-
柔和はクリスチャンの要求ものみの塔 1967 | 8月15日
-
-
よって,柔和さを欠く人もやがてその特質を体得し,自分の人となりの一部とするでしょう。身体的に成熟した人にとって,歩くことはほとんど習慣となっていますが,柔和も人の習慣のようになるのです。
27 柔和であればどんな豊かな報いがありますか。
27 柔和をつちかうなら,豊かな報いのあることは確かです。それによって,たとえ圧迫の多い環境下にあっても,あなたの生活は,ずっと幸福になるでしょう。そうした環境に負けて心をかたくなにすることがなく,心の平静を保てるからです。柔和をつちかうことの別の報いは,真理を受けいれやすくなることです。エホバがご自分のみこころを少しずつ啓示されるにつれ,あなたはそうした新しい真理を喜んで受け入れ,自分の生活をそれに合わせようとするでしょう。これはあなたにどんな益がありますか。ヤコブの手紙 1章21節が答えます。「心に植えつけられている御言を,すなおに受け入れなさい。御言には,あなたがたのたましいを救う力がある」。そうです,あなたの救いがかかっているのです! それで努めて柔和になりなさい。そして,詩篇 37篇11節の神の約束にあずかる者となりなさい。「柔和な者は〔地〕を継ぎ,豊かな繁栄をたのしむことができる」,〔新世訳〕。
-
-
柔和な心で教えなさいものみの塔 1967 | 8月15日
-
-
柔和な心で教えなさい
1,2 今日のクリスチャンに柔和さが必要なのはなぜですか。
クリスチャンが柔和をつちかうことにはもう一つの理由があります。柔和さがクリスチャンを幸福にし,人との折合いをよくさせ,神の真理に対してより柔順にならせて,永遠の命の道に導くことは確かですが,このほかにも大切なことがあります。柔和は,この苦難の多い終わりの時代にクリスチャンが課せられた大規模な伝道のわざを果たすためにも必要なのです。
2 神の真理は人類に伝えられねばなりません。現在の悪の事物の制度が終わる以前に,全地に証言が行なわれねばならないのです。そのうえ,すでに神に献身した人々を神のことばの真理でいつも養うことが必要です。このすべてを行なうために大いに求められるのは教えることであり,教えることにおいて肝要なのは柔和さです。この世ではいろいろな教え方がありますが,神のことばが関係するかぎり,そこに含まれる知識は柔和な態度で分け与えられねばなりません。
3-5 (イ)柔和に教えるのが正しい教え方であることはどうしてわかりますか。(ロ)羊のような人々がイエスのもとに集まったのはなぜですか。
3 柔和なしかたで教えるのは聖書的な正しい方法であり,真理を求める人々に最大の反応を起こさせる教えかたです。最大の教え手であられるイエス・キリストも,柔和な態度で真理を教えられましたから,このことは確かです。この大切な性質である柔和はイエスのひととなりの一部であり,義に飢えかわく人々を教えたイエスはこの性質を活用されました。
4 イエスは自分が柔和な性質を持っていることを自ら語っておられます。「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」。(マタイ 11:28,29)柔和であられたイエスの教え方はどんなに効果的であったでしょう。羊のような人々は熱心にイエスのもとに集まり,イエスが神の真理について話すのを聞きました。人々は,民の幸福を考えず,ただ権勢を誇った,きびしく抑圧的な政治および宗教指導者を恐れましたが,イエスに対しては何の恐れも感じませんでした。
5 イエスは,霊的にも身体的にもきわめてあわれむべき状態にあった,これら一般の人々に対し,非常にやさしい感情をいだかれました。「(イエスは)群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて,倒れているのをごらんになって,彼らを深くあわれまれた」。(マタイ 9:36)これらしいたげられた民をあわれまれたイエスの柔和さは,彼らの魂に大きな休みとなったことでしょう。イエスは彼らがこれまで見てきた人と何と違うではありませんか。この人と共にいると心はおのずと高まるのです。彼らのきびしい指導者と異なり,イエスは柔和で,親切で,寛大であり,愛と思いやりがありました。
6 イエスの柔和な教え方はすべての人を引きよせましたか。
6 イエスの柔和な教え方はすべての人を引きよせたわけではありません。羊のような性質をもたず,真理に対してまことの愛をいだかない人々は,イエスのやり方を愚かで非実際的であるとみなしたでしょう。よこしまな人々も応じませんでした。しかしイエスは,神の新しい事物の制度にだれかれかまわず入れようとされたわけではありません。悪を愛し,正義を憎む者をイエスは招いておられませんでした。イエスの柔和な教え方は正しい人,正義を愛する人の心にひびきました。イエスが求めたのはこうした人々です。イエスは「山羊」ではなく,「羊」を求めていました。
7 イエスがなされたように他の人をしかる場合にはどんな注意が必要ですか。
7 イエスは強い態度できびしいことばを語ったことがありますが,それはよこしまな,山羊のような人々に対してです。イエスは柔和でしたが弱くありませんでした。必要とあれば,イエスは他の人々,特に,偽善的な宗教指導者,学者,パリサイ人などを公然と非難しました。イエスは彼らに向かって,「偽善な律法学者,パリサイ人たちよ。あなたがたは,わざわいである」と何度も言いました。(マタイ 23:13-36)時おり,神のしもべは,他の人をしかる必要を感ずる場合もあるでしょう。その場合にはよほど注意しなければなりません。私たちにはイエスほどの洞察力がないからです。それで,柔和でない態度をとるのはごく例外の場合とし,その場合にはきわめて慎重に行動すべきです。この点でイエスは模範を残されましたが,イエスには今日の不完全な人間がもたない権威と識別力があったことを忘れてはなりません。
パウロは柔和に教えた
8 パウロは柔和に教えるべきことをどのように示しましたか。
8 使徒パウロはイエスの柔和な教え方が最善の方法であり,見習うべき模範であることを知っていました。それで彼は書きました。「我パウロ,自らキリストの柔和と寛容とをもて汝らにすすむ」。(コリント後 10:1,文語)テサロニケ人への第一の手紙 2章5-8節で,パウロは他の人に対する自分の態度を述べていますが,そのことばにも注意してください。「わたしたちは,あなたがたが知っているように,決してへつらいの言葉を用いたこともなく,口実を設けて,むさぼったこともない。それは,神があかしして下さる。また,わたしたちは,キリストの使徒として重んじられることができたのであるが,あなたがたからにもせよ,ほかの人々からにもせよ,人間からの栄誉を求めることはしなかった。むしろ,あなたがたの間で,ちょうど母がその子供を育てるように,やさしくふるまった。このように,あなたがたを慕わしく思っていたので,ただ神の福音ばかりではなく,自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに,あなたがたを愛したのである」。やさしく,人々を愛の心で慕っ
-