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神の支配権を行使する主要な代理者を生み出すものみの塔 1973 | 2月15日
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我がエホバなるを知るにいたらん」― エゼキエル 14:7,8。
19 (イ)不忠節なイスラエル人のバアルペオルに対する献身は,他の献身を含みますか。(ロ)バアルペオルのために分離したと言う代わりに,民数紀略 25章3節は明確になんと述べていますか。
19 このように,そのことばは,それら分離したイスラエル人が,最初はエホバ神と契約関係にあったこと,そして彼らの先祖たちが,仲介者モーセに向かって,『エホバの宣うところはみなわれらこれをなしてしたがうべし』と言うことによって彼らをその契約に入れたことを示しています。(出エジプト 24:7; 19:8)しかし今,彼らはその契約を破棄し偶像崇拝に走ることによってエホバへの献身をやめ,偶像として崇拝されていた物に献身していました。民数紀略 25章3節は,イスラエル人がバアルのために分離したと言う代わりに,明確に,『イスラエルかくバアルに付きければ[奉仕した,改訂標準訳; アメリカ訳; 隷従した,ロザハム訳; 加わった,ヤング訳; モファット訳; リーサー訳; エルサレム聖書; 5節も同じ]』と述べています。もしわたしたちがエホバ神となんらかの関係を持っているなら,これは今日のわたしたちに対して警告となるべきものです。(コリント前 10:6,11)わたしたちはそれと同じ致命的な誤りを犯したくはありません。それは神聖な支配者に対する不忠節を,あるいは反逆を意味します。
新しい契約へ導く
20 (イ)最初の契約には難点がなかったわけではありません。なぜですか。そのために何が待たれましたか。(ロ)どの預言者を通して新しい契約は予告されましたか。モーセはよりすぐれた仲介者についてなんと述べましたか。
20 エホバがモーセを通して,献身したイスラエルの民と結ばれた契約は,「不定の期間にわたる契約」でした。イスラエル人と彼らの仲介者モーセが不完全であったために,シナイ山で結ばれた契約には難点が全くなかったわけではありません。そのためによりよい契約,新しい契約が待たれました。それでエホバ神は新しい契約を意図され,その二番目の契約にいれられる特権は生来のイスラエルの民に提供されることになっていました。この新しい契約が新しい仲介者を通して成立する600年以上前に,エホバはそのことを,そのよりすぐれた仲介者の到来前の7世紀に住んでいた預言者エレミヤを通して預言されました。(エレミヤ 31:31-34。ヘブル 8:6-13)このよりすぐれた,より偉大な仲介者の来ることは,預言者モーセによって予告されていました。モーセのことばによると,そのきたるべき仲介者はイスラエル人の中から起こされます。彼は生来のイスラエル人です。―申命 18:15-19。使行 3:22,23; 7:37,38。
21 (イ)いつ,どこで,そしてどんな発表とともにこのよりすぐれた仲介者は誕生しましたか。(ロ)イエスはなぜユダヤ人の過越を祝いましたか。その最後の祝いの席上でイエスはご自分が何であることを明らかにしましたか。どのように?
21 西暦前2年,そのよりすぐれた仲介者は,ダビデの町ベツレヘムで,ダビデの子孫として生まれました。彼は同時に神の子でもありました。その誕生にさいして神のみ使いは,ベツレヘム近くの野原にいた羊飼いたちに次のように高らかに告げました。『この民,一般におよぶべき,大いなる歓喜の音信を我なんじらに告ぐ,きょうダビデの町にて汝らのために救主うまれたまえり,これ主キリストなり』。(ルカ 2:10,11)ユダヤ人の母親から生まれたので,この「主キリスト」となる人は生来のユダヤ人であり,またモーセが神とイスラエルの間の仲介者となってつくられた律法契約の下にありました。これを確認するものとして,ガラテヤ書 4章4節には次のようにしるされています。『されど時満つるにおよびては,神その御子を遣わし,これを女より生まれしめ,律法の下に生まれしめ給えり」。イスラエルとの契約の律法の下にいたために,イエス・キリストは過越の夕食を祝いました。西暦33年の最後の過越の祝いの席上で,イエス・キリストは,自分が,約束されていた新しい契約の仲介者であることを示しました。どのようにしてそれを示しましたか。主の夕食と呼ばれているものを開始され,ぶどう酒の杯を彼の忠実な使徒たちに渡したときに次のように言われました。『この酒杯は汝らのために流す我が血によりて立つる新しき契約なり』。(ルカ 22:20)イエスはその契約を有効にするためにご自分の血を流されたのです。
22 (イ)イエスは,新しい契約の仲介者になることをいつ引き受けましたか。(ロ)なぜヨハネは最初イエスにバプテスマを施すことをためらいましたか。
22 しかしながら,主イエスは,預言者モーセの場合と同じく,新しい契約の仲介者となることを引き受けなければなりませんでした。イエスはいつそれを引き受けましたか。ヨルダン川でバプテスマを受けた時です。30歳の時にナザレの大工の仕事場を去り,水の浸礼を施してもらうためにバプテスマのヨハネのところに行きました。ヨハネにとってそれは新しいバプテスマでした。マルコ伝 1章4節(口語)に書かれているように,その時までは,「バプテスマのヨハネが荒野に現れて,罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた」のです。(ルカ 3:3)しかし,神の子イエスは,罪のゆるしを得るための悔い改めの象徴としてバプテスマを受けるために,バプテスマのヨハネのところへ来たのではありません。イエスは完全で罪がありませんでした。(ヘブル 7:26)イエスはやましい良心をいだいてヨハネのもとに来て,「明らかな良心を神に願い求め」ようとしたのではありません。(ペテロ前 3:21,口語)ヨハネはそのことを知っていました。ヨハネは「それを思いとどまらせようとして言った,『わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに,あなたがわたしのところにおいでになるのですか』」と書かれているのはそのためです。しかしイエスはなんと答えましたか。
23 イエスはヨハネにどのように答えましたか。また,イエスは律法を守ってきたのになぜ,「すべての正しいことを成就するのは,われわれにとってふさわしいことである」と言われましたか。
23 「しかし,イエスは答えて言われた,『今は受けさせてもらいたい。このように,すべての正しいことを成就するのは,われわれにふさわしいことである』」。(マタイ 3:13-15,口語)イエスはどういう意味でそう言ったのでしょうか。イエスは生来のユダヤ人として,モーセの契約を完全に守りました。この点にかんしてイエスは後日,山上の垂訓の中で,「わたしが律法や預言者を廃するためにきた,と思ってはならない。廃するためではなく,成就するためにきたのである」と言われました。(マタイ 5:17,口語)言うまでもなく,イスラエルと律法契約を結んだことは神の意志でした。しかしイエスは,地上での生活において,バプテスマを受ける時までずっと,神の意志を行なってきました。ですから,「すべての正しいこと」というイエスのことばは,律法契約以上の,しかも律法契約の象徴的な主眼点を成就するものとなる何物かを意味しました。これが「すべての正しいこと」でした。というのは,イエスがそれを成し遂げるのは,神の意志だったからです。したがって,イエスがバプテスマの時に引き受けたのは,それを行なうことでした。
24 ヘブル書 10章5-10節によると,イエスはご自分をバプテスマのために差し出すことによってどの特定の預言を成就していましたか。
24 バプテスマのために自分の身を差し出すことによってイエスは実際に,ご自分が言われたとおりに,「預言者」のことばを成就したのです。使徒パウロは,ヘブル書 10章5節から10節の中で,イエスがどの預言を成就したかを示しています。そこには,イエスがバプテスマを受けにこられた時について書かれています。『このゆえにキリスト世にきたるとき言い給う「なんじ犠牲と供物とを欲せず,ただわがためにからだを備えたまえり。なんじ燔祭と罪祭とをよろこび給わず,その時われ言う『神よ,我なんじの〔意志〕を行なわんとてきたる』我につきて書の巻にしるされたるがごとし」と。…この〔意志〕に適いてイエス・キリストのからだの一たび献げられしによりて我らは潔められたり』〔新〕。イエスはそのようにして詩篇 40篇6節から8節を成就していたのです。神の『意志』は,イエスがご自身を,その『からだ』を犠牲としてささげることを要求したのです。
25 (イ)ではイエスの水のバプテスマは何の象徴でしたか。(ロ)イエスはすでにどのようにささげられ,あがなわれていましたか。
25 預言がそれを要求していた以上,神の特別の意志を行なうべく来ることをせず,したがって,バプテスマのためにご自分の身をヨハネに差し出さなかったとするなら,イエスはやましい良心を持つことになったでしょう。イエスの受浸が象徴的なものであったことは明らかです。イエスのバプテスマは,「悔い改めの象徴としてのバプテスマ」ではありませんでした。それはイエスが神の意志を行なうために来る,すなわちご自身を差し出すことの象徴で,その神の『意志』には,イエスのからだを犠牲としてひとたびささげることが含まれていました。イエスは生来のユダヤ人でしたから,すでにモーセの律法の下にあり,当時の地上にあって『エホバの言いたまいしところ(を)みな』行なうべく神に献身していた唯一の国民の一員でした。また,マリヤの長子でしたし,マリヤの夫ヨセフはその長子を自分自身の長子として養子にしていましたから,イエスはエホバのために聖別されており,エホバのものでした。(出エジプト 13:1,2)その理由で,イエスが世俗の仕事に携わるためには,イエスはヨセフとマリヤによってあがなわれなければなりませんでした。(民数 3:13-51; 18:14-16)ですからイエスのバプテスマは,神へのイエスの献身を表わすものではなく,自分を犠牲にするに至るまでも神の意志を行なうために,自分自身をささげることを表わしました。
26 (イ)自分自身をささげたイエスを受け入れたことを,神はどのように示されましたか。(ロ)イエスはどこまでその神の『意志』を行ないましたか。
26 エホバ神はバプテスマを受けたイエスに聖霊をそそぎ,天から声を出して,「これは我が愛しむ子,わがよろこぶ者なり」と述べ,ご自分のみ子イエスが自分自身をささげたのを受け入れたことを表わされました。(マタイ 3:16,17)それ以来バプテスマのヨハネは,油そそがれたイエスを「世の罪を取り除く神の小羊」として公けに知らせました。(ヨハネ 1:28-36,口語。使行 10:37,38)イエスは人間として地上にいたとき,最後に至るまで神の意志を遂行しました。自然の人間のからだをもって地上にいた最後の夜,イエスは神に祈り,こう言われました。『わが父よ,もし得べくばこの酒杯を我より過ぎ去らせ給え。されど我が意のままにとにはあらず,〔ご意志〕のままになし給え』。(マタイ 26:39-44〔新〕)翌日の午後3時ごろ,イエスは刑柱にかけられていた時,ヨハネ伝 19章30節(口語)が伝えているように,『すべてが終った』と言われ,首をたれて息をひきとられた」のです。こうして,神のご意志どおり,イエスのからだはひとたびささげられました。
27 (イ)イエス・キリストはどんな復活を受けましたか。なぜですか。(ロ)その時イエスはどのように全人類を所有するに至りましたか。そのために将来,死者に何が起こりますか。
27 完全な人間のからだを犠牲としてささげたことと調和して,イエス・キリストは三日めに死から,血肉のからだではなくて霊のからだによみがえらされました。(ペテロ前 3:18。コリント前 15:42-45)そして復活から40日めに天にのぼり,そこで,全人類のための,ご自分の人間としての犠牲の価値もしくは功績を神に差し出されました。イエスは地上にいたとき,わたしが来たのは,『つかうることをなし,またおおくの人のあがないとして己が生命を与えんためなり』と言われました。(マタイ 20:28)使徒パウロは,イエスが「死の苦難を受」けたことについて語り,『これ神の恩恵によりて万民のために死を味ひ給わんとてなり』と述べています。またパウロは,『人なるキリスト・イエス』は『己を与えてすべての人の贖価となり給えり』とも述べています。(ヘブル 2:9。テモテ前 2:5,6)こうしてイエスは,ご自分の人間としての犠牲の生命の価値を神に差し出すことによって,全人類をあがない,彼らから要望されなくても,全人類を買い取られたのです。そういう理由から,イエスの天の王国の支配下では,「義者と不義者との復活」があります。(使行 24:15)イエス・キリストは彼らを所有されます。
28 (イ)それで復活したイエス・キリストは,人類の救いにかんして何になりましたか。(ロ)イエス・キリストはまたどんなより偉大なものの主要な代理者として奉仕しますか。
28 こういう方法で,神の子イエス・キリストは,神の『意志』にしたがい,全人類に対して,救いの主要な代理者となられました。ヘブル書 2章9,10節からわたしたちが理解するのはそのことです。そこにはこうしるされています。『ただみ使いよりも少しく卑くせられしイエスの,死の苦難を受くるによりて栄光と尊貴とを冠らせられ給えるを見る。これ神の恩恵によりて万民のために死を味い給わんとてなり。それ多くの子を光栄に導くに,その救いの〔主要な代理者〕を苦難によりて全うし給うは,万の物の帰するところ,万の物を造りたもうところの者にふさわしきことなり』。そして,ヘブル書 5章9,10節にはこう書かれています。『かつ全うせられたれば,すべて己に順う者のために永遠の救いの原となりて,神よりメルキゼデクの位に等しき大祭司と称えられ給えり』。このかたは,神の支配権を行使する主要な代理者として奉仕するにふさわしい者であることを証明したのです。
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神の支配権を行使する主要な代理者に従うものみの塔 1973 | 2月15日
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神の支配権を行使する主要な代理者に従う
1 (イ)今や新しい契約について言えば,割礼を受けた生来のユダヤ人の父祖たちがシナイ山のふもとで行なった決定は,なぜこれらのユダヤ人のためには役に立ちませんでしたか。(ロ)それらのユダヤ人はだれに,またどんな仕方で見習わねばなりませんでしたか。
イエス・キリストが天のエホバ神のみまえに上り,ご自分の人間としての犠牲の貴重な価値をエホバにささげて以来,割礼を受けた生来のユダヤ人にとって,物事の事情はそれまでと同じではありませんでした。イエスのそうした行為によって,古いモーセの契約は取り消され,新しい契約が神のみ子,つまりその契約の仲介者の血をもって有効にされたのです。この新しい契約に入れられる機会は,まず生来のユダヤ人に差し伸べられました。彼らの15世紀前の父祖たちは,かつて仲介者モーセに向かって,『われわれはエホバが言われたことを,みな行ないます』と宣言しました。しかし,新しい契約についていえば,これは彼らの子孫のためには役に立ちませんでした。この,後の契約には,モーセより偉大な新しい仲介者,すなわちイエス・キリストがいました。その新しい契約に入れられるためには,この,よりすぐれた,そしてより偉大な仲介者に対して,『われわれはエホバが言われたことを,みな行ない,従順に従います』と答えなければなりません
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