三日めに死から,血肉のからだではなくて霊のからだによみがえらされました。(ペテロ前 3:18。コリント前 15:42-45)そして復活から40日めに天にのぼり,そこで,全人類のための,ご自分の人間としての犠牲の価値もしくは功績を神に差し出されました。イエスは地上にいたとき,わたしが来たのは,『つかうることをなし,またおおくの人のあがないとして己が生命を与えんためなり』と言われました。(マタイ 20:28)使徒パウロは,イエスが「死の苦難を受」けたことについて語り,『これ神の恩恵によりて万民のために死を味ひ給わんとてなり』と述べています。またパウロは,『人なるキリスト・イエス』は『己を与えてすべての人の贖価となり給えり』とも述べています。(ヘブル 2:9。テモテ前 2:5,6)こうしてイエスは,ご自分の人間としての犠牲の生命の価値を神に差し出すことによって,全人類をあがない,彼らから要望されなくても,全人類を買い取られたのです。そういう理由から,イエスの天の王国の支配下では,「義者と不義者との復活」があります。(使行 24:15)イエス・キリストは彼らを所有されます。
28 (イ)それで復活したイエス・キリストは,人類の救いにかんして何になりましたか。(ロ)イエス・キリストはまたどんなより偉大なものの主要な代理者として奉仕しますか。
28 こういう方法で,神の子イエス・キリストは,神の『意志』にしたがい,全人類に対して,救いの主要な代理者となられました。ヘブル書 2章9,10節からわたしたちが理解するのはそのことです。そこにはこうしるされています。『ただみ使いよりも少しく卑くせられしイエスの,死の苦難を受くるによりて栄光と尊貴とを冠らせられ給えるを見る。これ神の恩恵によりて万民のために死を味い給わんとてなり。それ多くの子を光栄に導くに,その救いの〔主要な代理者〕を苦難によりて全うし給うは,万の物の帰するところ,万の物を造りたもうところの者にふさわしきことなり』。そして,ヘブル書 5章9,10節にはこう書かれています。『かつ全うせられたれば,すべて己に順う者のために永遠の救いの原となりて,神よりメルキゼデクの位に等しき大祭司と称えられ給えり』。このかたは,神の支配権を行使する主要な代理者として奉仕するにふさわしい者であることを証明したのです。
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神の支配権を行使する主要な代理者に従うものみの塔 1973 | 2月15日
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神の支配権を行使する主要な代理者に従う
1 (イ)今や新しい契約について言えば,割礼を受けた生来のユダヤ人の父祖たちがシナイ山のふもとで行なった決定は,なぜこれらのユダヤ人のためには役に立ちませんでしたか。(ロ)それらのユダヤ人はだれに,またどんな仕方で見習わねばなりませんでしたか。
イエス・キリストが天のエホバ神のみまえに上り,ご自分の人間としての犠牲の貴重な価値をエホバにささげて以来,割礼を受けた生来のユダヤ人にとって,物事の事情はそれまでと同じではありませんでした。イエスのそうした行為によって,古いモーセの契約は取り消され,新しい契約が神のみ子,つまりその契約の仲介者の血をもって有効にされたのです。この新しい契約に入れられる機会は,まず生来のユダヤ人に差し伸べられました。彼らの15世紀前の父祖たちは,かつて仲介者モーセに向かって,『われわれはエホバが言われたことを,みな行ないます』と宣言しました。しかし,新しい契約についていえば,これは彼らの子孫のためには役に立ちませんでした。この,後の契約には,モーセより偉大な新しい仲介者,すなわちイエス・キリストがいました。その新しい契約に入れられるためには,この,よりすぐれた,そしてより偉大な仲介者に対して,『われわれはエホバが言われたことを,みな行ない,従順に従います』と答えなければなりませんでした。神の支配権を行使する主要な代理者,つまり仲介者であるイエス・キリストに見習って,それら生来のユダヤ人はみずからをエホバにささげねばなりませんでした。それはこの新たな,より偉大な仲介者を通して自分たちに伝えられた神の意志を行なうためでした。
2 西暦33年のペンテコステにさいしてペテロがユダヤ人に述べたところによれば,それら生来のユダヤ人にとって事態を変えるものとなったどんなことを,神はイエスに対して行ないましたか。
2 確かに,生来のユダヤ人にとっては新しい事態が起きていたので,彼らは個人個人そうした事態に対してみずからを調整しなければなりませんでした。クリスチャンの使徒ペテロは,西暦33年のペンテコステの祭りの日に,この点を彼らに指摘しました。それは,エホバ神が,イエス・キリストを通して,神の支配権を行使する主要な代理者の忠実な追随者に聖霊を注いだのちのことでした。ペテロは奇跡的に起きていた事がらとその理由を説明したのち,集まっていた幾千人ものユダヤ人にこう語りました。『それダビデは天に昇りしことなし,されど,みずから言う。「〔エホバ〕わが主に言い給う,我なんじの敵をなんじの足台となすまでは我が右に座せよ」と。されば,イスラエルの全家は確と知るべきなり。なんじらが〔刑柱〕に釘けしこのイエスを,神は立てて主となし,キリストとなし給えり』― 使徒 2:34-36〔新〕。
3 (イ)シナイ山のふもとで彼らの父祖たちが答え応じた例に見られるように,それらのユダヤ人は新しい契約に入れられるのにふさわしいことをどのように示しましたか。(ロ)ペテロと他の使徒たちから,行なうべきこととして告げられたことを行なったのち,彼らが新しい契約に入れられたことを示すものとなったのは何ですか。
3 さて,これを聞いていたそれらユダヤ人は,一連の新しい事情のもとで,『われわれはエホバが言われたことを,みな行ないます』ということをどのように宣言して,新しい契約に入れられるにふさわしいことを示しましたか。それは,ひとたび杭につけられたイエスを自分たちの主,またエホバのキリストもしくはメシヤ,また,預言者モーセによって予告され,予表された仲介者として受け入れることによって示されました。彼らに救いをもたらす道は,それ以外にはありえませんでした。それら幾千人ものユダヤ人は,ペテロの語ることを聞いて心を刺されました。それで,彼らがペテロやほかの使徒たちに,『兄弟たちよ,我ら何をなすべきか』と尋ねたとき,ペテロは,神の立てた命の主要な代理者に彼らの注意を引いてこう述べました。『なんじら悔い改めて,おのおの罪の赦しを得んためにイエス・キリストの名によりてバプテスマを受けよ。さらば聖霊の〔無償の賜物〕を受けん。この約束は汝らと汝らの子らとすべての遠き者,すなわち〔エホバ〕なる我らの神の召し給う者とに属くなり…この曲がれる代より救い出されよ』。(使行 2:37-40〔新〕)彼らが,水の浸礼を受けたのち,キリストを通して無償の賜物である神の聖霊を受けたのであれば,それは彼らが新しい契約に入れられたことを意味していました。
4 では,それらのユダヤ人が受けた水のバプテスマは何を象徴するものでしたか。
4 では,彼らが受けた水のバプテスマは何を象徴するものでしたか。彼らのバプテスマが『イエス・キリストの名によって』施されたものであり,それにはエホバ神に対する悔い改めが先行していたのですから,それは,神の意志を行なうため,自分自身を神にささげることを象徴するものでした。神の意志を行なうということには,イエス・キリストを,神から与えられた「主」,また神から与えられた「キリスト」もしくはメシヤとして受け入れることも含まれていました。
5,6 (イ)彼らはだれを通して罪のゆるしを得るのですか。今や彼らがゆるしを必要としていた罪とは何ですか。(ロ)ヘブル書 9章14節によれば,彼らの罪のゆるしは,彼らに何をもたらすものとなりましたか。
5 イエス・キリストを『主またキリスト』として受け入れなければ,彼らは自分たちの『罪のゆるし』を得ることはできませんでした。今や神がイエス・キリストを通してゆるしたそれらの罪とは,彼らがモーセの律法契約に対して犯していた罪ではありません。生来のイスラエルと結ばれたその契約は今や過去のものとなり,取り消され,約束の新しい契約が今や,よりすぐれた仲介者イエス・キリストを通して立てられていたのです。それで,彼らが神に対しで悔い改める必要のあった罪とは,おもに,神のみ子イエス・キリストを杭につけることに加わって神に対して犯した罪,および彼らの一般的な罪でした。キリストを通して罪のゆるしを神から受けることによって,彼らは正しい良心を得ることができました。その点にかんしてはこうしるされています。
6 『まして,永遠の御霊によりきずなくして己を神にささげたまいしキリストの血は,我らの良心を死にたる行為よりきよめて,生ける神につかえしめざらんや』― ヘブル 9:14。
7 新しい契約の条項によれば,罪に関してどんなことが約束されていましたか。それらバプテスマを受けたユダヤ人は,だれを通してその新しい契約に入れられましたか。
7 こうして罪をゆるされ,その結果,神に対して正しい良心を得ることこそ,神が新しい契約の条項の中で約束しておられたことでした。エホバは預言者エレミヤを通して新しい契約について予告したさい,その預言の結びとして,『われ彼らの不義をゆるしその罪をまた思わざるべし』と言われました。(エレミヤ 31:31-34)何世紀ものちに使徒パウロは,キリスト教に帰依したヘブル人で,「エホバの友」と呼ばれたアブラハムの血筋上の子孫にあたる人々に手紙を書き,エレミヤの預言を引用して,こう述べました。『「我もその不義を憐れみ,この後またその罪を思いいでざるべし」と。すでに「新し」と言い給えば,初めのものを古しとし給えるなり,古びて衰えるものは,消え失せんとするなり』(ヘブル 8:12,13)そのようなわけで,悔い改めてイエス・キリストの名によってバプテスマを受け,聖霊という無償の賜物を受けた3千人のユダヤ人は当然,『よりまさった仲介者』イエス・キリストを通して新しい契約に入れられたことになります。―使行 2:41。
8,9 後日その神殿で,ペテロはユダヤ人の注意をだれに向けさせましたか。ペテロは,それらユダヤ人が何をする必要のあることを宣言しましたか。それは彼らに何をもたらすものでしたか。
8 そのペンテコステにおけるできごとの何日か後のこと,ペテロとヨハネはエルサレムの神殿にいました。自分たちのまわりに集まった群衆に話をしたペテロは,再び,神の支配権を行使する主要な代理者にユダヤ人の注意を引きました。ペテロはまた,彼らが悔い改めて転向し,キリストを通して神から到来する罪のゆるしのもたらす,人をさわやかにするものを求める必要のあることを指摘しました。次いでペテロはこう述べました。
9 『アブラハム,イサク,ヤコブの神,われらの先祖の神は,そのしもべイエスに栄光あらしめ給えり。汝らこのイエスをわたし,ピラトのこれをゆるさんと定めしを,その前にて否みたり。汝らは,この霊者,義人を否みて,殺人者をゆるさんことを求め,生命の君[主要な代理者; 新]を殺したれど,神はこれを死人のうちよりよみがえらせ給えり。我らはその証人なり。…されば汝ら罪を消されんために悔い改めて心を転ぜよ。これ主のみ前より慰安の時きたり,汝らのためにあらかじめ定め給えるキリスト・イエスをつかわし給わんとてなり。…神はそのしもべをよみがえらせ,まず汝らにつかわし給えり,これ汝らおのおのを,その罪より呼びかえして祝福せんためなり』― 使行 3:13-26。
10 その時,悔い改めたユダヤ人はひとりもバプテスマを受けませんでした。なぜですか。ペテロとヨハネは,どんな名以外にはそれに頼って救いを得られるものではないことを法廷で述べましたか。
10 神殿のその場所にいたユダヤ人の中には悔い改めた者がだれかいたにしても,ペテロとヨハネがそのような人にバプテスマを施す取り決めを設ける以前に事態が変わりました。こうしるされています。『かれら民に語りおるとき,祭司ら・宮守頭およびサドカイ人ら近づき来たりて,その民を教え,またイエスのことを引きて死人のうちよりの復活を宣ぶるを憂い(たり)』。(使行 4:1,2)それで,ペテロとヨハネはその晩拘留され,翌日審理を受け,釈放されました。法廷に立ったふたりは,エホバ神の神聖な支配権を行使する主要な代理者の名以外には,人が頼って救いを得られるようなほかの名は天下のだれにも与えられていないことを言明しました。(使行 4:3-23)使徒たちは,そうした尊い名を持つかたにあくまでもつき従ったのです。
11 (イ)福音宣明者ピリポはどうしてサマリヤにやってきて宣べ伝えるわざを行ないましたか。(ロ)信じたサマリヤ人はだれの名によってバプテスマを受けましたか。それで,彼らはだれの弟子になりましたか。
11 その後,エルサレムで激しい迫害が起こり,ユダヤ人の忠実なクリスチャンであったステパノが石打ちに会って殺されました。キリストの弟子たちは,十二使徒を別にして,エルサレムから散らされました。散らされた者の中に福音宣明者ピリポがいました。彼は北に向かってサマリヤの町に行き,『キリストの事を伝え』ました。ピリポが宣べ伝えた事がら,および彼が行なった奇跡的なしるしは,その町の人々に大きな喜びをもたらしました。サマリヤ人はモーセの五書,つまりモーセの書いた聖書巻頭の五書の教えを守り,割礼を行なっていました。したがって,多くのサマリヤ人が,イエス・キリストを,モーセによって予表された『よりまさった仲介者』として受け入れました。それらサマリヤ人の信者の場合,ピリポは,イエスの命じたことを実行しました。こうしるされています。『しかるにピリポが,神の〔王国〕とイエス・キリストの御名とにつきて宣べ伝うるを人々信じたれば,男女ともにバプテスマを受く』。(使行 8:1-13〔新〕。マタイ 28:19,20。使行 1:8)それらのサマリヤ人はイエスの名によってバプテスマを受けました。彼らは信じてバプテスマを受け,イエスの弟子になったのです。
12 (イ)どうしてピリポは馬車に乗っていたエチオピヤの宦官に伝道することになりましたか。(ロ)そのバプテスマはエチオピヤ人がどんな道を取ったことを示していますか。
12 それら割礼を受けたサマリヤ人の間で多くの弟子を作ったのち,ピリポは神のみ使いに導かれて,割礼を受けてユダヤ教に改宗したある人のもとに行きました。その人,つまりエチオピヤの宦官は,エルサレムでの礼拝を終えて帰る途中でした。ピリポが馬車を迎えて声をかけたところ,そのエチオピヤ人はイザヤの預言,今日その第53章にあたる箇所を読んでいました。エチオピヤ人は,イザヤがそこでだれのことを述べているのかをピリポに尋ねました。そこで,使徒行伝 8章35節が述べるとおり,『ピリポ口を開き,この聖句を始めとして,イエスの福音を宣べ伝え』ました。ピリポはまた,水のバプテスマについても話したので,そのエチオピヤ人は適当な量の水のあるところに着くと直ちに,バプテスマを施してもらいたいと頼みました。もちろんピリポは,イエスの名によって彼にバプテスマを施しました。(使行 8:36-39)信仰をいだいた前述のサマリヤ人と同様,その割礼を受けたエチオピヤ人も,イエス・キリストの弟子としてエホバ神の意志を行なうため,自分自身をエホバ神にささげたのです。
『異邦人の転向』
13 (イ)異邦人は,イエスの死に対する責任や律法ののろいに関しては,ユダヤ人とはどのように異なっていましたか。(ロ)エホバはいつ,まただれに関連して異邦人に悔い改めを与えはじめましたか。
13 エルサレムの外でイエス・キリストを死刑に処したことに対して連帯責任のある,割礼を受けたユダヤ人とは異なり,異邦諸国民は,罪のない神のみ子が杭につけられたことについてはなんら悔い改める必要はありませんでした。彼らは,モーセの律法契約によるのろいの下にもありませんでした。(ガラテヤ 3:13)しかしながら,彼らは,罪深いアダムとエバの子孫として罪人であり,また,悔い改めるべき異教的な罪を数多く持っており,そうした罪のゆえに神により死に定められていました。使徒パウロが彼らに述べたとおり,それらの人々は,『さきにはキリストなく,イスラエルの民籍に遠く,約束に属するもろもろの契約にあずかりなく,世にありて希望なく,神なき者』でした。(エペソ 2:12)一般に言って,彼らは割礼を受けた民ではありませんでした。しかし,西暦36年,エホバ神はあわれみ深いことに,イエス・キリストを通して,『異邦人にも命を得させる悔い改め』を与えはじめました。(使行 11:18)エホバが最初にそれを与えたのは,カイザリヤのコルネリオでした。カイザリヤは,ユダヤ州におけるローマの総督ポンテオ・ピラトのいる州都でした。
14 コルネリオとその家に集まっていた人たちは,すでにイエスについて多少知っていましたか。罪のゆるしを得ることに関してペテロは彼らに何を話しましたか。
14 イタリヤ人の百卒長コルネリオと彼が自分の家に集めた人々は,イエス・キリストについてはすでに多少知っていました。それで,それらの人々に伝道するために遣わされた使徒ペテロは,彼らにこう言いました。『ヨハネの伝えしバプテスマの後,ガリラヤより始まり,ユダヤ全国に広まりしことばなるは汝らの知るところなり。これは神が聖霊と力とを注ぎ給いしナザレのイエスの事にして,彼はあまねくめぐりて善き事をおこない,すべて悪魔に制せらるる者をいやせり,神これとともにいましたればなり。我らは……イエスの行ない給いしもろもろのことの証人なり』。ペテロはさらに話を続け,最後にこう語りました。『彼につきては預言者たちもみな,おおよそ彼を信ずる者の,その名によりて罪のゆるしを得べきことを証す』― 使行 10:37-43。
15 話に耳を傾けたそれら異邦人が罪のゆるしを得たかどうかはどうしてわかりますか。ペテロの命令で,彼らは何になりましたか。
15 コルネリオおよび彼とともに集まっていたそれらの異邦人は,ことばにこそ出しませんでしたが心の中でイエス・キリストを信ずる者となり,イエスの名によってそうした罪のゆるしを得,その結果として神に対する正しい良心を得ました。そのことを示すどんな証拠がありますか。記録はこう述べています。『ペテロなおこれらのことばを語りおるうちに,聖霊,みことばを聞くすべての者にくだりたもう。ペテロとともにきたりし割礼ある信者は……[異邦人]が異言をかたり,神を崇むるを聞き……ここにペテロ答えて言う「この人々われらのごとく聖霊をうけたれば,たれか水を禁じてそのバプテスマを受くることを拒みえんや」ついにイエス・キリストの御名によりてバプテスマを授けられんことを命じたり』。(使行 10:44-48)これらの人々は,信じてバプテスマを受けてキリストの弟子になりました。
16 パウロとシラスはどうしてマケドニヤのピリピで獄にいれられましたか。真夜中に,その獄では何が起きましたか。
16 これは始まりであり,それ以後,時がたつにつれてほかの無割礼の異邦人が改宗し,イエスの名によってバプテスマを受けました。西暦50年ごろの,マケドニヤのピリピでのできごとを例にとってみましょう。使徒パウロは,悪霊につかれていた占いの少女をいやしたのち,虚偽の訴えを受けて,仲間のシラスとともに投獄されました。真夜中ごろ,ふたりが声を出して祈り,神を賛美していると,大きな地震が起こり,囚人たちはみな,奇跡的にかせを解かれたことに気がつきました。パウロは,大声で看守に呼びかけて自殺を思いとどまらせました。囚人はひとりも逃げ出してはいなかったからです。それから何が起きましたか。記録を読んでみましょう。
17 パウロとシラスは,獄守とその家の者たちに対して,救いを得るにはどうすべきであると告げましたか。それらの人たちはそれを聞いて,どのように行動しましたか。
17 『獄守……おののきつつパウロとシラスとの前にひれ伏し,これを連れ出して言う「君たちよ,われ救われんためには何をなすべきか」ふたりは言う「主イエスを信ぜよ,さらば汝も汝の家族も救われん」かくて〔エホバ〕のことばを獄守とその家におるすべての人々とに語れり。この夜,即時に獄守彼らを引き取りて,その打傷を洗い,ついにおのれもおのれに属する者もみな直ちにバプテスマを受け,かつ二人を自宅に伴いて食事をそなえ,全家とともに神を信じて喜べり』― 使行 16:29-34〔新〕。
18 (イ)獄守とその家の者たちはどんなグループの成員になりましたか。(ロ)「主イエスを信ぜよ」という命令によれば,救いを得るための主要な行動の対象はイエスでしたか。この点に関して生じたその後のできごとは問題の答えをどのように左右するものとなりましたか。
18 この無割礼のピリピ人の看守とその家の者たちは,ピリピのクリスチャン会衆のバプテスマを受けた成員になりました。そして,使徒パウロがそれらの人の上に手を置くことによって,聖霊を受けたに違いありません。(ピリピ 1:1)『主イエスを信ぜよ,さらば汝も救われん』と彼らは告げられましたが,『主イエスを信ぜよ』というこの簡単なことばの中に多くのことを読み取らなければなりません。このこと,また,無割礼の異邦人コルネリオとその家にいた仲間の信者が『イエス・キリストの名によってバプテスマを受け』たことから次のような疑問が生じます。つまり,救いを得るための主要な行動の対象とされたのはだれですか。イエス・キリストでしたか,それともエホバ神でしたか。その答えを左右するものとなるのは,パウロとシラスが,どうすれば『救われる』かをピリピ人の看守に簡潔に告げたのち,看守とその家の者すべてに『エホバのことばを語り』,そして看守は今や『神を信じ』て大いに喜んだという事実です。
19 パウロのことばによれば,割礼を受けていないそれら異教徒たちの宗教的あるいは霊的状態はどんなものでしたか。彼らが救いを得るには,だれに献身する必要がありましたか。
19 わたしたちはそれら無割礼の異教徒が,単に『さきにはキリストなく,イスラエルの民籍に遠く,約束に属するもろもろの契約にあずかりなく』といった状態にあっただけでなく,『世にありて……神なき者』であったことを思い出さなければなりません。(エペソ 2:12)またパウロは,『なんじら異邦人なりしとき,誘わるるままに物を言わぬ偶像のもとに導きゆかれしは,なんじらの知る所なり』と書き,また,『なんじらが偶像をすてて神に帰し,活けるまことの神に事え(たり)』と書き送りましたが,彼らはこの種の異教徒に属していたのです。(コリント前 12:2。テサロニケ前 1:9)彼らはそうした偶像に,もしくはそうした偶像が表わした偽りの神々に献身していました。また,自分が特にどの神に帰依しているかを公に示すしるしを身に帯びていたかもしれません。(エゼキエル 9:4-6; ホセア 9:10と比べてください。)ですから,基本的に言って,割礼を受けていないそれら無知な異教徒は,唯一の『生けるまことの神』であるエホバについて聞く心要がありました。それから,救いを得るために,エホバに献身してその意志を行なわなければなりませんでした。その神は,ご自分に対するそうした献身がだれを通してなされるかを彼らに知らせるはずです。そして,神に従うなら,彼らはバプテスマを受けることができるのです。
20,21 ロマ書 10章でパウロは,神のおきてが身近かにあることに関して,モーセがイスラエル民族に述べたどんなことばを引用していますか。
20 使徒パウロはこの手順をロマ書 10章の中ではっきり述べています。その5節から10節までの箇所で,パウロは,エホバ神がモーセに霊感を与え,申命記 30章11-14節に述べさせた事がらを適用しています。その申命記のことばはこうです。
21 『我がきょうなんじに命ずる〔おきて〕は汝がさとりがたきものにあらず また汝に遠きものにあらず これは天にあるならねば汝はたれか我らのために天にのぼりてこれを我らに持ちくだり我らにこれを聞かせて行なわせんかというにおよばず またこれは海の外にあるならねば汝はたれか我らのために海をわたりゆきてこれを我らに持ちきたり我らにこれを聞かせて行なわせんかというにおよばず このことばははなはだ汝に近くして汝の口にあり汝の心にあれば汝これを行なうことをうべし』〔新〕。
22 (イ)モアブの平野にいたそれらのイスラエル民族にとって,神のおきては彼らの口や心の中にあるほどに非常に身近かなものになりました。どうしてですか。(ロ)それで,それらイスラエル民族がなすべき唯一のこととして残されていたのは何ですか。(ハ)彼らがそれを行なったことは,当時彼らが神と何を結んだことからわかりますか。
22 霊感を受けたモーセがこれを『おきて』,つまり,彼らが神に対して行なわねばならない事がらと呼んでいる点に注意しましょう。シナイ山以来,この『おきて』は包括的な仕方で彼らに啓示されました。この書きしるされた律法の法典は40年間くり返し彼らのまえで復唱された結果,彼らはそれを知り,まるでそれが舌の先にでもあるかのように口で言えるのです。また,彼らがその意味を悟り,それを正しく評価するのを助けるため,それは彼らの心の中に教え込まれていたのです。したがって,今や残されていることといえば,それは,こうして表明された神の意志を彼らが意を決して行なうことだけでした。エホバがモーセを通じご自分との補足的な契約をイスラエル人に結ばせたのは,明らかにそうするのを助けるためでした。この点について,申命記 29章1節はこう述べます。『エホバ,モーセに命じモアブの地にてイスラエルの子孫と契約を結ばしめたもうそのことばはかくのごとし これはホレブにてかれらと結びし契約のほかなるものなり』。
23 (イ)だれがその対型的な意味を,どこで説明していますか。(ロ)義を得るための神の備えを,神はユダヤ人に対してどれほど身近かに設けましたか。しかし,ユダヤ人はなぜその益にあずかれませんでしたか。
23 このすべては模式的な意味を持っており,より偉大なモーセ,『よりすぐれた仲介者』であるイエス・キリストに関連したある事がらを予表していました。クリスチャンの使徒パウロは,ローマ人にあてた手紙の10章でその対型的な意味をわたしたちに説明していますが,それは,どうすればわたしたちが神との関係において義を得られるか,また正しい良心を得られるかを示すためでした。それには神に対する信仰が要求されます。人はモーセの律法を守ろうとする個人的な努力をもってしては義を得ることはできないからです。ユダヤ人は,自分自身のわざに頼って,自分が義にかなっていることを神の前で示そうとしたため,神が彼らのために用意し,彼らのすぐそばに,彼らのただ中において,彼らがあずかれるようにしてくださった備えに信仰を働かす必要を少しも感じませんでした。救いを得るためには,クリスチャンはそうした不信仰なユダヤ人とは全く異なった行動を取らなければなりません。
口でなされる告白
24 (イ)律法,および命を得ることに関してモーセは何と述べましたか。信仰を要求する義は,神のおきてが身近かにあることについて何と述べていますか。(ロ)義と救いに関して,心と口はどんな役割を果たしますか。
24 神のおきてに基づくこうした要求と一致して,使徒パウロは次いでこう述べます。『モーセは,律法による義をおこなう人はこれによりて生くべしと録したり。されど信仰による義はかくいう「なんじ心に『だれか天に昇らん』と言うなかれ」と。これキリストを引きおろさんとするなり「また『だれか底なき所にくだらん』と言うなかれ」と。これキリストを死人のうちより引き上げんとするなり。さらば何と言うか「みことばは,なんじに近し,なんじの口にあり,なんじの心にあり」と。これ我らが宣ぶる信仰のことばなり』。「それは,もしあなたがその『あなた自身の口の中にあることば』を,つまりイエスは主であるということを公に宣言し,あなたの心の中で神は彼を死人の中からよみがえらせてくださったとの信仰を働かせるなら,あなたは救われるからです。人は心で義のために信仰を働かせますが,口で救いのために公の宣言をするからです」ロマ 10:5-8; 10:9,10,新。
25 (イ)その「ことば」をパウロは,どれほど異邦人に近づけましたか。特に主イエスは,わたしたちがその情報を入手できるようにするため,どのように取り計らわれましたか。(ロ)その「ことば」がそれほど身近かにあるわけですから,救いを求める人たちに関しては何が問題でしたか。
25 特に,「異邦人への使徒」であった使徒パウロによって,またその同僚の宣教者たちによって,神とそのキリストに関する「ことば」は異邦人の近くにもたらされたので,それらの人々もそのことばを口をもって復唱し,感謝してそれを心にいだこうと思えば,そうすることもできるようになりました。また,イエス・キリストは,神とその目的にかんして証するため天から地に下って来ることにより,彼らがこうした情報を得られるようにしておかれたのです。イエスはまた,全能の神により死人の中からよみがえらされていましたが,それは神の目的が達成され,実現したことに対する生きた証となるためでした。またそれによって,イエス・キリストこそ「主」であり,エホバ神の神聖な支配権を行使する主要な代理者であることが疑問の余地なく立証されました。ですから,命を救う「ことば」がそこに,つまりそれら異邦人の手の届くところに,自分たちの口や心にあるのと同じほど近いところにあったのです。しかし問題は,彼らがそれをどうするかということでした。もし永遠の救いを望むのであれば,それに関して行なうべきことがただ一つありました。しかも,救いを得るために行なうべきことは,神ご自身によって命じられていたのです。霊感を受けたモーセが,その『ことば』を,『わが今日なんじに命ずるおきて』と呼んだことを思い起こしてください。(申命 30:11-14)救いを得るためには,わたしたちは従わなければならないのです。
26,27 (イ)信仰をもって受け入れるよう神がわたしたちに命じておられるのは,どんな「ことば」ですか。(ロ)ユダヤ人が尋ねた『神のわざ』とは何であると,イエスはユダヤ人に告げましたか。それこそ神の命じておられるわざであることを,パウロは,アテネのアレオパゴスのギリシア人にどのように述べましたか。
26 そうです,救いのためのすべての条件を定めるエホバ神が,そのことば,すなわちイエス・キリストは主であり,神はイエスを死人の中からよみがえらせたということを,信仰をもって受け入れるよう,わたしたちに命じておられるのです。これこそイエスが,『われら神のわざを行なわんには何をなすべきか』と尋ねたユダヤ人たちの問いに答えて言われたことなのです。イエスはこう言いました。『神のわざはその遣わしたまえる者を信ずるこれなり』。(ヨハネ 6:28,29)このことは非ユダヤ人,つまり無割礼の異邦人にもあてはまります。そのようなわけで,知識を得た異邦人にとって,神の意志を行なうために神に献身して,神のわざを行なう以外に道はありません。それらの人々は,それまで自分たちが献身して仕えていた偽りの偶像の神々から離れ去らなければなりません。これは,アテネのアレオパゴスに集まった異教徒のギリシア人に使徒パウロが次のように述べたことと一致します。
27 『神はかゝる無知の時代を見過ごしにし給いしが,今はいずこにてもすべての人に悔い改むべきことを告げ[求める,アメリカ標準訳; 要求する,ロザハム訳; 命ずる,改訂標準訳]たもう。さきに立て給いし一人によりて義をもて世界を審かんために日をさだめ,彼を死人のうちよりよみがえらせて保証を万人に与え給えり』― 使行 17:30,31。
救いのための公の宣言
28 (イ)わたしたちは,心を用いて何を行なうよう命じられていますか。(ロ)わたしたちが信仰をもって受け入れるべき「ことば」とは何ですか。(ハ)わたしたちはどうすれば,そうした信仰を自分の心の中で培えますか。それは何を行なうためですか。
28 エホバ神のおきてを守って神の意志を行なうためになされたわたしたちの献身に一致して,わたしたちは,『あなたの心の中で信仰を働かせ』なさいと命じられたとおり,従順に行なわなければなりません。心は愛情もしくは愛の発するところであって,それはその所有者を動かす力を持っていることをわたしたちは知っています。人は心で感謝の気持ちを感ずるのです。では,心で何に『信仰を働かせ』なければならないのでしょうか。エホバ神がイエス・キリストを用いてわたしたちの近くにもたらしてくださったその「ことば」に信仰を働かさねばならないのです。使徒パウロに言わせれば,この「ことば」とは,「我らが宣ぶる信仰の『ことば』」なのです。使徒パウロの宣べ伝えたその「ことば」を受け入れるには信仰を働かせることが必要であり,わたしたちはそのことを心で行なわねばなりません。わたしたちは,宣べ伝えられたその「ことば」に自分の心をとめねばなりません。その「ことば」に対する愛を自分の心の中に培わねばなりません。その「ことば」に対する誠実な認識を自分の心で築かなければなりません。わたしたちは心のこうした状態に動かされて,あるいは動機づけをそこから得て,そのことばを信じ,それを受け入れ,それに基づいて行動するのです。
29 わたしたちは何に関して心の中で信仰を働かせなければなりませんか。それで,救いを得るためのわたしたちの主要な行動の対象となるのはだれですか。
29 何に関して『[わたしたちの]心の中で信仰を働かせる』ことが要求されているのでしょうか。このこと,つまり,「神は彼を死人の中からよみがえらせてくださった」ということに関して信仰を働かせることが要求されているのです。そうです,ただ『主イエスを信じ』さえすればそれで救われるのではないことがこれでわかります。(使行 16:31)まず第一に,わたしたちは神に信仰を働かさなければなりません。パウロが思い起こさせているように,『すべて〔エホバ〕の御名を呼び求むる者は救わるべし』ということは依然として真実なのです。(ロマ 10:13〔新〕)わたしたちが心と魂と思いと力をつくして愛さねばならないのはエホバなのです。エホバは,イエス・キリストを死人の中からよみがえらせて不滅の命をお与えになった全能者です。ですから,エホバこそわたしたちの主要な行動の対象です。わたしたちは,ほかならぬエホバに献身して,その意志を行ない,そのおきてを守らなければならないのです。―ロマ 10:8,9。
30 (イ)わたしたちは,イエス・キリストに関して神が何を行なわれたということを信じなければなりませんか。(ロ)こうして,神は実質的な「ことば」をどのような意味でわたしたちの身近かにもたらされましたか。
30 それで,わたしたちは,愛と認識にあふれて,エホバにささげられた心に動かされて,杭につけられたイエス・キリストをエホバ神が死人の中からよみがえらせるという驚嘆すべき奇跡を行なわれたのだという信仰をいだかねばなりません。そのようにして神は,イエス・キリストが天の神のみまえに上り,全人類を益するためのご自分のあがないの犠牲の価値をそこでささげ,こうして,全人類を買い取れるようにしてくださったのです。犠牲となって死ぬことにより,イエス・キリストは「底なき所」に下りましたが,エホバの霊すなわち活動力は,その「底なき所」に下って,『キリストを死人のうちより引き上げ』ました。こうして,生きたキリストによって,全能の神エホバは,「ことば」をわたしたちの身近にもたらし,その「ことば」に内容と実質を付与し,命を得させる音信をその「ことば」に含ませることができました。それで,どう考えても,わたしたちが献身して取るべき行動の主要な対象はエホバです。しかし,わたしたちは,エホバの主要な代理者イエス・キリストを通してそうしなければならないのです。―ロマ 10:6,7。ヘブル 2:9,10; 5:8,9。
31 ですから,わたしたちは救いを得るためにだれの名を呼び求めなければなりませんか。それには,なぜわたしたちの口もイエス・キリストに関する告白をしなければなりませんか。
31 したがって,当然のこととして,わたしたちは,『〔エホバ〕の御名』を呼び求めなければなりません。(ロマ 10:13〔新〕。使行 2:21。ヨエル 2:32)そのためには,口が心に動かされて何かを行なうことが必要です。わたしたちはエホバのみ名を口で呼び求めなければなりません。しかし今や,神はキリストを死人の中から引き上げられたのですから,イエス・キリストを別にして神のみ名を呼び求めることはできません。わたしたちはまた,イエス・キリストに関して自分の口で告白をしなければなりません。使徒パウロが自分の宣べ伝えていた信仰の「ことば」について論じて,さらに次のように述べたのはそのためです。「それは,もしあなたがその『あなた自身の口にあることば』を,つまりイエスは主であるということを公に宣言し,あなたの心の中で神は彼を死人の中からよみがえらせてくださったとの信仰を働かせるなら,あなたは救われるからです。[1]人は心で義のために信仰を働かせますが,[2]口で救いのために公の宣言をするからです」― ロマ 10:9,10,新。
32 (イ)わたしたちが自分の口でこうした公の宣言を行なうことは,他の聖書翻訳では何と述べられていますか。(ロ)救いのためのこうした口頭の告白が行なわれるのはいつですか。
32 人が「口で救いのために公の宣言をする」のはいつでしょうか。それは,献身した信者が『父と子と聖霊との名によって』バプテスマを受ける前であり,またそうでなければなりません。(マタイ 28:19,20。使行 16:31-33; 17:33; 19:1-7)王国行間逐語訳や他の聖書翻訳が示しているように,ここで言う公の宣言とは,ある意味での告白です。(改訂標準訳; モファット訳; エルサレム; アメリカ標準訳)バイイングトンの翻訳とアメリカ訳はこれを「承認」と訳しています。この告白もしくは承認とは,今や献身した信者としてのわたしたちが,水のバプテスマをつかさどるクリスチャン奉仕者に対して,またはその前で口頭で行なう事がらなのです。もちろんわたしたちはそののちも,会衆の集会でこの告白を続けます。(ヘブル 10:23)また,わたしたちのクリスチャンとしての希望について説明を求める,行政や司法上の権威者の前でもこの告白を行ないます。(ペテロ前 3:15)また,わたしたちは,戸別訪問を通して公に行なう宣べ伝えるわざや,見いだした関心のある人々の私宅を再び訪問する活動においても,このことをします。しかし,当然のこととして,この告白はバプテスマの前に始まるものなのです。献身していない人は,バプテスマを受ける前に,単に口頭で証言したからといって救われるわけではありません。
33 告白とはどういう意味ですか。わたしたちは,救いを得るために,他の人々の前で何を告白しなければなりませんか。
33 もちろん,告白とは,あることについて他の人に宣言すること,明らかにすること,認めること,もしくは承認することを意味しています。では,他の人に対して口頭で宣言,もしくは承認しなければならないこととは何ですか。もとよりそれは,パウロがロマ書で述べる「ことば」です。パウロはこう述べます。「もしあなたがたがその『あなた自身の口にあることば』を,つまりイエスが主であるということを公に宣言(するなら)……あなたは救われるでしょう」。(ロマ 10:9,新)したがってわたしたちは,神の目的や取り決めからイエス・キリストを除外して考えることはできません。イエスは「救いの主要な代理者」だからです(ヘブル 2:10,新)わたしたちは,イエスがダビデ王の「主」であるだけでなく,わたしたちひとりびとりの「主」でもあるということを口頭で宣言し,告白し,認め,承認しなければなりません。(詩 110:1。使行 2:34-46)わたしたちは,神の霊によって霊感を受けた「ことば」にしたがって,この宣言を他の人の前で行なわねばなりません。
34 コリント前書 12章2,3節によれば,わたしたちは何の導きのもとで,イエスが主であることを告白しますか。わたしたちは,救いのためのそうした告白をいつまで固守しますか。
34 使徒パウロが次のように述べたのはそのためです。『されば我なんじら[かつては偶像に帰依していた者たち]に示さん,神の御霊に感じて語る者は,だれも「イエスはのろわるべき者なり」と言わず,また聖霊に感ぜざれば,だれも「イエスは主なり」と言うあたはず』。(コリント前 12:2,3)わたしたちの内にある神の霊はわたしたちを導いて,他の人々に対して正しい告白,承認,あるいは宣言を行なわせる,すなわち,イエスは,神の任命を受けた「主」であると言わせるのです。神はイエスを死人の中からよみがえらせましたが,それはイエスが生ける主になるためでした。神は復活したイエスをご自分の右に座させ,他のすべての創造物よりも位の高い「主」とならせました。もしわたしたちが永遠の救いを願うなら,わたしたちは,水のバプテスマを受ける前に公に行なったこと,すなわちイエス・キリストはエホバ神がわたしたちの上に任命し,わたしたちが愛をいだいて受け入れる主であると述べて行なった公の宣言,告白あるいは承認を固守しなければなりません。
自分自身を否む
35 イエスが弟子たちに告げたところによれば,イエスについて行きたいと思う人は何をしなければなりませんか。
35 イエスはわたしたちの主であると口で告白することによって,わたしたちはある種の義務を負うことになります。イエスは,エルサレムで刑柱上の死を遂げるに至る歩みを思いとどまらせようとしたペテロをしかったのちにこのことに言及しました。こうしるされています。「次いで,イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについてきたいと思うなら,その人は自分を否み,自分の十字架を取って,わたしに従いなさい」。(マタイ 16:24,改訂アメリカ標準訳)バイイングトンの翻訳は次のとおりです。「だれでもわたしについて来たいと願うなら,その人は自分を否認し,自分の十字架を取り上げ,わたしに従いなさい」。「アメリカン・カレッジ辞典」は,「否む」ということばの意味を説明し,その一つとして,「4,認める,もしくは承認することを拒む; 否認する; 拒否する; 拒絶する」と述べています。
36 (イ)ペテロはいつイエスを三回否みましたか。そうすることによってペテロは何を認めていましたか。(ロ)イエスを否認することによって,ペテロは自分が何に所属していることを唱えていましたか。
36 イエスがユダ・イスカリオテに裏切られた夜,使徒ペテロはイエスを三度否みました。ペテロのことを怪しんだ人々が,イエスの仲間ではないかと三度彼を責めたのち,マタイ伝 26章74節によると,ペテロは,『盟い,かつ契いて「我その人を知らず」と言い』ました。こうしてイエスを否むことによって,ペテロは自分をイエスの仲間もしくは追随者の中から除外しました。そうすることによってペテロは単に自分自身を他のすべての人から引き離したのではありません。それどころか,ペテロは,イエスに従わずに,かえってイエスをぜひとも裁判にかけるべきだと考えた者たちに組した,もしくはその者たちの側に立ったのです。あるいは,別のことば,つまり「否認する」ということばを用いるとすれば,ペテロは自分の指導者また教師としてのイエスを否認することにより,だれかほかの者を自分の指導者また教師としていただいていると唱えたのです。イエスのことを否認したペテロは,みずから中立の立場,つまり問題のどちらの側をも支持せず,他のだれともいっさい関係のない独自の立場に立っていたのではありません。イエスのことを否認することによってペテロは,自分がだれかほかの者に所属していることを唱えねばならなかったのです。
37 それで,イエスに従うために自分自身を否むとは,どういう意味ですか。それはだれの意志にもとづいてなされるのですか。
37 イエスがマタイ伝 16章24節で弟子たちに言われたことについても,同じことがいえます。自分自身を否み,自分の刑柱を取り上げて,イエスに従いつづけることによって,人は単にその場その場で自分の個人的な欲望に関して自分を否定しているのではありません。実際のところ,その人は,イエス・キリストに従わない利己的な人間としての自分の残りの生涯にかんして自分を否定しているのです。自分自身を否むことによって,人は物質主義に根ざした自己本位な生き方に背を向けてイエスの追随者になり,イエスがなさったように死の刑柱を担ってゆくのです。その人はみずからの指導者また決定者としての自分自身を否み,イエス・キリストを自分の指導者また教師として認め,また承認します。もちろん,この段階は神の意志にしたがって踏まれるのです。
38 イエスに従うために自分自身を否認するとは,どういう意味ですか。イエスと同様,わたしたちはだれの奴隷になりますか。
38 新世界訳はマタイ伝 16章24節をこう訳出しています。「だれでももしわたしについて来たいと思うなら,その人は自分を否認し,自分の刑柱を取り上げて,絶えずわたしに従いなさい」。では,この場合,自分を否認するとは何を意味していますか。それは確かに,もはや自分自身に対する自分の所有権を主張しないという意味です。その場合,わたしたちは,自分自身に対する所有権をだれかほかの者に譲り,もしくは引き渡し,わたしたちに対するその者の所有権を認め,承認するのです。わたしたちはだれのものでもなくなってしまうというのでは決してありません。では,わたしたちは自分を否認して,杭をにない,イエス・キリストに絶えず従う者となる以上,だれがわたしたちの所有者となるのでしょうか。イエスは疑いもなくご自分を否認しました。ということは,イエスはご自身に対するエホバの所有権と,みずからはエホバの奴隷であることとを認め,承認しました。では,このことと一致して,イエスの追随者になるためにわたしたちが自分自身を否認するとき,わたしたちは自分自身に対する所有権をエホバに譲り,または引き渡し,みずからはキリストのように,エホバの奴隷になるのです。わたしたちはもはや自分自身のものではないのです。
39 (イ)では,そうした選択をする人たちには何が要求されますか。(ロ)それはどのようにして象徴されますか。しかし,それはどんな告白を行なったのちに初めてなされるものですか。
39 では,そうした選択をするわたしたちには何が要求されますか。み子イエス・キリストにならって,エホバの意志を行なうため,エホバ神に無条件で献身することが要求されます。エホバの意志は,わたしたちがイエス・キリストの忠実な弟子になることです。またそれは,わたしたちが,イエス・キリストを神によって任命された「主」と宣言し,告白し,承認することです。こうしてイエスは,わたしたちに命令し,わたしたちに務めを割り当てる権威を持った,わたしたちの主人となるのです。もちろん,エホバ神に対するこうした献身は,わたしたちが悔い改めて神に転向したのちになされます。わたしたちは,神の主要な代理者イエス・キリストを通してエホバ神に献身することによって,転向後の生き方をその真の目標に合致させるのです。わたしたちは今やこうした献身を水の浸礼によって象徴します。そうすることは神の意志であり,その意志を行なうためにこそわたしたちは神に献身したのです。水のバプテスマに先だって,わたしたちは自分の口で救いのために公の宣言もしくは告白を行なわなければなりません。それは自分の心の中で信じている事がらのあからさまな表現としてそうするのです。そうすることによって初めて,わたしたちはキリストを通して神から備えられている永遠の救いの道にはいるのです。
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献身した信者が行なう『救いのための公の宣言』はバプテスマをつかさどる奉仕者の質問に口頭で答えを述べてバプテスマを受ける前に始まるものである
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水のバプテスマと救いとの関係ものみの塔 1973 | 2月15日
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水のバプテスマと救いとの関係
1 (イ)ペテロ前書 3章20,21節は,八人の人間の魂を守って大洪水を生き残らせたことと,クリスチャンのバプテスマとをどのように結びつけていますか。(ロ)バプテスマとその水とはどのように明確に異なっていますか。
水のバプテスマと救いとの関係については,使徒ペテロがその第一の手紙の3章で注解しています。イエスが霊においてよみがえらされ,獄にある霊たちに宣べ伝えたことについて語ったのち,ペテロはさらにこう述べています。『ノアの時代に方舟の備えらるるあいだ,寛容をもて神の待ち給えるとき……その方舟に入り水を経て救われし者は,わずかにしてただ八人なりき。その水にかたどれるバプテスマは肉の汚れを除くにあらず,[正しい]良心の神に対する要求にして,イエス・キリストの復活によりて今なんじらを救う』。(ペテロ前 3:20,21〔新〕。改訂標準訳; アメリカ訳; モファット訳)水が人を救うのではありません。バプテスマとはバプテスマの水のことではありません。バプテスマとは,水中に浸されることによって水の中を通ることです。バプテスマとは一つの行為であり,水のことを言うのではありません。
2 (イ)ヘブル書 11章7節は,大洪水のさいノアに救いをもたらしたものについてどのように述べていますか。(ロ)大洪水の前にノアは神とともに歩んでいたにもかかわらず,ノアは救いを得るために,どんな重大な処置を講じなければなりませんでしたか。
2 ノアは大洪水によって救われたのではありません。彼がどのようにして救われたかについて,ヘブル書 11章7節がこう述べています。『信仰によりてノアは,いまだ見ざる事につきて御告げをこうむり,かしこみてその家の者を救わんために方舟を造り,かつこれによりて世の罪を定め,また信仰による義の世嗣となれり』。その洪水の前でさえ,『ノアは義人にしてその世の完全き者なりき ノア神とともに歩めり』とあります。(創世 6:9)しかし,ノアが重大な決定を下さねばならない時も到来しました。それは,ノアの世代のうちに臨む事がらについて神がノアに警告し,巨大な箱船を建造するよう命じた時のことでした。その命令を実行するには,ノアの側の信仰と従順が求められました。今や問題は,ノアは神の意志を行なうだろうかということでした。ノアは自分の生がいにおけるこの最大の仕事をすることに決めました。それで彼は,神の意志を行なうことを約束し,そうすることに一身をささげたのです。その結果,ノアとその家の者たちは救われました。彼らはその箱船にはいって救われたのです。―ヘブル書 10:7-9と比べてください。
3 (イ)それで,命を救うものとなったその箱船は,ノアとその家族に関しては何を象徴するものとなりましたか。(ロ)それら八人の魂は,自分たちの信仰ゆえに従順に従ったため,自分自身の内に何を得ましたか。
3 それで,その箱船は,神の意志を行なうためにノアが献身したこと,および信仰と従順をもって神の意志を行なったことの象徴となりました。ノアと他の7人の人間の魂を救ったのは,神の意志を行なうためになされた献身の具体的で有形の実際的表現であったその箱船でした。大洪水の水が救ったのではありません。それは箱船の外にいた者たちに死をもたらしました。箱船にはいったノアとその家の者たちは,水の中を通って救われたのです。箱船に関して神の意志を行なうために献身し,ついでその箱船を建造することにより,ノアは神に対する正しい良心を得ました。ノアの家の者たちもノアとともに同様に行ないました。箱船を建造する時までに得ていた義それ自体はそれだけでは彼らを大洪水から救うものではありませんでした。ノアとその家の者が箱船にはいるまで住んでいた家は滅びました。
4 モーセの律法契約のもとにあったユダヤ人の例が示すように,正しい良心とは,わたしたちが神に願い求めなければならないものです。それはなぜですか。
4 これに対応する事がらが,バプテスマを受けてイエス・キリストの弟子となる人々の場合にも起こります。神に対する正しい良心は,わたしたちが生まれつき備えているもの,もしくは自分の定めた条件に基づいて自分自身の独善的なわざによってもたらされるものではありません。ユダヤ人は,ユダヤ国民と結ばれたモーセの律法契約の中で命じられているわざを行なう点で完全を目ざして努力することによってエホバ神に対する正しい良心を得ようとしましたが,彼らは失敗しました。毎年の贖いの日(チリス10日)ごとに,彼らは神に対する正しい良心を取り戻すため,イスラエルの大祭司を通してなだめの犠牲をささげてもらわねばならなかったのはそのためでした。したがって,正しい良心とは,わたしたちがエホバ神に願い求めなければならないものなのです。
5 (イ)わたしたちはどうすれば正しい良心を神に願い求め,またそれを得られますか。(ロ)その時まで,わたしたちはだれの好むところを行なっていましたか。
5 バプテスマに関係している事がらについて述べるさい,ペテロが次のように告げたのはそのためです。『肉の汚れを除くにあらず,[正しい]良心の神に対する要求(なり)』(ペテロ前 3:21〔新〕)では,どのようにしてその正しい良心を神に願い求めるのですか。それは,水の中を通る前に,ノアのように献身することによってです。ノアのように,わたしたちはエホバの意志を行なうためエホバ神に献身し,それ以後エホバの意志を行なってゆくのです。そして,これはイエス・キリストを仲介者とするエホバの新しい契約に関係することを意味していますから,シナイ山のふもとに集まったイスラエルの民がモーセの律法契約に入れられる前に,次のように語って行なったと同様のことをわたしたちもしなければなりません。こうしるされています。『エホバの言いたまいしところは皆われらこれをなすべし』。(出エジプト 19:8; 24:7,8)そうする時まで,わたしたちは『異邦人の好むところを』おこない,『人の欲に従って』生きていましたが,今やわたしたちは,「神の〔意志〕」に従って生きるために献身するのです。(ペテロ前 4:1-3,19〔新〕)その結果,わたしたちは正しい良心を得ることになるのです。自分は神の意志を行なっているのだということを知るとき,わたしたちは正しい良心を享受するからです。
6 今わたしたちは単に不完全な仕方で神の意志を行なえるにすぎないので,正しい良心を保持するには,わたしたちのために何を適用してもらう必要がありますか。
6 もちろんわたしたちは,単に不完全な仕方で神の意志を行なえるにすぎません。そのゆえにこそ,わたしたちは,神の大祭司によってわたしたちのために適用され,わたしたちを罪と不完全さの汚れから清める,イエス・キリストの贖いの血を必要としているのです。ヘブル書 9章14節が問いかけているとおりです。『まして,永遠の御霊によりきずなくしておのれを神に献げたまいしキリストの血は,我らの良心を死にたる行ないより潔めて活ける神に事えしめざらんや』。
7 (イ)では,ペテロ前書 3章21節のことばづかいによれば,キリストを通してなされるわたしたちの献身は,実際には何を表わすものですか。(ロ)この正しい良心を保つには,わたしたちは何に絶えず頼る必要がありますか。
7 ですから,神の意志を行なうために神に献身するのは,確かに『〔正しい〕良心の神に対する要求』ということができます。正しい良心は,『死んだわざ』である,自分自身の独善的なわざを行なうことによってもたらされるのではなくて,神の定めたわざ,また神の意志を行なうことによってもたらされるものなのです。それを行なうためにこそわたしたちは神に献身するのです。その正しい良心を最初に受けたのち,それを保つためには,わたしたちは対型的な大いなる贖いの日のなだめの犠牲としてのイエス・キリストの流された血の恩恵に絶えず頼ってゆかなければなりません。ヘブル書 9章22節がわたしたちに思い起こさせるとおり,「もし血を流すことなくば赦さるること」はありません。このゆえに,キリストを通してゆるされたわたしたちは,「もはや罪の意識を持たない」のです。―ヘブル 10:1,2,新。
8 (イ)わたしたちが悔い改め,転向し,献身するゆえに,神はわたしたちのために何を適用してくださいますか。それはわたしたちにどんな結果をもたらしますか。(ロ)それで,わたしたちの水のバプテスマは何を象徴するものであるといえますか。(ハ)単に水のバプテスマを受けただけで救われるかどうかについては,どんな聖句がその答えを示していますか。
8 ですから,わたしたちがキリストを通して神に献身することは,『〔正しい〕良心の神に対する要求』となります。それはどうしてですか。不完全で罪深い状態にあるわたしたちは,そのままでは神に受け入れられないからです。それで,わたしたちが罪を悔い改めて身を転じ,あるいは転向し,キリストを通して神に献身するので,エホバは,清める効力を持つキリストの贖いの犠牲の血をわたしたちに適用し,それによって罪の定めからわたしたちを解放し,神に対する正しい良心をわたしたちに与えてくださるのです。そのようなわけで,わたしたちの水のバプテスマ,つまり従順にバプテスマの水の中を通ることは,イエス・キリストを通してなされるエホバ神への献身の象徴であると言えるでしょう。ノアは箱船を建造して神の意志を行なうということに従順に同意したので,自分自身とその家の者を救うことになりました。それで,神の意志を行なうために神に献身し,ついで神の意志を忠実に遂行していくなら,それは『今わたしたちを救う』ものとなるのです。この点でわたしたちは,救われるためにエホバのみ名を呼び求めています。(ヘブル 13:15,改訂標準訳)また,わたしたちは,救われるために主イエスを信じてイエスに頼っています。(使行 4:12)わたしたちは,救われるために自分の口で,「イエスは主である」と公に告白あるいは宣言し,また心の中で,「神は彼を死人の中からよみがえらせてくださった」と信じています。
9 こうした積極的な段階を踏んだ人は,その人の『正しい良心の神に対する要求』に関して,後になって何と言うことはできませんか。
9 ですから,悔い改め,転向,献身などの積極的な段階を踏む人はだれひとりとして,後になって,わたしの『〔正しい〕良心の神に対する要求は全然かなえられなかった,神はわたしに正しい良心を決して与えてくださらなかった,だからわたしの献身は無意味だし,わたしは今それに拘束されてはいないなどと言えるものではありません。
10 (イ)救われるために,わたしたちは何を受けなければなりませんか。(ロ)このようなバプテスマが今も『イエス・キリストの復活によって』わたしたちを救うものとなっているのはなぜですか。
10 したがって,今わたしたちは,もし救われたいと思うなら,イエス・キリストにならい,またその命令に従順に従って,水のバプテスマを受けなければならないということを認識できます。(マタイ 28:19,20)したがって,ペテロ前書 3章21節のことば,すなわち『その水にかたどれるバプテスマは……イエス・キリストの復活によりて今なんじらを救う』ということばほど明瞭なものはありません。わたしたちは自分の心で,神はイエスを死人の中からよみがえらせてくださったことを信じなければなりません。復活したイエス・キリストはわたしたちの救いにとってなくてはならないかたです。わたしたちに罪の許しを得させ,またその結果として正しい良心を得させるために注ぎ出されたイエスの命の血の価値を天で神にささげ,神の大祭司として行動できるのは,ほかならぬ復活した,神のみ子だけだからです。わたしたちの要求に答え応じて神がわたしたちに正しい良心を与えてくださるさいに,イエスはなくてはならないかたなのです。―ペテロ前 3:22。
わたしたちのメシヤなる指導者
11 小羊の血で自分たちの衣を洗う結果,『大いなる群衆』には何がもたらされますか。彼らが神のこの小羊を歓呼して迎えるべき,どんなもっともな理由がありますか。
11 あらゆる国民・部族・民族・言語の中から今日集め出されている『大いなる群衆』さえ,小羊イエス・キリストの血で自分たちの衣を洗って白くし,そうすることによって,神に対する正しい良心を得るのです。そういうわけですから,それらの人々が神の御座の前に立って,しゅろの枝を振りながら,『救いは御座に座したもう我らの神と小羊とにこそあれ』と大声で叫んでいるのももっともなことです。(黙示 7:9-14)こうして彼らは,神の支配権を行使するエホバの主要な代理者を歓呼して迎えています。そして,自分たちの牧者また指導者としてのそのかたに従うのです。
12 地上では,神の支配権を行使する主要な代理者にだれが従わなければなりませんか。そうすることは,そのような人々にとって何を意味しますか。
12 献身してバプテスマを受け,神の支配権を行使するその主要な代理者の弟子になる人々はみな,この代理者に従わなければなりません。そうするためには,「信仰の〔主要な代理者また完成者〕なるイエスを仰ぎ見る」ことが必要です。(ヘブル 12:1,2〔新〕)わたしたちが愛をこめてそうするなら,わたしたちは永遠の救いにあずかり,偉大な神聖な支配者エホバ神に永遠の賛美をもたらすことになるでしょう。
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読者からの質問ものみの塔 1973 | 2月15日
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読者からの質問
● 申命記 22章5節にしるされていることからすれば,女性がスラックスをはくのは正しいことですか。―アメリカの一読者より
申命記 22章5節にはこうしるされています。『女は男の衣服をまとうべからず また男は女の衣裳を著べからず すべてかくするものは汝の神エホバこれを憎みたまうなり』。この聖句は衣服のスタイルのことを述べているのではありません。ここでは,特に異性のためにデザインされた物を身に着けることが禁じられているのです。
性別は神によって設けられたものであり,申命記 22章5節にしるされている律法はその区別を保つためのものでした。容姿服装のことになると,男性は男らしく,女性は女らしくしたいというのがふつうです。何がふさわしいかに対するこのような心の奥深くにある感覚に反する行為をするイスラエル人は同性愛に陥るおそれがありした。ですから,申命記 22章5節に述べられている律法は同性愛行為を非とするものでもあります。
この律法が与えられた当時は男女とも,すそまでたれる長い外衣を身につけていました。しかし,男性の服装と女性のそれとにははっきりとした違いがありました。今日でも同様に,世界には,男女ともズボンをはいている所がありますが,女性用のズボンは男性用のそれとは異なっています。したがって,申命記 22章5節で教えられている原則は,女性がスラックスを着用することを禁ずるものではありません。
そればかりでなく,クリスチャンはモーセの律法の下にはいません。(ロマ 6:14)ですから,この律法を文字どおりに適用することを主張するのはクリスチャンの教えに反します。したがって,婦人が家事や畑仕事をする時に夫の古いズボンをはいたとしても,性の混同や性の誤用を防ぐという,問題の律法の明白な目的に反することにはなりません。
クリスチャンはモーセの律法下にはおらず,その原則を導きとするのですから,分別つまり良い判断を利かせ,良心を働かせなければなりません。クリスチャンの女性であれば,スラックスを着用するのがふさわしいかどうかは自分の好みとは別の要素によって決まることを知っています。また他の人をつまずかせたり,クリスチャン会衆に非難をもたらしたりすることを望みません。家庭や職場といった私的な場所で着てもおかしく見えない衣服が,クリスチャンの集会や神のみことばを公にふれ告げたり他の公的な活動に携わる場合に着用するとふさわしくないことがあります。また,見方も地域によって異なります。聖書は婦人に対してこう助言しています。『慎みて宜しきに合う衣にて己を飾り,…善き業をもて飾とせんことを。これ神を敬はんと公言する女に適える事なり』。―テモテ前 2:9,10。
● エホバの証人のわざを統轄する長老たちに対して,なぜ「統治体」という語を用いるのですか。―アメリカの一読者より
「統治体」というような語は聖書の中には出ていません。しかしながら,西暦一世紀のクリスチャン会衆内で,指導的立場に立って奉仕する長老たちの一団が確かに存在していたことを示す十分の証拠があります。
パウロは仲間のクリスチャンに,『あなたがたの間で指導の任に当(っている)人たちのことを思い起こしなさい。…あなたがたの間で指導の任に当っている人たちに従順で,素直でありなさい』とさとしました。この部分は別の翻訳によると,『汝らを導きし者ども』を思い起こし,従いなさい,と訳されています。(欽定訳,脚注; マードックのシリヤ訳; ロザハム訳)王国行間逐語訳(英文)は,「あなたがたを統治している[ギリシア語,ヘゴウメノン]人たちを念頭に置きなさい」と訳しています。―ヘブル 13:7,17,24,新。
この同じギリシア語の変形が,マタイ伝 2章6節,ルカ伝 22章26節,使徒行伝 7章10節,15章22節に出ていますが,その意味はいずれも同様で,統治する,長として
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