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飢えた世界にどんなパンを与えるかものみの塔 1971 | 10月15日
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金持ちによって構成される「少数の白人……西側の少数者」が真のクリスチャン会衆であると考えているからではありませんか。キリスト教世界の教会とその会員を,真のクリスチャン,と信じているところにまちがいがあるのではないでしょうか。神学者たちの中には,真のキリスト教からの背教があったことを認める人もいますが,しかし彼らはその知識から十分に結論を引き出していないようです。
そのひとりメソジスト派のコリン・モーリスは,そのような背教が,過去の歴史の中で種々の「地域社会がイエスの名においてバプテスマを受け[得た]」ときに生じたかもしれないと考えています。それから教会は,「言行の完全に一致した個人的証人の少数者としてとどまる代わりに,強力な制度」になりました。しかし彼はこの一連の思想の帰結,すなわちキリスト教世界の諸教会とクリスチャン会衆は同一でないということを認めようとしません。
したがって,キリスト教世界の教会を再生させ,目ざめさせようとするそれら神学者たちの試みは,まちがった基礎にもとづいています。彼らが活動的にしようとしている多数の不活発な平信徒は,真のクリスチャンではありません。ですからその仕事は,単に彼らを活動的にさせるというだけのものではなく,彼らを真のクリスチャンにするためのものです。
パンをもってするのではない
以前,キリスト教世界の教会は政治的な手段によって全国民を「クリスチャン」にしました。しかし彼らは個々の人を真のクリスチャンにしませんでした。というのは,聖書の真の知識と,キリスト教の真の意味に対する純粋の認識がたいていの場合欠けているからです。その人たちは名前だけのクリスチャンになりました。今日多くの人々は,聖書の教えを支持する立場を自分から取ったのではなく,幼児洗礼を施されたために教会員になっています。彼らは名前だけのクリスチャンです。かと思うと中には,社会的に有利な地歩がそれと関係しているために教会員になった人たちがいます。彼らもまた名前だけのクリスチャンです。
キリスト教世界の宣教師たちが,医療援助や食物の配給,農業指導などに努力したとき,改宗者たちは多くの場合「米クリスチャン」になりました。つまり米または他の援助を得るために,キリスト教に関心のあるふうをよそおう人々です。有名な宗教週刊誌クリスチャン・センチュリーは,1960年につぎのように書いています。「カトリック人口の皆無であった場所[台湾省]に建てられた新しいカトリック教会は,放出物資の貯蔵と配給の準備をととのえていた。……司祭たちはごく安く手にはいるアメリカの余剰物資を,改宗者をひき寄せるもの,そしてひき寄せられた者をとどまらせるものとして用いた」。
同宗教雑誌は,1960年2月20日号に当時中国大陸にはもう「米クリスチャン」はいないと書いていました。この情報から判断すると,いま人々に米を与えているのは毛沢東ですから,彼らはいま毛沢東を信じているという結論になります。「米クリスチャン」は真のクリスチャンではありません。これにしても,これに類似した方法にしても,真のクリスチャンを生み出すことはありません。
イエスの模範
クリスチャンは,イエスの模範に従うことによってのみ,他の人たちが真のクリスチャンになるのを助けることができます。イエスは何よりもまず伝道者であり,教師でした。「我はこれがために生れ,これがために世にきたれり,即ち真理につきてあかしせんためなり」とイエスは言われました。(ヨハネ 18:37)イエスの奇跡,病気をいやしたこと,空腹な者たちに食物を与えたこと,死者を復活させたことなどは,イエスがメシアであり,神よりつかわされた者であり,人々がそのことばを聞かねばならないかたであることを示すしるしでした。同時に奇跡は,イエスが神の王国の王として,予定の時に,人類の永遠の福祉のためになにを行なわれるかを示すものでした。
しかし,あがないとしてその命をささげられたことを別にすれば,1,900年昔のイエスの宣教の最重要な部分は,イエスが言われたこと,イエスが語られたことばでした。イエスは神から聞いた命を与えることばを語られました。それは,もし注意を払うならば,人を一食や二食のパンにありつかせるだけのものではなく,最大の目標 ― 永遠の命に導くことばでした。イエスは,前日奇跡によってパンを与えた者たちに向かって「朽つる糧のためならで永遠の生命にまで至る糧のために働け」と言われました。―ヨハネ 6:27。
イエスは弟子たちをつかわされたとき,物質のパンではなく,霊のかて,すなわち命のことばをもたせてつかわされました。「わが汝らに語りし言は,霊なり生命なり」とイエスは言われました。(ヨハネ 6:63)彼らはイエスの模範に従ったので,真のクリスチャン会衆として知られるようになりました。イエスの真の弟子の会衆は依然として存在しており,依然として「個人的な証人の少数者」です。人類の世界についていえば,会衆の任務,その任命は,「福音は先もろもろの国人に宣伝へらるべし」であり,「もろもろの国人を弟子となし………わが汝らに命ぜしすべての事を守るべきを教へよ」です。―マルコ 13:10。マタイ 28:19,20。
人々を真正のクリスチャンにすることができるのも,彼らを真のキリスト教宣教に活発にならせることができるのも,この会衆だけです。この会衆に協力してはじめて各個人は,神のご意志に調和したそして世の貧困者たちに永遠の益となる愛の行為を正しく行なうことができます。ひとりびとりにとって最も重要なことは真のクリスチャン会衆を見つけ出し,真のキリスト教の側に自ら立場を取り,その会衆と交わることです。
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真の教会はどのように人々を援助するかものみの塔 1971 | 10月15日
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真の教会はどのように人々を援助するか
真のキリスト教は,「個人的証人の少数者」すなわちクリスチャン会衆の使命がなにかを忘れなかった真のクリスチャン会衆の中で,生きのびました。そのために真のクリスチャン会衆は,人々を「米クリスチャン」または名前だけのクリスチャンではなく,キリストの真の弟子にすることができます。
真のクリスチャン会衆は「金持ちの教会」ではありません。その成員はひとり残らず,イエスや使徒たちがしたように,直接人々の家に行って個人的に奉仕する証人ですから,彼らはおとずれを人々の心に,飢えと貧困に苦しむ人々にさえ,伝えることができます。
クリスチャン証人たちはふつう,彼らが奉仕する人たちと同様の境遇の中で生活しています。それでも彼らはその非常に限られた資力を,ふつうの人々に神のことばを伝えるために用います。「飢えた人間に説教はできない。彼が欲しいのはパンであってことばではない」とよく言われます。しかしそれはだれにでも当てはまるもの
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