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同性愛 ― 聖書の見方は道理にかなっていますかものみの塔 1974 | 11月15日
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に」提供するものの代用物をなんとかして提供しなければなりません。このことはどれほど道理にかなっていますか。聖書は同性愛行為を正しく,「異常で不自然な」もの,としています。
したがって聖書はこの習慣がもたらす結果を正確に描写し,そうした結果が現われる理由をわたしたちに知らせているわけです。またそのことと一致して聖書はその後この習慣をはっきり有罪としてはいませんか。それは道理にかなっています。
ですからコリント第一 6章9,10節には,「まちがってはいけない。淫行の者,偶像を礼拝する者,姦淫をする者,または同性に対してゆがんだ性欲を感ずる者はいずれも……神の王国を所有することはない」と書かれています。(新英語聖書)あるいは,「生きた聖書」の中でこの節が解説されているように,「同性愛者が神の王国にあずかることはありません」。
聖書的に言えば,問題は非常に明白ではありませんか。同性愛がまちがいであることを聖書ははっきり示しています。そしてこの習慣の悪影響を示すだけにとどまらず,そうした悪影響を生み出すものをも正しく非として首尾一貫しています。
しかし,同性愛者たちの間では,同性愛に反対を唱えたのはもともと使徒パウロであって,イエス・キリストではなかった,という論が流行しています。この主張はどれほど有効でしょうか。
イエスと同性愛
まず,そのように主張する人びとは,聖書がパウロのことばを『聖書』の一部として言及し,ゆえに「物事を正」すのに有益であると述べている事実を無視しています。(テモテ第二 3:15-17。ペテロ第二 3:15,16)しかしイエスのことばを真剣に調べてみるならば,イエスもたしかに同性愛に反対されたということがわかります。
改訂標準訳(RSV)によるとイエスは,マタイ 19章9節に記録されているように,「不貞以外の理由で妻を離婚し別にめとる者は姦淫を行なう」と言われました。イエスのことばを記述するにさいしてマタイがここで用いている,「不貞」に相当するギリシャ語は,ポルネイアです。ポルネイアは,「許されない性交に自分の身を渡す」という意味の動詞と関係があります。
これらのことばにどんなことが含まれているかを理解する一番良い方法は,他のところでこれらのことばがどのように使われているかを知ることです。聖書のユダの手紙の7節は,ある古代都市の罪を述べていますが,そのさいにこれに似たことばが出てきます。「ソドム,ゴモラおよび同様に不道徳に[ポルネウオの強意の語形]ふるまって,不自然な肉欲にふけった周りの町々は,永遠の火の刑罰を受けて一つの例となった」。(RSV)ソドムとゴモラはどんな形の『不道徳』すなわちポルネイアを行なったために有罪とされたのでしょうか。その答えは,聖書の創世記 19章4,5節(新)の次の叙述から分かります。
「ソドムの男たちは,少年から老人にいたるまでみな一団となって,その家を取り囲んだ。そしてロトに叫んで言った。『今夜おまえのところへ来た男たちはどこにいるか。われわれが彼らと交接できるように彼らをここへ連れてこい』」。
ソドムとゴモラのその男たちは同性愛者でした。事実,『二人の男性間の性交』という特別の意味を持つ英語の「ソドミー」は,ソドムの町の名から来ています。聖書は彼らの罪をポルネイアと呼びました。ポルネイアは道徳的に非常にまちがった行為ですから,結婚のきずなを断つ根拠となるということをイエスは言われました。
また,イエスはユダヤ人で,モーセの律法の下で生活しておられたことも忘れてはなりません。イエスのポルネイアの用法には,『モーセの律法が禁じていた性交すべて』が含まれているようである,とエドワード・ロビンソン編「新約聖書の希英辞典」は述べています。その律法が命じている事がらの中には,『女と寝るように男と寝てはならない。それは憎悪すべき事である』という命令も含まれています。(レビ 18:22,「モーセの律法,モーセの五書」,アメリカ・ユダヤ教出版協会発行)イエスがお用いになったポルネイアという語が,神のこの命令を包含していたことは明らかです。
また,モーセの律法が与えられる以前でさえ,神は同性愛を非とされていたということに注目すべきです。前述のソドムとゴモラにかんする記録はこの事実を証明しています。それらの町は,モーセの律法が制定される400年以上前に神により滅ぼされました。イエスはそのことをご存じでした。―ルカ 17:28,29,32。
したがってイエスが,同性愛のような『不貞』な習慣をすべて実際に非とされたことは疑問の余地がありません。理性的に考えれば分かるように,この問題にかんしても聖書は首尾一貫しています。パウロのことばは,神のみ子の権威によって支持されています。
しかし,聖書によると,同性愛者にはどんな道が開かれていますか。有罪を宣告されているだけで,神の恵みを受けられない,いわば永久に捨てられた者ですか。それは道理にかなったこととは思えません。では調べてみましょう。
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同性愛者はその生活を改めることができますかものみの塔 1974 | 11月15日
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同性愛者はその生活を改めることができますか
聖書が明白に同性愛を悪としていることは事実です。しかし聖書の神エホバは,人類の弱さに対して思いやりをお持ちです。エホバは愛の神です。ですから,当人が神のご意志に添うよう勤勉に努力するかぎり,全く救いがたい者として捨て去るようなことはだれに対してもなさいません。
同性愛者が神の是認を得るためには,その生活を改めなければならないことを聖書は示しています。しかし,その変化が可能なことも聖書は示しています。使徒パウロは,同性愛者だったある人びとについて述べたあと,コリント第一 6章11節で,「あなたがたの中にはそのような人たちもいました。しかし,あなたがたは洗われて清くなったのです」と言っています。彼らは生活を改めたのです。
ところが,多くの同性愛者は,自分たちにはそれはできないことだ,と主張します。それは,聖書はまちがっている,と言うのと同じです。「どうにも仕方がない。わたしは生まれつきの同性愛者なのだ」と断言する人たちもいます。あるいは,育ちのせいで同性愛者になったのだと言う人もあるかもしれません。人が異性愛を捨てて同性愛に心を向けるには,いろいろな社会的,感情的原因があることは疑えません。また同性愛の根本原因は分かっていないかもしれません。しかし,だれも,そういう宿命のもとにあるかのように,『どうにも仕方がない』と言うべきではありません。なぜでしょうか。
それはたくさんの資料が,聖書の述べることと一致しているからです。つまり同性愛者は生活を改めることができるということです。いつまでも同性愛者でいることを強いるのは,ほかならぬ本人自身です。それはあまりにも強い言い方だと思えますか。では証拠を検討してみましょう。
彼らが生活を改めない理由
この問題にかんする記事を読んだり,同性愛者たちと話すとき,人は,同性愛者は同性愛者であることを望んでいる,という事実を発見します。1972年5月14日のミネアポリス・トリビューン紙に,同性愛運動にかなり同情的な記事がのりました。記者の意見に注目してください。
「このすべての背後に無言の恐怖のあるのが感じ取られる。それは,ゲイをまともな人間に変えること
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