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『雄々しくありなさい』ものみの塔 1983 | 1月1日
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によみがえらされた最初の者となったのです。神は,見えない天でご自分が以前み子と共におられた場所に,従順なみ子を復活によって戻されました。そのために,死者が地上での命に回復することが可能になり,イエス・キリストが1,000年間ご自分の地上の領域を目に見えない様で統治される間,楽園の地で完全な人間の命へと徐々に向上してゆく機会が開かれました。
7 イエス・キリストがもはや完全な人間でないのはなぜですか。それでも,アダムとエバの子孫に何を取り戻させることができますか。
7 贖われた人類に対する王としての,目には見えないながら知覚できるイエスの「臨在」は,正にだれもが感じ取れるものになるでしょう。イエス・キリストは再び霊的被造物となりましたが,今度は不死であり不滅です。使徒パウロはこの事実を指摘し,コリント会衆にさらに次のように述べました。「物質の体があるなら,霊的な体もあります。まさにそう書かれています。『最初の人アダムは生きた魂になった』。最後のアダムは命を与える霊になったのです」。(コリント第一 15:44,45。創世記 1:26,27; 2:7)今や血肉を備えた人間ではなく,天の強力な霊者となった,栄光を受けたイエス・キリストは,人類のために人間としての完全なその命を捨てられたので,アダムとエバの子孫に完全な人間としての命を取り戻させることができるのです。
雄々しくあるべきことの手本となる男性
8 何を求める人々にとってイエス・キリストは見倣うに値する模範ですか。そしてどんな根拠に基づいて,パウロはコリント会衆の成員に,イエス・キリストを見倣うものとなるようにと言えましたか。
8 地上におられた時のイエス・キリストは,王国におけるイエスの天的な仲間としてであれ,楽園の地におけるイエスの完全な息子また娘としてであれ,とこしえの命を得ることを求める今日の人々すべてが完全な模範として見倣うに値する人物です。ですから,使徒パウロが古代コリントのキリストの追随者たちに手紙を書き送って次のように述べたのは,極めてふさわしいことでした。「ユダヤ人にも,またギリシャ人にも,そして神の会衆に対しても,つまずきのもととならないようにしなさい。わたしがすべての事においてすべての人を喜ばせ,自分の益ではなく多くの人の益を求め,こうして彼らが救われるようにしているのと同様です。わたしがキリストに見倣う者であるように,わたしに見倣う者となりなさい」― コリント第一 10:32-11:1。
9 コリント第一 16章13節にある,「雄々しくあり」と訳されているギリシャ語の動詞は,何という名詞から派生したものですか。この名詞にはどんな独自性がありますか。
9 ここに挙げた言葉は,ギリシャのコリントの会衆宛てに書き記されたパウロの結びの言葉に見られるその後の勧め,つまり「目ざめていなさい。信仰のうちにしっかりと立ちなさい。雄々しくあり,力強い者となりなさい」という勧めを正しい観点から見る助けとなります。(コリント第一 16:13)「雄々しくあり」と訳されているギリシャ語は一つの動詞で,その動詞はアネールという名詞の属格アンドロスから派生したものです。このギリシャ語の名詞は,女,女性とは異なったものとしての男,男性を表わします。例えばマタイ 14章21節はこうなっています。「しかも,食べていたのは約五千人の男たちであり,ほかに女や幼子たちがいたのである」。(マタイ 15:38; マルコ 6:44; ヨハネ 6:10もご覧ください。)エルサレムでは使徒ペテロに対し,「彼(は)割礼を受けていない者たち[男たち]の家に入って一緒に食事をした」という非難の声が上がりました。(使徒 11:3)コリント第一 11章3節にはこう記されています。「すべて男の頭はキリストであり,女の頭は男であり,キリストの頭は神です」。
10 使徒 17章31節で,パウロは,人の住む地を裁くために神が意図された人を示す際,どのギリシャ語の名詞を使いましたか。
10 ギリシャの古代アテネにあったアレオパゴスの法廷の成員に,使徒パウロはイエス・キリストに関して次のように語りました。「[神は]ご自分が任命したひとりの人(男,英文字義訳)[アネール]によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人[ギリシャ語,パシン]に保証をお与えになった(の)です」― 使徒 17:31。
11 ギリシャ語本文の使徒 14章15節には,男性と単なる人間との相違点がどのように示されていますか。
11 使徒 14章15節には,パウロとバルナバが次のように叫んだと記されています。「皆さん(男たち,英文字義訳)[ギリシャ語,アンドレス],なぜこうした事をするのですか。わたしたちも,あなた方と同じ弱さを持つ人間[ギリシャ語,アンスローポイ]です」。ギリシャ語本文で,男性の人と単なる人間とをどのように区別しているかがここから分かります。
12 (イ)どのような意味で,コリント会衆の姉妹たちは「雄々しく」あるべきでしたか。そして他の英語の翻訳はどのように訳していますか。(ロ)ギリシャ語動詞アンドリゾーはクリスチャン・ギリシャ語聖書中に何回出て来ますか。しかしギリシャ語セプトゥアギンタ訳には何回出て来ますか。
12 コリント第一 16章13節にある『雄々しくありなさい』というパウロの言葉は,会衆内のすべての成員を対象にして,兄弟たちだけではなく姉妹たちをも対象にして書かれました。ですから姉妹たちも男らしい方法で,つまりクリスチャン会衆の頭であられるイエス・キリストに倣い,クリスチャンの勇気を持って行動すべきです。クリスチャン・ギリシャ語聖書の原文中アンドリゾーという動詞は1回だけ,すなわちコリント第一 16章13節にしか出て来ませんが,そこを新世界訳は『雄々しくありなさい』と訳しています。ジェームズ王による欽定訳では「男らしく振る舞いなさい」,リビングバイブルでは『男らしく行動しなさい』,フィリップス訳新約聖書では,「男らしく生きなさい」となっています。ところがギリシャ語セプトゥアギンタ訳のギリシャ語本文には,アンドリゾーという動詞が21回出て来ます。
13 チャールズ・トムソンによるセプトゥアギンタ訳によると,問題になっているギリシャ語の動詞は申命記 31章6,7,23節ではどのように訳されていますか。
13 例えばチャールズ・トムソン訳の申命記 31章6,7,23節はこうなっています。「男らしく行動し,強くあれ。……その後モーセはヨシュアを呼び,全イスラエルの前で彼に,勇気を出し,強くあれと述べた。……そして主はヨシュアに命令をお与えになり,こう言われた。勇気を出し,強くあれ。汝は主が厳粛に誓われた土地にイスラエルの子らを導き,主は汝らと共におられるからである」。(英国のS・バグスター及びサンズ・オブ・ロンドン社発行の版による同様の読み方参照。)
14 チャールズ・トムソンによる訳はナホム書 2章1節のギリシャ語動詞をどのように訳していますか。
14 ギリシャ語セプトゥアギンタ訳に21回出て来るこの動詞が最後に現われるのは,ナホム書 2章1節で,こう記されています。「汝の面前に,苦痛から解放されるあえぐ者が上って来た。道を見張り,汝の腰を強くせよ。汝のすべての力を持って男らしく行動せよ」。(セプトゥアギンタ訳のバグスター版も参照。)a
15 したがって,前述の事柄に照らして,他の現代語訳はコリント第一 16章13節のギリシャ語動詞を,どのように男子にも婦人にも明らかに適用できる方法で訳出していますか。
15 ギリシャ語動詞アンドリゾーに関するセプトゥアギンタ訳の訳し方を考えると,聖書の他の現代語訳がなぜコリント第一 16章13節のそのギリシャ語動詞を,ギリシャ語セプトゥアギンタ訳(七十人訳)の翻訳の仕方に倣って扱っているかが分かります。例えば改訂標準訳では,「勇気を出しなさい」,今日の英語聖書では,「勇ましくありなさい」,新国際訳では,「勇気の人でありなさい」,新英訳聖書では,「勇敢でありなさい」,エルサレム聖書では,「勇ましくありなさい」となっています。その意味において,このギリシャ語動詞は,献身しバプテスマを受けたクリスチャンの男子だけではなく,献身しバプテスマを受けた女子にも適用されるのです。ですから,コリント第一 16章13節におけるパウロのこのギリシャ語動詞の使い方は,極めて適切だったことになります。婦人たちが身体的には各々が「弱い器である女性」であるとしても,このことは真実です。―ペテロ第一 3:7。
16 パウロは,雄々しくありなさい,とクリスチャンに告げた後,どんなことを付け加えていますか。そしてこの勧めを,どのように実践できますか。
16 使徒パウロは,献身しバプテスマを受けたクリスチャンたちに『雄々しくありなさい』と述べた後で,「力強い者となりなさい」と付け加えています。この点と一致して,パウロはエフェソス 6章10節でこう書きました。「終わりに,主にあって,またその力の強大さによって強くなってゆきなさい」。全能者なるエホバ神は,わたしたちが『力強い者となる』よう,そうです,その方の神聖な奉仕において重要な業を成し遂げるようにわたしたちを強めることがおできになります。(ダニエル 11:32,欽定訳,アメリカ標準訳)エホバ神は,ご自分の献身しバプテスマを受けた民に,人がこの地上で得られる最も価値ある奉仕という威厳を付与されました。このことは,霊によって油そそがれた残りの者と,彼らの羊のような仲間たちがパウロの勧め通りにするための,つまり『雄々しくある』ための強力な動機となるはずです。
17 今日の油そそがれた残りの者は,どのような点でバプテスマを施す人ヨハネの特権よりも名誉ある特権を得ていますか。
17 今日のわたしたちの特権は,西暦1世紀のバプテスマを施す人ヨハネの特権よりも,大きくて名誉あるものです。バプテスマを施す人ヨハネは,マラキ書 3章1節の預言を予型的な方法で,つまり小規模な形で成就し,王になる予定の人イエス・キリストの先駆者になるという名誉ある特権を得ました。(マルコ 1:1,2)エホバの前に道を整えるために遣わされたこの「使者」について語った際,イエスはこう言われました。「あなた方に真実に言いますが,女から生まれた者の中でバプテストのヨハネより偉大な者は起こされていません。しかし,天の王国において小さいほうの者も彼よりは偉大です」。(マタイ 11:7-11)今日,第一次世界大戦の終わった1918年以降,天の王国の油そそがれた相続者たちの残りの者は,王が支配する将来の政府ではなく,1914年の異邦人の時の終わりに栄光を受けたイエス・キリストが王座に就けられたことにより立てられた天の王国の大使として行動しています。次に挙げる使徒パウロの書き記した言葉は彼らに当てはまります。しかもより大きな意味において当てはまるのです。「それゆえ,わたしたちはキリストの代理をする大使であり,それはあたかも神がわたしたちを通して懇願しておられるかのようです。わたしたちはキリストの代理としてこう願います。『神と和解してください』」― コリント第二 5:20。
18 (イ)1935年以来,「キリストの代理をする大使」の残りの者の行なった,神と和解するようにとの懇願に,だれがこたえ応じてきましたか。(ロ)王国のたよりを宣べ伝える業において,男子に加わってきたのはだれですか。このことは詩編 68編11節にどのように示されていましたか。
18 1918年に第一次世界大戦が終わって以来,そして特に記念すべき年1935年以来,あらゆる国籍の人からなる大群衆が,王国相続者の油そそがれた残りの者たちの行なった懇願にこたえ応じてきました。こたえ応ずる気持ちを持ったこれらの人たちは聖書的に定められた段階を踏み,神であり,わたしたちの主イエス・キリストの父であられる方と和解するようになり,現在では神との平和を得ています。これらの人々は感謝のうちに,「キリストの代理をする大使」の残りの者の仲間として行動し,羊のようなさらにほかの人たちに神と和解するようにとの訴えを差し伸べる点において,『キリストの代理をする公使』ともみなすことができます。これらの人々は,婦人も男子も,男らしい,勇気ある方法で,『証しのために人の住む全地で王国のこの良いたより』を宣べ伝えるため,出掛けてゆきます。(マタイ 24:14。啓示 7:9-17)詩編 68編11節が予告していた通りです。「エホバご自身がみことばを与えてくださる。良いたよりを告げる女は大軍をなしている」。
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恐れずにハルマゲドンに立ち向かう雄々しい者でありなさいものみの塔 1983 | 1月1日
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恐れずにハルマゲドンに立ち向かう雄々しい者でありなさい
1 セオドア・ルーズベルトは,ハルマゲドンに言及した際,どのように物事の定め方を間違えましたか。
セオドア・ルーズベルトは,アメリカの大統領の選挙戦に際して「我々はハルマゲドンに立っており,我々は主のために戦う」と語ったと言われています。ルーズベルトは聖書から,「ヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる場所」において,決戦が行なわれることを知っていたのです。(啓示 16:16)ルーズベルトは1919年1月6日,すなわち第一次世界大戦が終結してから2か月足らずのうちに亡くなったので,その物事の定め方は,実際よりもかなり早かったことになります。その大戦は,ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」に突入するものとはなりませんでした。
2 すべての戦争の中で最大のその戦争に生き残るかどうかは,その時の何に左右されますか。
2 しかし,1982年という動乱の年には,わたしたちがすべての戦争の中でも最大のその戦争に直面していることを示すあらゆる証拠が見られました。その戦争の際に全能者なる神との関係がどんなものになっているかということは,わたしたちがその戦争,その戦闘に生き残るか否かを大きく左右するものとなるでしょう。
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