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喜びをもってエホバに仕えなさいものみの塔 1977 | 11月1日
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牢番が,彼らが至高の神の代表者であることに気づき,彼らを獄の外に連れ出して,「皆さん,救われるためにわたしは何をしなければなりませんか」と尋ねたときの彼らの喜びを想像してください。それでパウロとシラスは,キリストを通して行なわれる神の目的を説明することができ,その結果,「彼もその家の者もひとり残らずすぐにバプテスマを受け……自分が神を信じるようになったことを家の者たちすべてとともに大いに喜」びました。―使徒 16:25-34。
クリスチャンたち,反対されて喜びを損なうことがないようにしなさい
12 ある人々が真理に反対してわたしたちを非難してもろうばいすべきではありません。なぜですか。
12 しかし中には,真理を聞かされるのを喜ばない人たちがおり,その人たちは,良いたよりを宣べ伝える人の喜びを損なう傾向があるかもしれません。良いたよりが広がるのを阻むために闘い,また良いたよりをふれ告げる人のことやその動機を偽り伝えて彼らを困らせようとさえするかもしれません。このことが使徒パウロに生じました。それでもパウロは,ローマの獄中にいたとき,フィリピの会衆に次のように書き送りました。「たしかに,そねみや対抗心によってキリストを宣べ伝えている者たちもいますが,ほかの者たちは善意によってそうしています。後者は愛の気持ちからキリストを言い広めています。彼らは,良いたよりの弁明のためにわたしがここに置かれていることを知っているのです。しかし,前者は闘争心からそうしているのであり,純粋な動機によるのではありません。彼らは獄につながれているわたしに患難を引き起こそうと考えているのです。ではどうなるでしょうか。見せかけであっても真実であっても,あらゆる方法でキリストが言い広められている,ということにほかなりません。そのことをわたしは喜んでいます。事実,これからも喜んでゆきます」。パウロはさらにこうつけ加えます。「いかなる点でも,あなたがたの敵対者たちのゆえに恐れ驚いたりはしていないことです。実にこの事は,彼らにとっては滅びの証拠ですが。あなたがたには救いの証拠です。そして,こうした示しは神からのものです」― フィリピ 1:15-18,28。
13 エルサレムにいた使徒たちは,そこで生じた激しい迫害にどう反応しましたか。
13 それより前,つまり西暦33年のペンテコンテの少し後,大祭司とサドカイ派の人々は,使徒たちの公の証言,とりわけ多くの人々が彼らの言うことを聴き信者になっている事実を見て「ねたみに満たされ」,彼らを拘引させました。使徒たちはみ使いによって釈放されましたが後ほどまた逮捕されました。彼らの証言を聞いた宗教指導者たちは,「いたく身を切られるように感じ,この者たちを除き去ってしまいたいと思うので」した。しかし大いに重んじられていたガマリエルという名のパリサイ人が,「彼らをほっておきなさい。……さもないと,あなたがたは,実際には神に対して戦う者となってしまうかもしれません」と言ったので,彼らは使徒たちをむち打つだけにし,宣明の業をやめるように命じました。こうして使徒たちは死と紙一重のところまでいって意気阻喪し,喜びを失ったでしょうか。全くその反対で,彼らは「彼の名のために辱しめられるに足る者とされたことを喜びつつ……出て行った」のです。「そして彼らは毎日神殿で,また家から家へとたゆみなく教え,キリスト・イエスについての良いたよりを宣明しつづけ」ました。―使徒 5:12-42。
14 わたしたちは一世紀のクリスチャン会衆が得たのと同じほどの助けを神に期待することができますか。
14 この時にもまた他の場合にも,神は奇跡的な方法で介入し,ご自分が良いたよりの宣明を後援していることを明らかにされました。(使徒 12:1-11)神は今日でもその業を後援しておられます。キリストとみ使いたちがその監督にあたっています。近代,エホバのしもべたちは驚くべき救いを経験しました。またこれまで行くことができなかった地域で良いたよりを宣明する業が開始されるのを見てきました。神はその霊によって,以前激しく反対していた人々を真理に引き付けられました。そのことは,使徒パウロになったサウロの改宗を思い起こさせます。(使徒 9:1-16)現代の例は,初期会衆における例とはちがって,明らかにそれと分かる奇跡ではありません。しかしそれでも神のしもべたちは,そうした例の背後に全能の力を ― エホバの「強力な業」を認めることができます。―ガラテア 3:5。
15 クリスチャンは迫害されることを求めますか。なぜそれに立ち向かいますか。
15 自分たちの背後にこの強大な力が控えているため,真にエホバに仕えている人々は,恐怖にすくんでしまうとか,自分たちの話す事柄に人々が無関心であるからといってこの業をやめてしまうほどに落胆するようなことはありません。事実,彼らはイエスが追随者たちに言われた,「あなたがたは,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的になるでしょう」という言葉をよく知っています。また,「キリスト・イエスにあって敬神の専念をもって生活しようと願う者はみな同じように迫害を受けます」という使徒パウロの警告を思い出します。(マタイ 10:22。テモテ第二 3:12)クリスチャンは迫害されることを求めているのでも,望んでいるのでもなく,また好んでいるわけでもありませんが,自分たちの上にそれが臨むときには,試練に耐えることが自分たちのためになることを知っているので,それに立ち向かいます。彼らは初期クリスチャンたちと同じ態度を取ります。「患難にあっても歓喜しましょう。患難が忍耐を生じさせることをわたしたちは知っているからです。かわって,忍耐は是認を受けた状態を,是認を受けた状態は希望[すなわち報いを受けるという希望]を生じさせ,その希望が失望に至ることはありません」― ローマ 5:3,4。
16,17 (イ)異教の国民と戦うとき,イスラエルの兵士には何が要求されましたか。(ロ)人々に証しを行なう業に携わるとき,わたしたちは同じ支援を期待できますか。
16 昔の詩篇作者は,「喜びをもってエホバに仕えよ。喜びの叫びをもってそのみ前に至れ」と,イスラエルの民を励ましました。(詩 100:2,新)全イスラエルがエルサレムの神殿に集まって真の崇拝を行なうことを彼は願いました。わたしたちは当時の状況と,エホバに仕えた人々の信仰とをよく考えるとき,力と励ましを得ます。彼らは律法を常に守らなければなりませんでした。律法は道徳水準を最高に保ち,また衛生や食物摂取に関するおきてによって忠実なユダヤ人を真の神の崇拝者でない者と交わらせないようにしました。ユダヤ人は異教の民に囲まれていました。異教の民は,多くの場合不潔な偶像崇拝に関連した,あらゆる形の不道徳を行なっていました。彼らはたいていイスラエルを滅ぼしてその国を取ることを望んでいたので,ユダヤ人は時折それらの民と戦うために召集されることがありました。
17 彼らとの戦いに出て行くのにどれほどの信仰と勇気が必要であったか想像してみてください。それらの国の兵士は戦いになれた戦士でしたが,一方イスラエル人は,その大部分が,平和な農耕に時間を用いていました。出て行って,そうした強力な敵の戦士たちと白兵戦を交えなければならない自分を想像してみてください。イスラエルに勝利を得させたのは,個人の力ではなくて神への信仰でした。というのは,彼らが神に対する信仰を失ったときには,それらの国は彼らの手にあまったからです。サムエル後書 23章8-22節にあるような記述を読むと非常に励まされます。そこに名をあげられている人々は強くて活動的な人々であったにはちがいありませんが,その奇跡的な力と忍耐力を彼らに与えたのは,神に対する彼らの信仰であったことが読んでいるうちに分かってきます。今日でもわたしたちはそれと同じ強力な後ろだてを有しているのです。(マタイ 28:20。啓示 14:6)ですから,良いことをするのにうみ疲れたり,恐れてしりごみしたりすべきではありません。エホバは「弱った者には力を与え,勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り,かつ疲れ,壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主[エホバ,新]を待ち望む者は新たなる力を得,わしのように翼をはって,のぼることができる。走っても疲れることなく,歩いても弱ることはない」― イザヤ 40:29-31,口。
18 信仰の結果として,わたしたちの喜びが,古代の忠実な人々の経験した喜びよりも実際にもっと大きくなるのはなぜですか。
18 昔戦いをした人々は,多くの場合,四六時中即死と顔を突き合わせていなければなりませんでしたが,わたしたちが良いたよりを宣べ伝えるときには,その必要はありません。それにわたしたちは,本当に耳を傾ける人々の心に訴える平和なおとずれを携えています。ですから,わたしたちの喜びはもっと大きくてよいわけです。破壊的な肉の武器をもって戦う代わりに,わたしたちは,人々を除くのではなくて間違った教理と考えを取り除く,そしていやしをもたらす義の武器を携えています。耳を傾けそして信ずる人々の心にそれがもたらす喜びは,わたしたちの喜びをも増し加え,将来すばらしい報いを得るわたしたちの希望をも強めるのです。―コリント第二 6:4,7。コロサイ 3:23,24。
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霊的な祝祭 ― 今と昔ものみの塔 1977 | 11月1日
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霊的な祝祭 ― 今と昔
全能者なるエホバ神はわたしたちの偉大な創造者です。エホバ神のみ業はエホバ神が賢明で公正かつ愛情の深い主権者であることを証ししています。わたしたちが人間として何を必要としているか,何がわたしたちを幸福にするかを,だれよりもよくご存じです。したがって,基本的必要,欲望,また願望を有する者としてわたしたちを造っただけでなく,その必要を満たすための配慮もされました。―詩 104:24; 145:16-18。
地は,わたしたちが衣食住という物質的必要を満たせるように神が造ってくださった物でいっぱいです。神はまた,美しい風景や音,愛情や友情,また一つの家族の構成員であることに伴う喜びと祝福など,わたしたちが自分の感情を満足させ得るようにもしてくださいました。
同様に,エホバ神はわたしたちの知的,霊的渇き,すなわちわたしたちの推論する能力,知識欲,崇拝本能を満足させるための備えもされました。人間は,自己の存在の目的,どこから来たのか,どんな運命にあるか,などを知ることを望みます。そうです,わたしたちは自分が生きていくうえで多くの恵みを受けますがその恩義をわたしたちはだれに負っているのか,どうすれば自分が創造された目的に最もよくかなうことができ,またそうすることによって自分の感謝を示せるか,知りたいと思います。そうした基本的必要を満たすために,エホバ神は初めから,ご自分が選んだしもべたちを通して,わたしたちに関するご自分の意志を伝達されました。古代においては神は特に預言者モーセを用いて,ご自身の目的と意志を人々にお知らせになりました。
古代の民がエホバ神を一層よく知り,また他の霊的祝福を享受するよう,エホバ神は愛をもって多くの方法を講じられましたが,その一つは安息日と祝祭の制定でした。これらの祭りはすべて,民の霊的福祉のみならず他の多くの面における彼らの福祉に対する,エホバ神の愛のこもった関心を証しするものでした。
エルサレムで年ごとに行なわれた祭り
当時を振り返って見ると次のことが分かります。つまり特別顕著で重要だったのは,エホバの崇拝の中心地エルサレムで年ごとに行なわれた三つの大きな祝祭であったということです。これらの祭りには預言的な意味があったので,わたしたちにとって特に重要です。「年に三度,あなたに属するすべての男子は,あなたの神エホバの選ばれる場所においてそのみ前に出るべきです」。(申命 16:16,新)これらの祝祭には幾つかの基本的特色がありました。つまりそれらの祭りは非常な喜びの時となるべきものでした。「あなたはその祭りのあいだ喜び楽しむのです。……あなたはただ喜び楽しむのです」。(申命 16:14,15,新)犠牲も数多くささげられました。大切な要求は,だれもむなし手で出てはならないということでした。各々,エホバが与えてくださった物質の恵みに応じた贈り物を携えてきました。(申命 16:16,17)そしてこれらの祭りの一つではまた,七
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