-
イエス・キリストはどんな人物でしたか目ざめよ! 1982 | 7月8日
-
-
で,明快なものにされました。聴衆のよく知っている事柄を例えに使ってご自分の言わんとするところを示し,聴衆の心の奥底に達するよう努めました。人々が思いと心を入れ替え,誤った考えや行ないを改め,新鮮で新しい生き方を始めるよう促しました。そうした生き方は神の恵みを受ける関係へと導き,将来の真の希望を与えるものとなります。
お聞きになるかも知れない政治的な演説や宗教的な説教と,この教えを比較してみてください。そうした演説や説教の中には才気あふれるものや,もっともらしく聞こえるものもあります。話し手の中には激こうし,争いを引き起こす者もいます。しかし,一般の人々に対する愛と共感にあふれている人がどれほどいるでしょうか。
イエスは他の人々への思いやりを口先だけで示されたわけではありません。差し迫った身体的な必要を持つ人々を援助されました。イエスはそうした人々に食物を与え,病める人々をいやし,そうした人々の身内の者を死人の中からよみがえらせることさえしました。イエスはそうする力を神から与えられており,その力を存分に用いました。時には食事や休息の時間さえ十分にないことがありました。イエスは本当に情け深い人でした。―マタイ 14:14。マルコ 6:38-44; 8:22-25; 10:13,14。ルカ 8:49-56。使徒 10:38。
イエスの教えの最大の特徴の一つは,イエスが去られた後もその影響が将来の世代にまでおよぶような経路を備えられたことです。イエスが教えを与えた短い期間が終わった時には,一群の弟子たちを教え,訓練し,備えのできた者としておられたので,イエスの始めた業を続けるためその弟子たちを世へ遣わすことができるようになっていました。ご自分の弟子を教え手として後に残しただけでなく,教え手になるよう教育を施せる者とされました。イエスの始めた業は,その予告通り「すべての国の人びと」に達することになった,全地球におよぶ弟子を作る業へと野火のように広まって行きました。―マタイ 28:19,20。
愛のある,勇敢な指導者
イエスは弟子たちの中にあって指導的な役割を果たされました。その議論の余地のない指導力のゆえに,弟子たちは決して異議を唱えることはありませんでした。イエスは弟子たちに完全な模範を示されました。何であれイエスが弟子たちに求めた事柄は,ご自身の行動で示されました。イエスは隣人を愛するように,そうです自分の敵をも愛するよう,口先だけではなく,模範によって弟子たちを教えました。ですから,地上におけるその指導は流血とは無縁のものでした。だれか他の人の血をわずか一滴でも流したとして,イエスをとがめることはできません。ご自分の弟子のひとりが傷付けた敵対者の耳の傷をそのままにされることなく,即座にそれをいやされました。―ルカ 6:32-36; 22:50,51。
同時に,その地上の生涯を通して,多大の勇気と雄々しさと力強さが示されました。例えば,マルコ 10章32節にはこう書かれています。「さて,一行はエルサレムに上る道を進んでいたが,イエスがその先頭を進んで行かれるので,彼らは非常に驚いた。しかしそのあとに従う者たちは恐れを感じるようになった」。これはイエスが弟子たちと共にエルサレムに向けて最後の旅をしている時のことでした。イエスはエルサレムで処刑されることになるのを知っておられました。当時の宗教指導者たちはすべての栄光を自分たちのものにしておきたいと思っていたのです。それを保つために,宗教指導者たちはイエスを殺そうと意を決していました。歩いてエルサレムに上って行った際イエスはこの事をご存じであり,それについて弟子たちに語っておられました。(33,34節)イエスはたじろぐどころか,弟子たちの先頭に立って道を進んで行かれ,恐れを抱く弟子たちを驚かせました。弟子たちは本当に勇敢な指導者に恵まれていました。
数日後,イエスはご自分の命の懸かった裁判にかけられており,ローマの知事ポンテオ・ピラトからご自分が王なのかどうかと尋ねられた時,こうお答えになりました。「あなた自身が,わたしが王であると言っています」。(ヨハネ 18:37)難を逃れようとしてうそをつくことなど決してされませんでした。イエスはご自分の代表していた王国,つまり神の王国について勇敢に証しをされました。
その同じ日,イエスは死刑を宣告され,むち打たれ,いばらの冠を載せられ,顔を平手打ちにされ,つばきをかけられ,最後には苦しみの杭に釘付けにされて極めて苦痛の伴う死を味わわれました。イエスは最後の最後まで,愛のある勇敢な指導者としての責任を担われました。イエスは息を引き取る直前に天のみ父に最後の報告をされ,こう言われたのです。「成し遂げられた!」―ヨハネ 19:30。
-
-
イエスは今あなたにとってどんな意味がありますか目ざめよ! 1982 | 7月8日
-
-
イエスは今あなたにとってどんな意味がありますか
『でも,1世紀の昔にパレスチナで生活し,死んでいったイエスは,今のわたしにとってどんな意味があるのだろうか』とお尋ねになるかもしれません。
イエスが死んでおらず,生きておられるとしましょう。そして今,地球上のいかなる人間よりも影響力のある地位を占めておられるとしましょう。イエスが今,目に見えない天的な王の王となっており,人類の圧制者たちすべてと不道徳な生き方を求めてやまない人々とを滅ぼすよう命じる,そして本当にご自分の臣民になりたいと思っている人々すべてのために蓄え置かれた永遠の祝福の伴う1,000年に及ぶ平和の統治を始めるように命じる神の合図を待っておられるとしましょう。そうだとしたら,イエスはあなたにとって何らかの意味のある存在となりますか。
ある人々にとって,こうした陳述は単なる仮説にすぎないと思えるでしょう。しかし,真実であるとすれば,多くの事が関係してきます。
イエスは,地上におられる間ご自分が殺され,三日後によみがえらされることを繰り返し予告しておられました。(マルコ 8:31; 9:31; 10:34)イエスの死に関するその予告は成就しましたが,それに対応するよみがえらされることについての陳述はどうでしたか。イエスが備えておられた忠実さと正直さ,それにイエスの行なわれた奇跡に神の後ろだてが見られたことは,その成就をも支持するものです。どんな事が起きたでしょうか。
イエスが残酷な仕方で殺されてから三日目に,イエスが横たえられていた墓は空になっていまし
-