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  • イエス・キリストはどんな方なので,わたしたちすべてに必要なのですか
    ものみの塔 1976 | 4月15日
    • イエス・キリストはどんな方なので,わたしたちすべてに必要なのですか

      「ほかのだれにも救いはありません。人びとの間に与えられ,わたしたちがそれによって救いを得るべき名は,天の下にほかにないからです」― 使徒 4:12。

      1 わたしたちすべてが救世主を共通に必要としているのはなぜですか。

      救世主 ― 人類の世界が今日緊急に必要としているのはこれです。全人類の救済者です! わたしたち人間は皆,一つの共通の出発点を持ち,同じ血肉を備えた者です。わたしたちは皆同じ宇宙船 ― つまりこの地球という惑星に乗っています。もしこの船が沈むとしたら,皆この船もろとも,計り知れない深さの宇宙の,底なし海に落ちてゆかねばなりません。そういうことがわたしたちに起こるのでしょうか。この惑星宇宙船上での事態の進展状態からすると,その地球的大災害は,現代の科学者たちが想像しているよりもずっと近いように見えます。しかし,そういう恐ろしいことが起こるのでしょうか。それを阻止できる救世主はだれで,またどこにいるのでしょうか。ますます多くの人が,それを知りたいと思っています。

      2 今日のどんな重要都市に救世主は見いだされませんか。この事実を何が実証していますか。

      2 その救世主は,国際連合の建物のある今日のニューヨーク市にいるのではありません。国際平和と安全のための同機構の144の加盟国は,それぞれ自分が沈まないようにするために四苦八苦しています。救世主はソ連のモスクワにもいません。そこでは独裁者たちが,世界を共産化するというビジョンをもって過酷な支配を相次いで行なってきました。救世主はイスラエルのエルサレムにもいません。そこには世界の三つの有力な宗教が長年関心を注いできましたが,彼らは互いに対立しています。救世主はまた,過去において世界的重要性を持っていた,あるいは現在において世界的重要性を持っているどの都市にも見いだすことはできません。依然として続いている諸国家の苦悩と,増大する国民のうめきは,その事実を確証しています。

      3 世の人々はどんな真理にしりごみしますか。しかし,どこに救世主をさがし求めることは理にかなった分別のあることですか。

      3 世界状勢は,ありのままに言えば,全く見込みがないでしょう。それでも,現代的な考え方を持つ人々は,真理を認めることに大反対です。それはどんな真理ですか。世界が必要としている救済は,人間よりも高いところから来なければならない,ということです。彼らは,人間への信頼を放棄することをひるみます。人間だけが,彼らの唯物主義的な考えで思い浮かべ得る唯一の強力な,知性を持つ助け手なのです。もし彼らの考え方に従うなら,わたしたちは方向感覚を失ったままになり,なんの進歩もないでしょう。しかし,そうしたこの世的な考えを持つ人々がいかに著名な存在であろうとも,わたしたちは,自分で知っているように,創造者でもなければ,自分自身の創造物でもありません。単なる人間が作ったにしては,わたしたちはあまりにもすばらしく設計され,造られ,またあまりにもすばらしい能力を付与されています。わたしたちをこの惑星宇宙船に乗せたわたしたちの設計者また製作者は,超人間であるに違いありません。彼は,天がこの地球宇宙船よりも高いように,わたしたちよりも高いところにおられるに違いありません。人間は彼の驚くべき作品である故に,彼はわたしたちに関心があるはずです。彼がわたしたちのために救世主を出現させ得ることを期待するのは,現代的ではないかもしれませんが,道理にかなっています。

      4 救世主が出現するという希望を人間の胸に抱かせたのはだれですか。そしてその方は救いをだれに仰ぎ望むよう遠い昔からわたしたちに告げていますか。

      4 では,ある救世主による全人類救済の希望を人間の胸に抱かせたのは,わたしたちのこの創造者なのでしょうか。そうです。創造者をおいてだれが,そのように大胆かつ壮大な発想をなし得るでしょうか。西暦紀元より七世紀以上昔に,そうです,仏教紀元より実に100年以上昔に,その創造者は次の言葉を書き記させたのです。『地の極なるもろもろの人よ なんじら我をあおぎのぞめ さらばすくわれん われは神にして他に神なければなり われは己をさして誓いたり この言はただしき口よりいでたれば反ることなし すべての膝はわがまえに屈み すべての舌はわれに誓いをたてん 人われについていわん正義と力とはエホバにのみありと 人々エホバにきたらん すべてエホバにむかいて怒るものは恥をいだくべし』― イザヤ 45:22-24。

      5 わたしたちはどんなことの故にエホバに救いを仰ぎ望むことを恥ずかしく思うべきではありませんか。なぜですか。

      5 エホバによる救いは地の果てにまで及び,人類の世界全体を包含します。エホバこそ,わたしたちが永遠の救いの希望を抱いてあおぎ,確信を抱いてその救いを願い求めるべき方です。世がエホバのみ名を憎むからといって恥ずかしく思い,エホバから離れる方向に足を向けるべきではありません。エホバに向かって怒る者はすべて,エホバのところへまっすぐに来て恥をいだく者です。強いられることなくエホバに救いを仰ぐ人々のために蓄えられている救いに,彼らはあずかることができないでしょう。

      6 聖書の巻末の文書は,エホバに心を向けるように,という遠い昔のエホバの勧めに,世界中の人が反応することをどのように示していますか。

      6 唯一の救いの神としてわたしを仰ぎのぞみなさい,というエホバの勧めは,聖書の23番目の文書に書き記されました。その文書には,中東の人で,古代エルサレムの住人であった,アモツの子でイザヤという名の人の,霊感による預言が収められています。神のその勧めに対して世界中の人が反応を示すことは,西暦一世紀に書かれた啓示または黙示録と呼ばれる,聖書の66番目の,そして最後の文書の中で予告されています。その7章9,10節で,霊感を受けた記述者,ゼベダイの子ヨハネは,彼が見た預言的幻を描写しています。わたしたちのこの時代に,数えつくせないほど大ぜいの人が,エホバ神に救いを仰ぎ求めることを示して,ヨハネは次のように書いています。「見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。そして大声でこう叫びつづける。『救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊とによります』」。

      救世主は明らかにされた

      7,8 (イ)「子羊」という名称はどのような意味に解すべきですか。(ロ)啓示はどこでその名称を用い始めていますか。それは何を示すためですか。

      7 それにしても,なぜこのあらゆる人種,国民,皮膚の色の人々で成る群衆は,彼らの救いを神だけでなく「子羊」にも帰しているのでしょうか。わたしたちは,「子羊」と象徴的に呼ばれているこの方がだれであるか,正確に知ることができるのでしょうか。そうです,できるのです。

      8 確かにわたしたちは彼がだれであるかを知る必要があります。第一に,「子羊」という名称は,愛称として用いられているのではありません。わたしたちがだれか自分のかわいがっている者を,「わたしのかわいい子羊」と言う場合とは違います。むしろその名称は犠牲に,つまりどうしても必要な,わたしたちすべての者のための犠牲に注意を向けさせます。ヨハネへの啓示の中では,「子羊」(または「子羊の」)という名称はこの必要とされている方に27回適用されており,「子羊」へのこうした言及は第5章から始まります。筆者のヨハネはその箇所で,「子羊」が演ずべき重要な役割を告げられています。「泣くのをやめなさい。見よ,ユダ族の者であるしし,ダビデの根が勝利を得たので,巻き物とその七つの封印を開くことができる」とヨハネは言われました。(啓示 5:5)ヨハネは泣くのをやめたとき何を見たのでしょうか。「わたしは,み座……の中央に,ほふられたかのような子羊が立っているのを見た」と,彼は言っています。―啓示 5:6。

      9 このユダ族のししとはだれのことですか。そしてこの称号は彼についてどんなことを示しますか。

      9 さて,聖書が「ユダ族の者であるしし」として,またダビデという名の,エルサレムの最初のユダ族出身の王に命を与える「根」として示しているこの子羊は,だれでしょうか。それは族長アブラハムおよびユダ族の者であったダビデ王の肉の子孫,イエス・キリストです。(創世 49:9,10。マタイ 1:1-6)イエス・キリストが「ユダ族の者であるしし」と呼ばれているということは,彼が,きたるべき「シロ」であったこと,そして「もろもろの民の従順」が彼のものとなることを意味します。これは彼が(先祖ダビデのように)真の政府の王となり,すべての人々が彼ら自身の益のためにその政府に従わねばならないことを意味しました。ダビデが王として油そそがれた故に油そそがれた者であったのと同じく,彼の王なる子孫も油そそがれた者となります。ヘブライ人は彼を「メシア」と呼びましたが,ギリシャ語を話すユダヤ人は「キリスト」と呼びました。「イエス・キリスト」(イエス,油そそがれた者)または「キリスト・イエス」(油そそがれたイエス)という表現があるのはそのためです。しかし,王者のようなユダヤのししになぞらえられていながら,「子羊」にもなぞらえられているというのはどういうわけですか。

      10 ヨハネが見たところによると,この子羊の身にどんなことが起きますか。その結果何が買い取られますか。

      10 筆者のヨハネは,さらに見聞きしたことを述べながらそのわけを説明します。「そして彼が巻き物を受け取った時……彼らは新しい歌をうたって言う,『あなたは巻き物を受け取ってその封印を開くにふさわしいかたです。あなたはほふられ,自分の血をもって,あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人びとを買い取ったからです。そして,彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし,彼らは地に対し王として支配するのです』」― 啓示 5:8-10。

      11 どんな目的のためにこの子羊のような方はほふられましたか。イザヤ 53章はそのことをどのように予告していましたか。

      11 ですからこの王国をつくる「ユダ族の者であるしし」は,ちょうどモーセを通してイスラエルの民に与えられた神の律法が,罪のために傷のない子羊の犠牲をささげることを規定していたのと同じく,犠牲としてほふられたのです。彼はエホバの義にかなった「しもべ」でした。霊感を受けた預言者イザヤは,彼について次のように予告しました。「彼はひどく圧迫され,彼は苦しめられるままになっていた。それでも彼は口を開こうとはしなかった。彼はほふるための羊同然に連れて行かれ,毛を刈る者の前でおしになった雌羊のように,彼はやはり口を開こうとはしなかった。……彼は自分の魂を死に至るまで注ぎ出したためである。また,違犯者たちと共に彼は数えられた。そして,彼は自ら多くの人びとの罪を負った。次いで,違犯者たちのために彼は仲裁に入った」― イザヤ 53:7,12,新。使徒 8:30-35。

      12 わたしたちは罪人であり違犯者である故に子羊の犠牲を必要としているということを,反証できないのはなぜですか。

      12 この言葉は,わたしたちがイエス・キリストを必要としている強い理由を前面に持ち出します。人間の創造者エホバ神にささげられた犠牲の子羊のようなものとして,わたしたちは彼を必要としているのです。今引用したイザヤの預言は罪人および違犯者のことを語っています。ところが一般の人々は,罪人とか違犯者などと呼ばれるのを好みません。それでも,わたしたち全部が弱点を持ち,悪を行ないやすい傾向にあることはだれも否定することができません。わたしたちはこうした弱点や傾向をどこかから得たのです。わたしたちは皆その責めを両親に負わせることができます。しかし両親もまた,不完全さと悪い傾向とをその両親から受け継ぎました。ですからこのようにして一本につながった鎖をずっとたどってゆくと,聖書がアダムとエバと呼んでいる最初の夫婦にまでさかのぼります。子孫に不完全さと悪い性向を伝えた,という親への非難は,アダムとエバのところで終わります。なぜなら,アダムとエバは彼らの不完全さと罪深さを,彼らの創造者また天の父である神から受けたのではないからです。神の「活動は完全」です。神はアダムとエバを完全に造られました。彼らは神ご自身の像に創造されたからです。―申命 32:4,新。ルカ 3:38。創世 1:26-28。

      13 わたしたちの誕生地についてどんな疑問が生じますか。わたしたち全部が完全な者に生まれるのを妨げたのは何ですか。

      13 過去6,000年の間,楽園,すなわちエデンの園の中で生まれた人は一人もいません。しかし,アダムとエバはそこで創造され,そこに置かれました。(創世 2:7-25)もちろん,その最初の楽園は,今日では,わたしたち全部を快適な状態で収容することはできなかったでしょう。それは地球全体を包むまでに拡大されねばならなかったのです。それにしてもなぜわたしたちは皆世界的規模の楽園の中で生まれなかったのでしょうか。そうです,なぜわたしたちは皆不完全に生まれ,悪に走りやすかったり,病気にかかりやすかったり,死んだりするのでしょうか。唯一の理にかなった説明は,わたしたちすべての先祖である最初の人間夫婦が間違った道に行った,ということであるにちがいありません。聖書中の,事実に基づいた歴史的記録は,理にかなったこの説明と合致します。アダムとエバは子供をもうける前に間違った道に行きました。つまり神から言われたことを行ないませんでした。天の父である神に背きました。こうして二人は罪を犯しました。つまり人間の完全性という的を外したのです。

      14 アダムとエバを楽園から追放する権利が神にあったのはなぜですか。わたしたちが今日あるのは,神がどんなあわれみを示されたからですか。

      14 神がアダムとエバに至高の立法者また審判者としての神への極わずかな反逆行為に対して必ず加えられる処罰,と言っておられた刑を宣告されたことを,わたしたちは非難できますか。そういう非難は正当ではありません。しかし,両人を彼らの楽園から追い出したことに対しては神を非難できますか。それもできません。神はエデンの園の創造者ですから土地所有権をお持ちです。自分の土地にだれを住まわせるかを決める完全な権利をお持ちです。利己的で思慮のない人々は立派な計画団地を,ゲットーかスラム街のようにしてしまうではありませんか。一般人類が地球全体を台なしにしているのを見てごらんなさい。核戦争の恐れ,それによって地表が荒廃し汚染する恐れがあります。そのことを考えると,罪を犯したアダムとエバがエデンの園の外に居を定めるのを神が許されたのは,驚くべきことです。その結果地球は今日の人口密度にまで人々が住む状態になりました。子供をもうけるようアダムとエバを生き続けさせたのは,確かに神のあわれみでした。そのあわれみのゆえに,わたしたちは6,000年後の現在,この地上に生きているのです。―創世 3:1から4:2まで。

      15 アダムは自分の子孫に対してどんな父親になることに決めましたか。わたしたちは皆どのように彼の中で罪を犯しましたか。

      15 アダムは,妻のエバと共に罪を犯すよう誘惑されたとき,子孫に対してどんな父親となるか,天の父に完全に服従し,その父との関係を常に保つ,神を恐れる父親となるか,あるいは命の授与者に反逆し,罪の罰である死の宣告を受けた父親となるかを決めなければなりませんでした。(創世 2:15-17)アダムは,わたしたちに対し後者のような父親になることを選びました。そのためにわたしたちは,自分の不完全さと罪深さを,人間の創造者である神のせいにすることはできません。これはわたしたち自身にもどうにもならないことで,今の状態はちょうど第一世紀の聖書記述者であるクリスチャン使徒パウロが書いている通りです。「ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった」。(ローマ 5:12)神は最初の人間の中に,子孫をもうけ得る種を植えられましたから,彼の子孫であるわたしたち人間は皆,アダムが罪を犯したとき彼の腰の中にありました。したがってわたしたちは皆彼の中で罪を犯し,その結果,生まれながらの罪人で,死の宣告の下にあります。

      16 わたしたちは,神の公正のはかりのどんな平衡の取り方を見逃すべきではありませんか。コリント第一 15章21,22節はこのことをどのように約束していますか。

      16 ここでわたしたちは,神の聖書の中で教えられている一つの重要な事がらを見逃さないようにしなければなりません。それはどんなことですか。神には次のようなこともおできになるということです。つまり今日の世におけるすべての罪と罪の罰である死の責任とを一人の人アダムに負わせたように,世の罪を相殺し,そして罪を負って生まれた人類の世から罪の罰を取り除く責任を,アダムと同等の別の一人の人に負わせる,ということです。その賢明であわれみ深い取り決めにより,神の公正のはかりは,完全に平衡になるのです。これはわたしたちすべてが必要としていることであり,またこれこそ神の聖書の中でわたしたちに約束されていることなのです。コリント第一 15章21,22節はこれを次のように述べています。「死が人を通してであるので,死人の復活もまた人を通してなのです。アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのです」。

      17 どのようにしてのみアダムと同等の者を地上に生み出すことができましたか。そしてその人の誕生は適切にもだれに発表されましたか。

      17 これはなんとすばらしい,そして経済的な取り決めでしょう! しかも非常に簡単です。必要なのは,完全で罪のない人間であったときのアダムと同等の人間一人だけです。最初の人間夫婦の子孫であるわたしたちのなかに,エデンにいた罪のなかったときのアダムと同等の者として生まれた者が一人もいない以上,どうしてそのような人物をこの地上に生み出せるでしょうか。その必要な人は,全能の神の奇跡によって生み出される以外にはありません。ところがその神の奇跡が,西暦前一世紀の終わりごろに実際に生じたのです。啓示の中で繰り返し「子羊」と呼ばれている人がそれにより出現する結果となりました。この人物は,子羊のようでもありましたが,また「ユダ族の者であるしし」および「ダビデの根」でもありました。神の聖書のすべての証拠は,この人物が,西暦前2年の初秋にダビデの町ベツレヘムで生まれたイエス・キリストであることを指し示しています。彼が犠牲の子羊のようになることと一致して,彼の誕生は神のみ使いにより,神が選ばれた証人,つまり夜羊の群れの番をしていた羊飼いたちに発表されました。―ルカ 2:4-18。マタイ 2:1-18。

      18 『ダビデの胤から出た』その人は,死からの復活によりだれの子と呼ばれましたか。

      18 このことすべては,クリスチャン使徒パウロが言った通り「良いたより」でした。「その良いたよりは,神がご自分の預言者たちを通じて聖なる書の中にあらかじめ約束されたもので,神のみ子に関するものです。そのみ子は,肉によればダビデの胤から出ましたが,聖なる霊によれば,死人の中からの復活によって神の子と力づよく宣言されたかたです。―そうです,それはわたしたちの主イエス・キリストです」― ローマ 1:1-4。

      19 イエスは復活によりどんなレベルで神の子と宣言されましたか。しかし以前地上におられたときにはどんな者でしたか。

      19 ところで,人が真の意味で神の子であることについて言うなら,ルカ 3章23節から38節に示されているイエス・キリストの肉の家系によると,最初の人間アダムは「神の子」でした。しかし彼は天の父に背いて死に,わたしたちすべてに罪と死をもたらしました。彼は依然死んだままで,死から復活させられていません。彼は神の子としての身分を失いました。しかしイエス・キリストは霊的レベルで復活させられ,そのようにして地上で持っておられたよりも大きな力を持つ神の子として新たに宣言されました。しかし地的レベルにおられたときでも,そしてマリアという名のユダヤ人の処女を通して肉体を持つ人間として生まれてはいても,イエスは神の子でした。その事実を疑う理由はありません。なぜでしょうか。

      20 バプテストのヨハネはイエスが神の子であることを証言しましたが,それはただ自分自身の考えから割り出したものではなかったと言えるのはなぜですか。

      20 当時の切迫した事態は,「神の子」が地に来ることを必要としていました。イエス・キリストはその必要な神の子であることを明らかにされました。30歳で成人されたとき,ゼカリヤという名のユダヤ人祭司の息子バプテストのヨハネにより水のバプテスマをお受けになりました。ヨハネはイエス・キリストのことを人々の前で何と発表したでしょうか。バプテストのヨハネは自分の弟子たちに,イエス・キリストは神の子である,と言いました。ヨハネはそのことを知っていました。それはただ自分自身の考えから割り出したのではありません。なぜなら,ヨハネはイエスにバプテスマを施した直後,天から神の声がして,「これはわたしの子,わたしの愛する者であり,この者をわたしは是認した」と言うのを聞いたからです。(マタイ 3:13-17。マルコ 1:9-11。ルカ 3:21,22)ですからヨハネは公然と,「わたしはそれを見たので,このかたこそ神の子であると証ししたのです」と言いました。―ヨハネ 1:34。

      21 なぜイエスは人間の,つまり肉身を備えた父親を持ち得ませんでしたか。彼の父であることをだれが明らかにしましたか。

      21 しかしながら,神の子としてのイエスの身分は,ユダヤ人の処女マリアを通して人間として誕生したときに始まったのではありません。イエスは,アダムの男子の子孫と性関係を一度も持ったことのない処女から生まれたのですから,人間の,つまり肉身の父親があったはずがありません。どのみ使いも彼の父親ではありませんでした。なぜならマリアは,箱船建造者のノアの時代のかの悪名高いネピリムの母親たちの場合のように化身したみ使いと性関係を持つようなことはしなかったからです。(創世 6:1-4)マリアに現われて,彼女がどのように奇跡的にイエスの母親になるかを説明したみ使いガブリエルも,マリアの初子の父親ではありませんでした。(ルカ 1:26-38。マタイ 1:18-25)現代科学は今日,イエスの処女懐胎を不可能と主張してそれに反論するかもしれません。しかしみ使いガブリエルは,「神にとっては,どんな布告も不可能なことではないのです」と言って,マリアの思いに起こりそうな疑問をすべて取り除きました。(ルカ 1:37)そのことと一致して,神はご自分がダビデの家系に生まれた赤子イエスの父であることを明らかにされました。

      22 ヨハネの言葉および神に対する祈りの中のイエスの言葉は,イエスが天で神の子であったことをどのように示していますか。

      22 以上のことはすべて真実です。しかし,ベツレヘム-ユダにおけるイエスの誕生は,神の子としてのイエスの存在の出発点でしたか。そうではありません。イエスより六か月ほど先に生まれたバプテストのヨハネは,自分がバプテスマを施したイエスについて公然と次のように言いました。「見なさい,世の罪を取り去る,神の子羊です! これこそ,わたしのあとに,わたしの前を進んだ人が来る,わたしより前に存在されたかただから,とわたしが言ったそのかたです」。(ヨハネ 1:29,30)ところで,バプテストのヨハネ以前には人間として地上に存在しておられなかった以上,イエスはヨハネより前にはどこにおられたのでしょうか。それは天です。イエスは神の子として天におられたのです。そこで天の父とじかに接しまた交わられたのです。イエスが,エルサレム城外で殉教者としての死を遂げる前夜,天の父に対する祈りの中で,「わたしは,わたしにさせるために与えてくださった業をなし終えて,地上であなたの栄光をあらわしました。それで,父よ,世がある前にわたしがみそばで持っていた栄光で,わたしを今ご自身のかたわらにあって栄光ある者としてください」と言われたわけが,これで分かるわけです。―ヨハネ 17:4,5。

      23 神はどこからそのみ子を世に遣わされましたか。どのようにして?

      23 そういうことで,イエス・キリスト,「神の子羊」となった人は,目に見えない天の領域で,神の子として天の父のそばにおられたのです。したがって,イエス・キリストという名で,神の人間である子となるためには,全能の神が彼の命を天からユダヤ人の処女の胎内の人間の卵子の中に移さねばなりませんでした。このようにして神は,ベツレヘムで彼が誕生したときにも,引き続き彼の父であられました。神は天からのみご自分の子の命を奇跡的に移し,そうすることによってご自分の子を『遣わす』ことができました。イエス・キリストがユダヤ人の支配者ニコデモに言われた通りです。「神は[人類の]世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされたからです。神はご自分の子を世に遣わされましたが,それは,彼が世を裁くためではなく,世が彼によって救われるためなのです」― ヨハネ 3:16,17。

      24 わたしたちはなぜ「子羊」としての神のみ子を必要としていますか。

      24 以上のようにしてわたしたちは,神がどのようにしてわたしたちの永遠の救いに必要な一人の人,つまり完全な,罪のない状態でエデンの園にいたときのアダムと同等の一人の人を備えてくださったかを知ります。この人だけが,「世の罪を取り去る,神の子羊」として自分自身を神にささげ犠牲とすることができたのです。(ヨハネ 1:29)これにはわたしたちの罪が関係しているので,わたしたちは彼を必要としています。

  • わたしたちはなぜイエス・キリストの王国を必要としていますか
    ものみの塔 1976 | 4月15日
    • わたしたちはなぜイエス・キリストの王国を必要としていますか

      1 イエスはどの「神」の子として生まれましたか。それが偶然でなかったのはなぜですか。

      西暦一世紀のあるとき地上におられた神のみ子について,わたしたちは一つの重要な事がらに気づきます。彼はインドのあるヒンズー教徒の家には生まれませんでした。またチベットのある仏教徒の家に生まれたのでも,古代中国の王家,またはローマの皇帝カエサルの家に生まれたのでもありません。(エステル 1:1。ルカ 2:1,2)むしろ彼は「肉によればダビデの胤から出ました」。(ローマ 1:3)それは偶然ではありませんでした。この神の子は「ダビデの胤」として生まれる必要があったのです。神が,ベツレヘムのダビデの肉の家系の者であるユダヤ人のおとめを,イエス・キリストの母親となるべくお選びになったのはそういう理由からでした。(ルカ 1:26-32)このマリアは,彼女を奇跡によって懐妊させた神の崇拝者でした。ですから彼女の子は,ヒンズー教のいずれかの神または仏教のいずれかの神の子でも,ローマのジュピターまたはギリシャのゼウスの子でもありませんでした。―ルカ 1:34-55。使徒 14:12,13。

      2 なぜイエスは,犠牲の子羊となるために,レビ族のもの,またアロンの家系の者として生まれる必要はありませんでしたか。そしてイエスはどの日に死なれましたか。

      2 古代イスラエルにおいて,ダビデ王の部族はユダの部族でした。それは犠牲をささげる祭司が取られることのない部族でした。それでもイエス・キリストは,ユダ族の「ダビデの胤」として生まれ,なおかつ「世の罪を取り去る,神の子羊」となることができました。(ヨハネ 1:29)レビの部族の者,またイスラエルの祭司たちが取られた祭司の家系であるアロンの家系の者となる必要はありませんでした。ダビデの部族であるユダの部族に生まれてもなお,完全で罪による汚れがない故に神に受け入れられる犠牲にふさわしい,完全で罪のない人間であり得ました。神の子として天で保っておられた完全さと罪のない状態は,彼が地上に遣わされて,エデンの園で創造された日の完全で罪のないアダムと全く同等の人間となられた時にも変わりませんでした。「すべての人のための対応する贖いとしてご自身を与え」るためには,イエス・キリストはそのような人である必要があったのです。(テモテ第一 2:5,6。マタイ 20:28)イエスは,西暦33年の過ぎ越しの日,つまりユダヤ人が過ぎ越しの子羊を犠牲としてささげ,同民族が古代エジプトから救出されたことを祝ってその肉を焼いて食べる日に,罪を贖う犠牲としてご自分の血を注ぎ出されました。

      3 レビ記 17章11,12節は血についてなんと述べていますか。したがってわたしたちがイエスの血から受けるのはどんな益ですか。またどのように受けますか。

      3 神は,古代イスラエルとの契約の中で,レビ記 17章11,12節にある次の言葉を述べられました。『そは肉の生命[または魂]は血にあればなり 我汝らがこれをもて汝らのたましいのために壇の上にて贖罪をなさんためにこれを汝らに与う 血はその中に生命[魂]のある故によりて贖罪をなす者なればなり……汝らの中たれも血をくらうべからず また汝らの中にやどれる他国の人も血を食うべからず』。ですからイエス・キリストは,神への犠牲としてご自分の血を注ぎ出されたとき,罪深いアダムの子孫であるわたしたちすべてのための贖いの犠牲としてご自分の命を注ぎ出されたのです。イエスはご自分の完全な人間の犠牲の命の血を天の神にささげられたのです。ですからわたしたちは,その益を受けるためにイエスの血を食べる,または飲むわけにはいきません。イエスの命の血から益を受けるには,その血が,わたしたちの負っている死をもたらす罪を十分に贖うものとして,それに信仰を働かせなければなりません。―ヘブライ 9:11-14,24。

      4 イエスの血に関するシモン・ペテロの言葉は,啓示がイエスを子羊として特筆していることをどのように適切なものにしていますか。

      4 第一世紀のユダヤ人で,イエスの血が贖う価値を持っていることを信じていた人の一人は,かつてガリラヤの海の漁師であったシモン・ペテロでした。彼は仲間の信者たちに手紙を書いたとき,次のように述べました。「あなたがたが父祖より受け継いだむなしい行状から救い出されたのは,朽ちるもの,つまり銀や金によるのではないからです。それは,きずも汚点もない子羊の血のような貴重な血,すなわちキリストの血によるのです」。(ペテロ第一 1:18,19)これでわたしたちは,ヨハネへの啓示がイエス・キリストのことを絶えず「子羊」,「ほふられた」子羊として特筆しているのが適切であることを理解できます。(啓示 5:6)わたしたち人類はすべて,そのような贖いの子羊,つまりその血でわたしたちの罪を清め,わたしたちから死の宣告を取り除き得る子羊を,確かに必要としています。この子羊の犠牲を通して与えられる命がなければ,将来神のみ前に清い良心を抱いて何かを享受できる人は一人もいないのです。ですから実際にわたしたちはこの子羊なしでやってゆくことはできません。

      5 イエス・キリストは,犠牲として自分をささげることにおいて,イスラエルの贖いの日のだれの実体として奉仕されましたか。

      5 イエス・キリストは,犠牲の子羊としてご自身をささげ尽くし,神の大祭司として奉仕されました。その大祭司は,イスラエルの最初の大祭司,すなわちレビの部族のアロンによって予影されていました。その後の,古代イスラエルの犠牲をささげる大祭司はすべて,モーセの兄弟であるこのアロンから出ました。このことも,全人類がイエス・キリストを必要としている,そしてイエスが,年に一回の贖いの日ヨム・キプルに犠牲の血を神殿の至聖所に携え入れるイスラエルの大祭司の実体として奉仕されることを必要としている,もう一つの理由です。

      6 クリスチャンになったユダヤ人は,罪の贖いをだれに仰ぎ求めるよう告げられましたか。なぜですか。

      6 復活されたイエス・キリストは,この贖いの日の場面を実行され,地から天に戻られて神のみ前に現われ,全人類の罪を贖うご自身の完全な人間の犠牲の功績もしくは価値をささげられました。そういう理由から,クリスチャンになったユダヤ人は,もはやアロン系の大祭司に頼るのではなくてその実体に頼るよう勧められました。その言葉はヘブライ 3章1,2節に次のように記録されています。「そのようなわけで,聖なる兄弟たち,天への召しにあずかる人たちよ,わたしたちが信仰を告白する使徒また大祭司,イエスを思い見なさい。彼は自分をそのようにしたかたに対して忠実でした。モーセもまたそのかたの家全体にあって忠実であったのと同じです」。

      大祭司以上のものが必要

      7 イエス・キリストはどんな点で,わたしたちのためにふさわしい大祭司ですか。そして啓示は1章のどこで,イエスがそのような大祭司として奉仕していることを描いていますか。

      7 ヘブライ人への手紙は,大祭司としてのイエス・キリストが,アロンとその後継者たちよりもいかに効果的に奉仕されるかを,クリスチャンになったユダヤ人にさらに説明し,7章26節で次のように言葉を続けます。「このような大祭司,忠節で,偽りも汚れもなく,罪人から分けられ,もろもろの天よりも高くなられたかたこそわたしたちの必要にかなっていたのです」。ヨハネへの啓示 1章12節から18節には,クリスチャン会衆の大祭司として奉仕される,栄光をお受けになったイエス・キリストが描かれています。しかしながら,第五章はイエス・キリストを神の大祭司以上の者として描いています。このことは,イエスが犠牲の子羊でありわたしたちの大祭司であるという理由以外のもう一つの理由で,わたしたちすべてがイエス・キリストを必要としている事実を強調します。

      8 啓示 5章9,10節の中ではどんな名称が子羊に与えられていますか。このすべては,祭司職のほかに何に言及していますか。

      8 啓示 5章5,6節は,ほふられた子羊が「ユダ族の者であるしし,ダビデの根」であることを明らかにしています。それらの名称は,子羊イエス・キリストに関するある事を暗示しています。9,10節はその点をさらに強調します。それらの節の中では子羊に対して次のことが言われています。「あなたは巻き物を受け取ってその封印を開くにふさわしいかたです。あなたはほふられ,自分の血をもって,あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人びとを買い取ったからです。そして,彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし,彼らは地に対し王として支配するのです」。ではこの言葉はいったい祭司職以外の何に言及しているのでしょうか。それはもちろん政府,すなわち王国です。そうです,わたしたちは皆,全世界を治める一つの完全な,義にかなった政府を必要としています。

      9 創世記 49章9,10節によると,ユダ族の者であるししは何を持つことになっていましたか。このことに関連して,イエスが「ダビデの根」であることを必要にしたのは何ですか。

      9 創世記 49章9,10節の預言によりますと,ユダ族の者であるししは,笏と命令者の杖を持つことになっていました。またもろもろの民の従順も正当に彼のものとなることになっていました。それはユダ族の者であるししの統治を意味しました。ダビデはユダ族の者で,イスラエル人の王として40年間支配しました。イエス・キリストは「ダビデの根」でなければなりませんでした。なぜなら,神はエルサレムのダビデ王に対して,彼の家系から歴代の継承者が出る,永遠の王国を持つ王朝を約束しておられたからです。

      10 マリアに対するガブリエルの言葉によると,彼女の子はだれの座に,どれほどの期間つくことになっていましたか。

      10 言いかえれば,エホバは,ダビデ王がエホバを唯一の生ける真の神として,心をゆるがすことなく専心的に崇拝した報いとして,彼の家系による永遠の王国の契約をダビデと結ばれたのです。(サムエル後 7:1-17)そういう理由から,み使いガブリエルは,きたるべきイエスの誕生について,ユダ族の者であったマリアに告げたとき,こう言いました。「エホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家[イスラエル]を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」― ルカ 1:26-33。

      11 マタイ 6章9,10節の言葉通りの祈りをするなら,わたしたちは自分が何を必要としていることを神に告白していることになりますか。

      11 ところでもしわたしたちが,イエスが弟子たちに教えたように,「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように」と祈るならどうでしょうか。それは,わたしたちが神のみ子イエス・キリストの王国を必要としていることを,神に告白していることになります。―マタイ 6:9,10。

      12 キリスト教世界はどんな努力において失敗しましたか。そのために,キリストによる神の王国は,この世の諸王国に対して何をしなければなりませんか。

      12 いわゆるキリスト教世界は,決してキリストによる神の王国ではありませんでした。キリスト教世界は世の諸政府を真にキリスト教的な政府に改宗させることに失敗しました。ではわたしたちは,それらの政府が諸所にあって地の事がらを支配しているとき,いったいどのようにして地を治めるキリストの王国を持つのでしょうか。そのような状態の下では,それを持つことはできません。ですから,これらの不完全で欠点の多い人間の政府を取り除き,地から一掃してもらうことが必要です。それは人間の力ではできません。そういう理由でわたしたちはこの仕事を行なうイエス・キリストの王国を必要としています。ダニエル 2章44節(新)の神の預言によりますと,イエス・キリストの王国はこの仕事を行ないます。その預言の内容は次の通りです。「それらの王たちの日に,天の神は,決して破滅に至らされることのない一つの王国を建てられます。そしてその王国自体は,ほかのどんな民族にも渡されることはありません。それはこれらの王国をすべて打ち砕いて終わらせ,それ自体は定めのない時まで立つでしょう」。

      13 それらこの世的な政府を実力によって取り除くことは,いつどこで生じますか。しかし地上に生き残る人々はさらにどんなものを持つ必要がありますか。

      13 今日の諸政府を実力によって取り除くことは,啓示 16章14,16節でハルマゲドンと呼ばれている,きたるべき「大患難」の最高潮において成し遂げられます。ハルマゲドンにおけるその「全能者なる神の大いなる日の戦争」には生き残る人間がいます。それらの人々は,罪ある死にゆく人間の,腐敗した無能な政府の除かれた地以上のものを必要とします。彼らはそれ以上の何を必要とするのでしょうか。それはほかでもありません。それら政府の黒幕であった,目に見えない超人間の邪悪な霊たちをすべて除くことです。しかし,その目に見えない超人間の霊者というのは何でしょうか。それはサタン悪魔とその配下の悪霊の使いたちのことですと答えても,現代科学は信じないでしょう。しかし,現代科学よりもイエス・キリストご自身を真としましょう。悪魔サタンは「この世の支配者」である,とイエスは言われました。神が天から地に遣わされたイエス・キリストですから,確かによくご存じのはずです。―ヨハネ 12:31; 14:30。

      14 どの政府が,サタンとその配下の悪霊を,地の住民を支配する位置から追放するだけの力を持っていますか。それはどのように行なわれますか。

      14 また栄光をお受けになったイエス・キリストは,クリスチャン使徒ヨハネに見せた幻の中で,悪魔サタンが「人の住む全地を惑わしている者」であることを指摘しておられます。(啓示 12:9)したがって,サタンとその悪霊の使いたちを,地の全住民を支配する位置から追い出すには,天にある霊の政府が必要です。イエス・キリストの王国は,人類にこの解放をもたらすだけの力を持つ,ちょうどそのような天的政府です。このこともまた,わたしたちがその王国を必要としている理由なのです。ハルマゲドンの戦争で勝利を得たあと,その王国は悪魔サタンとその悪霊の使いたち全部を,この地球の周辺から遠く離れた底知れぬ深みに閉じ込めます。彼らは,キリストの王国が支配する1,000年の間監禁されます。―啓示 19:11から20:3。

      15 キリストの王国の支配する地に住むすべての人に,命を与える益が満ちあふれることを,啓示はどのように描いていますか。

      15 イエス・キリストのこの千年統治の間に,命を与える数々の益は,地上に住むすべての人々,イエスがそのためにご自分の命を贖いの子羊としてささげた人々に,川のように流れ渡るでしょう。そのことは啓示の最後の章に美しく描かれています。その中で使徒ヨハネは,人類に永遠の命を与える備えをされた根源者を示しています。ヨハネは次のように述べます。「また彼[神のみ使い]は,水晶のように澄みきった,命の水の川をわたしに見せてくれた。それは神と子羊とのみ座から出て,その[都市の]大通りのまん中を流れていた。そして,川のこちら側と向こう側には,月ごとに実を生じ,実を十二回生み出す,命の木があった」。

      16 そのような命を与える益はすべてどこに源を有しますか。そして王国は,人類の上にもはやのろいがないように,どのように監督しますか。

      16 次いで使徒ヨハネは,そのような祝福が,神と子羊イエス・キリストの王座から出ていることを示すために,次の言葉をつけ加えます。「そして,もはやなんののろいもない。神と子羊とのみ座がその都市の中にあり,その奴隷たちは神に神聖な奉仕をささげるのである」。(啓示 22:1-3)キリストによる神の王国は人類を祝福するためのものであって,彼らをのろうためのものではありません。神のみ子イエス・キリストは,地の事がらが祝福となるように正しく遂行されるよう監督されます。

      死んだ人間も王国を必要としている

      17 命を与える備えに最初にあずかるのはだれですか。ほかにもそれにあずかる人々があるのはなぜですか。

      17 キリストを通して神の座から来る,命を与えるそれらの備えに最初にあずかるのは,この世の諸王国が滅びる「大患難」を生き残る崇拝者の「大群衆」です。(啓示 7:9-14。ダニエル 2:44。マタイ 24:21,22)ではその外に,象徴的な命の水の川および象徴的な命の木にあずかる人たちがいるのでしょうか。そうです,いるのです。イエス・キリストは,それらの患難生存者よりももっと多くの人間のために,「神の子羊」として死なれたからです。西暦33年に,エルサレムに近いベタニヤのある埋葬場所の近くでイエスが言われたことを,思い出してみましょう。その時イエスは,「わたしは復活であり,命です。わたしに信仰を働かせる者は,たとえ死んでも,生きかえるのです。そして,生きていてわたしに信仰を働かせる者はみな決して死ぬことがありません。あなたはこれを信じますか」と言われました。死んだラザロの姉妹マルタは,「はい,主よ。わたしは,あなたが神の子キリスト,世においでになるはずのかたであることを信じてまいりました」と答えました。(ヨハネ 11:25-27)ところで,今日のわたしたちはどうでしょうか。その質問に対し,同じ信仰のある答えをすることができますか。

      18 わたしたちには,イエスの問いに対してマルタと同じように,はい,と答えるどんなしっかりした理由がありますか。そしてなぜイエスは依然として,「わたしは復活であり,命です」と言うことができますか。

      18 わたしたちには,はい,と答える確かな理由があります。なぜなら,イエスはその時ご自分の友ラザロを,死んで四日目であったにもかかわらず復活させて,その驚くべき言葉を裏付けられたからです。(ヨハネ 11:28-45)それからほどなくして,イエスご自身が死人の中から復活される時が来ました。イエスは過ぎ越しの日に死なれました。それから三日目に,天のみ父の全能の力により死人の中からよみがえらされたのです。それから40日目に,ベタニヤにほど近い場所,オリーブ山の上から天に昇られました。(ルカ 24:50-53。使徒 1:1-12)天にいても,栄光を受けたイエス・キリストは依然として,「わたしは復活であり,命です」と言うことができます。死者をよみがえらせる権威を父なる神から受けているということを,イエスは,ヨハネに与えた啓示の幻の中の言葉によってわたしたちに確証しておられます。「わたしは死んだが,見よ,かぎりなく永久に生きており,死とハデスの鍵を持っている」― 啓示 1:18。

      19 「死人の中からの初子」は,復活させられたイエス・キリストであって,イエスが復活させた友のラザロやその他の人々でなかったのはなぜですか。

      19 復活させられた者として永久に生きるべく死人の中から復活させられた最初の者は,イエス・キリストでした。ですからイエスは,「死人の中からの初子」また「死の眠りについている者たちの初穂」と正しく呼ばれています。(コロサイ 1:18。コリント第一 15:20)イエスおよびイエスの使徒たちが死人の中からよみがえらせた者たちはイエスの友ラザロでさえ死に,人類の共通の墓,つまりハデスに埋葬されました。彼らが早くに死とハデスから解放されたのは,一時的であったに過ぎません。したがって「ハデスの門」は,キリストの王国が神の定めの時に天に樹立されるまで,その人々や他の贖われた人間すべての上に閉じられたままでなければなりません。―マタイ 16:18。イザヤ 38:10,18。

      20,21 キリストの王国はいつどこに樹立されましたか。キリストは統治する王としてだれを最初に復活させますか。

      20 この20世紀における世界の歴史は,聖書の預言を成就させ,異邦人の時の終わった西暦1914年にキリストの王国が天で誕生したことを示しています。(ルカ 21:24。エゼキエル 21:25-27)天の王国の権をお持ちになるイエス・キリストは,共に天の王国に召された十二使徒および他の弟子たちのような,死んでいる忠実な弟子たちにまず注意を向けられます。イエスは彼らを不滅の天的命に復活させられます。啓示 5章10節に述べられているように,「わたしたちの神に対して王国また祭司」となるためです。こうして,使徒ヨハネが啓示 20章4節から6節でわたしたちに告げている次のことが成就します。

      21 「またわたしは,数々の座を見た。それに座している者たちがおり,裁きをする力が彼らに与えられた。実に,イエスについて行なった証しのため,また神について語ったために斧で処刑された者たち……の魂を見たのである。そして彼らは生き返り,キリストとともに千年のあいだ王として支配した。……これは第一の復活である。第一の復活にあずかる者は幸いな者,聖なる者である。これらの者に対して第二の死はなんの権威も持たず,彼らは神およびキリストの祭司となり,千年のあいだ彼とともに王として支配する」。

      22 千年統治期間中,イエス・キリストは「死とハデスの鍵」をどのように用いられますか。そして患難生存者の「大群衆」は,地上でかつて一度も見られなかった事がらをどのように目撃しますか。

      22 千年統治期間中にイエス・キリストは王兼祭司として,死んでいる残りの人類のために「死とハデスの鍵」を使われます。イエスご自身が,ヨハネ 5章28,29節に記録されている言葉の中で予告しておられるように,それらの死者は,イエスの声を聞いて出てきます。「大患難」と,サタンおよびその配下の悪霊たちが捕縛され,底知れぬ深みに監禁された時を生き残る「大群衆」はそのときに,匹敵するもののないすばらしい奇跡を目撃します。大祭司イエスが「神の子羊」としてそのためにご自身の完全な人間の命を犠牲にされた死んでいる人間全部が,地上の命に戻るのを目撃するのです。(ヨハネ 1:29。テモテ第一 2:5,6。ヘブライ 2:9)復活した人の数はついには幾十億に達するでしょう。その人々は皆,不完全さと罪深さと死の宣告を罪人アダムから受け継いだ,アダムの子孫です。そのようなことが地上で起こることはもうないでしょう。使徒ヨハネは,キリストを通して行なわれる神のこの驚くべき奇跡の短い幻を与えられ,啓示 20章11節から14節の中でそれを描写しています。

      23 ヨハネは復活の幻を見てもなぜろうばいしませんでしたか。地の住民はいつ,コリント第一 15章26節が成就するのを見ますか。

      23 ヨハネはその光景を見てろうばいしたでしょうか。地球が人で満ちあふれているのを見たでしょうか。そういう光景は全く見ていません。エホバ神が地球をお造りになった目的は,死の宣告の下になどいない,むしろエホバ神へのゆるぎない献身の報いとして永遠の命の権利を持つ,完全な人間の男女で地を満たすことでした。すべての人が地球の全域に及ぶ楽園に住むのです。(創世 1:26-28)したがって,贖われた人間の死者の最後の者が呼ばれ,開かれた「ハデスの門」を通って出て来るとき,人類の共通の墓はもはや存在しなくなります。ハデスは「火の湖」に投げ込まれ,それ自身が永久に死滅します。そしてキリストの千年王国の支配下にある地上で住む人々すべてがその王国の与える訓練にこたえ応じて罪深い状態から全く解放され,人間としての不完全さをすべていやされたとき,彼らは本当に,完全に生きるでしょう。そのとき,「死」,すなわち人類がアダムから受け継いだ死は,「火の湖」の中のハデスに加わります。(啓示 20:14)その輝かしい業が完了するとき,人々はコリント第一 15章26節の,「最後の敵として,死が無に帰せしめられます」という言葉の成就を見ます。それ以後,意識的に反抗したためにサタンおよびその悪霊たちと共に滅ぼされる人々は,「第二の死」に行きます。それからの復活はありません。

      24 わたしたちはなぜイエスについて証しをすることを恥ずかしく思う必要はありませんか。そしてだれと共にイエスの証しをするよう動かされますか。

      24 イエス・キリストについて証しし,堕落した人類の一員であるわたしたちにとってイエスがいかに重要な存在であるかを言い尽くすには,時間が足りません。わたしたちは決してイエスに失望することはありません。「聖書は,『彼に信仰をおく者はだれも失望させられない』と言っています」。(ローマ 10:11。イザヤ 28:16)口頭または文書によってイエス・キリストの証しをすることを,わたしたちは決して恥ずかしく思う必要はありません。わたしたちがイエスをどれほど必要としているかについての認識が深まれば,わたしたちの心は動かされ,エホバ神の栄光のために,そして目下苦境に立つ人類のために,イエスの証しを行なうべくみ使いたちに加わります。

      25 わたしたちが行なっている証言の内容をなぜ証人たちの手柄とすべきではありませんか。イエスについての預言に霊感を与えたのはだれですか。どんな目的で?

      25 使徒ヨハネが感謝をこめてみ使いの足下にひれ伏し拝そうとしたとき,そのみ使いが,「わたしは,あなた,また,イエスについての証しの業を持つあなたの兄弟たちの仲間の奴隷にすぎません。神を崇拝しなさい。イエスについて証しすることが預言に霊感を与えるものなのです」と言ったことを,忘れないようにしましょう。(啓示 19:10)イエス・キリストに関する証しの内容が,わたしたちから出たかのように,その誉れをわたしたち人間に帰すべきではありません。わたしたちの大きな必要と無力さとを見,愛情深くもご自分の天のみ子をわたしたちのために人間イエス・キリストとならせたのは,エホバ神です。さらに神は,ご自分の活動的な霊により,イエス・キリストに関するすべての聖書預言を啓示し,それによってわたしたちが,この「神の子羊」に,神のこの大祭司に,長期間悪政の下にあった人類に対してついに完全な義にかなった政府を与えるこのメシアなる王に,導かれるようにしてくださいました。

      26 イエスはどんな方なので,わたしたちすべてに必要なのか,という質問について調べてみて,わたしたちはどんな答えを得ましたか。

      26 では,イエス・キリストはどんな方なので,わたしたちすべてに必要なのでしょうか。この挑戦的な質問に関してわたしたちが行なった事実調査は,満足のいく答えを得ました。イエス・キリストは,万物の創造者がわたしたちを,わたしたちの天の父の幸福な,祝福された家族に戻すために備えまた用いておられる方です。その宇宙的な家族の中にあってわたしたちは,このうえなく幸福な生活を楽しみ,父の愛と世話を豊かに受けながら,愛をこめて世々父を崇拝し,父に奉仕するでしょう。―コリント第一 15:28。ヨハネ 14:6。使徒 4:12。

      [241ページ,全面図版]

  • 砂の重さ
    ものみの塔 1976 | 4月15日
    • 砂の重さ

      ◆ 『これは海の砂よりも重からん』。忠実なヨブは,自分が耐えねばならなかった苦しみについてこう述べました。(ヨブ 6:3)砂の重さを考えてみるなら,その苦しみの大きさを一層良く理解できます。わずか一立方㍍の湿った砂の重さは,約2㌧もあります。

  • 最も価値のある財産を見いだす
    ものみの塔 1976 | 4月15日
    • 最も価値のある財産を見いだす

      実に大勢の男女は,物質的に価値のあるどんな物よりもはるかに貴い財産のあることを見いだしています。それを手に入れることは,生活に健全な影響を及ぼし,お金で買えない喜びと満足をもたらします。この財産とは何でしょうか。

      それは,神のご意志に関する正確な知識を修得し,それと調和して生きることから得られる,創造者との良い関係です。こうした関係に入った人はそのことを大変うれしく思っており,自分が得た知識を他の人々に熱心に分かちます。

      自分が見いだした最も価値のある財産について隣人に知らせる時間をさらに多く持つため,物質面で有利な立場を捨てた人もいます。日本の日立製作所に勤務していた一人の電気技師が行なったのはまさにそのことでした。そのいきさつを彼はこう語っています。

      「わたしは仕事の都合で日本中を回り,イランやアメリカなど海外に出張することもありました。ある出張のおり,妻もわたしに同行し,米国カリフォルニア州サクラメントに近いプレイサービルのアパートに滞在しました。ちょうどそのころ,一人のエホバの証人が訪れ,わたしたちは,「ものみの塔」と「目ざめよ!」誌を求めました。わたしたちの英語の知識が限られたものであったため,それを読んでもあまり深い所までは悟れませんでした。

      「その後間もなく,わたしたちは日本に戻り日立市の社宅に住むことになりました。そこに着いて幾日もしないころ,妻はある人の訪問を受け,その人は同じ二つの雑誌,つまり表題は日本語でも表紙の同じ雑誌を妻に見せました。それを見た妻は,エホバの証人の活動が国際的なものであることをすぐに感じ取りました。妻は喜んで雑誌を受け取りました。そのエホバの証人は繰り返し訪問し,間もなくして妻はその婦人と定期的に聖書を研究するようになりました」。

      そのうち,夫も研究を始め,妻と同じほど熱心になりました。両人は進歩を続け,東京足立区で開かれたエホバの証人の巡回大会のさいにともにバプテスマを受けました。

      聖書の正確な知識が自分たちにどれほど大きな益をもたらしたかを認識したその夫婦は他の人々がこの知識を得るのを助けるためできるだけ多くの時間をささげたいと願うようになりました。その二人は,幼い息子を世話することに加えて,他の人に聖書の真理を宣べ伝えて教えるのに毎月少なくとも100時間を費やす「開拓者」になりたいと思いました。しかし,夫は日立製作所で全時間働いている限り,とても「開拓者」にはなれないことを悟りました。ではどうしたでしょうか。彼は続けてこう話しています。

      「わたしは会社を辞めました。そして,二人は家庭教師をし,大抵の晩に5,6人の中学生を教えて生計を立ててゆくことにしました。わたしたちが児童の家に行くのではなく,親たちがわたしたちを訪ね,子供を教えてくれるようにと頼みました。間もなくわたしたちは20人以上の子供を教えていました。1972年の7月,わたしは正規開拓奉仕に入り,妻は翌73年5月に同じ道に進みました。わたしたちは社宅を出なければなりませんでしたが,市が,月わずか3,300円で,二つの部屋と他の必要な設備の整ったアパートを備えてくれました。無理のない生活をし,栄養のある食物を食べることによって,わたしたちはエホバへの全時間奉仕を続けることになんの問題も感じていません」。

      こうした活動が息子に与えた影響について,夫はこう述べています。「わたしたちの中で奉仕を最も愛しているのは四歳になる息子の真也です。雨が激しく降っている朝でも,真也は大きな声で『行きたい,行きたい』と言います。それで私たちは出掛けます。それから午後は毎日,時間とガソリンを節約するため一つの地域だけで聖書研究を司会し,関心ある人を再訪問し,帰宅の時間には車の中で待ち合わせます。真也は大抵,わたしについて来ます。そのお陰でわたしは,もし一人で行くなら当惑するかもしれない婦人たちを訪問することができます」。

      以前電気技師であったその人と彼の妻は今携わっている奉仕に大きな喜びを見いだしています。その人はこう述べています。「わたしは,世の事柄しか考えない人々と一日中交わらねばならないという緊張から解放されたことが自分にとって大きな喜びとなっている点に気付きました。今わたしがおもに交わっているのは,聖書の正確な知識を得るよう他の人たちを助けることに関心を払う仲間のクリスチャン,また,わたしたちと聖書を学んでいる義を愛する人々です。『開拓奉仕』はわたしたちの家族に真の喜びをもたらしました」。

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