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    ものみの塔 1980 | 10月15日
    • 「りっぱな羊飼い」と「小さな群れ」

      「恐れてはなりません,小さな群れよ。あなたがたの父は,あなたがたに王国を与えることをよしとされたからです」― ルカ 12:32。

      1 詩篇作者ダビデと預言者イザヤは,世話をする方としてのエホバを何になぞらえていますか。

      かってベツレヘムに住む羊飼いの少年であったダビデ王が霊感によって書いた詩の一つに,「エホバはわたしの牧者。わたしに何も乏しいものはない」という言葉で始まるのがあります。(詩 23:1,新)やはり聖書筆記者であった預言者イザヤも,エホバを羊飼いになぞらえ,「彼は羊飼いのようにその家畜の群れを飼われる。み腕でもって子羊を寄せ集め……」と述べています。(イザヤ 40:11,新)しかし,エホバの下には従属の羊飼いがいます。ですからエホバがその羊飼いを,「わたしの僕ダビデ」と呼んでおられるのは適切です。

      2 (イ)エゼキエル書 37章24,25節が適用されるダビデとはだれですか。(ロ)イエスはゼカリヤ書 13章7節の預言をどのように適用されましたか。なぜですか。

      2 ダビデ王の死後何百年もたってから,別の聖書筆記者エゼキエルは,エホバから霊感を与えられて,次の預言を行ないました。「そして,わたしの僕ダビデは彼らを治める王となり,彼らはみな一人の牧者を持つことになる。……わたしの僕,ダビデは定めのない時に至るまで彼らの長となるであろう」。(エゼキエル 37:24,25,新)この預言は,エホバの従属の羊飼いである大いなるダビデ,イエス・キリストに言及するものであるに違いありません。西暦33年ニサン14日の夜,イエス・キリストが裏切られ,拘留され,敵の前に連れ出されて裁かれた時,ゼカリヤ書 13章7節(新)の次の預言が成就しました。「『剣よ,わたしの牧者に向かって,わたしの仲間であるますらおに向かって目を覚ませ』― 万軍のエホバのお告げ ―『牧者を打って,群れの者たちを散らせ』」。イエス・キリストご自身も,この預言をそのように適用されました。―マタイ 26:31。マルコ 14:27。

      3,4 (イ)イエスが生まれつき盲目の男をいやされたことについて言い争ったユダヤ人たちの罪が残るのはなぜですか。(ロ)その後,冬に行なわれる神殿の献納の祭りで,イエスと言い争ったユダヤ人を,イエスがご自身の「羊」とされなかったのはなぜですか。

      3 ですからイエス・キリストが,ご自身を羊飼いになぞらえ,「りっぱな羊飼い」と呼ばれたのは全く適切なことで,ひとりよがりではなかったのです。(ヨハネ 10:6,11,14)イエスは,生まれつき盲目だった男をいやしたことに関連してそのことを言われました。イエスを信じない,イエスと同民族の人々は,「わたしたちも盲目であるというわけではないでしょうね」と尋ねました。この挑戦的な質問に対する答えはどんなものだったでしょうか。「イエスは彼らに言われた,『あなたがたが盲目であったなら,あなたがたには罪がなかったでしょう。しかしあなたがたは今,「わたしたちは見える」と言います。あなたがたの罪は残るのです』」。(ヨハネ 9:40,41)それから少したって,つまり西暦32年の冬(12月)に行なわれたエルサレムの神殿の献納の祭りの時に,イエスは,ご自分を取り巻いていた信仰のないユダヤ人たちに言われました。

      4 「わたしが自分の父の名において行なっている業,これがわたしについて証しします。しかしあなたがたは信じません。わたしの羊ではないからです。わたしの羊はわたしの声を聴き,わたしは彼らを知り,彼らはわたしに従います。そしてわたしは彼らに永遠の命を与え,彼らはいつまでも決して滅ぼされることがなく,だれも彼らをわたしの手から奪い取る者はありません。父がわたしに与えてくださったのは,ほかのすべてのものより偉大なものなのであり,だれもそれを父の手から奪い取ることはできません。わたしと父とは一つなのです」― ヨハネ 10:19-30。

      5 ヨハネ 10章1-5節で,イエスはご自分をイスラエルに紹介した先駆者を何になぞらえて話されましたか。

      5 信仰のないその人々は,イエスの業がイエスの身分を証明するという証言を信じようとしなかったばかりか,イエスの先駆者,イエスをメシアすなわちキリストとしてイスラエル人に紹介した者の証言も信じようとしませんでした。イエスは,真の羊飼いがそのような身分の証明となるもの,あるいは資格証明となるものを持っている必要があることに言及し,次のように言われました。「きわめて真実にあなたがたに言いますが,羊の囲いに戸口を通って入らず,どこかほかの場所からよじのぼる者,その者は盗人であり,略奪者です。しかし,戸口を通って入る者は羊の羊飼いです。戸口番はこの者に対して戸を開け,羊は彼の声を聴き,彼は自分の羊の名を呼んで導き出します。自分のものをみな外に出すと,彼はその前を行き,羊は彼に従います。彼の声を知っているからです。彼らはよその者には決して従わず,むしろその者からは逃げるのです」― ヨハネ 10:1-5。

      「羊飼い」と「戸口番」

      6 「戸口番」がイエスを案内した象徴的な「羊の囲い」は律法契約の取り決めではありませんでした。なぜですか。

      6 ところで,イエスはナザレで大工になられたのであって,実際の羊を飼う者であったことが一度もないことからすると,「羊の囲い」と「戸口番」は何を意味するのでしょうか。まず「羊の囲い」ですが,これは,エホバ神が仲介者のモーセを通してイスラエル国民と結ばれた律法契約の取り決めを表わすものではありませんでした。確かにイエスは,いわばあるユダヤ人の「戸口番」によって律法契約の取り決めに導き入れられる必要はありませんでした。イエスは生まれたときからその取り決めの下にありました。ガラテア 4章4,5節には,「しかし,時の限りが満ちたとき,神はご自分のみ子を遣わし,そのみ子は女から出て律法のもとに置かれ,こうして彼が律法のもとにある者たちを買い取って釈放(するためでした)」と述べています。イエスは彼らを買い取って釈放するために死なれました。

      7 (イ)西暦33年のどの日にエホバはイスラエルとの律法契約の取り決めを廃されましたか。なぜですか。(ロ)西暦33年のペンテコステ以来,律法契約の取り決めがなくなり,したがってイエスがユダヤ人をその下から導き出すこともなかったのはなぜですか。

      7 買い取るための代価を神に差し出すべく,イエスは西暦33年,死後三日目に死人の中からよみがえられました。そして復活の日から数えて40日目に,もとおられた天に昇られました。それから10日後すなわち西暦33年シワンの6日に,ユダヤ人の春の祭り,ペンテコステが訪れました。その日に神は,イエスを用いて,エルサレムで待っていた弟子たちに聖霊をそそがれました。そのことは,イエスがご自身の完全な人間の犠牲の価値を捧げるため神のみ前に出られたことを意味しました。それはユダヤ人を含め罪のもとに売り渡されている人間をすべて買い取って釈放するためでした。それでエホバ神は,その日に律法契約を廃し,約束されていた新しい契約をもってそれに代え,ユダヤ人との契約ではなく,仲介者イエス・キリストの,霊によって生み出された弟子たちとの契約を設けられました。(コロサイ 2:13,14)ですから,ユダヤ人の律法契約はもはやなく,したがって羊飼いであるイエスが信仰のあるユダヤ人をその下から導き出すこともありませんでした。

      8 (イ)それで,「羊の囲い」は何を表わしていますか。(ロ)生来のアブラハムの子孫は何を探し求めていましたか。

      8 以上のことから考えると,イエスがヨハネ 10章1節で言っておられる「羊の囲い」は実際に何を象徴するのだろうか,という疑問が一層深まります。それが西暦前1513年に結ばれた律法契約よりも前の,より包括的で,より長期間続くものを表わしていることは疑いのないところです。つまりアブラハム契約です。西暦前1943年,族長アブラハムがユーフラテス川を渡って約束の地に入ったとき,神の次の約束は,アブラハムとその将来の子孫に対して効力を持つものとなりました。「わたしはあなたを祝福する者たちを祝福し,あなたに災いを呼び求める者をのろう。地の諸族はみなあなたによって必ず自らを祝福するであろう」。(創世 12:3,新)それから何年かたって,アブラハムが自分の息子イサクを犠牲として捧げる気持ちのあることを示した時,神はさらに約束をつけ加え,「そして,あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう。あなたがわたしの声に聴き従ったからである」と言われました。(創世 22:17,18,新)その時以来,アブラハムの子孫は,来たるべきその「胤」を探し求めるようになりました。それで「羊の囲い」は,アブラハム契約の取り決めを象徴しました。その中に入れられている羊のような人々は,約束の「胤」の到来を待つ人々を表わしました。

      9 「戸口番」は,どんな者を通過させて「羊の囲い」に入れるようなことはしませんか。

      9 その羊のような人々は,「胤」について前もって知っていようといまいと,「胤」を知らされ紹介された時には心から歓迎しました。それらの「羊」を利用するために間違った手段で彼らを手に入れようとする人はみな,「盗人であり,略奪者」です。羊の囲いの「戸口番」は,そのような偽キリストつまり偽メシアは紹介しません。その「戸口番」の前を通り,「戸口」を通る人こそ真の「羊飼い」,すなわちアブラハムの「胤」です。

      10 その「戸口番」はだれでしたか。どの預言からそのことがわかりますか。

      10 しかし,「戸口番」とはだれのことでしたか。それは,レビ族の祭司の家系から出た人で,バプテスマを施す人ヨハネでした。神は,約束のアブラハムの「胤」が来る前に一人の先駆者を遣わす約束をしておられました。そのことはマラキ書 3章1節(新)に次のように預言されていました。「『見よ,わたしはわたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に必ず道を整える。また突然,その神殿にまことの主が来る。あなた方の求めている者,あなた方の喜ぶ契約の使者が。彼は必ず来る』と,万軍のエホバは言われた」。(マルコ 1:1-11)それでヨハネは,約束の『アブラハムの胤』の到来を期待していました。したがってヨハネは,アブラハム契約の取り決めという羊の囲いの中にいた人々と同じく,羊のような人でした。しかしヨハネは,特別の奉仕の務めについてから1年か1年そこそこで殺されました。そういうわけでヨハネは西暦33年のペンテコステまで生きていなかったので,天の王国の油そそがれた相続者である「小さな群れ」の一人とはなりませんでした。―マタイ 11:11-14; 14:1-12。ルカ 12:32。ガラテア 3:16。

      11 (イ)イエスは,バプテスマを施す人ヨハネがご自身の先駆者であることを,どのように確証されましたか。(ロ)イエスは,主エホバに伴って神殿にこられたときどの契約の「使者」でしたか。

      11 イエスは,バプテスマを施す人ヨハネが,エホバの目的の遂行においてどんな役割を果たしたかについて,ユダヤ人にこうおっしゃいました。「これは,その人について,『見よ,わたしみずからあなたの顔の前にわたしの使者を遣わす。その者はあなたの前にあなたの道を備えるであろう!』と書かれている人です」。(マタイ 11:10)こうしてイエスは,マラキ書 3章1節を,エホバとエホバの「契約の使者」とに先立って遣わされた者として,バプテスマを施す人ヨハネに適用されました。検分のため,主エホバに伴って神殿にこられるイエス・キリストは,律法契約の使者ではなくてアブラハム契約の使者です。アブラハム契約の取り決めの下にいて,エホバの預言に信仰を抱いていた人々は,このメシアなる「使者」の到来を楽しみに待っていました。

      12 バプテスマを施す人ヨハネは,「アブラハムの胤」のうちの基礎となる方を「知る」ようになった方法について,何と言いましたか。

      12 「アブラハムの胤」のうちの主要な,そして基礎となる方について,バプテスマを施す人ヨハネは次のように語りました。「わたしは,霊が天からはとのように下って来るのを見ましたが,それは彼の上にとどまりました。わたしも彼を知りませんでしたが,水でバプテスマを施すべくわたしを遣わしたそのかたが,『あなたは霊が下ってある人の上にとどまるのを見るが,そがだれであろうと,その者こそ聖霊でバプテスマを施す者である』とわたしに言われました。そしてわたしはそれを見たので,このかたこそ神の子であると証ししたのです」― ヨハネ 1:31-34。

      13 (イ)バプテスマを施す人ヨハネは,真の羊飼いに対していつ「戸口」を開きましたか。(ロ)その時ヨハネはどんな「アブラハムの胤」を指し示していましたか。

      13 イエスは,「戸口」を通るのを避けて羊の囲いに入るようなことはなさいませんでした。30歳になったときイエスは水の浸礼を受けるため,バプテスマを施す人ヨハネのところへ行かれました。それから荒野で誘惑にさらされながら40日を過ごしたあと,確信を抱いて,バプテスマを施す人ヨハネがその一群の弟子たちと共にいる所へ戻ってこられました。イエスが,アブラハム契約の羊の囲いの象徴的な「戸口番」に近づかれたとき,ヨハネはイエスがこられるのを見て,「見なさい,世の罪を取り去る,神の子羊です!」と叫びました。(ヨハネ 1:29,36)その子羊は,イスラエル民族の罪を取り去る小羊ではなく,「世の罪を取り去る,神の子羊です」。バプテスマを施す人ヨハネはこうして,宇宙の牧者エホバ神から与えられた必要な身分証明,もしくは資格証明を有していた真の羊飼いに対して,象徴的な「戸口」を開きました。ヨハネは,近づいてこられるイエスに弟子たちの注意を引きましたが,彼が指し示したのは,割礼を受けた単なるユダヤ人,地上にいたアブラハムの単なる実の子孫ではありませんでした。ヨハネが指し示したのは,油そそがれた方,大いなるアブラハムであるエホバ神の,霊によって生み出された子孫でした。イエスは,天のアブラハムの「胤」のうちの最も重要な,つまり第一の方で,この方によって地の諸族はみな自らを祝福します。

      14 (イ)「羊の囲い」に近づかれたとき,イエスは生来のユダヤ人や他の一般の人間を探しておられましたか。(ロ)中東の羊飼いは,個々の羊をどのように自分のところへ呼び寄せることができましたか。

      14 したがってイエスは,「戸口番」に許されて象徴的な「羊の囲い」,すなわちアブラハム契約の取り決めに当然入ることのできる人でした。イエスは真の羊飼いでした。イエスは,ユダヤ人や他の一般の人間を探しに来たのではなく,ご自身と共に複合の「アブラハムの胤」の一員になる機会を捕らえようとする人々を探しにこられたのです。祝福はその「アブラハムの胤」を通してすべての国民に及ぶのです。生来のユダヤ人の大多数はイエスを退けましたが,肉のユダヤ人の残りの者は確かにイエスを受け入れました。イエスの声を聴いた「羊」というのはその人々でした。イエスが「自分の羊の名を」呼ばれた時,彼らはそれにこたえました。それでイエスは彼らを牧場へ連れ出されました。中東では,羊飼いが自分の羊に一々名前をつけるのが習慣でした。

      15 (イ)一度に群れ全体を呼ぶときに,羊飼いはどんな呼び声を発しますか。羊たちがだまされて「よその者」に従うことがないのはなぜですか。(ロ)それは今日だれにとって,従うべき安全な手本ですか。

      15 しかし,全部の羊を一度に自分のところに集めたい時には,羊飼いは羊全体に通じる呼び声を発します。例えば,ドルルルルルルトというような舌を震わせる音を一定の高さで出すわけですが,その声の質は他の羊飼いがまねのできないものです。そうして「自分のものをみな外に出すと,彼はその前を行き,羊は彼に従います」。羊たちは羊飼いの独特の声の質を聞き分けるからです。その耳は,「よその者」やまねをする者の声を聞き分けるほど敏感です。羊たちは,怪しげな,悪事をたくらんでいるかもしれないそういう「よその者」にだまされて従うようなことはしません。これは,「小さな群れ」を形成する羊のような人々にとって注意深く従うべき良い手本です。王国を彼らに与えることは,彼らを是認する大いなるアブラハムの大変喜びとされるところです。

      16 イエスが話された羊飼いとその群れについての比喩の意味を,ユダヤ人はなぜ理解しませんでしたか。

      16 わたしたちは今日,イエスがそこで語られたことの意味を理解しているでしょうか。律法契約の取り決めの下にいた信仰のないユダヤ人は,イエスが話しておられた比喩がどのように当てはまるのかを理解しませんでした。このことについては次のように記されています。「イエスはこの比喩を彼らに話された。しかし彼らは,自分たちに話されていることがどういう意味なのかわからなかった」。(ヨハネ 10:6)信仰のないユダヤ人はメシアなる羊飼いの声を知らなかったのです。羊飼いも彼らを知らなかったので,彼ら個人の名前を呼びませんでした。彼らは自ら選んで盲目になったので,メシアなる羊飼いを見分けることができなかったのです。わたしたちは今日,彼らのようになりたくないものです。

      「羊の戸口」

      17 ヨハネ 10章7-10節によると,イエスは羊の囲いの他のどんなものにご自分を例えて話されましたか。

      17 ここでイエスは,問題のもう一つの重要な面を例えで示すために,比喩的表現を変えられます。「それゆえイエスは再び言われた,『きわめて真実にあなたがたに言いますが,わたしは羊の戸口です。わたしに代って来た者はみな盗人であり,略奪者です。しかし羊は彼らの言うことを聴きませんでした。わたしは戸口です。だれでもわたしを通って入る者は救われ,その者は出入りして,牧草地を見つけるのです。盗人は,盗み,殺し,滅ぼすためでなければやって来ません。わたしは,彼らが命を得,しかも満ちあふれるほど豊かに得るために来ました」― ヨハネ 10:7-10。

      18 (イ)地上のだれが,象徴的「戸口」としてのイエスに対する「戸口番」として行動しようとしていますか。(ロ)「事物の体制の終結」の特徴として,イエスはどんなクラスのことを語られましたか。このクラスは,「戸口」としてのイエスの「戸口番」として仕えますか。

      18 ご自身が「戸口」であることと関連させて「戸口番」のことを述べておられない点に注目しましょう。イエスは,いわゆる「キリストの代理」,つまり不謬性を有すると主張する,ある教派の首長のことを語っておられるのではありません。イエスは,「わたしは戸口です」と言われました。そして何か月かたってさらにこう言われました。「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」。(ヨハネ 14:6)こう言われたからといって,イエスが「[ご自身の]臨在と事物の体制の終結」にかかわる長い預言をされた際に,「忠実で思慮深い奴隷」すなわち主人が「任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせる」者について確かに予告されたことが意味をなさなくなるわけではありません。(マタイ 24:3,45-47)ここで言われているのは,イエスの忠実で思慮深い追随者からなる「奴隷」級,つまりイエスが,特にこの「事物の体制の終結」の間に,地上にあるご自身の見える持ち物の監督をゆだねる級のことです。けれども,その任命によって「奴隷」級がイエスの「戸口番」になるわけではありません。

      19 アブラハム契約の取り決めという羊の囲いの中にいる者たちは,どれほどの大きさの「群れ」を形成しますか。どの入口を通ることが彼らの救いとなりますか。

      19 イエスは,共に「アブラハムの胤」の一員とされる,ご自分の羊のような追随者にとって象徴的な「戸口」です。ですから彼らは,アブラハム契約の取り決めという「羊の囲い」の中にいます。そしてそれらの人々は羊飼いであるイエスのもとに全部集まってもちょうど14万4,000人の,比較的に「小さな群れ」を形成するに過ぎません。彼らはいわば霊的イスラエルの12部族を形成し,霊的シオンの山に,神の「小羊」,イエス・キリストと共に立っています。(ルカ 12:32。啓示 7:1-8; 14:1-5)彼らが救われて天の相続財産を受けるのは,キリストの代理などのお陰ではなく,「羊の戸口」である方のお陰です。「だれでもわたしを通って入る者は救われ,その者は出入りして,牧草地を見つけるのです」とイエスは言われたからです。(ヨハネ 10:9)天に行く希望を持つ「小さな群れ」に代わって使徒パウロは,「わたしたちの主イエス・キリスト」に言及し,「このキリストを通して,わたしたちは,自分たちがいま立つこの過分のご親切に,信仰によって近づくことができました。それで,神の栄光の希望をよりどころとして,歓喜しようではありませんか」と述べています。―ローマ 5:1,2。エフェソス 2:18; 3:12。

      20 エホバの従属の羊飼いは,彼に「代って来た」「偽キリストや偽預言者」と比べてどのように傑出していましたか。

      20 「事物の体制の終結」に関する預言の中でイエスは,「偽キリスト」や「偽預言者」が起こり,人々を大いにまどわすことを預言されました。彼らは真のキリストに「代って来」ました。そして,欺かれてそういう詐欺師に従った人々は,宗教的に言って盗まれ,実際に殺されないまでも,霊的に殺され,滅ぼされました。(マタイ 24:3,24,25。ヨハネ 10:8,10)一方,イエスは,命を救う者として,また人間に今よりも豊かな命を楽しませる備えをするためにこられました。その命は完全な,永遠の命であり,すべての者を牧する大いなる牧者エホバ神によってつくられる安全に関する規定内にあります。ですから,神の「羊」として永遠の命を得ることを望むなら,エホバ神の従属の羊飼いであり,自己犠牲の精神にも富んでおられるイエス・キリストこそ,わたしたちが従うべき方です。

  • 「りっぱな羊飼い」と「ほかの羊」
    ものみの塔 1980 | 10月15日
    • 「りっぱな羊飼い」と「ほかの羊」

      「また,わたしにはほかの羊もいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければな(りません)」― ヨハネ 10:16。

      1 「りっぱな羊飼い」は「雇われ人」とどのように違いますか。

      りっぱな羊飼いは,賃金だけに関心のある雇われ人とは違います。イエスは言われました。「わたしはりっぱな羊飼いです。りっぱな羊飼いは羊のために自分の魂をなげうちます。雇われ人は,おおよそ羊飼いとは異なり,また羊が自分のものでもないので,おおかみが来るのを見ると,羊たちを見捨てて逃げます ― そしておおかみは彼らをさらい,また散らします ― 彼は雇われ人であり,羊のことを気にかけないからです」― ヨハネ 10:11-13。

      2 (イ)イエスは,「りっぱな羊飼いは羊のために自分の魂をなげうちます」と言って,ご自身がどんな経験をすることを示唆されましたか。(ロ)イエスがご自身の魂をなげうたれたことは,一般に何のためになりましたか。

      2 当時の中東では,羊を牧草地で放し飼いにする場合には様々な危険が伴いました。そのことで思い出すのは羊飼いの少年ダビデのことです。ダビデはある時父エッサイの羊の命を救うために,1頭のくまと1頭のライオンを殺さねばなりませんでした。(サムエル前 17:34-36)イエスは,おおかみが羊を取って食べることについて語られました。おおかみを追い払う時には,羊飼いの身が危険になることもあるでしょう。りっぱな羊飼いは,雇われ人のように自分の身の安全を考えて逃げるのではなく,食肉動物から羊を守ります。「りっぱな羊飼い」は,1匹の羊も失うまいとして,『羊のために自分の魂をなげうつ』ことさえいといません。イエスはこの点に注意を引いて,人間の魂としてのご自分がエホバの「羊」のために死ぬことを予告しておられたのです。しかしイエスは自ら進んで「りっぱな羊飼い」のこの特性にふさわしく行動されました。イエスの天の父で,地上の「羊」の所有者であるエホバ神は,ご自分がこよなく愛しておられる「羊」のためにみ子がその魂をなげうつよう進んで取り計らわれたのです。イエスの人間としての「魂」は,罪を犯したアダムから人類が受け継いでいた死より人類を買い戻すための贖いの犠牲として捧げられました。

      3 (イ)ヨハネ 10章14,15節によると,イエスは父に関連してご自身を何になぞらえておられますか。(ロ)アブラハムに与えられた約束に「小さな群れ」と共にあずかるために,イエスは進んで何を行なわれましたか。

      3 「りっぱな羊飼い」はまた,群れの中の個々の羊と親しくなり,名前をつけ,その名前を呼んで自分のところへこさせ,体をなでてやったり,その羊の必要を満たしたりしてやります。中東の羊飼いが持つこの特性を念頭に置いて,イエスはさらに次のように言われました。「わたしはりっぱな羊飼いであり,自分の羊を知り,わたしの羊もわたしを知っています。ちょうど父がわたしを知っておられ,わたしが父を知っているのと同じです。そしてわたしは羊のために自分の魂をなげうちます」。(ヨハネ 10:14,15)イエスはご自身を象徴的な「羊」と考えておられました。イエスは,「世の罪を取り去る,神の子羊」でした。(ヨハネ 1:29)聖書の巻末の書,啓示の中では,28回「子羊」と呼ばれています。イエスは,アブラハムがその息子イサクの代わりに捧げた子羊によって表わされていたのは自分であるとお考えでした。アブラハムは,エホバの命令に従ってイサクを犠牲として捧げる覚悟のあることを示しました。(創世 22:1-13)イサクはアブラハムに与えられた約束を受け継ぎ,それをヤコブに伝えました。イエスはイサクのようにアブラハムに与えられた約束を受け継ぎ,その約束にご自身の「小さな群れ」と共にあずかるために,自ら進んで犠牲となられました。

      4 イエスは「小さな群れ」を父の手から『奪い取った』のですか。イエスはその「群れ」をどのようにご覧になりましたか。

      4 ですからイエスが,アブラハム契約の取り決めという「羊の囲い」の中の「小さな群れ」の救いに,誠実な関心を抱いておられたことは明らかです。イエスは彼らを,天の父から与えられた高い価値のある贈り物として大切にされました。ですから,「父がわたしに与えてくださったのは,ほかのすべてのものより偉大なものなのであり,だれもそれを父の手から奪い取ることはできません」と,イエスは言われました。―ヨハネ 10:29。

      「わたしにはほかの羊がいます」

      5 イエスが,羊のような人々に天の命を得させることだけでなく,それ以外の救いにも関心を持っておられたことは,何からわかりますか。

      5 キリスト教世界の諸教会は考えも,教えもしないことかもしれませんが,イエスは,人間を救って天の命を得させることだけに関心をお持ちなのではありません。「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,ひとりの羊飼いとなるのです」と,イエスは言われました。(ヨハネ 10:16)では,それらの「ほかの羊」とはだれのことでしょうか。

      6 (イ)キリスト教世界の諸教会は,「この囲い」と「ほかの羊」についてどんなことを教えていますか。(ロ)イエスがルカ 23章43節でパラダイスについて述べておられることと,羊とやぎのたとえ話は何を示していますか。

      6 キリスト教世界の諸教会は,イエスがここで言われている「囲い」にはユダヤ人のクリスチャンだけが入るのであって,「ほかの羊」とは,非ユダヤ人すなわち異邦人でクリスチャンになる人々のことだと主張します。そして,信仰のあるユダヤ人と異邦人は,一つの霊的囲いの中で,「ひとりの羊飼い」の下に「一つの群れ」となる,というのです。しかしこの教えは,この問題と関係のある他の聖句と一致しません。使徒ヨハネの福音書の中には述べられていませんが,イエスは確かにご自身の王国の支配下のパラダイスについて語られ,またご自身の天の共同相続者以外の人々も「羊」として語られました。マタイの記述によると,当時から見て将来になるご自身の臨在と事物の体制の終結の「しるし」に関して預言されたとき,イエスは羊とやぎの例えをもってその預言を終えておられます。それらの「羊」はキリストの霊的「兄弟」とは別です。その羊のような人々は,キリストの霊的「兄弟」たちに対して良い事を行なうのです。―ルカ 23:43。マタイ 24:3; 25:31-46。

      7 ヨハネが,イエスの語られた羊とやぎのたとえ話をよく思い出し,「この囲い」に入れられる数を理解できたのはなぜですか。

      7 使徒ヨハネはそのたとえ話をよく知っていました。というのは,その「しるし」についてひそかにイエスに尋ねて,さらに詳しい預言を聞いたのは,ヨハネとその兄弟ヤコブ,それにペテロとアンデレだったからです。ですからヨハネはその預言を余すところなく聞いたのです。(マルコ 13:3,4)そういうわけで,「ほかの羊」に関するイエスの言葉を記録したとき,ヨハネは,イエスが語られた羊とやぎのたとえ話をよく思い出すことができました。ヨハネは,霊的イスラエルの12部族の成員が14万4,000人しかいないことを明らかにした啓示を与えられた,老齢の使徒でした。したがって,「小さな群れ」を入れる「羊の囲い」には,救われる人々すべてのうちの限られた数の人々しか入れないことをヨハネは知っていました。

      8 使徒パウロは,木に関連して,霊的イスラエルの12部族を何になぞらえましたか。そしてその「木」の主要な部分は予型的に何を表わしましたか。

      8 ローマ人への手紙 11章の中で,使徒パウロは,霊的イスラエルの12部族を,栽培されたオリーブの木の枝に例えています。その象徴的なオリーブの木の根を予表したのは,肉によるイスラエルの民の父祖,族長アブラハムでした。したがって,木の幹は,そのあとに続く族長たち,すなわちイサク,ヤコブ,そして生来のイスラエルの12部族の12人の族長を表わしました。(使徒 7:8)この幹から生え出た枝は,割礼を受けた生来のイスラエル12部族のユダヤ人構成員を表わしました。当然ながら彼らは,「胤」についてアブラハムに与えられた約束,すなわちその「胤」によって地のすべての家族とすべての国の民が自らを祝福し,永遠の命を得る方向に向かうという約束を受け継ぐ者たちでした。そういうわけで,割礼を受けた生来のイスラエルは,「アブラハムの胤」を形成する機会に第一にあずかる人々でした。

      9 それらの性質について言うならば,象徴的な「枝」は何でしたか。したがって真の「根」はだれで,木の幹はだれでしたか。

      9 さて,わたしたちはその「胤」が霊的胤,つまりエホバ神の霊的子となるようにエホバ神によって生み出される胤であることを知っています。エホバ神はその霊的オリーブの木の真の「根」でした。み子イエス・キリストは,大いなるアブラハムであるエホバ神の「胤」の中で第一の,そして絶対に必要な成員です。ですから,イエス・キリストを表わしていたのは,この象徴的なオリーブの木の幹でした。したがって,その木の「枝」は,霊的「アブラハムの胤」の下位の成員としてイエス・キリストの共同相続者となる,忠実な弟子たちを表わすことになります。では,その「枝」の数は限られていなかったのでしょうか。

      10 パウロはローマ 11章11-32節で,その象徴的なオリーブの木には限られた数の「枝」しかないことをどのように示していますか。

      10 使徒パウロの示すところによると,その霊的オリーブの木には限られた数の「枝」しかありません。なぜでしょうか。パウロの指摘するところによると,自然の枝のうちのあるものが折り取られるとき,木は別の自然の枝を出さないからです。その代わりに野生のオリーブの木の枝がそこに接ぎ木されます。ですから,野生のオリーブの枝が接ぎ木されたために木の枝の数が増えることはありません。木の幹についている枝の数はやはり同じです。こうして,割礼を受けた生来のイスラエルが,大いなるアブラハムの主要な胤であるイエス・キリストを信じないで退けたとき,非ユダヤ人すなわち異邦人が,それらの切り離された自然の「枝」のあったところに接ぎ木されました。―ローマ 11:11-32。

      11 ガラテア 3章26-29節でパウロは,霊的イスラエルの囲いの中の人々が,ユダヤ人と異邦人に類別されるべきでないことを,どのように示していますか。

      11 ですから当然,アブラハム契約の木のそれらの枝を,生来のユダヤ人と異邦人というふうに考えるべきではありません。彼らはみな霊的イスラエルと考えられるべきです。この点を強調しているのは使徒パウロです。アブラハムに与えられた約束とアブラハムの胤とについて論じたのち,パウロはさらに次のように述べます。「現にあなたがたはみな,キリスト・イエスに対する信仰によって神の子なのです。キリストへのバプテスマを受けたあなたがたはみなキリストを身に着けたからです。ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく,男性も女性もありません。あなたがたはみなキリスト・イエスと結ばれてひとりの人となっているからです。さらに,キリストに属しているのであれば,あなたがたは実にアブラハムの胤であり,約束に関連した相続人なのです」― ガラテア 3:8,16,26-29。

      12-14 (イ)ガラテア 4章21-31節の中でパウロは,ガラテアのクリスチャンたちに対し,だれが彼らの霊的母であると指摘していますか。(ロ)パウロは「この囲い」の内側にいる「小さな群れ」のユダヤ人の部分を強調しているのですか。

      12 使徒パウロは,西暦50-52年ごろに,ガラテア人にあてて手紙を書きました。それは,エホバが律法契約をみ子イエス・キリストのつけられた木にくぎ付けにされた時から,少なくとも17年あとのことでした。しかし,ガラテアの諸会衆には,アラビアのシナイ山でモーセを仲介として結ばれた律法契約の律法の奴隷になることを望んでいたクリスチャンがいくらかいました。そのために彼らは,キリスト教に反対のユダヤ人に好んで同調する傾向がありました。それらのユダヤ人は,地上のエルサレムと,幼いイエスを殺させようとしたヘロデ大王がそこに建てた物質の神殿とに執着していました。そのエルサレムはハガルが予表したものでした。ハガルはアブラハムの奴隷女で,大いなるモーセとしてのイエス・キリストを受け入れるよりも,依然としてモーセの律法への隷属を望んでいたユダヤ人の母のような存在でした。それでパウロはそのことに関し,次のように書きました。

      13 「それに対し,上なるエルサレムは自由であって,それがわたしたちの母です。……そこで,兄弟たち,わたしたちは,イサクと同じように約束に属する子どもです。……それゆえ,兄弟たち,わたしたちは,下女の子どもではなく,自由の女の子どもなのです。キリストは,このような自由のためにわたしたちを自由にしてくださったのです。ですから,しっかり立ち,再び奴隷のくびきにつながれないようにしなさい」― ガラテア 4:21から5:1。

      14 アブラハムの子イサクは,ユダヤ人でもイスラエル人でもありませんでした。アブラハムの自由の女サラの息子であったイサクは,ヤコブの父でした。このヤコブが,イスラエルという名前を与えられ,またユダの父親となったのです。りっぱな羊飼いイエス・キリストの「この囲い」の中の「小さな群れ」に属するクリスチャンは,アブラハムに与えられた約束の相続人である点でイサクに似ています。ユダヤ人ではなくてヘブライ人だったイサクの母,サラが予表していた天のエルサレムは,彼らの霊的母です。

      15,16 ヨハネ 10章16-18節の中で,イエスは,「ひとりの羊飼い」となるためにわたしは「ほかの羊」をひとつの「囲い」に連れてこなければならない,と言っておられるのですか。

      15 複合の「アブラハムの胤」の成員を入れる「羊の囲い」について語ったあと,イエスはさらに次のように述べて,別の面を打ち出されました。「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,ひとりの羊飼いとなるのです。このゆえに父はわたしを愛してくださいます。すなわち,わたしが自分の魂をなげうつからであり,それは,わたしがそれを再び受けるようになるためです。だれもわたしからそれを取り去ったわけではなく,わたしはそれを自分からなげうつのです。わたしはそれをなげうつ権限があり,またそれを再び受ける権限があります。これに関するおきてをわたしは自分の父から受けました」― ヨハネ 10:16-18。

      16 ここで注目したいのは,イエスが,これらの「ほかの羊」を「この囲い」の中に『連れて来なければならない』とおっしゃっていない点です。「彼らは……一つの群れ……となる」と,イエスは言っておられます。そうなるのは,「ひとりの羊飼い」しかいないからです。

      17 イエスが「この囲い」のことを取り上げ,それからすらすらとよどみなく「ほかの羊」のことに話を移しておられることから,どんなことが論じられる可能性がありますか。しかしそれは本当に真実ですか。

      17 ところで,イエスが「この囲い」のことを取り上げ,それからよどみなくすらすらと「ほかの羊」の紹介に移っておられるので,読者はその二つの活動が,間に長い時間を置かずに,相次いですぐに起こるものと考えるかもしれません。まして何世紀もの隔たりがあるとは考えないでしょう。また,同じ理由で,次のようにも考えるかもしれません。使徒時代におけるクリスチャン会衆の発展の歴史からすると,イエスは「この囲い」に,非ユダヤ人すなわち異邦人を連れて来ることを言っておられるに違いない,だから,結局イエスはここで,遠い先の事柄にかかわる長期的預言をしておられるのではないのだ,と。しかしその結論は必ずしも正しいとは言えません。「この囲い」と「一つの群れ」とが区別されてはいません。―啓示 7:8,9と比較してください。

      18 イエスは長期的預言をすることができましたか。地のすべての家族の祝福は,それより前に何がなされるのを待たねばなりませんか。

      18 イエスには預言者の洞察力がありましたから,1,900年後に実現するものとはいえ,羊とやぎのたとえ話をすることができました。イエスは,約束された「アブラハムの胤」の基礎的成員でした。ですからその胤によって,人類のすべての家族,すべての国の民が自らを永久に祝福して救いにあずかることに非常に深い関心をお持ちでした。その祝福を得るには,複合の「アブラハムの胤」の,キリストに属する14万4,000人の成員が満ちるのを待たねばなりませんでした。それには19世紀という時間がかかります。歴史上の事実がそのことを物語っています。自らを祝福する人々が,すべての家族,すべての国の民の中の羊のような人々であることは確かですが,その人々は「ほかの羊」です。アブラハムに与えられた約束の相続者の「この囲い」のものではないからです。ですから霊的イスラエル人ではあり得ません。比較して言えば異邦人です。

      19 啓示 7章の中で先に述べられている事柄から考えると,啓示 7章9-17節の中で描写されている「大群衆」を構成するのはだれですか。

      19 このこととぴったり一致しているのは次の事実です。すなわち,使徒ヨハネが,啓示 7章1-8節に描写しているように,霊的イスラエルの12部族に証印が押されるのを見たあと,霊的イスラエルではない,したがって「ほかの羊」である,数えつくすことのできない「大群衆」の幻を見た,ということです。ヨハネは,彼らが神のみ座の前に立ち,「救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊とによります」と言っているところを見ました。この人々は「大患難」を生き残ると言われています。彼らはエホバ神の神殿で昼も夜もエホバ神に神聖な奉仕をささげます。「りっぱな羊飼い」はそれらの「ほかの羊」をやさしく世話します。「子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれる」と書かれています。―啓示 7:9-17。

      20 「大群衆」の幻はいつどこで成就しはじめましたか。それにはどんな証拠が伴いましたか。

      20 啓示 7章に述べられている物事の順序に従って,啓示にある「大群衆」の幻に関する説明が行なわれたのは1935年の春で,1914年に「事物の体制の終結」が始まってから20年後のことでした。その説明は,1935年5月31日,アメリカ合衆国の首都で開かれた大会で行なわれました。ものみの塔聖書冊子協会のJ・F・ラザフォード会長はそのとき,「大いなる群衆」という題の講演を行ない,それが第2位の天的クラスではなくて地的クラスであること,つまり「りっぱな羊飼い」の「ほかの羊」であることを説明しました。そしてこの情報は後ほど「ものみの塔」誌に掲載されました。「りっぱな羊飼い」はそのとき確かに「ほかの羊」を連れて来ることを始め,「ほかの羊」は彼の声を聴いて彼に従うようになりました。啓示 7章9-15節についての説明があった翌日,840人もの人が,キリストを通して神に献身したことを水のバプテスマによって表わしたからです。その人々の大半は,キリストの「ほかの羊」の「大いなる群衆」に属する者であることを告白しました。―欽定訳

      21 (イ)ですから「りっぱな羊飼い」は,「小さな群れ」以外のだれのためにも自分の魂をなげうちましたか。(ロ)この羊飼いはどのように再び魂を受けましたか。それはだれの愛の表われでしたか。

      21 「りっぱな羊飼い」は,アブラハムに与えられた約束を受け継ぐ者の「囲い」に属さないそれら「ほかの羊」のためにも,その「魂」をなげうたれたのです。アブラハムの「胤」に属する人々の一人であった使徒ヨハネは,「彼[イエス・キリスト]はわたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたちの罪のためだけではなく,全世界の罪のためでもあります」と書きました。(ヨハネ第一 2:1,2)み子がこのことを行なうので,天の父エホバ神はみ子を愛されました。そのことを心から感謝しておられたイエス,すなわち「りっぱな羊飼い」は,ユダヤ人の中の,ご自身を憎む者たちの前で,「このゆえに父はわたしを愛してくださいます。すなわち,わたしが自分の魂をなげうつからであり,それは,わたしがそれを再び受けるようになるためです」とおっしゃいました。(ヨハネ 10:17)そのみ父は,イエスを三日目に死人の中からよみがえらせて,自己犠牲の精神に富むこの「りっぱな羊飼い」に対する愛を表明されました。こうして神のみ子は「魂」を受けました。つまり,再び天的レベルの命を持つ存在に戻されたのです。

      22 イエスの殺害計画が立てられたにもかかわらず,ヨハネ 10章18節に記録されている言葉をイエスが語られるまで,だれもイエスの命を取り去っていないのはなぜですか。

      22 イエスが「ほかの羊」の話をされる時までに,この「りっぱな羊飼い」の命を取ろうとする試みは幾度かなされていました。しかしイエスは,人々の手にかかって死んでも仕方のないような事柄は何一つなさいませんでした。このことから,イエスがなぜ次のように言われたかがわかります。「だれもわたしからそれを取り去ったわけではなく,わたしはそれを自分からなげうつのです。わたしはそれをなげうつ権限があり,またそれを再び受ける権限があります。これに関するおきてをわたしは自分の父から受けました」― ヨハネ 10:18。

      23 イエスはいつ,人間としての自分の魂を自らなげうたれましたか。なぜですか。

      23 それから数か月たって,この言葉の正しさが証明されました。ゲッセマネの園でイエスが敵の手に渡された夜のこと,弟子のペテロが剣でイエスを守ろうとしたとき,イエスは,「あなたは,わたしが父に訴えて,この瞬間に十二軍団以上のみ使いを備えていただくことができないとでも考えるのですか。そのようにしたなら,必ずこうなると述べる聖書はどうして成就するでしょうか」と言われました。(マタイ 26:53,54)ですからイエスは,使徒たちをご自分のそばから去らせたのち,イエスを捕らえに,またイエスを殺させる最後の企てを実行するために来ていた群衆に,ご自分から身をお渡しになりました。そうして身を渡しても,イエスは命をむだにされたわけではありません。

      24 イエスはご自身の魂に関するどんな全き権限を父からお受けになりましたか。その権限の行使を阻もうとする最後の試みはどのように失敗しましたか。

      24 イエスはこの道を歩む権限を天の父から得ておられましたが,そうするかどうかは,イエスの自由意志に任されていました。復活によって再び魂を受ける権限は,進んで自分をなげうつかどうかにかかっていました。しかし実際にご自身の魂を死に渡されたので,イエスは,死人の中より自分をよみがえらせ得る唯一の方の手からそれを再び受ける権限を,天の父から与えられました。イエスがご自身の「魂」すなわち命を再び受けるこの権限を妨害し得る権力は,天にも地にもありませんでした。したがって,イエスが木の上で死んで葬られた墓の入口をふさいでいた大きな石になされた知事の封印も,イエスの弟子たちに遺体を盗まれないよう墓に配置された番兵も,イエスが,神から与えられた権限を死後三日目に行使することを妨害できませんでした。―マタイ 27:62から28:15。

      25 イエスは,神に背いてご自身の人間としての命を失われたのではありません。ではそれを人類のために用いることはどのように可能になりましたか。

      25 実際にイエスは,このすべてを行なうようにとの天の父のご命令の下にありました。ですからイエスの死後三日目に,エホバ神は従順なみ子に対し,死人の中からよみがえり,天の父のいます霊の領域で再び命を受けるようにとの命令をお出しになりました。神に背いて命を失ったわけではありませんでしたから,イエスは,天の神殿でエホバ神に提出し,全世界の罪のためになだめの供え物とすることができるよう,完全な人間の命の権利と資格をもお受けになりました。

      26 (イ)こうして地のすべての家族が何をする道が開かれましたか。(ロ)イエスの「ほかの羊」の「大群衆」は注目に値する事柄としていつから自らを祝福しはじめましたか。

      26 こうして,世のすべての家族とすべての国の民が「アブラハムの胤」のうちの主要な胤によって「自らを祝福する」道が開かれました。(創世 12:1-3; 22:15-18,新)りっぱな羊飼いの「ほかの羊」の「大群衆」は,りっぱな羊飼いを通してエホバ神に献身し,水のバプテスマによってその献身を表わしたとき,りっぱな羊飼いによって「自らを祝福」しはじめました。そのとき彼らはりっぱな羊飼いの声を聴き,アブラハムの胤の油そそがれた残りの者と共に彼に従いました。このことが始まったのは,1935年のワシントン(特別区)大会のときで,注目に値するものでした。それ以来,油そそがれた残りの者は「ほかの羊」すべてを歓迎して来ました。ですからイエスの予告通り,「ひとりの羊飼い」の下に「一つの群れ」となりました。

      27 「大患難」を生き残る「大群衆」のほかにだれが,りっぱな羊飼いの「ほかの羊」に加わりますか。それはいつですか。

      27 「ひとりの羊飼い」,すなわち王位にあるイエス・キリストの千年統治期間中に,請け出されている死者はすべて死の眠りから覚め,りっぱな羊飼いの「ほかの羊」の一員となることによって「自らを祝福する」機会を得るでしょう。その中には,アブラハム契約の取り決めを表わす「羊の囲い」の以前の「戸口番」,つまりバプテスマを施す人ヨハネもいることでしょう。(ヨハネ 10:1-3)そしてイエスは従順な者たちを「命の水の泉」に導かれるでしょう。復活する幾十億もの人々は「命の水の泉」を利用するでしょうから,その人々にとって,来たるべき「大患難」を生き残る「大群衆」はありがたい存在となるでしょう。(啓示 7:9-17)羊のような人々はみな「大群衆」に加わって,「救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊とによります」と言うことができるでしょう。―啓示 7:10; 20:11-14。

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