-
メシア ― すべての国の人々にとって祝福となる方目ざめよ! 1983 | 6月22日
-
-
メシア ― すべての国の人々にとって祝福となる方
ヘブライ人の預言者イザヤは,「おおかみは子羊と共に宿り,ひょうは子やぎと共に伏し……ライオンは雄牛のようにわらを食べる」将来の時について,また人々が「傷つけることもせず,滅ぼすこともしない」時について語りました。―イザヤ 11:6-9。a
しかし,どのようにしてそうした平和な状態が得られるのでしょうか。興味深いことに,イザヤはそのような状態を,自分が「エッサイ[古代イスラエルのダビデ王の父親]の親株から出る若枝」と呼んだ将来の支配者と結び付けました。ダビデ王のこの子孫は理想的な支配者,単に外見や伝聞によって物事を裁くのではなく,義をもって裁き,公正と平和を確立する方になります。それだけではなく,この将来の支配者はユダヤ人だけの支配者になるのではなく,むしろ諸国民すべてが導きを求めることのできる方になるでしょう。まさにイザヤが予告した通り,「諸国民は彼を求める」のです。―イザヤ 11:1-10。イザヤ 9:5,6と比較してください。
イザヤの預言に続く年月に,ユダヤ国民はこの待望の支配者をメシア,すなわち油そそがれた者と呼ぶようになりましたが,メシアの実体は長い間議論の的になってきました。歴史を調べると,幾世紀にもわたって数多くの人々がメシアを名乗り,人気を得ては失っていったことが分かります。ユダヤ人の人類学者ラファエル・パタイは,「メシアであると唱える詐称者や自己欺まんに陥った夢想家を手当たり次第に信じてしまう態勢が大衆の側にできていたこと」に注目しました。そして,偽ってメシアであると唱えた者に希望を置いた人々は,案の定,苦い失意を味わう結果になりました。このことは,メシアを見分ける際には非常な注意が必要であることを明白に示しています。
それでも,メシアのもたらす祝福にあずかるには,メシアを「求める」必要のあることをイザヤは示しました。感謝すべきことに,ヘブライ語聖書そのものに加えて,過去にメシアであると唱えた人々の歴史から多くのことを学べます。それで,続く一連の記事を考慮するようお勧めいたします。
-
-
イエスのどんな点に異議が唱えられたか目ざめよ! 1983 | 6月22日
-
-
イエスのどんな点に異議が唱えられたか
西暦1世紀に,ユダヤ人は異教ローマ帝国の専制支配のもとにありました。今こそ神はご自分の民のために救出者,約束のメシアを立てられる,という予感が初めて高まりました。現代のユダヤ人の歴史家アバ・ヒレル・シルバーはこう指摘しました。「1世紀……それも特に[西暦70年のエルサレムの]滅亡前の世代には,メシアに対する感情の爆発的な高まりが見られた」。
1世紀の歴史家,フラビウス・ヨセフスもこの現象について伝え,その当時起こった一群の人々について次のように述べています。「神の霊感を受けていると見せかけた欺く者や詐称者たちは,革命的な変化を心に抱き,……神が砂ばくで救出のしるしを彼らに与えるとの信念のもとに,[群衆]を砂ばくに導き出した」。
自分がメシアであると1世紀に主張して首尾よく大勢の追随者を引き付けた人は少なくありませんが,今日なお,幾らかでも人々を引き付けているのはナザレのイエスだけです。にもかかわらず,1世紀のユダヤ国民はイエスを約束のメシアとして受け入れることはできませんでした。そこで次のような重要な疑問が起こります。イエスはメシアであると信じたユダヤ人が比較的少なかったのはなぜでしょうか。大多数の人々はどんな点でイエスに異議を唱えたのでしょうか。
ラビ・ハイマン・G・エネローによると,「ユダヤ人の考え方の中でメシアと関連づけられていた概念は……イエスによって実現されずじまいに終わった」のです。ですから,端的に言えば,イエスが広く受け入れられなかったのは,イエスが民衆の期待にこたえなかったためです。既に見た通り,預言者イザヤはメシアを永遠の平和と公正と義を確立する将来の王として描写していました。このような聖書預言はユダヤ人の期待を形造る一因となりました。メシアはイスラエルを治める王となることになっていたので,メシアが現われる時にイスラエルの統治権を握っている異邦人の政府は,その主権を放棄することになると期待できました。
ところがやがて,メシアは実際にユダヤ人たちを率いてその異邦人の政府を打倒する,と一般に信じられるようになりました。ユダヤ百科事典の言葉を借りると,「ローマ時代のユダヤ人は,異教徒のくびきを打ち砕くために,神が[メシア]を起こし,イスラエルの回復された王国を統治させるであろうと信じていた」のです。
この一般的な見方の名残が当時の文書に見られます。例えば,西暦66年にローマに反逆したユダヤ人について,ヨセフスは次のように書きました。「彼らを戦争へと駆り立てたのは,何にもまして,意味のあいまいな一つの神託であった。それは彼らの聖なる書物の中にも見いだされ,自分たちの国からその時に一人の人が起こって世界の支配者になるという主旨のものであった」。
このことはまた,メシアであると主張して民衆の支持を得た人々のタイプによっても確証されます。歴史的に見て,その時代にメシアであると唱えた人々は,ナザレのイエスを除いて,政治的な革命家たちでした。「ユダヤ人の知識の書」はこう述べています。「メシアとして認められることを主張した1世紀のこれらの人々について特異な事柄は,その各々がローマ人の支配に対するユダヤ人の反乱を結集する中心人物となったことである。イエスとは異なり……当時の他の“メシアたち”は例外なく戦闘的な扇動者また愛国者であった」。このパターンは民衆の間に広く行き渡っていた期待を反映したものにすぎませんでした。
ですから,1世紀のユダヤ人には,苦しみに遭ったり死んでいったりするメシアという後代の概念は明らかにありませんでした。事実,ユダヤ人の学者ヨセフ・クラウスナーは,「死に処せられることになるメシアという概念全体は……ユダヤ人にとって……理解しかねるものであった」と結論付けています。イエスがメシアであると信じた少数のユダヤ人たちでさえ,イエスが苦しみに遭ったり死に処せられたりすることを予期してはいませんでした。―マタイ 16:21,22。
ですから,イエスの教えに引き寄せられていたような人々も,イエスがローマ政府を打倒せず,王としてイスラエルを支配することもなく,それどころかそのローマ政府によって死に処せられたという事実に心を乱されていたに違いありません。クラウスナーは,「十字架に掛けられたイエスは,存命中のイエスに従ってきた人々の大半にとって失望となった」と説明しています。初期のキリスト教の宣教者タルソスのパウロが,「杭につけられたキリスト……これは,ユダヤ人にとってはつまずきのもとで(す)」と述べたのももっともなことです。―コリント第一 1:23。
ところが,イエスの生涯とユダヤ人の期待との間にはっきりとした違いがあったにもかかわらず,当時生きていたユダヤ人のうち幾千人もの人々がイエスはメシアであると信じるようになったのです。それにはどんな理由があったのでしょうか。
[5ページの図版]
ユダヤ人の期待していたメシア: こちら? それともこちら?
-
-
メシアは苦しみに遭い,死ぬことになっていたのか目ざめよ! 1983 | 6月22日
-
-
メシアは苦しみに遭い,死ぬことになっていたのか
既に見てきたように,1世紀のユダヤ人が期待していた指導者とは,ローマ政府を打倒し,イスラエルにユダヤ人の王国を設立して神からの平和と祝福の時代をもたらす人でした。ナザレのイエスは結局そうしたことを成し遂げなかったので,ユダヤ国民はイエスをメシアとして受け入れようとしませんでした。
しかし,イエスの教えに引き付けられたユダヤ人の中には,イエスの死後もイエスがメシアであったと信じ続けた人が少なくありませんでした。
-