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エホバの言葉を大胆に語るものみの塔 1980 | 3月15日
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ことができません。このようにして彼らは悪魔の計略を克服し,打ち負かしたのです。―エフェソス 6:11,12; ヤコブ 4:7; ペテロ第一 5:8,9と比較してください。
21 (イ)エホバが,現在行なわれることを願っている業は何ですか。(ロ)なぜわたしたちは,与えられた仕事を成し終えたいと願いますか。どうすればみ言葉を大胆に語り続けることができますか。
21 今日でも王国の『すなどる』業は,山のような反対にもかかわらずとどまることなく前進しています。エホバの祝福はその上にずっと表明されてきました。昨奉仕年度だけを取ってみても,エホバの証人たちは,新しく11万3,672名の方々がバプテスマを受けるのを見て喜びました。これらの人々は本当に喜んでエホバの言葉を語ることに参加しています。これは現代のわたしたちのための神の業です。そしてエホバに献身した人々すべてが心にかけ,忙しく携わり続けなければならない業です。それは彼らに割り当てられている業だからです。(コリント第一 9:16)あなたの心は,大胆にエホバの言葉を語るようにあなたを動かしますか。世界の状態は悪化する一方ですから,わたしたちはこの業が完了する時まで王国の良いたよりを伝え続ける決意を抱かなければなりません。反対が生じるとしてもわたしたちはうろたえません。イエスはエホバから与えられた業を始められただけではなく成し終えられたということを思い起こしましょう。(ヨハネ 17:4)イエスは世の憎しみに対抗する備えを与えてくださいました。わたしたちに関する神のご意志を成し遂げるためにエホバの助けを十分の信仰をもって求めるとき,わたしたちもイエスのように,そして一世紀の使徒たちや他のクリスチャンたちのようでありたいと思います。わたしたちの一致した祈りがいつも次のような祈りでありますように。「それで今,エホバよ,……あなたの奴隷たちがあらんかぎりの大胆さをもってみことばを語りつづけることができるようにしてください」― 使徒 4:29。
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真の崇拝にあずかる喜びものみの塔 1980 | 3月15日
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詩篇
真の崇拝にあずかる喜び
至高者に献身した僕たちにとって,他の人々と共に真の崇拝にあずかることは,言い知れない喜びの源になります。その感情がどれほど深くなるかは,詩篇 122篇の中に示されています。その冒頭の言葉はこうなっています。「わたしは歓んだ。人々がわたしにこう言っていたとき。『さあエホバの家に行こう』と」。(1節,新)エホバの聖所に行くと考えるだけでも,詩篇作者の内には,喜びと平和の感情がかもし出されました。
詩篇 122篇の表題はこの篇をダビデの作としていますが,セプトゥアギンタ訳は「ダビデによる」という語を省いています。このこと,そしてこの篇の中で用いられている幾つかの語から,数多くの学者たちはこの篇がダビデ以外のだれかの手になるものであるとの結論を出しました。とはいえ,ヘブライ語本文に現われる表題を受け入れたとしても,詩篇 122篇は難なく理解できます。
神を恐れるダビデは,エホバの崇拝の家へ上って行くことに深い喜びを覚えました。その喜びのほどは,シオンの山に神聖な櫃が移されたときにダビデの行なったことからはっきり分かります。聖書はこう述べています。「ダビデはエホバの前で力の限り踊り回っていた」。ダビデと「イスラエルの全家は,歓声を上げ……エホバの櫃を運び上っていた」。―サムエル後 6:14,15,新。
しかし,続く言葉からすれば,詩篇 122篇は,エホバの聖所へ上って行く崇拝者一般の心情を表わすために作られたに違いありません。「わたしたちの足は立っていた。エルサレムよ,あなたの門の内に。エルサレムは都市のように建てられているもの。一つに結び合わされた都市のように。そこに各部族は上って行った。ヤハの各部族が。イスラエルに対する諭しとしてエホバの御名に感謝を捧げるために」。(詩 122:2-4,新)ですからこの篇は,崇拝者たちがエルサレムの外からやって来て,門から入ってすぐにその都市を見るために立ち止まったものとして描いています。その目には何が映りますか。エルサレムは,「一つに結び合わされた」都市です。家々は,あたかも『一つに結ばれ』たかのように,寄り添って建てられていました。これは古代の都市として珍しい配置ではありません。密集して,堅固な保塁で囲まれたそのような都市は,不規則に広がる大都市よりも守りやすかったのです。その都市を守る人は,広い範囲を守備しなくてもよかったので,敵の攻撃に対してある箇所の守りが手薄になることはありませんでした。その上,エルサレムは東と南と西を山と険しい谷に囲まれていたので,建設用地が非常に限られていました。そのため,この都市の住民は,寄り添うようにして住み,互いに助け合い,守り合っていました。イスラエルのすべての部族が崇拝のために集まったとき,物理的な親近感は,全国民の霊的一致をよく表わしていたと言えるでしょう。人々が「エホバの御名に感謝」を捧げるとは,その御名によって表わされる方である至高者に感謝することを意味しました。
エルサレムは真の崇拝の中心地のみならず,政府の所在地でもありました。詩篇作者はさらにこう述べています。「そこに裁きのための座があったからだ。ダビデの家のための座が」。(詩 122:5,新)首都エルサレムは,最終的な裁きの下される所でした。ダビデ王は裁き人の地位を占めていましたし,その家の者たちも同様の立場を占めていました。聖書は,「ダビデの子ら,それは祭司となった」と伝えています。(サムエル後 8:18,新)この人たちが「祭司」と呼ばれていることは,ダビデの子たちが国の高官,つまり役人であったことを示しています。それで,彼らはその資格において裁きを言い渡したに違いありません。
エルサレムの重要性を考慮して,詩篇作者はさらにこう言葉を続けています。「求めよ,ああ,エルサレムの平和を。あなたを愛している者たちは,都よ,心配しなくてもよくなる。平和があなたの塁壁の内に引き続きあるように。心配のない状態が,あなたの居住の塔の内に」。(詩 122:6,7,新)国の首都で,崇拝の中心地であるエルサレムの平和,つまり安寧を祈り求めるのは,イスラエル人にとって極めてふさわしいことでした。その都市の持つ意義ゆえに,それを愛するのは,神のご意志にかなったことです。ですから,その都市を愛する者すべて,すなわち真の崇拝と公正を愛する者すべては,神の恵みが必ずあると考えて安心することができ,安全,すなわち『心配(つまり,不安)のない状態』を享受します。祈りにも似た詩篇作者のこの言葉は,エルサレムの塁壁,つまり保塁の内に平和があるように,その都市の安寧が守られるようにというものです。この安全な状態は,居住の塔,すなわち防備の固められた王の住居にも行き渡ります。
特にその都市はエホバの崇拝の中心地だったので,その都市が平和を享受していれば,それは国民にとって最も益のあることでした。ですから,エルサレムに平和があるようにと祈ることにより,イスラエル人は仲間のイスラエル人の益を求めていたのです。このことは,詩篇 122篇の続く言葉の中に明らかにされています。「わたしの兄弟と友のためにわたしは今言おう,『あなたの内に平和がありますように』と。わたしたちの神エホバの家のために,わたしはあなたに善いことを求め続けよう」― 8,9節,新。
今日,真の崇拝は,もはや特定の都市や特別な場所と結び付けられてはいません。イエス・キリストはサマリア人の女にこう語られました。「あなたがたが,この[ゲリジム]山でも,エルサレムでもないところで父を崇拝する時が来ようとしています。……とはいえ,真の崇拝者が霊と真理をもって父を崇拝する時が来るのであり,それは今なのです。実際,父は,ご自分をそのように崇拝する者たちを求めておられます」― ヨハネ 4:21-23。
ですから,神の僕が特定の場所のために祈るのではなく,互いのため,また今日他の人々の前で真の崇拝を高めるものとなっている,クリスチャン会衆全体の平和のために祈るのはふさわしいことです。この会衆の集会に対して,あなたは詩篇作者と同じような心情を抱いていますか。尊い信仰を共にする人々と一緒にいることをうれしく思いますか。詩篇作者がエルサレムの平和を気づかったと同じほど,会衆の福祉を気づかっておられますか。そうであれば,あなたは詩篇 122篇の精神と調和した生き方をしていることになります。
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聖書の真理は二人の生活を変えたものみの塔 1980 | 3月15日
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聖書の真理は二人の生活を変えた
デリア・ロセロに会って最初に気づくのは背丈です。デリアは背の低い女性です。「きっと先祖はピグミーだったのね」と,デリアは陽気に言います。顔じゅうが明るく輝いています。デリアのような人のそばにならだれでもいたいと思うことでしょう。
デリアの夫,ダニエル・ロセロはハンサムで外向的な50歳の“青年”です。そのこぼれんばかりの笑みをたたえたダニエルは,それでも足りないとばかりに人を抱きすくめることがよくあります。でも,ダニエルは以前からいつでもこのようであったわけではありません。
二人の過去を幾らか知っていた私は,その経験を記録にとどめるため,最近ダニエルとデリアの
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