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良いたよりに従うことは命の道ものみの塔 1978 | 1月15日
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に目をとめたまわば たれかよく立つことをえんや』と述べましたが,クリスチャンも同じくそのことを認めています。(詩 130:3)自分たちが罪人で,時々間違いをすることを知っています。使徒パウロ自身が言った通りです。
「そこでわたしは,自分の場合にこの法則を見いだします。自分では正しい事をしたいと願うのに,悪が自分にあるということです。わたしは,内なる人にしたがえば神の律法をほんとうに喜んでいますが,自分の肢体の中では別の律法がわたしの思いの律法と戦い,わたしをとりこにして肢体の中にある罪の律法へと引いて行くのを見ます。わたしはなんと惨めな人間でしょう。こうして死につつある体からだれがわたしを救い出してくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通してただ神に感謝すべきです! こうして,わたし自身は,思いでは神の律法の奴隷ですが,肉においては罪の律法の奴隷なのです」― ローマ 7:21-25。
12,13 (イ)クリスチャンはどのようにして,『義に過ぎ』『賢きに過ぎ』ることのないようにしますか。(ロ)クリスチャン証人は,罪に負けたときどうしますか。(ハ)エホバの証人はなぜ「良いたより」を他の人のところへ携えてゆきますか。
12 したがって,真に「この道」に従っている人は,賢そうな,あるいは独善的な態度を装って他の人の誤りやまずい判断などを捜し出すようなことをしないという意味で,『義に過ぎない』ように,または『賢きに過ぎない』ように努めます。(伝道 7:16)しかし,義を行なうことを心から自分の目標とします。心を弱くして悪い欲望に負けたり,神に対する忠誠を捨てさせて重大な悪行を強制的にさせようとする圧力に屈したりしません。それでも時には不完全ゆえに過ちや罪を犯すことがあるかもしれません。もし本当に罪を犯したなら,そのことを認めて悔い改め,イエスの名によってエホバに祈り,許しを求めます。(使徒 10:43)キリストの完全な犠牲が罪の許しの基礎であることを信じているからです。(テモテ第一 2:5,6)そして以後その罪を繰り返さないようにあらゆる努力を払います。罪の道を歩めば神の恵みを失う結果になることをその人は知っています。また自分が見いだした「良いたより」を,愛から他の人々に伝えます。「良いたより」の熱心な宣明者として,人々が信仰の必要と,聖書の原則に一致した生活をすることの重要さを悟るよう助けることに努めます。そしてイエス・キリスト,また聖書中にその信仰の生活を記述されている人々を模範とあおぎます。―ヘブライ 11:1–12:3。
13 「良いたより」に従うということには,あらゆる事柄におけるクリスチャンの行動が関係しています。それでこの機会にわたしたちは,クリスチャンになる人すべてのために神がお定めになった基礎的規準を幾つか取り上げたいと思います。
クリスチャンの生活の中で真実さが演ずる役割
14,15 (イ)エホバを崇拝するにはなぜ『真理をもって』しなければなりませんか。(ロ)家族にとって「真実」は何を意味しますか。
14 エホバ神が人を造り,また人が必要とするものをご存じである以上,人は自分自身の福祉のために,神が聖書の中で示しておられる道徳規準に従って生活することがぜひとも必要です。まず,エホバは「真理の神」です。(詩 31:5,新)エホバを崇拝するには,「霊と真理」をもってしなければなりません。(ヨハネ 4:24)真実さは,神との平和を保つためのみならず,他の人々と仲良く暮らすためにも必要です。使徒パウロはクリスチャンに次のように助言しています。「それゆえ,あなたがたは偽りを捨て去ったのですから,おのおの隣人に対して真実を語りなさい」― エフェソス 4:25。
15 家族の中での「真実」が何を意味するかを考えてみましょう。もしいつも「真実」が語られるなら,家族の成員の間には信頼があります。夫と妻の間には敬意と親密さがあります。『意思の交流のとぎれ』などありません。子供たちは自分の生活の中で行なわれる事柄を親に知らせたがります。問題を解決する際によく考えてもらえるし,導きも得られることを確信しているからです。子供たちはまた,自分の親の言うこととすることとが一致しているのを知っています。どんな状況のときでも親の助けを当てにすることができるのです。
16 ヨハネ 14章6節のイエスの言葉は,クリスチャンが真理を語る必要をどのように強調していますか。
16 「わたしは道であり,真理であり,命です」とイエス・キリストは言われました。(ヨハネ 14:6)クリスチャンにとって「道」とは,イエスがされたと同じように考え,感じそして行動することです。それには,イエスが神のお定めになった事柄をすべて成就されたように,あらゆる面で「真理」に従うことが要求されます。次の記事では,その「道」が要求する他の事柄を幾つか検討してみましょう。
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命の道 ― 狭くても自由な道ものみの塔 1978 | 1月15日
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命の道 ― 狭くても自由な道
1 マタイ 7章14節では,「狭い」という語にどんな意味がありますか。
イエス・キリストは言われました。『命に至る門は狭く,その道はせばめられている』。(マタイ 7:14)イエスの言葉を伝えるにあたってマタイが用いたギリシャ語は,「マタイ 7章13,14節では,とこしえの命に入ることを可能にする門としてひゆ的に用いられています。その門が狭いのは,それが自然の傾向に逆行するものであるからです」― W・E・バイン編「新約聖書用語解説辞典」。
2 「この道」の『狭さ』は,真の自由を制限するものでないことについて述べなさい。
2 したがって「この道」の『狭さ』は,狭量であるとか,過度に謹厳な道であるということではありません。僧院におけるように,世を離れて暮らすことでもありません。それは,放縦でない,目標がある,動揺しない,という意味での『狭さ』です。その道は,人に有害な事柄をさせないよう禁止するので「狭い」のです。真の自由というものは,人がしたい放題のことをするための許可証ではありません。なぜなら,そういう行動は他の人々の自由を侵害するからです。また紛争や憎しみ,はては殺人行為まで引き起こすに至り,自由はすぐになくなってしまうでしょう。例えば,この世の政府の法律が全く守られないとしたら,その結果は無政府状態となり,だれも真の自由と幸福を持たないひどい事態になるでしょう。
3 クリスチャンの歩む道が「努力」の道であるのはなぜですか。
3 クリスチャンにも,ほかの人たちと同じように,不完全な点や弱点がたくさんあります。それらを改めようとするときに,クリスチャンは肉の不完全さゆえに惨めな思いをします。というのはその不完全さと闘わねばならないからです。(ローマ 7:24)ルカ 13章24節でイエスは,「狭い戸口を通ってはいる
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