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  • 「言葉」はヨハネによるとだれですか
    ものみの塔 1962 | 11月1日
    • 31節,6章46節,8章47節,12章17節,18章37節に出ています。しかし,称号とか名前として出ているのではありません。それで,それらの節の中の四つでは,それはイエスに適用せず,他の人々に適用します。しかし使徒ヨハネは,黙示録の中で,ホ・オンという言葉を称号としてたしかに5回用いています。すなわち,黙示録 1章4,8節,4章8節。11章17節。16章5節です。しかし,これら五つの場合において,ホ・オンという言葉は全能者なるエホバ神に適用されるのであって,神の小羊,すなわち神の言葉に適用されません。

      23 たとえば,黙示録 1章4,8節(欽定訳)は次のようです,「ヨハネ書をアジアに在る七つの教会におくる。願くは今いまし〔ホ・オン〕,昔いまし,後来りたまう者および其の御座の前にある七つの霊から,あなたがたに恵みと平和があるように」。「今いまし〔ホ・オン〕,昔いまし,後きたり給う主なる全能の神いい給う,我はアルパなり,オメガなり」。黙示録 4章8節は,ホ・オンを天の御座についている全能の主なる神に適用しており,黙示録 5章6,7節は神の羊が後日彼のところに来ると示しています。黙示録 11章17節は,ホ・オンを王として支配するために力を取る全能の主なる神に適用しています。黙示録 16章5節は,ホ・オンをさばき主として行動される主なる神に適用します。したがって,ヨハネ伝 8章58節を用いて「三位一体の神」を証明しようとする牧師たちの試みは失敗です。なぜなら,ジェームスモハット博士の訳した訳,アメリカ訳および他の訳によっても,イエスはその節で次のように言っているに過ぎません。すなわち彼は人間になる前に天で御父とともに存在しており,人間以前の存在はアブラハムの生まれぬ前から始まっていたというのです。

      似ているが下位

      24 三位一体論者は,ヨハネ 14章9節についてどのように論じますか。しかしイエスはどういう意味で「我を見し者は父を見しなり」と言われましたか。

      24 しかし,使徒ピリポに語ったイエスの言葉を忘れてはいないかと,三位一体論者は反対意見を述べます。その言葉は何でしたか。こうです,「ピリポ,我かく久しく汝らとともに居りしに,我を知らぬか。我を見し者は父を見しなり」。(ヨハネ 14:9)その通りです。しかし,それはイエスが『我は父なり』と言うこととはだいぶちがいます。イエスはピリポと他の忠実な使徒たちに,彼は自分の父なる神のところに行くと告げたばかりです。では,そのときイエスを見ていたピリポが御父を見ていたと,イエスはどうして言うことができましたか。イエスはそのことを意味しなかったでしょう。彼は御父なる神を自分からはなしていました。彼は次のようにも述べています,「神を信じ,また我を信ぜよ」。(ヨハネ 14:1)もしイエスが神であるなら,なぜ「また我を」という言葉が必要ですか。ピリポは,「主よ,父を我らに示したまえ」とイエスに求めました。そして,イエスは,彼らにいつも御父を示して来たではないかと答えました。彼は,彼の天の御父がだれであるかを説明して来ました。彼は,彼の天の御父がどのような方であるかを示して来ました。彼は天の御父にならいました。彼は御父のようでした。まったく,彼は御父のようであったため,イエスを見た者はあたかも彼の御父を見るのと同じようでした。

      25,26 (イ)ヨハネ 1章18節を考えて見ると,イエスが,使徒たちはみ父を見ていたと言われるはずがありませんが,なぜですか。(ロ)イエスは,ヨハネ伝 5章37節で,イエスが神でないことを証明するどんなことをユダヤ人に話しましたか。

      25 イエスは「我を見し者は父を見しなり」と言われましたが,イエスが父として呼びかけた神を使徒たちが見ていたという意味で言われたのではありません。イエスがその言葉を語ってから多くの年月の後に,使徒ヨハネは次のように書きました,「言は肉体となり我らの中に宿りたまへり,我らその栄光を見たり,実に父の独子の栄光にして恩恵と真理とにて満てり,…恩恵と真理とはイエス・キリストによりて来れるなり。未だ神を見し者なし,ただ父の懐裡にいます独子の神のみ之をあらはし給へり」。(ヨハネ 1:14,17,18)イエスは,神を彼の父と述べ,神を説明し,神についていろいろと話をし,神のごとく行なうことにより,イエスを見た使徒たちは彼の父なる神をも見たという趣旨の言葉を告げることができました。

      26 それで,イエスはユダヤ人にこう告げました,「我をおくり給ひし父も,我につきて証し給へり。汝らは未だその御声を聞きし事なく,その御形を見し事なし」。(ヨハネ 5:37)しかし,それらのユダヤ人はイエスのかたちを見て,彼の声を聞きました。また,イエスは彼らに次のことを告げました,すなわちもし彼らが預言者モーセを信じたなら,彼らは彼をも信じたであろうということです。また,イエスはモーセの書きものから神が山上でモーセに「汝はわが面を見ること能はず我を見て生る人あらざればなり」と告げられた言葉を知っていました。(出エジプト 33:20)しかし,それらのユダヤ人はイエスを見て生きました。すると,イエスが神でないということが証明されます。したがって,ヨハネ伝 14章9節も,イエスが神なることを証明しません。

      27 イエスはご自身をどのように生徒にたとえましたか。そして神に対してご自分をどのような地位に置きましたか。

      27 それで,イエスが彼自身を神と語ったこともなく,彼自身を神と呼んだこともないことに,私たちは再び気づきます。彼は神と平等になろうとせず,いつでも神の下に自分を置きました。彼は神の弟子の地位に自分を置き次のように言われました,「わが己によりて何事をも為さず,ただ父の我に教へ給ひしごとく,これらのことを語りたる」。(ヨハネ 8:28)神はイエスの先生でした。そして生徒なるイエスは,先生である神よりも上ではなく,また神と平等ではありませんでした。それで,イエスは御自身を神の制度シオンの他の子供たちと同級に入れました。イエスは彼らについて,次のように言われています,「預言者たちの書に『彼らみな神に教えられん』と録されたり。すべて父より聴きて学びし者は我にきたる」。(ヨハネ 6:45。イザヤ 54:13)御父の弟子あるいは生徒として,イエスはいつでも御父から物事を学びました。

      28 それで学ぶ者として,イエスはみ父を尊敬してご自分が何をしていると言われましたか。

      28 このことについてヨハネ伝 8章25-27節は次のように述べています,「イエス言ひ給ふ……我を遣し給ひし者は真なり,我は彼に聴きしその事を世に告ぐるなり これは父をさして言ひ給へるを,彼らは悟らざりき」。後にイエスはユダヤ人にこう語りました,「汝らは今,神〔ホ・セオス〕より聴きたる真理を汝らに告ぐる者〔ギリシャ語でアンスロポス〕なる我を殺さんと謀る」。イエスは忠実な使徒たちにこう言われました,「我なんぢらを友と呼べり,我が父に聴きし凡てのことを汝らに知らせたればなり」。―ヨハネ 8:40; 15:15。

      29 したがってイエスは,み父がイエスに対しどんなことをされたと言われましたか。このことは,神との比較においてイエスにつき何を証明しますか。

      29 イエスは,聴いた者として,教えを受けた者として,いつでも彼が天の御父から遣わされた者としてくり返し語っていました。たとえば,ヨハネ伝 12章44,45,49,50節(新口)は次のように述べています,「イエスは大声で言われた,『わたしを信じる者は,わたしを信じるのではなく,わたしをつかわされたかたを信じるのであり,また,わたしを見る者は,わたしをつかわされたかたを見るのである。わたしは自分から語ったのではなく,わたしをつかわされた父ご自身が,わたしの言うべきこと,語るべきことをお命じになったのである。わたしは,この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに,わたしが語っていることは,わたしの父がわたしに仰せになったことを,そのまま語っているのである」。彼がつかわされたという事実は,彼が神と等しくなく,御父なる神よりも低いということを証明します。

      30 イエスは,ご自分で述べられた規則によって,彼がみ父と同じほど偉大であるかどうかをどのように示しましたか。

      30 このことは,使徒たちに述べたイエス自身の規則からも当然です,「僕はその主人にまさるものではなく,つかわされた者は,つかわした者にまさるものではない」。(ヨハネ 13:16,新口)神はイエスよりも偉大な御方であって,イエスをつかわしました。同じくイエスは弟子たちよりも偉大な御方であって,彼らをつかわしました。イエスはこの比較をされて弟子たちにこう言われました,「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように,わたしもまたあなたがたをつかわす」。(ヨハネ 20:21,新口)それで大きな者は小さなものをつかわします。

      31 それで,身体的に空腹でも,イエスの食物は何でしたか。

      31 イエスは使命を果たすためにつかわされました。したがって,彼は自分の意志を行なうため,また肉に従って自分自身をよろこばすために,来たのではありません。彼は,彼をつかわされた偉大な御方の御心を行なうために来ました。彼は肉体的に空腹であっても,神の御心を行ないました。彼は次のように言われています,「わたしの食物というのは,わたしをつかわされたかたのみこころを行い,そのみわざをなし遂げることである」。―ヨハネ 4:34,新口。

      32 イエスはどこからつかわされましたか。それでどこでイエスは神より低い者でしたか。

      32 イエスが地上に人間として居られたときに初めてつかわされたのでなく,彼は天からつかわされたのです。彼はそれを証する次の言葉を述べました,「わたしが天から下ってきたのは,自分のこころのままを行うためではなく,わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。わたしをつかわされたかたのみこころは,わたしに与えて下さった者を,わたしがひとりも失わず………」。(ヨハネ 6:38,39,新口)それで,イエスは天にいる時でも御父よりも低い者でした。イエスは行なえる時間があるときはいつでも彼をつかわした方,御父の仕事を行ないつづけました。彼は次のように言われています,「私は,わたしをつかわされたかたのわざを,昼の間にしなければならない。夜が来ると,だれも働けなくなる」。(ヨハネ 9:4,欽定訳)このすべてのことから,イエスは,その御心がなされねばならぬ神でなく,むしろ神よりも低い者であって,神の御心を行なう者であることが,付加的に証明されます。

  • 彼の生命のみなもと
    ものみの塔 1962 | 11月1日
    • その4

      彼の生命のみなもと

      33 (イ)子としてイエスは,み父であられたかたに対し,何を表わしましたか。(ロ)すべての人間が,子をどの程度敬うべきだとイエスは言われましたか。

      ヨハネの書いたものから,イエス・キリストが神の子であることを示す証拠は絶対的なものであります。この事実そのものからも,御子であるイエスが神に依存していて,神とひとしくないことが証明されます。子は父より偉大ではなく,神のいましめにしたがい,父を重んじなければなりません。神の子なるイエスは,「〔私は〕わたしの父を重んじている」と言われました。(ヨハネ 8:49,新口)イエスの次の言葉から,イエスが神になろうとしている,あるいは神と等しくなろうとしているなどと,どうして言えますか,「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて,子にゆだねられたからである。それは,すべての人が父を敬うと同様に,子を敬うためである。子を敬わない者は,子をつかわされた父をも敬わない」。(ヨハネ 5:22,23,新口)その言葉を告げられたイエスは,イエスを父として敬え,あるいは神として敬えと告げていません。彼は,私たちが父を敬うのと同じくらいに子を敬えとも告げていません。

      34 この点について,なぜ子は敬われねばなりませんか。そしてどの程度?

      34 イエスの言葉をふたたび読んで,なぜ父が敬われるように彼も敬わ

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