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死から生命に移るものみの塔 1965 | 3月1日
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の教えを伝道する者の言葉を聞くか,イエスの伝道し教えた事柄を読む以外にはありません。使徒ペテロは,伝道者を通してイエスに関する福音を聞いた霊的な死人を念頭において,次のことを述べました。「彼らは,やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに,申し開きをしなくてはならない。死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは,彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが,霊においては神に従って生きるようになるためである」― ペテロ前 4:5,6。
24 このような「死んだ人たち」は,どのようにして神の観点から生ける者となりますか。
24 福音を受け入れ,それに従って歩むことによって,人は神の目に霊的に生きる者となります。死に定められ,霊的に死んだ状態にあったこれらの人々は,生命を与える神の霊によってよみがえらされ,人の子イエス・キリストの足跡に従って生きる力を与えられます。
25 (イ)一つの状態から他の状態に移る人々は,何を受けることがありませんか。(ロ)ヨハネによれば,死から生命に移った証拠として,その人々はどんな資質を表わしますか。
25 死の定めから解放されたこのような人々は,イエスの先の言葉にある通り,「さばかれることがなく」,「死から命に移っている」人となります。(ヨハネ 5:24)罪ととがに死んでいた人が霊的な生命に移ることを,使徒ヨハネは次のように述べています。「兄弟たちよ。世があなたがたを憎んでも,驚くには及ばない。わたしたちは,兄弟を愛しているので,死からいのちへ移ってきたことを,知っている。愛さない者は,死のうちにとどまっている。あなたがたが知っているとおり,すべて兄弟を憎む者は人殺しであり,人殺しはすべて,そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない」。そのクリスチャン兄弟たちが,神の新しい秩序における永遠の生命にふさわしいことを何時までもあらわすように願って,ヨハネは次の言葉を加えました。「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく,行いと真実とをもって愛し合おうではないか」― ヨハネ第一 3:13-15,18。
26 このような愛は,彼らを動かして何をさせますか。従ってどなたの観点から,その人々は生きていますか。
26 このようなクリスチャンの持つ愛は,神のみ霊の実です。ヨハネの第一の手紙 5章3節にある通り,それはクリスチャンに神の戒めを守らせます。「神を愛するとは,すなわち,その戒めを守ることである。そして,その戒めはむずかしいものではない」。キリストの追随者に対する神の戒めを守る人々は,神の観点から真実に生き,いま霊的に生きている人です。
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墓から「生命によみがえ」るものみの塔 1965 | 3月1日
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墓から「生命によみがえ」る
1 キリストと共に審判者となる人々は,地上にいる間にどんな生命にはいりましたか。どのように?
過去19世紀のあいだ,天国においてみ子と共に審判者となるために神から選ばれた人々は,神の子の声を聞いてきました。そしてみ子の声が命じた事に従ったゆえに,彼らは地上にいるうちに霊的な生命にはいりました。そして人類の世が定められている死の状態から義とされました。人願の世は罪ととがと憎しみのうちに死んでいます。しかしすべて信ずる者のためにみ子が遂げた犠牲の死によって,神は彼らを死の定めから救われました。―ロマ 5:1; 8:1-4。
2 ヨハネ伝 5章26節において,「自分のうちに生命を持つ」と言われたイエスの言葉は,何を指していますか。
2 信ずる者を死から生命に移す神の働きに関連して,イエス・キリストのはたす役割は,つづいてイエスの言われた言葉に述べられています。「それは,父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に,子にもまた,自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである」。イエスがここで述べられた論議に照らしてみるとき,イエスは,ある人の言うように,天の父あるいはご自身の「内に在る生命」,あるいはアメリカ訳の訳語で「自存」と言われているものの事を語ったのではありません。(ヨハネ 5:26)イエスの論議から見ると,イエスは生命を与える力のことを語っていたのです。従って新英訳聖書(1961年)は,イエスの言葉を次のように訳しています。「父が,生命を与える力をご自分の中に持たれるように,子も父からの贈物によってそれを持つ」。ロナルド・ノックスによるローマカトリック訳も同様です。「父がご自身の中に生命の贈物を持たれるように,子もまた自分の中に生命の贈物を持つことを父から許されたのである」。1950年に発刊されたクリスチャン・ギリシャ語聖書新世界訳も同じ考えを述べています。「父はご自身のうちに生命の賜物を持たれ,同様にして子が自分の中に生命の賜物を持つことをも許された」。
3 なぜ神は,「自分のうちに生命を持つ」ことを子に許すことができ,またそのことをお許しになりましたか。
3 どのようにして,何時またなぜ,天の父は,み子イエス・キリストがご自分の中に生命を与える力を持つことを許されたのですか。「いのちの泉」であるエホバ神は,生命を与える力をみ子に持たせることができました。(詩 36:9)人類の父アダムの犯した罪のゆえに死ぬようになった人間のために,神はそのことをされました。―ロマ 5:12。
4,5 (イ)神は人類に生命を授ける道を,み子によってどのように設けられましたか。(ロ)従って詩篇 40篇6節から8節は,ヘブル書 10章5節から10節において,どなたに適用されていますか。どのように?
4 罪と死に定められた人類に永遠の生命が与えられるとすれば,それは人の生命の犠牲によらなければなりません。人類の罪をあがない,人を死から救う人間の犠牲を備えるため,天の父エホバ神はみ子を遣わし,その生命を天から地に移されました。み子は神の力により,幼な子イエスとなってユダヤのベツレヘムで奇跡的に生まれました。イエスは成長して30歳となり,エデンにいた完全な人アダムに等しい完全な人間になりました。イエスは罪のない完全な人でしたが,天の父に奉仕してその生命をささげ,人類のためにその生命を与えなければなりません。そこで30歳のイエスは,この犠牲をささげ,神の祭司として奉仕するためにご自分をささげました。霊感によってヘブル書を書いた人は10章5節から10節において詩篇 40篇6節から8節をイエスに適用し,次のように書いています。
5 「それだから,キリストがこの世にこられたとき,次のように言われた,『あなたは,いけにえやささげ物を望まれないで,わたしのために,からだを備えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。その時,わたしは言った,「神よ,わたしにつき,巻物の書物に書いてあるとおり,見よ,御旨を行うためにまいりました」』。ここで,初めに,『あなたは,いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち,律法に従ってささげられるもの)を望まれず,好まれもしなかった』とあり,次に,『見よ,わたしは御旨を行うためにまいりました』とある。すなわち,彼は,後のものを立てるために,初めのものを廃止されたのである。この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって,わたしたちはきよめられたのである」。
6 その事と一致して,イエスは何を受けられましたか。そのとき神は,イエスにある程度まで何をお与えになりましたか。
6 死に至るまでも神への特別な奉仕に身をささげたことを象徴するため,イエスはバプテスマのヨハネの手によって水のバプテスマを受けられました。(マタイ 3:13-17)イエスが水のバプテスマを受けた直後,エホバ神は,いま献身したみ子に天からの聖霊をそそいでバプテスマを施し,イエスが霊的な子であることを宣言されました。このバプテスマの時に,み父は生命を与える力をみ子がある程度まで持つことを許されました。それゆえにみ子は,38年間病気で寝たきりの人をいやし,またユダヤ人を死からよみがえらすことができたのです。イエスはその愛した友ラザロが死んで4日も墓にいたのを復活させました。しかしイエスは,死に定められた人類の一人に永遠の生命を与える力はまだ持っていませんでした。なぜならば,イエスはご自分の完全な人間のからだを,実際の死によって犠牲にすることをまだされていなかったからです。
7 (イ)イエスの死後3日目に,神はどんな力を行使されましたか。どのように?(ロ)イエスは何を携えて昇天しましたか。なぜそれを携えて行きましたか。
7 しかし死んだイエス・キリストは,死にゆく人類に永遠の生命を与えることができません。そこで,生命を与える力をご自身のうちに持たれる,父エホバ神は,3日目にみ子を死人の中からよみがえらせ,天すなわち霊界において不滅の生命をお与えになったのです。死人の中から復活して40日後に昇天したイエスは,犠牲にした人間のからだを天に携えて行ったのではなく ― それは不可能です ― 犠牲にした完全な人間の生命の価値を携えて天に上り,人類のためにそれを天の父にささげられました。父なる神はこの犠牲の価値を嘉納され,イエス・キリストを人類のための大祭司にされました。―ヘブル 9:24-26。
8 イエスはよみがえった時,どんな者となりましたか。
8 そこで使徒パウロは,死んだクリスチャンの復活と,よみがえる時のからだについて次のように書いています。「肉のからだでまかれ,霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから,霊のからだもあるわけである。聖書に『最初の人アダムは生きたものとなった』と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった」。(コリント前 15:44,45)使徒パウロはイエス・キリストを「最後のアダム」と呼び,また復活したイエスが「命を与える霊」になったことを述べています。
9 (イ)神のみ子は,いまどんな務をすることができますか。(ロ)神のみ子が「人の子」になることはなぜ必要でしたか。人類の大多数が死んでいても,そのことはイエス・キリストにとってなぜ妨げとはなりませんか。
9 このようにして父なるエホバ神は,み子イエス・キリストがご自分の中に生命を与える力を持つことを許されました。これによってみ子は,生ける者のみならず,死者を裁くことができます。天国において支配するとき,み子は死人をよみがえらせる力を持っているからです。この理由でイエス・キリストはその論議に次の言葉を加えました。「そして子は人の子であるから,子にさばきを行う権威をお与えになった」。(ヨハネ 5:27)神の天のみ子が,犠牲をささげるための「人の子」とならなかったとすれば,生命を与える力を得,生者と死者を裁く人類の審判者となる特権に与ることはなかったでしょう。御国の設立される時までには,死んでいる人のほうがはるかに多いことは言うまでもありません。しかしその事はイエス・キリストが人々を裁く妨げにはなりません。イエスは生命を与える力を持ち,人々を墓からよみがえらせてご自分の前に呼び出すことができるからです。
更に驚くべきこと
10 殺意を抱いたユダヤ人にむかい,イエスはヨハネ伝 5章28節から30節において,更にどんな驚くべきことを告げましたか。
10 イエスは,生命を与える力と裁きを行なう
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