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  • キリスト教世界はどのようにプラトンの思想を取り入れているか
    目ざめよ! 1976 | 12月8日
    • です。聖書はそうした結論を支持していますか。

      イエスと神 ―“共に永遠の存在”?

      キリスト教世界の僧職者は,イエスに始まりがないことを証明しようとして,しばしば聖句を引用します。一例として,彼らはヨハネ 8章57節と58節を用います。そこにはこう書いてあります。「そこでユダヤ人たちはイエスに言った,『あなたはまだ五十にもならないのに,アブラハムを見たのか』。イエスは彼らに言われた,『よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生まれる前からわたしは,いるのである』」。

      この聖句そのものは,イエスがアブラハムの生まれるどれほど前から存在しているかについては,何も述べていません。しかし,三位一体論者は,この聖句はイエスが永遠に存在していることを意味すると論じます。その典型的な例は,一注釈者の述べた次の言葉です。「二つの動詞の間の相違を識別することは重要である。アブラハムの生涯は時間の制限を受けるものであったので,時間的な始まりがあった。それで,アブラハムは存在するようになった,つまり生まれた[ギリシャ語,ジュネスタイ]のである。一方,イエスの生命は永遠から永遠までのものである。ゆえに,時間的制約を受けない絶対的な存在の常套語句である,わたしはいる[ギリシャ語,エゴ・エイミ]が使われている」。

      そのような論議は実際にはどこに源を有していますか。ヘイスティングの宗教倫理百科事典は次のように説明しています。「キリスト教は,時間と永遠性,および生成と存在の区別に関する深遠かつ実り豊かな概念をギリシャ哲学から取り入れ,それをある程度独自に発展させた。この概念は,西暦前500年ごろパルメニデスによって初めて明確にされ……,西暦前390年ごろ,プラトンによって,特にその著作『ファイドン』および『饗宴』の中に集大成された」。

      しかし聖書は,イエスが神と等しく永遠の存在であるなどとは一度も述べていません。イエスが人間になる以前に天で存在していた期間は明記されてはいませんが,聖書はイエスの存在には始まりがあったことを示しています。イエスは,「見えない神のかたちであって,すべての造られたものに先だって生まれたかた」,および「神に造られたものの根源[ギリシャ語,アルケ]」と呼ばれています。―コロサイ 1:15。啓示 3:14。

      箴言の第八章も,擬人化された「知恵」に関して同様の言い回しを使っています。ギリシャ語セプトゥアギンタ訳によると,その章で知恵は自らを,「神の業を成し遂げる道の初め[アルケ]」と呼んでいます。そして,「初めに時が存在するようになる前から,神が地を造る前から」存在していると述べています。(箴 8:22,23,バグスター訳)これは擬人化された知恵が永遠の昔から存在しているということを暗示していますか。いいえ,そうではありません。22節の中で知恵はこう述べているからです。「主はわたしを造られた[ギリシャ語,エクタイズ,“創造した”]」。

      “同等”― プラトンからの別の借用

      イエスが神と同等であるという教えについてはどうですか。聖書だけを読むなら,そうした見解を持つようなことは決してないでしょう。聖書は時々,人間として存在するようになる前のイエス,および復活した後のイエスを指して「神」という語を使っていますが,同時に被造物であるみ使いに関してもその同じ語を用いています。例えば詩篇作者は,神が人類を「神のような者たち[ヘブライ語エロヒーム,“神々”。セプトゥアギンタ,“み使いたち”]より少し低く」造られたと明言しています。―詩 8:5,新。

      ところが僧職者の多くは,イエスを指して「神」と呼んでいる聖句を,イエスは神と全く同等であるという意味に解釈させようとします。この点は,「わたしと父とは一つである」というイエスの言葉についての数多くの注釈に如実に示されています。(ヨハネ 10:30)例えば,聖書学者C・J・エリコットは次のように主張しています。「この言葉は,み父とみ子の力と本質が一体であることを明らかにしている。……『み子は,み父と共に一つの実体である』」。

      イエス・キリストのうちに,「満ちみちているいっさいの神の徳が,かたちをとって宿ってい(る)」という使徒パウロの言葉にも,同様の説明がなされています。(コロサイ 2:9)著名な聖書注釈者J・A・ベンゲルは,この聖句に対する三位一体論者の論議の一例を挙げています。「満ちみちた神聖そのものがキリストの中に宿っている。単に神の属性だけではなく,神の本質そのものが宿っているのである。……言わば神の実在全体が,キリストの中にごく身近にかつ現実的に宿っているのである」。

      これは,「ニケア信条」(西暦325年)の言葉遣いを思い起こさせます。それは,イエスを「真の神より出でたる真の神,生み出されて造られず,み父と同質なる方」としています。新カトリック百科事典(1967年版)によると,この会議は,「み父と同質[ギリシャ語,ホモオウシオス]なる方」という表現によって,「イエスとみ父の全き平等を主張」しようとしました。

      しかし,その教理を確立するために,キリスト教世界は再びプラトンの思想を借用しました。今度は,“新プラトン主義”として知られる哲学からです。大英百科事典は次のように述べています。「キリスト教神学は,物質に関する新プラトン主義の純正哲学と,[実在,つまり本質]に関するその教えを,“み父”に対する“み子”の関係を解釈する上での出発点としている」。

      では,「わたしと父とは一つである」と言ったイエスは一体何を意味していたのでしょうか。神学博士J・H・バーナードは,「聖ヨハネによる福音書の批判的,評釈的注解」の中で次のように述べています。

      「み父とみ子との間の,交友,意志,および目的の一致は,第四番目の福音書によく現われる主題であり……ここで簡潔かつ力強く表現されている。しかし,この言葉をこじつけて,オウシア[“本質”,“実在”を意味するギリシャ語]の同一性を示すものとするなら,一世紀の神学者の間に見られなかった考えを紹介することになる」― ヨハネ 5:18,19; 14:9,23; 17:11,22と比較してください。

      イエスが神と同等で共に永遠の存在であるという教えは,霊感による聖書に根拠を持つものではありません。その教えは,終始一貫して,キリスト教世界がギリシャの哲学者プラトンの思想を借用したことを示しています。

  • 歩くことには非常に大きな益がある
    目ざめよ! 1976 | 12月8日
    • 歩くことには非常に大きな益がある

      ● 美しい公園や森を散歩するのはとても楽しいばかりか,よい運動になります。親しい友人や家族と一緒に散歩を楽しむ人は少なくありません。しかしながら,最も良い道連れは至高の神です。ところで,人はどうすれば目に見えない神と共に歩くことができるのでしょうか。

      聖書には,「ふたりの者がもし約束しなかったなら,一緒に歩くだろうか」と述べられています。(アモス 3:3,口)このことばは,わたしたちが神と共に歩むことにどう当てはまりますか。全能者は,人間に対して,是認されたしもべまた友としてご自分と共に歩くようにとの招待を差し伸べてこられました。各人は,神と関係を結ぶことを求めることによって,神と共に歩くようにとの招待を受け入れる,つまり『約束する』のです。その時以後,その人は,日々の生活であたかも文字通り神のみ前にいるかのごとく振る舞わねばなりません。そして,聖書の次の警告に従っていなければなりません。「あなたがたは,食べるにしても,飲むにしても,あるいはほかのどんなことをするにしても,すべての事を神の栄光のためにしなさい」。(コリント第一 10:31)そのようにして歩く際に,わたしたちは謙そんであるべきです。(ミカ 6:8)すなわち,神の道の方が自分自身のそれより優れていることを認め,身を低くして神の道に従わねばならないのです。

      神と共に歩くことによって,わたしたちは引き続き導きと援助を受けられるとの確信を抱くことができます。また,とこしえに慎み深く神と共に歩く見込みを待ち望めます。(ヨハネ 17:3)確かに,神と共に歩くことには現在においても将来においても極めて大きな益があります。

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