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  • エホバの組織に対する忠実
    ものみの塔 1964 | 8月15日
    • 年には,協会のノア会長と秘書のM・G・ヘンシェル兄弟がフィリピンを訪問しました。この記念すべき訪問は,フィリピンにおける御国活動にとって画期的な事件となりました。というのは,その後間もなくギレアデ学校で訓練を受けた宣教者が派遣されたからです。これがきっかけとなって伝道者は急激に増加し,1963年12月には3万3737名という数をみるに至りました。

      1949年,私はほかの二人の兄弟と共にギレアデ学校に招待され,1950年にニューヨーク市のヤンキー野球場で開かれた神権政治発展大会で卒業しました。私はその時またフィリピンで奉仕するよう任命されました。翌年,協会と他の兄弟たちの愛ある援助により,ロンドンとパリで開かれた清い崇拝大会に出席することができました。1955年には,ロサンゼルス,ニューヨーク,ロンドン,パリ,ニュールンベルグ,ベルリン,ハーグで行なわれた勝利の御国大会に出席し,帰途,マドリッド,ローマ,ベイルート,バンコック,香港などの兄弟たちを訪問するというまたとない特権に恵まれました。

      1956年には再びノア兄弟の訪問を受け,1957年には協会の副会長フランズ兄弟の訪問を受けました。ついで1958年には,ニューヨーク市のヤンキー野球場とポログランドで開かれた神のみこころ国際大会に,フィリピン代表81人のひとりとして出席しました。また1963年に,マニラ市がエホバの証者の世界一周大会の一環として奉仕したのも大きな喜びでした。そしてその大会の公開講演には,期待をはるかに越えて3万7806人が出席しました。それ以後も私は,エホバのいつくしみにより,ケソン市の支部で数々の奉仕の宝を楽しんでいます。

      たしかにエホバの組織内の生活は他のどんな生活とも比較にならぬほど充実しています。私が受けてきた多くの祝福もみな私たちのすばらしい神エホバとその忠実な組織のおかげです。エホバこそ私たちが心からの愛と忠誠を帰するにふさわしいかたです。

      もしもう一度若い時にかえれるなら,私はやはり31年まえと同じ決意をするでしょう。しかもその時よりいっそう堅い決意をもって,エホバの組織と共にエホバに全時間の奉仕を忠実に行なうことを心に誓うでしょう。

  • お金で買えない真理
    ものみの塔 1964 | 8月15日
    • お金で買えない真理

      ◆ イスラエルの一ユダヤ人がエホバの証者の仕事に興味を持ちました。その結果,次のような経験がありました。「ある日,だれかが私の家の戸をたたきました。はいってきたのは,(ユダヤ教の)律法博士団の使いで,博士団はあなたが宗教を変えたことを聞いた,と言いました。話によると博士団委員会は会合を開いて私の問題を取り上げ,私がユダヤ教に戻ることを条件に,経済面の援助を申し出ているとのことでした。私が経済的な理由で他の宗教に転向したと,考えているためです。世の中には金銭で売買できぬものがいろいろあり,神のことば,すなわち聖書の真理はその一つですと私は使いの者に答えました。私がエホバの証者の助けによって得たのはこの真理です。律法博士団の代表はたずねました『エホバとはだれのことですか』。『ユダヤ人でエホバの名を知らないとは恥ですよ』と私は答え,聖書を開いていくつか聖句を見せました。聖句の意味することがらを認めるかどうかたずねると,使いは,あきらかに当惑したおももちで,『久しく聖書を開かなかったから,すぐには答えられない』と言いました。『神の名も知らず,文字になった神の言葉である聖書も知らないなら,一体だれに,また,なぜ会堂で祈りをしているのですか』と私が言うと,彼はなにも答えず,しばらくして言いました。『ほんとうのことを言うと,私はなにも信じていません。私はただ昔からのしきたりを続けているだけです。おもなことは律法博士団の仕事をして,手当を受けるだけです』。私は彼にいくらか証言したのち,文書を渡し,申し出には感謝するけれども,私は生きた神エホバをよりどころとしているから,その種の助けは必要ないと告げました」。

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