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  • 「互いを迎え入れなさい」
    ものみの塔 1981 | 9月15日
    • よう彼らすべてに勧めました。「キリストがわたしたちを迎え入れてくださったように」そうすることをパウロは述べているのですから,この点に関して従うべき完全な模範があったことになります。イエスは地上におられた時,「わたしのもとに来る者を,わたしは決して追いやったりはしません」と言われたのではありませんか。(ヨハネ 6:37)その通りです。イエスは完全な人間であられたので,わたしたちの不完全さと罪深さゆえにわたしたちを近付けずにおくこともおできになりましたがそうはなさいませんでした。なぜでしょうか。パウロは,「神の栄光となることを目ざしつつ」という言葉を添え,その理由を説明しています。キリストはご自分に信仰を持つあらゆる人々を迎え入れ,神に栄光をもたらされました。それは神の寛大さと,み子イエス・キリストの贖いの犠牲を通して全人類が救われるようにとの神の願いを際立たせることだったからです。そのことは,イエスご自身の次の言葉にもよく表わされています。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされ(ました)」― ヨハネ 3:16。

      11 新しく来た人を温かく歓迎することは,なぜ神の栄光をたたえることにつながりますか。そして復活したイエスは,ガリラヤでご自分の弟子たちに何を行なうように告げられましたか。

      11 同様に,わたしたちが真理を求める人すべてを,人種,皮膚の色,以前に属していた宗教,社会的な立場,世俗的な教育などにかかわりなく会衆の中に迎え入れるなら,神の栄光をたたえることになります。このようにして迎え入れられた人々は,そのことによってエホバ神に対する正しい見方を持つようになります。ご自分が霊的な頭となっておられる会衆に真の信者すべてを喜んで迎え入れるということを示すものとして,復活したイエスは,「諸国民のガリラヤ」で,ご自分の弟子たちに,行なうべき事を次のように告げられました。「行って,すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい」。―イザヤ 9:1,新。マタイ 28:16-20。

      12 (イ)他の人々を迎え入れる際に神の栄光となることを目ざすなら,わたしたちにとってどんな益がありますか。(ロ)わたしたちが家から家に行くなら,流血の罪を神に負わせることは全くできなくなります。なぜですか。

      12 わたしたちが来る人すべてを差別することなく迎え入れる際,「神の栄光となることを目ざしつつ」そうしていることを思い起こすのは大きな励みとなります。迎え入れられる人々は,それによって心温まる神の寛大さを認識し,自分から神の栄光をたたえるようになります。集会場から外へ出て,会う人ごとに神の王国の良いたよりを告げ知らせるべく家から家へと行くとき,わたしたちは「神の栄光となることを目ざしつつ,キリストがわたしたちを迎え入れてくださったように,……互いを迎え入れ(ている)」ことを表わしているのです。わたしたちの訪問する人が王国の音信に感謝するか否かにかかわりなく,こうした歩み方は結果として,わたしたちが証人となっている神の栄光をたたえることになります。この王国の音信を受け入れる人々は,やがては,自分たちの所に王国の使者を遣わしてくださった神の栄光をたたえる業に共に加わるようになります。神から与えられた救いの音信を受け入れない人々は,エホバ神が自分たちのことを考えておられたこと,自分たちの所に忠実な証人たちを遣わされたこと,それゆえ自分たちには,神を責めるべき理由が全くないことを将来のいつか悟るようになるでしょう。(エゼキエル 33:33)こうして神は,彼らの血に関して潔白の状態を保たれるのです。

      大工から「奉仕者」へ

      13 神が,当時の世界の他の国民と比べて人数の少ない国民に最初の機会を与えたことで神を不公平だとして責めることができないのはなぜですか。

      13 ところで,神の備えの益にあずかる機会は,最初だれに開かれたでしょうか。それは聖書をわたしたちに伝えてくれた国民でした。彼らは生来のユダヤ人です。そうすると神は不公平な態度を示しておられたのではないでしょうか。とりわけ1,900年前でさえ非ユダヤ人の方が割礼を受けたユダヤ人より多かったことを考えてみるとそうした疑問が生じます。表面的にはそう見えるかもしれません。しかし神は手始めにだれかを選ばなければなりませんでした。神が最初にお選びになったのは割礼を受けたユダヤ人でした。神は彼らの先祖を通して特別な約束を交わしておられました。しかし神がこうした道を選ばれた結果及ぶ益は,厳密に言って生来のユダヤ人すなわちヘブライ人だけに限られているわけではありません。ではそのことについて不平を述べる正当な根拠があるでしょうか。全くありません!

      14 そのため,天からの神のみ子はどんな種族の人間になる必要がありましたか。そして自分と同じ種族の人々から,み子はどのような扱いを受けましたか。

      14 神がそれ相当のふさわしい人々と,その人々の生来の子孫つまりユダヤ人に関して破れることのない約束を交わされたということを決して忘れてはなりません。したがって,神のみ子は天のみ父のこれらの約束を果たすために天から下って来なければなりませんでした。そのためみ子は,多くの国々から憎まれていた人種,神が国家的な契約を結ばれた民の一員として生まれる必要がありました。それでも,ユダヤ人としてさえ,神のみ子は仲間のユダヤ人の大多数からは受け入れられませんでした。その点について,神のみ子の地上での生涯に関して書き記したある人は,「彼は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった」と的確に記しました。―ヨハネ 1:11。

      15 イエスはナザレでどんな種類の仕事をしましたか。そうすることにより,イエスは「割礼を受けた者たちの奉仕者」として仕えていたのですか。

      15 それで,生来のユダヤ人だけで構成されていたわけではないローマの会衆のクリスチャンに対し,ユダヤ人の使徒パウロはこのように書きました。「わたしは言いますが,キリストは実に,神の真実さのために,割礼を受けた者たちの奉仕者となり,こうして,神が彼らの父祖になさった約束の真実さを証拠だて,諸国民がそのあわれみのゆえに神の栄光をたたえるようにされたからです」。(ローマ 15:8,9前半)発育期にあったイエスはガリラヤのナザレで,養父つまり割礼を受けたユダヤ人ヨセフの家で大工の仕事を学ばれました。ユダの部族に生まれたので,イエスは祭司の家系,つまり神殿のレビ人の部族に属していたわけではありません。血筋から言うと,イエスはエルサレムの神殿の僕たちの立場を得ることはできませんでした。しかし神のみ子イエスは,単に大工として仕え,死ぬために地上に来られたのでしょうか。そうではありません。ですから,イエスが「割礼を受けた者たちの奉仕者」となられることには,養父ヨセフと同じ大工になること以上の意味があります。

      16 大工としてナザレの町の人々に仕える以上のことをするため,イエスは何を行ない始められましたか。

      16 もしイエスがその生涯中に,ナザレでの大工の仕事以上のことを行なわれなかったとしたら,予告されていた奉仕の務めを実践できなかったに違いありません。そのため,天のみ父であられるエホバ神は,イエスがナザレの町の人だけではなくその国民全体の「割礼を受けた者たちの奉仕者」となるよう,新しい事をイエスに行なわせられました。そういうわけで30歳の時を最後に,イエスは大工の職を離れました。

      17 バプテスマを受けて油そそがれたあとのイエスの業と,神殿のユダヤ人大祭司の奉仕とを比べてみるとどんな事が分かりますか。

      17 イエスは,レビ人であるバプテスマを施す人ヨハネから水のバプテスマを受け,神の聖霊によってバプテスマを受けたあと,どんな種類の業を開始されましたか。それは,エルサレムにおける真の神の「奉仕者」であった神殿の祭司やレビ人の仕事よりも劣るものでしたか。事実に通じている人であれば,イエスは単なる宗教的職業ではなく公の奉仕,つまり「奉仕の務め」を始められたことを認めるでしょう。聖書の英国改正訳は適切にも,そのことを次のように表現しています。「キリストは,神の真理のため,割礼の奉仕者とされた。それは父祖たちに与えられた約束を確証するためである」。(ローマ 15:8。ジェームズ王欽定訳もご覧ください。)間違いなくイエスは,国家的な奉仕を行なっておられたのであり,人間ではなく宇宙の主権者であられる神の任命によって,聖職者といえる職務に携わっておられたのです。イエスが地上での仕事を替えたあとに行なわれた事は,エルサレムのユダヤ人大祭司の宗教的な奉仕よりもはるかに重要なものでした。

      18 地上のどの国からも「奉仕者」としては認められなかったとはいえ,イエスが「奉仕者」として仕えたのは「割礼を受けた者たち」であったと言えるのはなぜですか。

      18 イエス・キリストはエルサレムの神殿で何らかの宗教的な奉仕を行なって,そこの祭司やレビ人たちと競い合ったりすることはできませんでしたが,同じように,ローマやアテネなどにあった非ユダヤ人の国民の神殿で宗教的な奉仕を行なうことももちろんできませんでした。またそうしようともされませんでした。それでもイエス・キリストは,神の真実さのために「割礼を受けた者たちの奉仕者」となる務めを負っておられました。なぜそう言えますか。「神が彼らの父祖[異邦人ではなくヘブライ人]になさった約束の真実さを証拠だて」なければならなかったからです。例えば,彼らの「父祖」であるアブラハムは3人の女性によって多くの息子たちをもうけましたが,神はアブラハムとの約束を受け継ぐ人として,アブラハムの最初の妻サラから生まれたひとり息子,すなわちイサクを選ばれました。次にイサクは双子の息子をもうけましたが,神はそのうち年下のヤコブ,のちにイスラエルとなった者を選び,地上のすべての国の人々が祝福を受ける基となる「胤」に関するアブラハムの約束を受け継がせました。やがてヤコブの12人の息子たちはイスラエルの12部族を生み出し,神はモーセを仲介者として,一国民としての彼らと国家的な契約を結ばれました。

      19 イエスがレビ族の一員として生まれなかったのはなぜですか。イエスが地上に来ることをだれが,またどこで迎え入れましたか。

      19 その後,イスラエル国民がエホバの目に見える代表者として人間の王を持つことを選んでから,神はユダ族のダビデ王に対し王に関する約束をなさいました。そのため,約束のメシアつまりキリストはダビデの家系に生まれなければなりません。そういうわけで,イエスはダビデの故郷ベツレヘムで,ユダヤ人の処女マリアから,ダビデの後継者として生まれたのです。天のみ使いたちはイエスを地上に迎え入れました。こうして天からの神のみ子はどうしてもユダヤ人として生まれなければならなくなりました。み父である神の破れることのない約束は確証される,つまりその正しさが証明されなければなりませんでした。神はご自身が偽り者として証明されることをお許しになりませんでした。

      20 イエスは「割礼を受けた者たち」の一人となられましたが,非ユダヤ人の国民にどんな事が起こることになっていましたか。なぜですか。

      20 イエスは心から喜んで天のみ父と協力されました。こうしてイエスは「実に……割礼を受けた者たちの奉仕者とな(られ)」ました。彼らと同じように割礼を施されたのです。イエスが死んで復活されたあとの3年半の期間は,割礼を受けたユダヤ人に特別な恵みが示されました。それでも,無割礼の異邦人,つまり非ユダヤ人がエホバの神権組織に迎え入れられる時が来ようとしていました。これは,人間に対するエホバの破れることのない,約束の確かさを裏付けるものとなるはずでした。

  • 「諸国民よ,彼の民とともに喜べ」
    ものみの塔 1981 | 9月15日
    • 「諸国民よ,彼の民とともに喜べ」

      1 今なおモーセの律法を守っているユダヤ人たちはなぜ,諸国民が,「彼の民とともに喜べ」,と求められているその「彼の民」ではないのですか。

      諸国民すべてが,「彼の民とともに喜べ」,と求められているその「彼の民」とは一体だれでしょうか。(ローマ 15:10)それはユダヤ人の民ではありませんでした。今なおモーセの律法を守ろうとする生来のユダヤ人は,西暦70年以来1,900年にわたって憎まれ,迫害されてきまし

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