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弟子になった人々のバプテスマものみの塔 1970 | 8月1日
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「あなたがたの以前の生き方に基づき,人を欺く欲望にしたがって腐敗している古い人格を脱ぎすて,あなたがたの心に働く力によって新たにされ,真の義と忠節にそいつつ,神の御心にしたがって造られた新しい人格を着け」なさい。(エペソ 4:22-24,新)クリスチャンはキリスト・イエスの追随者ですから,エホバ神のしもべであり,それゆえにエホバ神に仕え,自分自身をささげ,献身するのです。―使行 11:26。
21 今日,エホバ神と密接な関係を持っている人々はだれですか,
21 献身する弟子がエホバ神と密接な関係を持つようになることを,イエスの命令は強調しています。今日この地上には,献身の段階を経て,献身を水の浸礼つまりバプテスマで表わした忠実なエホバのクリスチャン証人が幾十万人もおり,エホバ神に忠実に仕え,そのみことばのために奉仕して,エホバに賛美を帰し,仲間の人間には祝福をもたらしています。
22 従順な弟子はなぜバプテスマを受けねばなりませんか。
22 彼らは献身を水のバプテスマで表わします。浸礼が問題となるのはこの点です。イエスはこう言われたからです。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,……彼らにバプテスマを施し,教えなさい」。(マタイ 28:19,20,新)聖書の要求に従いたいと願う弟子は,バプテスマを受けねばなりません。バプテスマは,神の御心を行なう決定をしたことを,衆人の前で公にする正式な儀式です。献身した人はそれを証人たちの前で行なわねばなりません。個人が献身したことを明らかにする,見える証拠がなければならないのは必然です。なぜなら,献身はその人の生活における変化あるいは転機をしるしづけるものであり,仲間のクリスチャンにはそれを知る権利があり,その結果,当人に今後なにを期待すべきかを知らされるのです。
23 (イ)エホバの証人はなぜこの儀礼にふさわしい象徴となることを行ないますか。それはなんですか。(ロ)イエスのバプテスマは何を表わすものでしたか。(ハ)西暦36年に至るまでの,イエスに従ったユダヤ人の弟子たちの場合についてはどうですか。(ニ)それ以後はどうですか。
23 献身の象徴として,献身をふさわしく表わす何ものかを捜す必要はありません。聖書は浸礼をそれに相当するものとして指定しており,また,それにまさる適正かつ,ふさわしい象徴はありえないからです。クリスチャンはキリスト・イエスの追随者です。「汝らはこれがために召されたり,キリストも汝らのために苦難をうけ,汝らをその足跡にしたがはしめんとて模範をのこし給へるなり」。(ペテロ前 2:21)この指導者キリストは,献身したユダヤ国民の一員として,ご自分をささげることを表わすために,バプテスマのヨハネから浸礼を受けました。「ここにイエス,ヨハネにバプテスマを受けんとて,ガリラヤよりヨルダンに来り給ふ。……イエス答へて言ひたまふ『今は許せ,われらかく正しき事をことごとくしとぐるは,当然なり』イエス,バプテスマを受けて直ちに水より上り給ひしとき,視よ……また天より声あり,いはく『これは我が愛しむ子,わが悦ぶ者なり』」。(マタイ 3:13-17。詩 40:7,8。ヘブル 10:7)イエスがご自分をささげたこと,またその象徴を,天の父であるエホバが是認されたのはこの記述から明らかです。イエスの示された模範にならって,初期クリスチャン会衆の成員はバプテスマを受けました。(使行 10:48; 8:12,36,38,39)ユダヤ国民の場合,西暦36年までの彼らの浸礼はやはり,献身した国民として自分たちをささげることを象徴するものでした。それ以降のクリスチャンのバプテスマは,その祖先がユダヤ人か否かにかかわらず,献身を象徴しました。エホバが律法契約を通してユダヤ人と持たれた関係は,西暦33年,イエスの死後,終わりを告げていましたし,イスラエルに対する特別な恩恵の期間は,非ユダヤ人にクリスチャンの福音が伝えられる直前に満了していたからです。したがって,そのときからかなりの時代を経た今日,生来のユダヤ人であると否とを問わず,すべての人種また血筋の人々はエホバの前に同じ立場を占めています。つまり個人的に献身し,そのうえで献身を水の浸礼によって表わす義務を履行する機会が,各人に与えられているのです。
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エホバに対するあなたの良心ものみの塔 1970 | 8月1日
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エホバに対するあなたの良心
「肉の汚れを除くものではなく,神に対して良心を求めること」― ペテロ前 3:21,新。
1 (イ)キリストの弟子はどんな肝要な事柄を知っていますか。(ロ)彼らはどんな決定を下しましたか。(ハ)どうしてバプテスマは従順の第1段階と言えますか。
弟子は教えられた者ですから,イエスの命じた事柄を知っています。したがって彼らは,エホバのクリスチャン組織の道徳規準を尊重する義務,また良いたより,つまりエホバの御国の音信を携える宣教に関し聖書に述べられている責任や要求についても知っています。献身の決定および献身の行為は,献身を表わす水の浸礼に常に先行します。ですから,バプテスマは資格のある人が取る,従順の最初の段階です。献身の象徴を通して,弟子は神との密接な良い関係を求める願いを表明するのです。
2,3 バプテスマにおいて,弟子はどんなことを神に求めるのですか。
2 『それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父の名によってバプテスマを施しなさい』。(マタイ 28:19,新)この命令は,正しくバプテスマを施された弟子が導きいれられる,エホバとの密接な関係を示しています。すでに調べたように,水のバプテスマは,「肉の汚れを除く」ことを表わすものではありません。それは,ヨハネ第一の書 1章7節と黙示録 1章5節に述べられている,イエスの血によってわたしたちが罪から洗われたことを表わすものではありません。そうではなく,水のバプテスマは「神に対して良心を求めること」を表現するものです。「むかしノアの箱舟が造られていた間,神が寛容をもって待っておられた…その箱舟に乗り込み,水を経て救われたのは,わずかに八名だけであった。〔この水に相当するもの,つまりバプテスマ(肉の汚れを除くものではなく,神に対して良心を求めること)がまた,イエス・キリストの復活
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