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偉人とはどんな人ですか目ざめよ! 1982 | 7月8日
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偉人とはどんな人ですか
どんな人を本当の意味で偉人と呼びますか。それは真に目覚ましい事柄を成し遂げた人のことであるに違いありません。しかし,当人の個性や他の人々に対するその人の態度もやはり重要な要素であると思われませんか。
仕えられることを期待する人と他の人々に仕えることを喜びとする人とではどちらの人と一緒にいたいと思いますか。他の人の愛を要求する人と愛を示す方法を知っている人とでは,どちらの人と共に生活したいと思いますか。
あなたは勇気や精神力などの特質を称賛するに違いありません。しかしそうした特質に,他の人々にとって永続的な益となる事柄を進んで成し遂げようとする気持ちが加われば,そうした特質はより一層人を引き付けるものとなるのではありませんか。
際立った知識や知恵はそうしたものを持つ人々に対する称賛の気持ちを起こさせます。しかし実際のところ,最も感謝されるのは自分の知識を他の人々を助けるために用い,できることなら人々が意義ある,満足をもたらす人生を送るよう助ける人ではありませんか。
支配者たちの中には歴史上の“偉人”に数えられている人がいます。では,あなたはどんな支配者の下で一生を送りたいと思われますか。主に戦争を行なって名声を博した人ですか。それとも,人々が愛の動機から付き従ってゆける仕方で権威を行使する支配者でしょうか。
傑出した人物の条件となる特徴を一つ二つ備えている人は数多くいます。しかし,本当に価値のある特質すべてを備えているのはだれですか。
条件を満たしているのはだれか
アレクサンドロスは“大王”と呼ばれ,「世に出た最大の将軍の一人」とされています。豪胆で優れた戦術家ではありましたが,誇大妄想と放縦とに取り付かれていました。神であると宣言されることを求め,ついにはそれを押し通しました。また,酒に酔った勢いで非常に親しい友人を殺してしまいました。長時間におよぶ宴会と飲みくらべの末,病にかかり,33歳で死亡しました。
ナポレオンは西洋史上最も名高い人物の一人に挙げられています。ナポレオンは並外れた指導者で,改革者でしたが,自分の野心のために無数の人々を犠牲にしたため“コルシカの食人鬼”とも呼ばれました。
ソクラテスは歴史上最も偉大な哲学者また教師と言われていますが,一体どのような教師だったのでしょうか。人は何が正しいかを知っていれば,間違ったことはできないというのがその主な主張の一つでした。人間の歴史はこの説の誤りを証明しています。辛らつな皮肉をもって質問を投げ掛け,相手の知識が虚構にすぎないことを得心させるのがその教授法でした。ソクラテスは自分の教えの大半を自らの理解,およびギリシャ語でダイモニオンと呼ばれる,ソクラテスの言う内なる声の上に築きました。
一つの分野では天才でありながら,他の分野ではみじめなほど無能であった人は少なくありません。ルートウィヒ・ファン・ベートーベンは天才的な音楽家で,一百科事典が述べるように「世に出た最も偉大な作曲家と広くみなされて」います。しかし,日常生活の諸問題には極めてうとく,愚かな行為に走って周期的に破産したことでも知られています。
そのほかの天才や偉大な芸術家の中には,不道徳な生活やアルコール,薬物の乱用などで身を持ち崩した人々もいます。それでは,真に重要な特質すべてにおいて,一定の標準にかなっている人はいないのでしょうか。
いいえ,歴史を通じ無数の人々が望ましい特質すべてを備えた人であると認めてきた人物が確かに一人います。それはイエス・キリストです。イエスはほぼ2,000年前にパレスチナで生活し,活動していました。興味深いことに,次ページのわくの中に挙げられている引用文が示す通り,“偉人”たちでさえイエスの偉大さを認めています。
イエスが実在した証拠
特に19世紀および20世紀に,批評家たちはイエスという人物が実在したことを否定してきました。イエスに関する話はその昔幾人かのユダヤ人のペテン師たちが作り上げた神話,つまり伝説にすぎない,とそうした人々は主張します。
とはいえ,ただのペテン師にどうしてこのような傑作が生み出せるでしょうか。この点をアメリカの学者セオドア・パーカーは次のように言い表わしています。「そのような人物は実在しなかった,その話は全部うそであると言うのだろうか。プラトンやニュートンが実在しなかったと仮定してみよう。では,だれがその業を行ない,その思想を考え出したのだろうか。ニュートンを偽造するにはニュートンが必要である。だれがイエスをでっちあげることができたであろうか。イエス以外にはいない」。
真っ先に挙げられる情報源である聖書そのものを別にしても,イエスが歴史的に実在した人物であることを確証する信頼のおける情報源がほかにも数多く存在します。例えば,イエスが実在したことに関する,1世紀の有名な歴史家フラビウス・ヨセフスの証言があります。ヨセフスは次のように書いています。「さてそのころイエスという賢人がいた。もっともこの者を人と呼ぶことが法律上正当であればの話であるが,彼は驚嘆すべき業を行なう者であり,真理を喜んで受け入れた者たちの教師であった。そして多くのユダヤ人と多くのギリシャ人を自分の側に引き付けた」―「ユダヤ古代誌」(第18巻3章3節)。
1世紀の著名な異教ローマの著述家で,キリストとその追随者に言及している人も幾人かいます。その中には,歴史家タキトゥス,著述家また行政官であった小プリニウス,伝記作者スエトニウス,詩人ユウェナリス,およびストア派の哲学者でイエスとは同時代人であり,1世紀の半ばのローマにおける指導的な知識人であったルキウス・セネカがいます。
クリスチャンではないそのような初期の著述家に関して,ブリタニカ百科事典(英文)は次のように述べています。「これらの個々の記述は,古代においてキリスト教の反対者たちでさえ決してイエスの史実性を疑ってはいなかったことを証明している」― 1980年版,第10巻145ページ。
イエスがそれほど偉大な人物であったのなら,初期の歴史的記録がイエスについてもっと言及していてよいはずだと異議を唱える人がいます。この点に関し,右の欄に引用文が載せられているブレーズ・パスカルは,イエスが「全く無名(世間一般が無名と呼ぶ基準では)であったため,重要な政治上の出来事しか書き記さなかった歴史家たちはほとんど彼に気付かなかった」ことに言及しています。
それにもかかわらず,歴史的な証拠が確かに豊富に存在しているのです。有名な懐疑論者で,宣教師また医師であったアルバート・シュバイツァーでさえ次の点を認めました。「疑いの余地のない歴史的事実や陳述がイエスの場合ほど多く残されている古代の人物はそれほど多くないということを我々は率直に認めなければならない」。
証拠ははっきりしています。イエス・キリストは歴史上の実在の人物なのです。また,イエスは真の偉人の条件となる特質すべてを備えていました。イエスこそ歴史上最も偉大な人物です。
イエスについて詳しく調べれば調べるほど,その偉大さを確信するようになるでしょう。
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イエス・キリストはどんな人物でしたか目ざめよ! 1982 | 7月8日
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イエス・キリストはどんな人物でしたか
イエスは一体どんな容ぼうをしておられたのでしょうか。芸術家はイエスの絵や彫刻を幾千点となく制作しましたが,その作品の導きとなるようなイエスの写真もイエスの同時代人による描写もありませんでした。聖書は,イエスの髪の毛や目の色,身長,体重その他イエスの容ぼうに関するどんな特徴も明らかにしていません。イエスを描いたほかのすべての絵と同様,この雑誌に載せられているイエスの絵も画家の考えたものにすぎません。
自らの容ぼうのゆえに称賛を浴びた人は少なくありませんが,イエス・キリストはその外見ゆえに名声を得たのではありませんでした。
イエスは雄々しく,顔立ちの整った人であったに違いありません。聖書は,イエスが神の霊の奇跡的な働きにより完全な人間として生まれたことを示しています。その追随者の一人であった医師ルカは,「イエスは,知恵においても,身体的な成長においても……さらに進んでいった」と伝えています。―マタイ 1:20,21。ルカ 2:52。
しかし,完全な人間であっても,超人間的な姿をしていたのではありません。また,頭の回りに後光が射していたということもありません。聖書はイエスがごく普通の人物として受け取られたことを示しています。例えば群衆に悟られずに,お忍びでエルサレムへ上って行くことができました。また,イエスを捕縛しに出掛けて行った兵士は,イエスを識別するために裏切り者の弟子ユダの手引きを必要としました。―ヨハネ 7:10-13。マタイ 26:47,48。
聖書筆者たちがイエスの外見をそれほど重要とみなしていなかったことは明らかです。むしろその任務と,イエスが地上でその任務を果たす際に明らかにされた個人としての特質について詳しく書いています。
並々ならぬ任務
イエスがこの地上で成し遂げた並々ならぬ任務について考えると,イエスが人類史にどれほど影響を及ぼしたかを理解できます。イエスの行なわれたようなことを成し遂げた被造物はほかにいません。
聖書は,イエスが人間になる前に神の天的なみ子として存在していたことを示しています。万物の創造に当たって,み子は神の最も親密で忠実な共同制作者でした。(コロサイ 1:13-17)神から与えられた,地上での任務に従事しなければならない事態が生じた時,その責任を喜んで担われました。その任務は人間として生まれ,生活し,死ぬことを意味していたのです。
そうした事を必要とした事態とは一体何ですか。アダムが自らの選択によってエデンで罪を犯したのです。アダムは神がはっきりと示された律法に違反しました。アダムの命はその律法に懸かっていました。全人類のこの完全であった先祖は,こうして人間としての完全さと地上の楽園で永遠に生きる希望とを自ら失っただけではなく,その時まだ生まれていなかったその子孫すべてからもそれを奪ってしまいました。(ローマ 5:12。創世記 2:15-3:24)アダムの不完全な子供の中には,失われたものを人類のために取り戻すことのできる人は一人もいませんでした。神の完全な公正の規準によれば,人類を請け戻すにはアダムのような完全な人間の命が犠牲にならなければなりませんでした。しかし,どのようにしてそれを備えることができるのでしょうか。エホバ神ご自身がその備えをして,公正の求めるところを満たし,かつ人類に対するご自分の愛の深さを表わし示されました。―詩篇 49:6-9。ヨハネ第一 4:9。
神はご自分のみ子である最も親密な共同者を,天から遣わされたのです。その方が生まれ,完全な大人へと育っていったことはその任務を果たすための手段にすぎませんでした。イエスはその生涯によって神への全き忠節を実証し,エホバに対する自らの献身の動機が個人としての利己的な利得では決してないことをはっきりさせました。こうして,自分がそう望みさえすれば,アダムも創造者に忠実を示し得たことを明らかにしました。イエスが完全な人間として死なれたことにより,罪と不完全さと死を受け継いだ人類を請け戻す道が開かれました。こうしてこの請け戻しを進んで受け入れようとする人々には,義の新秩序における永遠の命の見込みができました。
これより偉大な業を成し遂げた人は歴史上ほかにはいませんでした。
自分の栄光を求めない
イエスは自分の名声を高めようとしてこのすべてを行なわれたのではありません。天のみ父への祈りの中で,イエスははっきりとこう言われました。「わたしは……地上であなたの栄光をあらわしました」― ヨハネ17:4。
ご自分の役割に対するイエスの見方は次の言葉に見事に要約されています。『人の子は,仕えられるためではなく,むしろ仕えるため,そして多くの人と引き換える贖いとして自分の魂を与えるために来たのです』。(マルコ 10:45)そして謙遜にも,このすべてを可能にしてくださった方に注意を向け,こう言われました。「神は[人類の]世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされた」― ヨハネ 3:16。
熟達した教え手
西暦29年から33年にわたる3年半におよぶその公の宣教期間中,イエスは他の人々を教える業に絶えず専念されました。そして,イエスは実にすばらしい教え手でした。「あのように話した人はいまだかつてありません」。これはある時にイエスの教えを聞いた数人の下役たちの口を衝いて出た言葉でした。別の機会には,聴衆すべてが「その口から出る,人を引きつけることばに驚嘆する」ようになりました。確かに,自らイエスの話を聞いた人々はイエスが本当に熱達した教え手であると感じました。―ヨハネ 7:46。ルカ 4:22。
イエスの話された最も有名な講話は山上の垂訓と呼ばれるものです。イエスが野外で話されたこの垂訓の中に表わされている深い知恵と人間の本性に対する並々ならぬ造詣の深さは,その場に居た聴衆を驚かせただけでなく,学識の有る無しにかかわりなく無数の人々を幾世紀にもわたって驚嘆させてきました。今は亡き精神科医ジェームズ・F・フィッシャーは,その輝かしい経歴を終えるにあたり,この垂訓を高く評価していることを言い表わして,次のように語りました。「最高の資格を持つ心理学者がこれまでに書いた,精神衛生に関する権威ある論文のすべてを集めそれを合わせて洗練し,無用な語句を削り取り……次いでこの混ざり気のない純粋に科学的な知識を当代随一の詩人に正確に表現させたとしても,それによってできるのは山上の垂訓の不器用で不完全な要約でしかないであろう」。
数ある垂訓の中でも特に優れたこの垂訓に精通したいと思われるなら,聖書を開いてマタイ 5章から7章までをご自分でお読みになってみるとよいでしょう。15分ほどで読み終わります。人類の最大の必要を真に満たし,この危機の時代にもその必要を少なからず満たす思想を見いだされるでしょう。他の人々と仲よく暮らす方法や自分自身の感情に対処する方法に関する原則を見いだすことでしょう。人生の真の意義や人生において主な関心事とすべき事柄,および神と良い関係を築く方法などを見いだすよう助けられるでしょう。わずか15分間にです! イエスがその垂訓を話し終えられた時,話を聞いていた群衆は,「その教え方に驚き入っていた。権威のある人のように教えておられ,彼らの書士たちのようではなかったからである」と記されています。―マタイ 7:28,29。
イエスの教えが効果的であったのは,神,ご自分の父から実際に聞いた事柄を語っていたためです。(ヨハネ 14:10)ユダヤ人の書士たちのように人間の伝統に頼ることはありませんでした。それだけでなく,イエスは誠実に耳を傾ける人々に対して偽りのない愛を抱いておられました。人々を心の底から愛しておられたからこそ,人々の耳をとらえ,深い敬意を勝ち得たのです。人々は,イエスが書士や他の宗教教師とは大変異なっておられるのに気付きました。書士は常に人々を遠ざけ,いわば自分の長い衣を引きずって歩き,『律法を知らない群衆』に触れて汚されないようにしていました。そうした者たちは群衆を「のろわれた者」と呼んで,さげすんでいました。―ヨハネ 7:49。
しかし,イエスは深い思いやりに動かされて語り,こう言われました。『エホバの霊がわたしの上にある。貧しい者に良いたよりを宣明させるためわたしに油をそそがれたからである』。(ルカ 4:18)イエスはご自分の音信を分かりやすく,簡潔で,明快なものにされました。聴衆のよく知っている事柄を例えに使ってご自分の言わんとするところを示し,聴衆の心の奥底に達するよう努めました。人々が思いと心を入れ替え,誤った考えや行ないを改め,新鮮で新しい生き方を始めるよう促しました。そうした生き方は神の恵みを受ける関係へと導き,将来の真の希望を与えるものとなります。
お聞きになるかも知れない政治的な演説や宗教的な説教と,この教えを比較してみてください。そうした演説や説教の中には才気あふれるものや,もっともらしく聞こえるものもあります。話し手の中には激こうし,争いを引き起こす者もいます。しかし,一般の人々に対する愛と共感にあふれている人がどれほどいるでしょうか。
イエスは他の人々への思いやりを口先だけで示されたわけではありません。差し迫った身体的な必要を持つ人々を援助されました。イエスはそうした人々に食物を与え,病める人々をいやし,そうした人々の身内の者を死人の中からよみがえらせることさえしました。イエスはそうする力を神から与えられており,その力を存分に用いました。時には食事や休息の時間さえ十分にないことがありました。イエスは本当に情け深い人でした。―マタイ 14:14。マルコ 6:38-44; 8:22-25; 10:13,14。ルカ 8:49-56。使徒 10:38。
イエスの教えの最大の特徴の一つは,イエスが去られた後もその影響が将来の世代にまでおよぶような経路を備えられたことです。イエスが教えを与えた短い期間が終わった時には,一群の弟子たちを教え,訓練し,備えのできた者としておられたので,イエスの始めた業を続けるためその弟子たちを世へ遣わすことができるようになっていました。ご自分の弟子を教え手として後に残しただけでなく,教え手になるよう教育を施せる者とされました。イエスの始めた業は,その予告通り「すべての国の人びと」に達することになった,全地球におよぶ弟子を作る業へと野火のように広まって行きました。―マタイ 28:19,20。
愛のある,勇敢な指導者
イエスは弟子たちの中にあって指導的な役割を果たされました。その議論の余地のない指導力のゆえに,弟子たちは決して異議を唱えることはありませんでした。イエスは弟子たちに完全な模範を示されました。何であれイエスが弟子たちに求めた事柄は,ご自身の行動で示されました。イエスは隣人を愛するように,そうです自分の敵をも愛するよう,口先だけではなく,模範によって弟子たちを教えました。ですから,地上におけるその指導は流血とは無縁のものでした。だれか他の人の血をわずか一滴でも流したとして,イエスをとがめることはできません。ご自分の弟子のひとりが傷付けた敵対者の耳の傷をそのままにされることなく,即座にそれをいやされました。―ルカ 6:32-36; 22:50,51。
同時に,その地上の生涯を通して,多大の勇気と雄々しさと力強さが示されました。例えば,マルコ 10章32節にはこう書かれています。「さて,一行はエルサレムに上る道を進んでいたが,イエスがその先頭を進んで行かれるので,彼らは非常に驚いた。しかしそのあとに従う者たちは恐れを感じるようになった」。これはイエスが弟子たちと共にエルサレムに向けて最後の旅をしている時のことでした。イエスはエルサレムで処刑されることになるのを知っておられました。当時の宗教指導者たちはすべての栄光を自分たちのものにしておきたいと思っていたのです。それを保つために,宗教指導者たちはイエスを殺そうと意を決していました。歩いてエルサレムに上って行った際イエスはこの事をご存じであり,それについて弟子たちに語っておられました。(33,34節)イエスはたじろぐどころか,弟子たちの先頭に立って道を進んで行かれ,恐れを抱く弟子たちを驚かせました。弟子たちは本当に勇敢な指導者に恵まれていました。
数日後,イエスはご自分の命の懸かった裁判にかけられており,ローマの知事ポンテオ・ピラトからご自分が王なのかどうかと尋ねられた時,こうお答えになりました。「あなた自身が,わたしが王であると言っています」。(ヨハネ 18:37)難を逃れようとしてうそをつくことなど決してされませんでした。イエスはご自分の代表していた王国,つまり神の王国について勇敢に証しをされました。
その同じ日,イエスは死刑を宣告され,むち打たれ,いばらの冠を載せられ,顔を平手打ちにされ,つばきをかけられ,最後には苦しみの杭に釘付けにされて極めて苦痛の伴う死を味わわれました。イエスは最後の最後まで,愛のある勇敢な指導者としての責任を担われました。イエスは息を引き取る直前に天のみ父に最後の報告をされ,こう言われたのです。「成し遂げられた!」―ヨハネ 19:30。
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イエス・キリストが地上で行なわれたようなことを成し遂げた人はほかにはいない
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「あのように話した人はいまだかつてありません」という言葉が,イエスの教えを聞いた下役の口を衝いて出た
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いかなる人の血であれ,血を流したとしてイエスをとがめることはできない。それどころか,イエスは他の人々の傷をいやされた
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人類がアダムによって失ったものを,イエスが回復させてくださった
アダム
イエス
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イエスは自分自身の栄光ではなく,神の栄光を表わした
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イエスは山上の垂訓を話された
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子供たちに愛ある関心を払われた
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イエスは今あなたにとってどんな意味がありますか目ざめよ! 1982 | 7月8日
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イエスは今あなたにとってどんな意味がありますか
『でも,1世紀の昔にパレスチナで生活し,死んでいったイエスは,今のわたしにとってどんな意味があるのだろうか』とお尋ねになるかもしれません。
イエスが死んでおらず,生きておられるとしましょう。そして今,地球上のいかなる人間よりも影響力のある地位を占めておられるとしましょう。イエスが今,目に見えない天的な王の王となっており,人類の圧制者たちすべてと不道徳な生き方を求めてやまない人々とを滅ぼすよう命じる,そして本当にご自分の臣民になりたいと思っている人々すべてのために蓄え置かれた永遠の祝福の伴う1,000年に及ぶ平和の統治を始めるように命じる神の合図を待っておられるとしましょう。そうだとしたら,イエスはあなたにとって何らかの意味のある存在となりますか。
ある人々にとって,こうした陳述は単なる仮説にすぎないと思えるでしょう。しかし,真実であるとすれば,多くの事が関係してきます。
イエスは,地上におられる間ご自分が殺され,三日後によみがえらされることを繰り返し予告しておられました。(マルコ 8:31; 9:31; 10:34)イエスの死に関するその予告は成就しましたが,それに対応するよみがえらされることについての陳述はどうでしたか。イエスが備えておられた忠実さと正直さ,それにイエスの行なわれた奇跡に神の後ろだてが見られたことは,その成就をも支持するものです。どんな事が起きたでしょうか。
イエスが残酷な仕方で殺されてから三日目に,イエスが横たえられていた墓は空になっていました。その後40日間,イエスの追随者たちはイエスが生きておられるのを見聞きしました。四福音書の記述はいずれも,三日目によみがえらされるというイエスの言葉が成就したことを述べています。事実,この事には500人ほどの目撃証人がいました。(コリント第一 15:4-8)二,三人の信頼の置ける証人の口によってある出来事が事実として確証されるのであれば,イエスが死人の中からよみがえらされたことは正に十分確証された事実と言えます。それでも,これらの証人はどれほど信頼の置ける人たちだろう,といぶかしく思われるかもしれません。
これらの目撃証人がイエスの復活を熱心に宣明した結果,ローマ世界に大変動が生じたのは歴史上の事実です。(使徒 5:28; 17:6)その勇敢な証言のために,彼らは残虐な迫害に遭い,死にさらされました。その出来事の目撃証人が自分たちの信じている事柄のためにそのような仕打ちを甘んじて受けたのであれば,それらの人々の証言の真実さについてどんなことが分かりますか。
世界的に認められた法律の権威者で,ロンドン大学の法学部長であるJ・N・D・アンダーソン博士は,イエスの復活に関してかつて次のように語った,とロンドン・オブザーバー紙は伝えています。「『新約聖書』の筆記者6人の記述を作りごととするのは全く不可能な論議であろう。証人の数を考えるとよい。それは500人を超えている。その証人たちの人格的な面を考えるとよい。それは,古今最高の倫理的な教えを世界に与え,敵対者たちでさえ彼らがその教えを自分たちの生活で実践したことを証言しているほどの男女である。ある日,とある階上の部屋に小さくなって集まっていた打ち負かされた臆病者の小さなグループの者たちが,数日後にはどんな迫害にも沈黙しない人々の一団に変わっていたのである。こうした異常な出来事を考えてみるとよい。……目撃証人の証言をききながら,それを伝説扱いにするのは無意味に近いことと思える」。
それに加えて,これら誠実な証人たちが目にした証拠は一つや二つではなく,たくさんあったのです。「使徒たちの活動」の書はイエスに関してこう述べています,『そのお選びになった使徒たちに聖霊を通して命令を与えたあと天に上げられました。これらの者たちにはまた,ご自分が苦しみを経たのちに生きていることを多くの確かな証拠によって示し,四十日にわたって彼らに現われました』。『ご自分が苦しみを経たのちに生きていることを多くの確かな証拠によって示し』たのです。これ以上に納得のゆく証拠があるでしょうか。この陳述は教育のある医師ルカによるものです。―使徒 1:1-9。
必然的に次のような結論に到達します。つまりイエスの復活には,信じるだけの十分の根拠があるということです。そして,それは何を意味するものですか。当時の幾千人もの献身した追随者たちにとってはどんな意味があったでしょうか。すばらしい意味がありました。イエスが生き返らされておられるという事実は追随者たちに勇気と,生きる目的と,待ち望むものとを与えました。すなわち,神のご予定の時に王イエスが王権と栄光のうちに戻って来られ,地球からすべての悪を永遠にぬぐい去るために裁きを行なうというイエスの輝かしい約束の成就の見込みです。たとえ自分が生きているうちにこのことを経験しなくても,彼らはイエスが死者の墓を開き,その者たちを天の命に復活させ,ご自分と共に1,000年間統治する王また祭司にすることにより,「死とハデスの鍵」をお用いになることを知っていました。その天の政府は義の新時代をもたらし,その期間に地球はパラダイスに変えられ,そこに住む人々すべてに永遠の祝福と命をもたらすでしょう。復活させられたイエスは追随者たちにとってこうした事柄すべてを意味していました。―啓示 19:11-16; 1:18; 20:6; 21:1-5。
今でも生きておられる!
イエスは,「わたしは死んだが,見よ,かぎりなく永久に生きて(いる)」と言われました。(啓示 1:18)イエスは今でも生きておられるのです。当時生きておられただけではなく,今でも生きておられるのです。重大な年である1914年以来特に,世界の出来事はイエスの約束がいよいよ成就してきていることを示しています。事実,聖書預言は,地球に対するイエスの王国支配の始まりは諸国民の大変動によってしるし付けられるであろうことを示しています。『世の王国がわたしたちの主,エホバとそのキリストの王国となるとき』,諸国民は『憤る』ことを聖書は示しています。(啓示 11:15,18)また,その王国支配がイエスの敵たちのただ中で始まることをも示しています。(詩篇 110:1,2)これらの預言が聖書の年代表と相まって,1914年が地に対するイエスの見えない支配の始まった時であることを指し示しています。イエスがご自分の敵を完全に『従え』,その栄光ある平和の統治の到来を告げる時が間もなくもたらされます。
ですから,イエス・キリストは今生きておられるだけではなく,王となっておられるのです。そうです,王の王なのです。これは今生きているわたしたちにとってどんなことを意味しますか。これはわたしたちが正に慈しみの日,すなわち地上のその敵たちを最終的に従える前に許された猶予期間に生きていることを意味しています。この期間にイエスは全地球的な教育の業を遂行させておられます。その業はどこに住む人々にも,イエスと神の設立された王国とについて学び,その地上の臣民になりたいかどうかを示す機会を与えるものとなっています。―マタイ 25:31-46。
あなたがこの雑誌を手にして,この記事を読んでいること自体,こうした教育の業が遂行されていることの目に見える証拠なのです。今では年間合計発行部数が4億冊を上回る「ものみの塔」誌とその姉妹誌「目ざめよ!」誌は,長年にわたって100以上の言語で,天の王座に就かれた王イエス・キリストをいただく,神の設立された王国を宣明してきました。無数の聖書や聖書教育のための書籍やパンフレットが,エホバの証人の手で世界中に広められてきました。「エホバの証人はその証言で文字通り全地を覆った」と歴史学の一教授は書いています。神の設立された王国について1914年以降の時代ほど多くの事柄が印刷され,語られてきたことは歴史上いまだかつてありません。それは,マタイ 24章14節にあるイエスの預言的な発表を成就することに対してエホバの証人が示してきた熱意によっています。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。
言うまでもなく,世界中の宗教組織の指導者や会員で,今日,イエスを信じると唱え,イエスを歴史上最も偉大な人物としてたたえてさえいる人は少なくありません。しかし,イエスご自身があの有名な山上の垂訓の中で,ご自分の言われた事を従順に,また誠実に行なう人々以外はだれも自分の追随者として受け入れることはないとはっきり示されました。この時代にイエスの弟子であると唱える人々すべてがそうしているわけではありません。そうした人々の生活はしばしば自らの主張が真実でないことを表わします。ですから,イエスはご自分の真の弟子ではない人々を見分けるかぎをお与えになり,「あなたがたはその実によってそれらの人びとを見分けるでしょう」と言われました。―マタイ 7:15-23。
真の弟子としてイエスの特質を見倣うよう努めている人々は世界中に幾百万人もいます。そうした人々を見分けたいと思うなら,まずその偉大な模範者であられるイエス・キリストおよびその特質,その生き方,その教えをよく知らなければなりません。これは定期的に聖書研究をすることによって行なえます。エホバの証人ならだれでも,お手持ちの聖書を一番効果的に学ぶ方法をお示しいたします。そうすれば,イエスの真の弟子がだれであるかを見分ける備えができるでしょう。それがだれであるかについて納得がいった時に,その人たちと交わり,彼らが見倣っているその同じ偉大な模範に見倣って自分の生活を調整したいという気持ちにかられるでしょう。そうすれば,イエス・キリストに従うのは正に最善の生き方であることに気付くでしょう。歴史上最も偉大な人物の残した模範と調和した人生は,最善の人生であるに違いありません。自分の生活をその模範に合わせるという挑戦にあなたはこたえ応じることができますか。そして,今そのような生き方をすることが,王国の支配下でいつまでも幸福に暮らすというすばらしい将来を開くということも忘れないようにしたいものです。
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