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変わらない神の正義の標準ものみの塔 1968 | 5月1日
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た正しい行ないの標準を尊重しないで,自分の好む生活をする権利があるという主張は,正しくありません。その事実を認めるのは,賢明なことです。創造者の定めを離れて行動し,人間の導きとして神の定められた道徳の標準を無視する人や国は,災いをこうむります。
30 昔の人に対する神のご処置に関して,わたしたちは何を確信できますか。
30 正しい行ないに関する神の標準をあるいは尊重し,あるいは軽んじた昔の人々が神の御手からそれぞれ何を受けたかたは,今日のわたしたちに重要な意味を持っています。なぜですか。イエス・キリストの使徒パウロは次のように答えています。「これまでに書かれた事がらは,すべてわたしたちの教のために書かれたのであって,それは聖書の与える忍耐と慰めとによって,望みをいだかせるためである」。(ローマ 15:4)一方わたしたちは,人間の行ないに対する神の標準が不変のものであることを確信できます。エホバについて次のことが正しく述べられているからです。「光の父……には,変化とか回転の影とかいうものはない」。(ヤコブ 1:17)確かにエホバは変わることのない,永遠の神であられます。
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クリスチャンの道徳ものみの塔 1968 | 5月1日
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クリスチャンの道徳
「肉の思いは死であるが,霊の思いはいのちと平安とである」― ローマ 8:6。
1 最愛の御子を地に遣わされた時,エホバはどんな大きな変化をもたらされましたか。それはなぜですか。
肉によるアブラハムの子孫は,彼らの行ないを律するために神がたてられた正義の標準にもとることがあまりにも多かったため,エホバに捨てられ,エホバの所有される特別な器ではなくなりました。そこでエホバをほめる新しい国民を形成する人々が集められはじめたのです。神は,モーセのような単なる人間のしもべによって崇拝者の新しい国民を集められたのではありません。この度は御子を「罪の肉の様で」天からつかわされたのです。(ローマ 8:3)神はイエスによって,人間を罪と死の力からあがなう手だてを備えられ,また人間の従うべき完全な手本を与えられました。―ペテロ第一 2:21。
2 イエスが「罪の肉の様で」来られたことは何を意味しますか。それはなぜ神の目的にかなったことでしたか。
2 神の御子が「罪の肉の様で」来られたことは,ローマ・カトリックのトーマス・アクイナスが確言しているように「人間と無知と不完全さ,および神の全知と完全さ」がキリスト・イエスにおいて合致したという意味ではありません。イエスは神人ではありませんでした。「キリストは……おのれをむなしうして僕のかたちをとり,人間の姿になられた」のです。しかし人間としてイエスは「悪も汚れもなく,罪人とは区別され」ていました。(ピリピ 2:7。ヘブル 7:26)完全な人間であられたイエスは,アダムとエバに課せられたのと同じ従順と忠実の試みにあうことのできる人でした。イエスのとられる道は,エホバの義の標準に対するイエスの態度を示すものとなります。
3 イエスの現われる前に,人類はどんな種類の支配の下におかれていましたか。
3 イエスが現われた時,人類はすでに長い間,罪の可酷な支配の下におかれていした。クリスチャンの使徒パウロのことばで言えば,「死ぬべきからだを罪の支配にゆだね」て
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