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  • だれもが希望を必要としている
    ものみの塔 1981 | 7月15日
    • を捨てよ」という言葉が掲示されていました。

      それでは,神とキリストを信じるすべての人の前途には,天における「永遠の至福」か「地獄」における何の希望もない永劫の苦しみのどちらかが待ち受けているのでしょうか。キリスト教は聖書に深く根ざしています。それでは,クリスチャンの希望や罰について聖書はどのようなことを明らかにしているでしょうか。

      さらに,共産主義に引かれる幾百万もの人々は,キリスト教世界の諸教会が唯一の希望として掲げる「天の至福」なるものに何の魅力も感じていません。それらの人々は,共産主義に,「社会的経済的平等」の行き渡る「階級のない」世界という希望を見いだしたと考えています。では,聖書がそれらの人々に同じ希望,それも短い生涯ではなく,永遠にそうした世界に住むという希望を差し伸べているということはないでしょうか。

      また,聖書が幾百万ものイスラム教徒に,コーランの差し伸べるパラダイスの“園”にも似た希望,それも“地獄”に落ちる心配のない楽園の希望を差し伸べているということはないでしょうか。

      また,東洋の幾つかの宗教を奉じている幾億もの人々についてはどうですか。それらの人々は,物質的な存在はすべて苦しみであり,それゆえ地上の生活は悪であると教えられてきました。地上の生活は自分たちの経験してきたような苦しみの時になるはずでは決してなかったことを確信できれば,涅槃や解脱の境地に浸って自己の存在を無に帰せしめたいと思うでしょうか。聖書がそうした人々の人生観を変え,知性を持つ人間の自然な願望に一層調和した希望を抱かせる力を備えているとは考えられませんか。

      こうした質問を念頭に置いて,聖書と宗教史から,人類に差し伸べられている希望は「天に行くこと」だけなのかどうかを調べてみることにしましょう。そして聖書によれば,キリスト教が創始される前からすでに人類に希望が差し伸べられていたので,まず古代ユダヤ人の時代にまで戻り,彼らがどんな希望を抱いていたのか調べることにしましょう。

  • 千年期の希望の起源
    ものみの塔 1981 | 7月15日
    • 千年期の希望の起源

      今日,一般のカトリック教徒,プロテスタント,ユダヤ教徒の抱いている希望と恐れには大きな違いはほとんどありません。それらの人々はほぼ一様に,人間には生来不滅の魂が備わっていると信じており,それに関連して天で至福を味わうか,ある種の“地獄”で永劫の責め苦に遭うという信仰を抱いています。

      キリスト教世界の諸宗派は唯一神を奉じるユダヤ教との関連を認め,ユダヤ人の聖書を霊感によるものとして受け入れています。ですから,今日のユダヤ教徒と“クリスチャン”の抱いている希望がヘブライ語聖書に示されている希望や初期のユダヤ教の信条と一致しているかどうかを調べるのは興味深いものです。

      メシアに関する希望

      古代ユダヤ教の会堂ではヘブライ語聖書中の456の聖句がメシアに関連があるものとされていました。創世記 3章15節,22章15-18節,49章10節,申命記 18章18節はそのうちの四つですが,こうした聖句を基にしてユダヤ人は一体どんな期待を抱いていたのでしょうか。その希望とはどのようなものでしたか。

      ユダヤ教の権威ある書物は次のような情報を提供しています。「……人格を備えたメシアという観念は旧約聖書全体に認められる。それは預言に基づく将来の希望の自然の帰結である。将来の理想の王について詳細に描いている最初の預言者はイザヤである(9章1-6節[非ユダヤ系の聖書では,2-7節],11章1-10節,32章1-5節)。……イザヤが待ち望んだ理想の王はエッサイの切り株の若枝[子孫]であり,その上に神の霊が知恵,勇猛,信心の霊としてとどまることになっている。その王は神への恐れのうちに支配を行ない,腰には義と忠実をまとっている(11章1-3節前半,5節)。この者は戦争を行なうことも諸国家を征服することもない。戦いの道具は破壊される(9章4[5]節)。その関心は自分の民の間に義を確立することにのみ向けられる(9章6節後半[7節後半],11章3節後半,4節)。その義の政府は全土にわたる平和と秩序という実を生み出す。子羊はオオカミを恐れず,ヒョウが子ヤギを害することはない(11章8節[6節])。つまり,次の節に説明されているように,神の聖なる山では虐政や暴力行為はもはや見られない。水が海を覆うように神の知識がその地に満ちるからである(32章1,2,16節と比較)。民は政治的な野望を抱くことなく,のどかな生活を送る(32章18,20節)。こうした理想的な状態の下で,国は必ず繁栄し,諸外国の攻撃を恐れる必要もない(9章6節前半[7節前半],32章15節)。新たに生え出たエッサイの若枝は他の諸国民に対する目じるしとなる。諸国民は導きと仲裁を求めてそのもとにやって来る(11章10節)。その者は,『驚くべき助言者』,『神に似た英雄』,『不変の父』,『平和の君』(9章5節[6節])と呼ばれるにふさわしい。

      「将来に関するこうした描写はイザヤの見解と完全に一致している。裁きは霊的再生をもたらし,道徳的また宗教的に完全な状態を生み出すのである」― ユダヤ百科事典,第8巻506ページ。

      このように聖書中の非常に多くの箇所でメシアに関する希望がユダヤ人に差し伸べられていますが,それには“天的”な要素は全く見られません。しかし,聖書以外のユダヤ人の著作についてはどうでしょうか。前述の文献は少し先の箇所で次のような説明を加えています。「黙示的ラビ文献には地上のメシアという概念が顕著に認められる。西暦1世紀末以降もこれはユダヤ教によって公式に認められている」― 510ページ。

      地的な希望

      このように,ユダヤ人の抱いていた当初の期待は地的なものでした。アブラハム,イサク,ヤコブといったその忠実な父祖たちが天に行く望みを抱いていたことを示す証拠は聖書の中にありません。モーセを通して与えられた律法はそのような希望を差し伸べていませんでした。ヘブライ語聖書の詩書や預言書についても同様のことが言えます。

      権威あるカトリック神学辞典も同主旨のことを次のように述べています。「旧約聖書中に見られる,個人やその家族,その人の属している国に対する神の約束に基づいて敬虔な人物が期待していた現世における繁栄のすべてに注目するとよい。さらに,そうした人物は霊的かつ道徳的賜物の希望,すなわちメシアの到来とその王国の希望を抱いていた」。(下線は本誌)

      プロテスタントの「聖書百科事典」もこれを支持して次のように述べています。「旧約[聖書]に示されている希望は次第に発展していった。初めのうちそれは,地的な恩恵,政治的復興,住民の再定住という希望であった。……その希望は発展し普遍的なものになった。エホバは世界の主人である。……『永遠者の僕』がやって来て,自ら苦しみ,卑しめられることにより,民を救うことになっている。イザヤ 42章1-4節には,世界がその方の教えに希望を置くことが示されている。その後,永遠者の僕の栄光,メシアの時代,再生した人類社会がもたらされる」。(下線は本誌)

      ユダヤ人の抱いていたこの地的な希望はユダヤ百科事典の中で次のように適切にまとめられています。「……預言書は,ダビデの家のひとりの子の統治を通してもたらされる理想のメシアによる将来,すなわち楽園の至福という黄金時代の希望を展開している。……それは,創造物すべての間に完全な平和と調和の見られる世界という形で到来するであろう。人間は,罪を犯す前にそうであったように,天使のような状態になる(イザヤ 11章1-10節,65章17-25節: 『新しい天と新しい地』)。……『すべての創造物が回心し,一団になって神のご意志を行なう』ことこそ,メシアに関するイスラエルの希望の最重要点となっている。ただし神の王国の設立に先だって,『狂暴な王国』の除かれる必要がある。……1万2,000年続くペルシャ-バビロニアの世界年は,ユダヤ教の終末論[人類と世界の究極の運命に関する研究]において,創造の一週に対応する7,000年にわたる世界週に形を変えた。『なんじの目の前には千年もすでにすぐる昨日のごとく』という聖句(詩篇 90篇5節[4節])には,現在の苦役の世界(“オーラム・ハ・ゼー”)ののちに安息の千年期,すなわち『来たるべき世界』(“オーラム・ハ・バー”……)の続くことが示唆されている」― 第5巻209-211ページ。(下線は本誌)

      生来の不滅性ではなく,復活

      ユダヤ人は幾世紀もの間,人間の魂の不滅性という異教の教えを受け入れていませんでした。ユダヤ人は教育のある民族で,文字の読めるユダヤ人ならだれでも,「魂」(ヘブライ語,ネフェシュ)が死ぬことをはっきり示すヘブライ語聖書中の幾十もの聖句を読むことができました。次に記すのはそのうちのほんの数例です。創世記 19章19,20節(新),民数紀略 23章10節(新),ヨシュア記 2章13,14節(新),詩篇 22篇29節(新; ユダヤ人の聖書では30節),エゼキエル 18章4,20節(新)。

      このように,メシアによって復興される楽園の地における生活というユダヤ人の初期の希望は,復活に基づくものであり,生来の不滅性に基づいてはいませんでした。ユダヤ百科事典はこの点を確証して次のように述べています。「復活はメシアに関する希望の一部を成していた(イザヤ 26章19節。ダニエル 12章2節)。……当初,復活は義人にのみ差し伸べられる奇跡的な恵みとみなされていた……しかしその後,復活は最後の審判と関連づけられ,普遍的に適用されるものと考えられるようになった……復活の際に誕生の際と同じ過程を経て人体が形造られるかどうかは,ヒレル派とシャンマイ派の間の争点となっている」― 第5巻216ページ。

      ユダヤ教の権威あるこの同じ文献は,“ゲヘナ”(キリスト教世界の“地獄”)についてこう述べています。「死後,魂に懲罰が加えられるという考えには聖書的な根拠はない。この考えはバビロニア人とペルシャ人がもたらしたものであり,“ゲーヒンノム”(ヒノムの谷)という言葉によってユダヤ的な色彩を帯びた。マナセは,モロクにささげる犠牲を焼く火をたいて,そこを忌むべき所とした(列王下 23章10節)」― 同上,217ページ。

      それでは,今日のユダヤ教の学者たちが一般に,生来の不滅性と永劫の罰という教えを説いているのはなぜでしょうか。「聖書事典補遺」は次のような説明を行なっています。「[ユダヤ人にとって]救いはまず地上におけるものであった……メシアに関する希望がどれほど輝かしいものであっても,また将来の統治が,ある者たちには永遠に思えるほど長期にわたることになっていようとも,その宗教的時代区分において基本を成すものは国家的,地的性質のものであった。そののち,新たな見込みが姿を現わした。つまり,死後の幸福な存在という概念が『見いだされた』のである」。(下線は本誌)

      ユダヤ教徒は,肉体の死後も生き残る“魂”が人間にあることをどのように『見いだした』のでしょうか。前述の権威ある文献はここでも納得のいく説明をしています。ユダヤ百科事典は次の点を認めています。「ユダヤ人がペルシャ人やギリシャ人の思想に触れてはじめて,肉体を離れた個性を持つ魂という考えがユダヤ教に定着した」。「聖書百科事典」もこの点を確証し,次のように述べています。「不滅性の概念はギリシャ思想の所産である。それに対し,復活の希望はユダヤ思想に属する。……アレクサンドロスの征服後,ユダヤ教は次第にギリシャの諸概念を吸収していった」。

      ユダヤ人が初めのうち魂の不滅性を信じていなかったという説明に疑問を抱いている人には,次の事実を指摘すれば十分でしょう。パリサイ人が不滅性を信じ,サドカイ人が信じていなかったことに見られるように,西暦1世紀までこの問題はユダヤ人の間で決着を見ていなかったのです。―ヨセフス著,「ユダヤ古代誌」,第18巻1章3,4節および「ユダヤ戦記」,第2巻8章14節をご覧ください。また,使徒 23章8節と比較してください。

      メシアに関する初めの希望が変わる

      ユダヤ人が復活による将来の命の希望を捨て,体から分離した“魂”の不滅性という異教の考えを受け入れるようになったのと同じく,メシアに関する当初の希望も変わってきました。西暦1世紀には,ユダヤ人の抱くメシアに関する希望は国家主義的な色彩を帯びた政治上の希望になっていました。

      この点を裏付けるものとして,ユダヤ百科事典には次のように書かれています。「マカベア朝の崩壊[西暦前2世紀]後,ヘロデ大王とその一族の独裁政治とローマ帝国の激しさを増す圧政によってユダヤ人の状態がこれまでになく耐え難いものとなってはじめて,ユダヤ人は人格を備えたメシアの希望に慰めを見いだそうとした。彼らはダビデの家の約束の救出者の出現を切望していた。その者が異国の憎むべき権利侵害者のくびきから自分たちを解放してくれると考えたのである」。

      アルフレッド・エダーシャイムは,自著「メシア,イエスの生涯とその時代」の中で次のように書いています。「イスラエルが望んでいたものといえば国家の回復と栄光だけであった。他の一切のものはこの目的を成し遂げる手段にすぎなかった。メシアそのものでさえ,これを達成する強力な手段にすぎなかった。……ラビの考えていた理想のメシアは,『異邦人を照らす光,またその民であるイスラエルの栄光』となるメシア ― 人類の必要を満たすメシアではなかった」。

      エダーシャイムはさらに,西暦1世紀にはユダヤ人の宗教指導者たちが贖い主としてのメシアに,もはや希望をかけていなかったことを指摘しています。エダーシャイムはこう述べています。「文献に見られる限りの古代のラビの見解からすれば,それらのラビは,原罪や我々すべてが罪を負っているという主要な教えを受け入れていなかった。……罪から救われる必要を感じていなかったことを考えるなら,ラビの伝承がメシアの祭司としての務めにほとんど触れておらず,王また救出者としての登場ばかりが強調され,民の預言者としての資格でさえ全く影が薄れている理由を理解できる。実際,そうしたメシアが切望されていた。イスラエルの国家的苦悩が全く理解し難く思えたゆえに,人々の期待はいよいよ高まっていったのである」。

      このように,ユダヤ人の抱いていた初めの希望は次第に姿を消していきました。ユダヤ人を治めるだけでなく,「他の諸国民に対する目じるし」ともなるべきメシアなる王に関する希望は,政治および宗教上の敵に対して勝利を収めるよう自分たちを導いてくれる国家的指導者の出現という狂信的な希望に取って代わられました。「安息の千年期」がおとずれ,その時メシアが「楽園の至福という黄金時代」,「創造物すべての間に完全な平和と調和の見られる世界」をもたらすという地的な希望は,ばく然とした天的な希望に取って代わられました。その天的な希望は,人間は生来不滅性を備えているという,バビロニア人やペルシャ人,ギリシャ人から取り入れた概念を基にしています。

      歳月は流れましたが,ユダヤ人を救出するそうした政治上のメシアは到来しませんでした。西暦70年のエルサレムの滅びの後でさえユダヤ人を再び集め安住の地を与えてくれる政治上のメシアは興りませんでした。そのため,メシアに関する,初めとは変わったこうした希望もユダヤ人の心から消え去っていきました。エダーシャイムは次のように述べています。「イスラエルを請け戻すこととメシアの到来が説明不能なほど遅れているのはなぜだろうか。これは,ユダヤ教徒の会衆の間で不可解ななぞとして残っている。それを説明しようとする試みがなされてはいるが,それらは明らかに,憶測や問題点をはぐらかそうとする論議にすぎない。残された道は,権威を盾にそうした質問のすべてを沈黙させること以外にない。彼らの言う,説明不能の現実を悲しいながらも認めざるを得ないという沈黙……いつまでも繰り返される失意と落胆の沈黙である。ユダヤ教徒の会衆の壮大な希望はまるで崩れかけた墓の墓碑銘に書かれたようになり,幾世紀もの間,聖なる所の廃墟の石に空しい涙を流した幾万もの人々が繰り返し唱えるものになってしまった」。

      幸いにも,誠実なユダヤ人には,メシアの支配の下で復興される地的な楽園という初めの希望が今でも差し伸べられています。すでにその希望を自分のものにし,涙をぬぐい去った人々もいます。しかし,読者の多くは次のような疑問をまだ抱いておられることでしょう。メシアであるイエス・キリストの到来は,地上の『創造物すべての間に平和と調和の見られる』「安息の千年期」という希望にどのような影響を与えましたか。その希望が真実であることをキリストが確証しておられるのであれば,“クリスチャン”であるプロテスタントとカトリック教徒のほとんどすべての人がその千年期の希望を受け入れていないのはどうしてなのでしょうか。

      [5ページの図版]

      共産主義の“幸せな明日”? ヒンズー教の解脱や仏教の涅槃? カトリックやプロテスタントの“天の至福”? 聖書はどんな希望を差し伸べているのだろう

  • 千年期の希望を奪われたカトリック教徒
    ものみの塔 1981 | 7月15日
    • 千年期の希望を奪われたカトリック教徒

      天国か地獄。そのどちらかしかないのです! 大勢のカトリック教徒,プロテスタント,ユダヤ教徒,イスラム教徒の前にはその二つの将来のどちらかが待ち受けているとされています。カトリック教徒の場合,天国へ行く途中に煉獄があります。しかし,この恐れや希望も非常にばく然としているため,誠実な信者の中には,それが現実に存在しているのだろうかと疑う人が少なくありません。

      宗教問題を扱うフランスの著述家ジャーク・デュクエスヌが二人のカトリック教会員と交わした次のような会話を記したのも不思議ではありません。(男性の教会員と)「地獄を信じますか ― いや,全然信じていません…… ― それでは天国は?―実在しないと思います。地獄と同じですよ」。(女性の教会員と)「あなたご自身の考えでは,人が死ぬとどうなると思いますか ― 死んだ時のことですって? そうですね,死後に何かが残るという考えはもう何年も前に捨てましたわ。―それはどういう意味ですか。―死んだら何も残らないということです。体が死んだことはだれにでも分かりますが,魂についても同じだと思います。実際のところは,何も分からないのです。…… ― 今でも,神を固く信じておられるのでしょう?―ええ,信じていますとも。―どうして神を信じているのですか。―希望を持ちたいからです」―「今日の人のための神」(フランス語)。

      カトリック教会が信者に固い信仰を生み出す希望を差し伸べていないことは歴然としています。事実,キリスト教世界の伝統的な諸宗教すべてが現在刈り取りつつある悪い実の中には疑いだけでなく不信まで含まれています。カトリックの勢力が優勢な国々の多くで,“天の至福”というあいまいな希望では幾百万もの人々が信仰を失うのを阻むものとはならないことが示されてきました。そうした国々では,地上で人並みの生活を送りたいという自然で正当な願望を満たそうとして,多くの人が共産主義に頼るようになっています。人々は天の“永遠の至福”という不確かな希望と引き換えに,地上における“70年”余りの幸福な生活に希望を託しているようです。しかし,そうした希望でさえ幻想にすぎないことが明らかになりつつあります。

      “千年期説”を蔑視する態度

      今日,クリスチャンとして抱く希望の実現よりも目先のことに関心を持つなまぬるい“クリスチャン”が多くいます。その理由の一端は,キリスト教世界の諸教会がクリスチャンの持つべき希望をゆがめたことにあります。それらの諸教会

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