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エホバが神であることをバビロン的な敵意の中で擁護するものみの塔 1966 | 12月1日
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わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」。(ヨブ 42:7,8)こうして,バビロン化した賢人の背教的な宗教は,二度も『正しくない』と言われたエホバ神ご自身によって暴露されました。彼らが知恵としていたものは愚かな考えであるにすぎませんでした。自ら挑戦したサタンは哀れにもその論争に敗れたのです。3人の「友」たちは身を低くして自らを改め,真の宗教を受け入れてヨブに命ごいの祭司となってもらわねばなりませんでした。ヨブについて言えば,エホバは「ヨブの繁栄をもとにかえし」,初めに失った資産の2倍をヨブに与えました。そして家族について言えば,妻も年が進んでいたにもかかわらず,ヨブは7人のむすこと,3人の美しい娘を持つようになりました。―ヨブ 42:10-15。
25 確かに,エホバはご自分の至上権を擁護する忠実な証人を地上に選び出され,まことの神としての力を立証されました。そしてヨブはその時代の擁護者として正しさを認められる者となりました。このドラマになにか預言的な意味がありますか。それは後の時代の真の知恵を持つ者にとって関心となるところです。次の記事の中ではこの問題に関する肯定的な証拠が提出されています。
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「敵意の的」イエスはエホバが神であることを擁護するものみの塔 1966 | 12月1日
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「敵意の的」イエスはエホバが神であることを擁護する
「罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを,思いみるべきである」― ヘブル 12:3。
1 イエスは大いなるヨブであると言えるのはなぜですか。
ヨブの名には「敵意の的」という意味があります。a 試練を経験した時のヨブはいかにも敵意の的であったではありませんか。ヨブはサタンおよびバビロン化した友人たちの敵意を浴びました。さて,このできごとのすべてはちみつな預言劇であり,一次的には大いなるヨブであるイエス・キリストに成就しています。しかし,このことの教訓的な証拠を検討する前に,イエス以前の5世紀間における,パレスチナおよび周辺の異教世界の宗教事情について調べることが必要でしょう。その500年の間に,サタンはきわめてこうかつな宗教上の諸勢力と混乱的な教義とを生み出しました。それは,約束の「すえ」が地上にいつ現われても,その者を極度の試練に会わせるためでした。(創世 3:15)これから先に見るとおり,完全な人間イエスは大いなるヨブ,すなわち大いなる「敵意の的」以上のものになることができました。エホバ神が至上の神であることを立証するために,イエスは罪人の反抗を耐え忍ばれました。―ヘブル 12:3。
イエスの到来にそなえて宗教事情をととのえる
2,3 (イ)パレスチナとバビロンの2ヵ所にユダヤ人の中心地ができたのはなぜですか。(ロ)ユダヤ人の宗教はどのように広がりましたか。それは何を中心にしていましたか。
2 聖書および一般の歴史から見て明らかなごとく,紀元前607年から537年にバビロンに流刑になったユダヤ人のうち,紀元前537年あるいはそれ以後にエルサレムに帰還し,ゼルバベルの指揮のもとに真の崇拝の再興と宮の再建に加わった者はごく少数です。(エズラ 2:1,2)何年かのち,ネヘミヤはエルサレムの城壁を再建し(ネヘミヤ 7:1),エズラは再建された宮で日毎に仕える祭司を配置して,それぞれエルサレムの再興に加わりました。(エズラ 7:1-7)エズラはまた神聖なヘブル語聖書の信頼できる写本を整え,流布に備える大きな仕事を率先して行ないました。しかしながら,流刑の身にあったユダヤ人の大部分はバビロニアにとどまることを選びました。そのユダヤ人たちは国の各地に分散させられてはいましたが,物質的には安定した地位を得ていました。b バビロンに残留したこれらのユダヤ人はアブラハム,モーセ,また預言者などのまことの宗教をあるかたちで保存しました。これはヘブライズムとも呼ばれます。
3 紀元前5世紀以後,バビロニアやパレスチナのユダヤ人の中には貿易や商業に携わる者が多くいました。そうしたユダヤ人は家族や親族を連れてメソポタミヤ,エジプト,ギリシヤ,ローマ,そしてやがては地中海全域に移住し,異邦の大都市にある外国人居留地に住みました。すなわち,ユダヤ人社会は,今日におけると同じく,当時の文明世界全域に拡大したのです。こうしたユダヤ人が携えて行ったものは,儀式や犠牲のためではなく,祈りと研究のために集まり合う習慣,つまりヘブライ流の宗教でした。その宗教生活の中心となったのは簡素な会堂です。当初,この種の会堂は「ベス ハ・ケネセット」(祈りの家),もしくは「ベス ハ・ミドラシュ」(研究の家)と呼ばれていましたが,c 後年にはギリシヤの影響を受け,ギリシヤ語でシナゴグと呼ばれるようになりました。d
4 イエスの宣教に先だってユダヤ人の舞台はどれほど広げられていましたか。
4 こうしてユダヤ人は拡大する異邦世界に自分たちの宗教を「輸出」していたのです。やがてパレスチナ外部の「植民地」に居留するユダヤ人は人口において本土のユダヤ人を大幅に上まわり,四散したユダヤ人(ダイアスポラ)として知られるようになりました。これがすなわち「離散している」ユダヤ人です。(ヤコブ 1:1)これは結局は数世紀をかけた大宣教活動となり,ユダヤ人は自分の宗教を異邦人に伝えることになりました。「シナゴグは数十万の帰依者を集め」て改宗者を作ったと,ヨセハスは書いています。e (マタイ 23:15)3年に一度ずつユダヤ人と改宗者の男子はエルサレムに巡礼し,そこでの祭りに臨みました。f ヨセハスの記録によるとある年の過越には270万以上の男子が集まりました。g ギリシヤ化したユダヤ人フィロはこのできごとについて記述する中で,エルサレムを「一国民ではなく万国民の」都としています。h こうした事情を考慮するなら,「敵意の的」となるイエスのために舞台が世界に広げられていたことを理解できます。
ヘレニズムの内的な影響
5,6 (イ)ヘレニズムとは何ですか。(ロ)それはどのようにパレスチナに「輸出」されましたか。(ハ)ユダヤ人はどんな肉欲的な影響を受けていましたか。ユダヤ人の宗教は影響を受けましたか。
5 次に,こうしたクリスチャン時代以前のユダヤ人の宗教が,東洋のバビロン的宗教思想に染まったいきさつを調べましょう。これは一つにはユダヤ人のバビロン捕囚が直接の原因でしたが,東洋化したギリシヤ人の微妙な影響も見のがせません。往時のギリシヤ人はヘレヌスと呼ばれました。それゆえ,ギリシヤ人の文化および宗教はヘレニズムと呼ばれるようになりました。昔のギリシャの哲人の多くは事実上,ヘレニズムの「預言者」であり,各派の思想は異教ヘレニズムの諸教派をなすものでした。ヘレニズムには幾つもの教派がありましたが,その特徴は美術,音楽,舞踏,からだの鍛練,競技,官能的な生活,肉体に幸福を求めること,物質主義,霊魂の不滅,万神の崇拝など,「肉の欲」(ヨハネ第一 2:16)に訴える事柄でした。ギリシヤ化したアレキサンダー大王が当時の世界を征服した時,「ギリシヤ人はそれまでの東方征服者と異なり,被征服民を居住地から追い立てるかわりに,自分の国そのものを征服地に移した」。i それで,ユダヤ人と同じようにギリシヤ人も自分のヘレニズム文明を諸国に輸出したのです。たとえば,アレキサンダーおよびその後継者のこうした政策にしたがって,ユダヤ地方にもデカポリス(10の町)と総称されるギリシヤ人の都市,10が建設されました。(マタイ 4:25。マルコ 5:20; 7:31)これはユダヤ人の結束を破ることを目的にしており,ヘレニズムの誘惑的な雰囲気もしくはこの世の霊をかもし出しました。(コリント第一 2:12)運動競技,美的感覚,洗練された優美さ,形の美しさなどを売り物にするこれらの都市は,ユダヤ人の若者にとってあこがれのまとでした。j こうしてギリシヤの作法,ギリシヤのことば,ギリシヤ風の考え方などがパレスチナにはんらんしました。
6 しかし,こうしたヘレニズム風の文化および宗教は,すでにアレキサンダーのペルシャ征服以来,東洋ないしはバビロニアの影響を受けていました。k 「東洋の思想と混交した〔ヘレニズム〕は官能主義と理性主義の不純な成長という姿になりさがった」。l パレスチナのユダヤ人および離散したユダヤ人の双方に言えることですが,「ユダヤ人は徐々に,しかし着実に,周囲の宗教思想を同化するようになり,そうした思想を加味して聖書を解釈するようになった」。a こうしてヘブライズムは背教の度合をいっそう強くしたユダヤ教となり,非聖書的な規定や伝統を多く集めるようになりました。(ガラテヤ 1:13。マルコ 7:13)ついでわたしたちは,ユダヤ教がバビロン化した証拠,および,それがイエスの時代までに幾つもの教派に分裂したことについて調べましょう。
ユダヤ人はバビロン思想をとり入れる
7 バビロニア人は自分たちの神をどんなことばで呼ぶようになりましたか。
7 まず,バビロンの神々の中でマルズク(メロダク)が「神々の長者,最古参者」,つまりバビロンの主神とされていたことに注意してください。(エレミヤ 50:2)b マルズクの由来はニムロデにまでさかのぼります。「ニムロデ……に最も結びつくのはバビロンの主神マルズクである。ニムロデはおそらくバビロンの建設者であったのであろう。アッシリアの神アッシュールが……アッシリア帝国の建設者と目されるのに似ている」。c 紀元前8世紀のイザヤの時代よりずっと前に(イザヤ 46:1),バビロンでは主神マルズク(メロダク)を単に「主」もしくはバールという一般的な称号で呼ぶ習慣が発展していました。これは古代の異教徒カナン人の習慣に似ています。(士師 2:11-13)「マルズク……はバビロン市の守護神であり,マルズクの神殿はエサジラと呼ばれた……マルズクの名は後年に総称的なベル,『主』という称号に置きかえられ,やがてベルと言えば一般にマルズクをさすようになった」d ― エレミヤ 51:44。
8 ユダヤ人は神を称号で呼ぶこのバビロニア人の習慣から影響を受けましたか。
8 バビロン捕囚後のユダヤ人がこの習慣にならい,自分の神を呼ぶのに固有の名エホバを使わず,単に「主」(アドナイ)と呼ぶようになったことは周知の事実です。そして,ユダヤ教のソヘリムはイエス以前のバビロン化時代に,ヘブル語聖書原本中の神の名「エホバ」(יהוה)を134カ所にわたって「主」(אדני)という語に置きかえ,この背教的な,セボレテ的な習慣をさらに進めました。e こうしてユダヤ教下のユダヤ人がサタンに巧みに動かされて,神を単に称号で呼ぶバビロニアの習慣のセボレテに従い,まことの神の御名を隠すにいたったいきさつを知ることができます。神をエホバと呼ばず,主という一般的な称号を使うことによって,まことの神との暖かく,親しみのある関係は失われました。
9,10 (イ)エホバのまことの崇拝者がエホバをさして主ということばを使う場合にはどんな敬けんな方法に従いましたか。(ロ)エホバ神の至上権を認めたネブカデネザルのことばについて注目すべきことは何ですか。
9 アブラハムの時代から預言者の日に至るまで,昔の,真のエホバの崇拝者が神を主(アドナイ)と呼ぶ場合には,いつでも同じ文脈の中に神の御名を用いました。f 「エホバ」の語なしに主(アドナイまたはアドン)ということばだけを使った場合もありますが,それは異教の名目的な神々や主に対するエホバの至上性を示す場合(申命 10:17。ヨシュア 3:11,13)か,あるいはエホバ神だけが「ハ・アドン」すなわち唯一まことの主として示されている場合です。g イザヤはシボレテつまり正しい言いかたでこう述べています。「エホバわれらの神よなんぢにあらぬ他の主ども〔アドニム〕さきにわれらを治めたり〔バアルヌ〕,されどわれらはただなんぢによりてなんぢの名をかたりつげん」― イザヤ 26:13,文語。
10 さらに,ヘブル人の真のエホバの崇拝者は「ハ・エローヒーム」すなわち「唯一まことの神」という表現を使いましたが,バビロニア人は他の異教徒と同じく,自分たちの主神をさしてこのような専一的な表現は使いませんでした。ネブカデネザルはヘブル人の神エホバが真実の神であることをやむなく認めましたが,その時にも「ハ・エローヒーム」というヘブル語の表現を用いず,単にアラミヤ語の神,「エラハ」(限定詞)ということばを使っています。―ダニエル 3:28,29。
11 ユダヤ人がバビロン的な宗教思想を受け入れていたことの証拠をさらにあげなさい。
11 バビロニアの「三神一体の概念」はエジプトの勢力をとおしてユダヤ人に伝わりました。h 「霊魂の不滅」に対する信仰はバビロンとギリシヤからユダヤ教にはいりました。「アレキサンドリアのユダヤ人だけでなく,パレスチナのユダヤ人も,〔紀元前〕2世紀には霊魂不滅の教義を受け入れた」。i これはさらに,2世紀までに,「からだの復活」という信仰に導かれました。これは霊魂が住む場所を常に得るためのものと考えられました。j 例をあげて説明すれば,イエスの到来以前に一ユダヤ人が書いた外典「ソロモンの知恵の書」は,たましいと肉体との分離に関する,ギリシャの哲人プラトンの思想を提出しています。(1:4; 9:15)また肉体以前に存在するたましいが肉体にはいるという,ギリシヤの予定説も提出されています。(8:19,20)人の将来の命はメシヤによってではなく,知恵によってもたらされます。(8:13)また「知恵の書」にしたがえば,人間は不滅不朽のものとして創造されました。(2:23; 6:19; 12:1)ヘーデスは不義のたましいが苦しむ所であり(1:14; 2:1),人間にとって賢明なのは今快楽の日を送ることであるという,ギリシヤの考えも取り入れられています。―2:7-9。
ユダヤ教の派閥的な圧力グループ
12-14 ユダヤ教の圧力グループ三つについて,一つずつ説明しなさい。
12 異教世界からの種々のあいまいな教義を取り入れるかどうかによって,ユダヤ教は幾つかの教派に分裂するようになりました。こうした教派は宗教面だけでなく,政治の面においてもそれぞれに勢力をもつグループとなりました。この時期に発展したのはサドカイ派です。サドカイ派は「祭司階級の多くを含み,以前のヘレニストたちの見解を継承していた……彼らは実質的には唯物主義者であった。人々の待望するメシヤを期待せず,理性の働きを信頼した。彼らの独立独歩の態度,律法を字義どおりに行なおうとする厳格さ,復活の否定などはストア派〔ギリシャ哲学の一派〕の精神を反映している」。k
13 エッセネ派はヘレニズムの清教徒とも言うべき流れを汲んでおり,ピタゴラスに従って,「からだとたましいの二元論的な教義のほか,肉体の浄化,沐浴の実行,血のささげ物の拒否,独身のすすめ,〔事実上,去勢された者のようになること〕」などに重きを置いていました。l
14 スクライブス(法学者)も一派または一党をなしていました。スクライブスは早くはハシディム(信心深い人々)の仲間でした。また律法の学者であったため,モーセの律法を厳格に主張し,ギリシヤのことばやギリシヤ風の考え方に大いに反対していました。a
15-17 ほかの三つの圧力グループについて興味ぶかい点をあげなさい。
15 クリスチャン時代以前に出た別の教派はパリサイ派です。パリサイ派の人々は自らをハブヘリムすなわち「隣人」と呼んでいました。隣人と称することによって,「〔パリサイ派〕は人々に対する影響力に由来する権力を強く」していました。b ついでながら,この点を考慮するなら,イエスがパリサイ人に語られた「良きサマリヤ人」のたとえをさらに深く理解できます。イエスはこう尋ねられました。「この三人のうち,だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。(ルカ 10:25-37)パリサイ人はモーセの法律に付け加えられたユダヤ教の言い伝えを堅く守りました。そして,天使や霊者の存在を信じ,「からだの復活」を主張しました。(使行 23:6-8)c 人間のたましいは不滅であり,悪人はヘーデスで苦しむというのもこの派の教えでした。ヨセハスはそのことをこう書いています。「〔パリサイ人は〕たましいはすべて不滅であると考えている。善人のたましいだけが別のからだにはいり,悪人のたましいは永遠の罰を受ける」。d
16 もう一つの圧力グループはヘロデ党と呼ばれ,ヘロデに従う人々の集まりでした。(マタイ 22:16)ヘロデ党は国家主義的なグループであり,ローマの配下に行なわれるヘロデ家の統治を支持していました。e
17 サンヘドリン自身も,その全体が一つの圧力グループとなっていました。サンヘドリンは祭司および前述の党や派の指導者で構成されていたからです。以上がイエスの宣教開始までに形を整えていた教派的な圧力グループです。
大いなるヨブの登場
18,19 イエスと昔のヨブとの顕著な類似点をさらにあげなさい。
18 ヨブのドラマの規模の大きな成就はイエスの時代に始まりました。大いなるヨブとなり,
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