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  • 「見よ,エホバはその聖なる巨万の軍を率いて来られた」
    ものみの塔 1982 | 12月1日
    • 「見よ,エホバはその聖なる巨万の軍を率いて来られた」

      「見よ,エホバはその聖なる巨万の軍を率いて来られた。すべての者に裁きを執行するため,また,すべての不敬虔な者を,不敬虔な仕方で行なったそのすべての不敬虔な行為に関し,そして不敬虔な罪人が神に逆らって語ったすべての衝撃的な事柄に関して断罪するためである」― ユダ 14,15。

      1 至高の裁き主であられるエホバを,どのようにみなすべきですか。

      至高の裁き主であられるエホバは,敬意を受けるに値する方です。(イザヤ 33:22)ところが,エホバに対してはなはだしく不敬な態度を取る人は少なくありません。そのような高慢な悪行者の中に,弟子ユダが霊感によるその手紙の中で書き記した「不敬虔な者たち」が含まれます。しかし,だれであろうと神を無視しておきながら,罰を受けずに済ますわけにはゆきません。『不敬虔な者に裁きを執行するためにエホバが来られること』について疑問の入り込む余地はないからです。―ユダ 14,15。ヨブ 9:1-4。

      2 (イ)ユダの手紙に関するこれまでの考察は,どんな点にわたしたちの注意を向けるものでしたか。(ロ)このあとに続くユダの諭しは,わたしたちにとってどんなものとなるはずですか。

      2 ユダの手紙に関するこれまでの討議では,偽教師や肉を汚すつもりの者たちに抵抗することに加え,聖書の警告に留意し,また神が定められた権威に敬意を払う必要性に重きが置かれました。(ユダ 1-10)エホバの証人の間で,とこしえの命の見込みを保ちつつ堅く立つため,ユダのその後の諭しが,至高の裁き主に対するわたしたちの敬意を強めるものとなりますように。

      「惨めなことです!」

      3 カインにはどんな罪がありましたか。

      3 エホバを汚した「不敬虔な者たち」について,ユダはこう書きました。

      「惨めなことです! 彼らはカインの道に入り,報いを求めてバラムの誤った歩みに陥り,コラの反逆のことばによって滅びてしまったからです」。(ユダ 11)

      「惨めなことです」と述べて,ユダは災いが,エホバの民の会衆に忍び込んでいた「不敬虔な者たち」の上に生ずることを示しました。(ルカ 11:42-47,52と比較してください。)これらの者たちは『カインの道に入って』いました。アベルと,動物の肉と血から成る彼の犠牲に対しては神の是認が示されましたが,ふさわしくない精神をもってささげられた,血の含まれていないカインの捧げ物は退けられました。カインは信仰を欠き,神がアベルに付与された栄光や威厳に敬意を払いませんでした。カインはねたみと憎しみを抱いて神の警告をさえ無視し,弟を殺しました。―創世記 4:2-8。ヘブライ 11:4。ヨハネ第一 3:12。

      4 (イ)「カインの道」とは何でしたか。(ロ)なぜわたしたちは「カインの道」を避けるべきですか。

      4 主として,カインはエホバへの不敬を示し,その不敬な歩みは「カインの道」と呼ばれました。カインの反逆的な行動と邪悪な動機が全く間違っていたように,エホバの証人であると公言しながら,神の過分のご親切をみだらな行ないの口実に代えようとする今日の人々も皆,全く間違っています。こうした人々はだれであっても,カインの「道」を追い求めているのです。自分の兄弟を憎んで殺したカインと同じく,このような人々は,エホバがご自分の奉仕に関して威厳を付与された忠実なクリスチャンたちを憎むがゆえに,「人殺し」です。(ヨハネ第一 3:15)神はカインをのろい,大洪水の時にその子孫はぬぐい去られました。同様に,「カインの道」に従う人々にとっても事情は「惨め」です。その道はエホバの不興を買い,滅びを招くからです。

      5 (イ)バラムはどんな歩みを追い求めましたか。(ロ)ユダの時代に,『バラムの誤った歩みに陥った』のはだれですか。(ハ)偽りの教えと,動物的情欲への耽溺によってエホバの民を腐敗させようとする人には,すべてどんなことが生じますか。

      5 肉を汚す不敬虔な者たちは,そのうえ「報いを求めてバラムの誤った歩みに陥り」ました。モアブ人の王バラクから報いを再三勧められ,それに屈してしまったバラムは,イスラエル人を3度のろうことを試みました。しかしエホバはその都度のろいを祝福に変えられました。そのため貪欲なバラムは,イスラエルを偽りの宗教にそれさせて,動物的な情欲に耽溺させることができれば,神はご自分の民でさえのろうことになる,とバラクに示唆しました。この悪質な提案は実行に移され,イスラエル人のみだらな行ないのゆえに,2万4,000人のイスラエル人が神から送られた災いと直接的な処刑によって命を失いました。(民数記 22:1-25:9。啓示 2:14)その後バラム自身は,自分がのろおうとした人々の手にかかって死にました。(民数記 31:8)同様に,エホバの証人と唱えながら,貪欲であり,偽りの教えと,動物的情欲への耽溺とによってエホバの民を腐敗させようとする人にはすべて災いが臨みます。現代でも,この種のことが生じてきました。それでエホバの献身した忠実な証人たちは,警戒しなければなりません。

      6,7 (イ)レビ人コラにはどんな罪がありましたか。(ロ)コラと,コラに加わった人々には何が生じましたか。(ハ)わたしたちは「反逆のことば」をどう見るべきですか。

      6 ユダが引き合いに出したもう一つの警告の例は,「反逆のことば」を用いたレビ人コラの例です。野心に駆られたコラは,モーセが利己的に自分の兄弟アロンが大祭司になるように取り決めたとしてモーセを偽って非難し,自分自身と自分の家族のために祭司職の誉れをとらえたとしてアロンを責めました。コラは神がアロンとその子たちに付与した栄光や威厳に敬意を払わず,かえって神の任命に反逆したのです。

      7 コラと,コラの側に引き寄せられたあるルベン人はエジプトから救い出されましたが,約束の地には一歩も入れませんでした。それどころか,地が口を開いたために彼らのうちのある者たちは生き埋めにされ,他の人々はエホバからの火によって焼死しました。次いで,神のこの裁きに対してつぶやいた1万4,700人のイスラエル人は,神からの罰を受けて死にました。(民数記 16章)反逆的な「不敬虔な者たち」に対する神の裁きの執行が極めて確実なものだったため,ユダは彼らが「滅びてしまった」と述べました。それは済んでしまったも同然だったのです。このことのすべては,「反逆のことば」を避けるようにわたしたちを促すはずです。

      8 カイン,バラム,コラに関する警告の例には,今日どんな重要性がありますか。

      8 そうです,エホバとその組織上の取決めに対する反逆の歩みを追い求める人には,すべて必ず災いが臨むのです。(カインと同様)愛と信仰を持たなかった人,(バラムと同様)みだらな行ないを助長する教えから報酬を得ることに熱心だった人々,そして(コラと同様)神から付与された権威に不敬な態度を取った人々は「惨め」になる,とユダは述べました。そしてユダの言葉が,エホバの証人であると公言しながら,現代における神の神権的な取決めに対し批判的な,あるいは不敬な態度を取る人すべてに対する強力な警告となっていることは明白です。

      たとえによる警告

      9 不敬虔な偽教師たちを「水の下の隠れた岩」になぞらえたことにはどんな意味がありましたか。

      9 ユダはさらに警告を与えて,次のようなたとえを述べます。

      「これらの者たちは,宴席を共にするとはいえ,あなた方の愛餐における水の下の隠れた岩であり,恐れもなく自らを肥やす羊飼い,風によってあちらこちらと運ばれる水のない雲,晩秋になっても実がなく,二度死んで根こぎにされた木,自らの恥のもとを泡立てる海の荒い波,進路の定まらない星であって,そのためには,闇の暗黒が永久に留め置かれています」。(ユダ 12,13)

      偽教師たちはとりわけ「水の下の隠れた岩」に似ていました。これらの者たちは信者を愛しているふりをしたため,水中を泳ぐ人々を切り裂いて殺し得る,あるいは船を難破させ得る水中のとがった岩のようでした。エホバの証人が「信仰のために厳しい戦いをする」ことを続けないなら,このような欺まん的な教師たちは不安定な人々を,「信仰に関して破船」させることになりかねないのです。―テモテ第一 1:19。

      10 (イ)初期クリスチャンの「愛餐」はどんなものだったと思われますか。「不敬虔な者たち」はどんな動機で愛餐に出席しましたか。(ロ)エホバの証人の社交的な集まりでは何を避けなければなりませんか。

      10 これらの「不敬虔な者たち」はクリスチャンの「愛餐」によく集い合っていました。そうした機会は,物質的に豊かなクリスチャンたちが貧しい仲間の信者たちを招く宴となったようです。ところが肉を汚すつもりの者たちは,卑しい動機を抱いて出席しました。(ペテロ第二 2:13と比較してください。)同様に今日でも,エホバの証人の社交的な行事を,過度の飲食やこの世的な歌や踊りの機会にしてしまおうとする人がいます。忠実なクリスチャン証人たちは,社交的な集まりでこのようなことが行なわれるのを決して許してはなりません。

      11 (イ)不敬虔な偽教師たちはどんな種類の羊飼いでしたか。(ロ)今日,忠節なクリスチャンたちはこのような偽教師たちに対しどんな態度を取るべきですか。

      11 不敬虔な偽教師たちは,自分たちの衣食のために羊の群れを丸裸にし,その群れを犠牲にする羊飼いにも似ていました。彼らは,信仰のぐらついている人々を間違った道へ誘い込もうとし,ふさわしい霊的食物で彼らを養うことをしませんでした。(エゼキエル 34:7-10と比較してください。)忠節なクリスチャンが,今日のこうしたすべての偽教師たちの見解を退けるのは,大変重要なことです。

      12 ユダの時代の偽教師たちは,どのような点で,水のない,風に吹かれる雲に似ていましたか。

      12 ユダの時代の偽教師たちはまた,大いに必要とされる雨を降らせるかに見えながら,実際には水がなく風によって追い払われる,人を欺く雲のようでした。これらの者たちは誤りの風によって運ばれ,「水のない雲」のようであったために,霊的にむなしく,無益でした。エホバの証人は,こうしたせん越な偽教師たちに警戒すべきです。

      13 偽教師たちが,「二度死んで根こぎにされた」,実のない木に似ているのはなぜですか。

      13 神の聖霊の実のなかったこれらよこしまな者たちは,秋の,実の成る季節の終わりにも実を付けていない木のようでもありました。彼らは『二度死んだ』,あるいは「完全に死んだ」(今日の英語聖書)木のようでした。これらの者たちは正式に水のバプテスマを受けた後,霊的に生きている風を装って,会衆内に『忍び込みました』。ところが,彼らは神の栄光となる実を結んでいなかったので,古代パレスチナにおける実を結ばない果樹のように扱われなければなりませんでした。そのような木は,果樹に課される税金を免れるために,根こぎにされ,処分されたのです。『根こぎにされる』とは,明らかに,悔い改めないこれらの背教した教師たちが滅びに直面することを意味しました。

      14 偽教師たちはどのような点で「海の荒い波」に似ていましたか。

      14 これらの偽教師たちは神の聖霊を持っていなかったため,「海の荒い波」にも似ていました。彼らは,泥と海草をかき回す猛り狂う海の波と同じように荒々しい者たちでした。そのたとえ通り,これらの落着きのない動物的な者たちは,信仰の告白は大声でしたようですが,その不敬虔な行ないと教えは,恥じるべき理由を持つ不潔な悪行者というその実体を明らかにしました。―イザヤ 57:20,21。

      15 偽教師たちはどんな種類の星に似ていましたか。そして彼らには何が留め置かれていましたか。

      15 これらの偽教師たちは,義において確固とした歩み方を保たなかったので,「さまよう星」(欽定訳)のようでした。もちろん,これらの星が前触れもなくさまようなら,星による航海は不可能でしょう。その結果,『定まった進路』のない星の場合と同じくこれらの背教者たちに,健全な霊的な導きを求めて頼ることはできません。神はこのような偽りの光のためには,とこしえに,「闇の暗黒」以外の何物をも『留め置かれませんでした』。このことは彼らが永遠の滅びを被ることを意味しています。忠実なエホバのクリスチャン証人が,偽教師やその教義を完全に退けることには,実に数多くの理由があるのです。

      エホバは裁きを執行するために行動される

      16 エノクとはだれですか。エノクは何を預言しましたか。

      16 エホバが不敬虔な者たちに対して行動されることを示す証拠を挙げ,ユダはこう述べます。

      「そうです,アダムから七代目の人エノクも彼らについて預言して言いました。『見よ,エホバはその聖なる巨万の軍を率いて来られた。すべての者に裁きを執行するため,また,すべての不敬虔な者を,不敬虔な仕方で行なったそのすべての不敬虔な行為に関し,そして不敬虔な罪人が神に逆らって語ったすべての衝撃的な事柄に関して断罪するためである』」。(ユダ 14,15)

      最初の人間アダムから数えてエノクは「七代目の人」になります。アダムとエノクの間には,セツ,エノシュ,ケナン,マハラレル,ヤレドがいました。(創世記 5:3-18)『エノクは神と共に歩み』,エホバから啓示された真理と調和した歩み方を追い求めました。(創世記 5:24。ヘブライ 11:5)霊的に腐敗した状態がエノクを取り囲んでいましたが,エノクは勇気をもって神の預言者として仕えました。

      17 ユダは,どのようにエノクの預言を知ったものと思われますか。

      17 ユダがエノクの預言をどのようにして知ったかは明らかにされていません。神の霊感による聖書のこれより前の部分にエノクの預言のことは出てきません。恐らく,イエスがエノクの預言を講話の中で引用し,それが口頭で伝えられたのでしょう。しかし,エノク書という聖書の外典に見られる類似の記述からユダが引用したことを示す証拠はありません。ユダは神の霊感の下に書き記したので,ユダの手紙の中にエノクの預言が含まれていることは,これらの言葉が真実なものであることを確証しています。

      18 (イ)エノクが,ユダの時代の偽教師たちに関しても預言したと言えるのはなぜですか。(ロ)エノクの預言によれば,至高の裁き主は,ご自分に不敬な態度を取る人々をどのように扱われますか。

      18 エノクは『[ユダの時代の偽教師たち]について預言しました』が,それは,初期の悪行者に関してエノクが預言した事柄は彼らにも適用できるという意味のようです。不敬虔な,あるいは不遜な者たちは至高の裁き主エホバに対して不敬な態度を示しましたが,エホバは彼らの上に不利な裁きを執行されるでしょう。そうすることにおいて,エホバはご自分の「聖なる巨万の軍」,あるいは「聖なる幾万もの軍」,つまり膨大な数の義なるみ使いたちと共に来られるのです。(申命記 33:2; ダニエル 7:9,10と比較してください。)これらの「聖なる巨万の軍」の主要な方はメシアであり,そのメシアによってエホバは来られ,裁きを行なわれるのです。―ルカ 1:35。ヨハネ 5:27。使徒 17:30,31。

      19 (イ)エノクの時代の邪悪な者たちのように,「不敬虔な者たち」はどのようにエホバに敵して「衝撃的な事柄」を語りましたか。(ロ)肉を汚す不敬虔な者たちに何が確かに臨むことになっていますか。(ハ)そのため,エホバの証人はどのように振る舞うべきですか。

      19 エホバはこれらの不敬虔なまた不遜な人々が,彼らの「みだらな行ない」などによるその罪科を示す機会を十分にお許しになりました。彼らのよこしまな言動によって,その不敬虔さは明らかになり,そうした理由に基づいて彼らは罪ある者とされ,神によって『断罪され』ました。エノクの時代の邪悪な者たちが神に敵して「衝撃的な事柄」を語ったように,これらの「不敬虔な者たち」は主たる者の地位を無視し,エホバがある程度の栄光を付与された人々をあしざまに言いました。(ユダ 8-10)こうして彼らはエホバに敵して「衝撃的な事柄」を語り,有罪宣告を受けました。エノクの預言と調和して,神はノアの時代の洪水で,不敬虔な者たちに裁きを執行されました。したがって,肉を汚す不敬虔な者たちに対する神の裁きの執行は確かなものであり,エホバの証人はこの時代に同様の裁きの執行を見るものと期待できます。それで,神に喜んでいただき,滅びを逃れることができるよう,わたしたちは何としても自分の行動や話を慎むべきなのです。

      つぶやくことや大げさな話を避けなさい

      20 エホバの僕たちは,「不敬虔な者たち」のつぶやきや不平をどのように見るべきですか。

      20 別の不敬虔な特質に言及して,ユダはこう書いています。

      「これらの者たちはつぶやく者,自分の境遇について不平を言う者であり,自らの欲望のままに進み,口で大げさなことを語りながら,自らの利益のために人物を称賛しています」。(ユダ 16)

      エホバのクリスチャン証人は,『すべてのことをつぶやかずに行なってゆきなさい』と勧められています。(フィリピ 2:14,15)ところが,これらの「不敬虔な者たち」は,モーセとアロンに向かってつぶやいた,そしてその結果,事実上神に向かってつぶやいたために荒野で死ななければならなかったイスラエル人のように「つぶやく者」でした。(民数記 14:1-38。コリント第一 10:10)動物的な者たちは,ちょうどこの世の貧しい人々が,自分たちは金持ちでないというような理由で不平を言うことがあるように,「自分の境遇について不平を言う者」でした。もちろん,ユダの時代の真のクリスチャンのように,今日のエホバの証人は困難な状況を忍耐する際に,天的な知恵と,神の霊の助けに頼ります。わたしたちがユダの時代の不敬虔なつぶやく者たちのようになることがありませんように。

      21 (イ)どのようにして「不敬虔な者たち」は『自らの欲望のままに進みました』か。(ロ)これら不従順な人々は,どのように「自らの利益のために人物を称賛し」ましたか。これが間違っていたのはなぜですか。

      21 これらの不従順な者たちは,神またはそのみ子のご命令ではなく,自らの不道徳でみだらな渇望に支配され,『自らの欲望のままに進みました』。(ヤコブ 4:1-3と比較してください。)そして,「口で大げさなことを語り」ながら,あるいはその口を「自慢話で満たし」ながら(エルサレム聖書),彼らはある人々を選んで,不誠実な態度でそれらの人々を称賛しました。(詩編 140:11; テトス 1:10,11; ペテロ第二 2:18,19と比較してください。)これらの不道徳な者たちは,『自らの利益のために人物を称賛しました』。物質的な利得と社会的に有利な立場を手に入れようとして,裕福な人,著名な人,その他の人々の好意と支持を求めました。しかしこれは極めて利己的なことであり,これらの悪行者たちを,エホバの恵みを求めるというより高い敬虔な目的に対し盲目にさせました。それゆえ彼らは至高の裁き主に敬意を払わず,そのためその方の滅びの宣告の下に入りました。

      22 これまで考慮してきたように,ユダはわたしたちの益のために何を示してくれましたか。またその結びの言葉には何が含まれていますか。

      22 ユダは毅然として,仲間の信者に「信仰のために厳しい戦いをするよう」勧めました。不道徳行為,反逆的な態度,つぶやくことなどに対する聖書の警告を指摘し,神の裁きの執行について一点の疑念も残しませんでした。エホバの証人がこれらの問題について考慮するのは何と時宜にかなったことなのでしょう! これから見るように,ユダの結びの言葉には心からの懇願が含まれており,それらの結びの言葉もエホバの崇拝者にとって大きな意味があります。

  • 「愛する者たちよ,……自分を神の愛のうちに保ちなさい」
    ものみの塔 1982 | 12月1日
    • 「愛する者たちよ,……自分を神の愛のうちに保ちなさい」

      「愛する者たちよ,……自分の抱く極めて聖なる信仰の上に自らを築き上げ,聖霊をもって祈ることにより,自分を神の愛のうちに保ちなさい」― ユダ 20,21。

      1,2 ユダの手紙の中には,警告のほかに,どんな教訓がありますか。

      エホバの過分のご親切は,ご自分を愛する者たちに対する扱い方にはっきり示されています。エホバはご自分の霊感によるみ言葉を通して,彼らに求めておられる事柄を示しておられます。そして,神の言葉の一部であるユダの手紙の中に,エホバ神との正しい関係を保つ上で助けになる警告が与えられていることに,わたしたちはなんと感謝できるのでしょう!

      2 しかしユダは,必要な警告を与えるだけにとどまらず,霊的に築き上げられ,また『自分を神の愛のうちに保つ』ために行なうべき事柄をも示しています。したがって,ユダの手紙の結論の部分を考慮することから,わたしたちは大きな益を得ます。

      予告されていたあざける者たち

      3,4 ユダは,イエスの使徒たちのどのような「ことば」に言及しましたか。

      3 ユダは次のように書いて重要な諭しを与えました。

      「愛する者たちよ,あなた方は,わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが以前に語ったことばを思い出しなさい。すなわち彼らが,『終わりの時期には,あざける者たちが現われ,不敬虔な事柄に対する自分の欲望のままに進むであろう』とあなた方に言っていたことです。これらは分離を起こす者,動物的な人間であり,霊性を備えていません」。(ユダ 17-19)

      ユダは,会衆内にこっそり入り込んだ「不敬虔な者たち」を暴露するために多くのことを語りました。それから,自分が深い愛情を抱いていた仲間の信者たちに懇願して,イエスの使徒たちによって以前に語られた言葉を思い起こすようにと述べました。これらのことばを思い起こすことにより真のクリスチャンはすべて,「信仰のために厳しい戦いをする」よう動かされたはずです。

      4 使徒パウロは仲間の監督たちに対し,彼らの内から「弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事柄を言う者たちが起こる」と,警告しました。(使徒 20:29,30)またテモテに対しては,『後の時代にある人たちが信仰から離れ去る』と述べました。(テモテ第一 4:1,2)さらに使徒ペテロは,『終わりの日にはあざける者たちがやって来て,「この約束された彼の臨在はどうなっているのか」と言うであろう』という明確な警告を与えました。―ペテロ第二 3:1-4。

      5 忠実なクリスチャンは,会衆内に忍び込んだ「不敬虔な者たち」からどんな扱いを受けていたかもしれませんか。しかし,敬虔な人々はそのことに対してどのように反応すべきでしたか。

      5 したがって,ユダの手紙を受け取る人々には,ユダヤ人の事物の体制が終わる直前の期間に「あざける者たち」が現われると予期できる,もっともな理由がありました。エホバの義の規準を固守し,「偽兄弟たち」と一緒にみだらな行ないに走ろうとしなかった忠実な信者たちを,会衆に忍び込んだ「不敬虔な者たち」があざけっていたということは,十分考えられることでした。しかし「不敬虔な事柄に対する」自分自身の不道徳な『欲望のままに進み』,その欲望に駆られた偽教師たちからたとえ愚ろうされたとしても,敬虔な人々が『信仰のために厳しい戦いをする』のはきわめて重要なことでした。―コリント第二 11:26; ガラテア 2:4,5と比較してください。

      6 神は,ご自分を愛する者たちの一致を保証されましたが,不敬虔なあざける者たちは何をしようとしましたか。

      6 神はご自分を愛する者たちの一致を,ご自分の霊により保証されましたが,これらの不敬虔なあざける者たちは,「分離」あるいは「差別」を「起こす」ことを試み,エホバの民の中で分離させる業を行なおうと懸命でした。(ユダ 19,新世界訳,1950年版[英文]脚注。詩編 133:1-3。コリント第一 1:10)あざける者たちは会衆内の責任を担う忠実な人々を悪く言いましたが,不敬虔な者たちは,自分たちに益を与えることのできる人々への称賛を表わしました。(ユダ 8,16)彼らはパリサイ人と同様,会衆の謙遜で敬虔な成員を見下しました。主と共に集めるのではなく,散らそうとしたのです。今日でさえ,恐らく“聖書研究”という名目で不安定な人々を個人的なグループに引き込もうとする人がいます。そのような方法で,神とキリストとクリスチャン会衆に対する愛を促進することは決してあり得ませんでした。―ルカ 11:23。

      7 「不敬虔な者たち」が「動物的」と言われたのはなぜふさわしいことですか。

      7 これらの者たちが,「動物的」,あるいは「魂の特性を持つ」と呼ばれたのはふさわしいことです。彼らは肉体の感覚・欲求・傾向などに屈してしまう,意識ある被造物だからです。(王国行間逐語訳 19節と比較してください。)彼らは自分たちが霊的に啓発を受けていると考えていましたが,ユダは彼らについて,『霊性を備えていない』,あるいは文字通りには「霊」を持っていない,と表現しました。実際,これらの「動物的な人間」はエホバの霊を持たず,霊的な事柄を理解できず,理性のない獣のレベルを越えることはまずありませんでした。もしわたしたちがエホバの霊を持ち,「神の奥深い事柄」を理解するなら,わたしたちの天の父に深く感謝すべきです。―コリント第一 2:6-16。

      神の愛のうちにとどまる方法

      8 「極めて聖なる信仰」という表現は,何に言及したものと思われますか。

      8 ユダは次に熱心な懇願に移り,こう言います。

      「しかし,愛する者たちよ,あなた方は,自分の抱く極めて聖なる信仰の上に自らを築き上げ,聖霊をもって祈ることにより,自分を神の愛のうちに保ちなさい。そして,永遠の命を目ざしつつわたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ちなさい」。(ユダ 20,21)

      ユダは,自分の慈しむ仲間の信者たちがエホバの愛のうちにとどまれる方法を優しく示しました。ユダの諭しに従うことには,神の霊の実である信仰を培うことが含まれるに違いありません。(ガラテア 5:22,23)しかし,ユダがその前のところで,『聖なる者たちに伝えられた信仰』のための戦い(3節)に触れていることからすると,「極めて聖なる信仰」とは,救いに関する良いたよりを含む,キリスト教の教えの全体を指していたのかもしれません。こうした真の信仰の土台はキリストであり,それが「極めて聖なる」と呼ばれているのは,その信仰が神聖の神に注意を向け,専ら神の聖なるみ言葉に基づいていたからです。―使徒 20:32。コリント第一 3:10-15。

      9 『極めて聖なる信仰の上に自らを築き上げる』ため,わたしたちは何をすべきですか。

      9 クリスチャンが「自分の抱く極めて聖なる信仰の上に自らを築き上げ(る)」,あるいはそれを強化するためには,個人としてまた会衆で神の言葉を勤勉に学ばなければなりません。仲間のエホバのクリスチャン証人と聖書をひんぱんに討議し,同時に他の人々に良いたよりをふれ告げることは,聖書がわたしたちの心に与える印象を深めます。しかし,このうちのどれも,熱烈な祈りなくしては達成できません。聖霊の影響力の下に,またエホバのみ言葉の中にある事柄と調和して祈る時,その人は「聖霊をもって祈る」ことになります。さらに,神の霊感の下に書かれた聖書は,祈る方法や祈りに際して求めるべき事柄をわたしたちに示しています。例えば,神の聖霊に満たされるように確信をもって祈ることができます。もしわたしたちが「聖霊をもって祈る」なら,その祈りは正しい心の状況,神に愛されるものであることを明らかにします。こうしてわたしたちは,会衆内に忍び込んでいるかもしれない「不敬虔な者たち」の見解のすべてを含む悪い影響から守られるのです。―ルカ 11:13。ローマ 8:9,26,27。

      10 『自分を神の愛のうちに保つ』ためには,ユダの仲間の信者たちに何が求められましたか。

      10 『自分を神の愛のうちに保つ』ために,ユダの仲間の信者たちは,エホバのご命令,そしてみ子の命令を守らなければなりませんでした。(ヨハネ 15:10。ヨハネ第一 5:3)神の愛のうちにとどまるには,エホバの是認される話し方や行ないが求められます。不完全で罪深いゆえに,忠実な人々も,神の愛のうちにとどまるためには,イエス・キリストを通して差し伸べられ,彼らの主の贖いの犠牲という手段によって可能にされたエホバの憐れみを継続的に必要とします。(ローマ 5:8; 9:14-18。ヨハネ第一 4:9,10)イエスの忠実な追随者たちに対し神の憐れみが絶えることなく示されるなら,最後には永遠の命に至ります。―ヨハネ 3:16。

      他の人々に憐れみを示すことの必要性

      11 ユダは憐れみについてなんと述べましたか。そして憐れみを示すに際し,どんな人とどんな人を区別することが必要でしたか。

      11 憐れみを示すことの必要性についてユダはこう述べました。

      「また,疑いを抱く者たちには引き続き憐れみを示しなさい。彼らを火の中からつかみ出して救いなさい。しかし,他の人々に引き続き憐れみを示しなさい。それも恐れの気持ちをもってしなさい。それと共に,肉によって汚された内衣をさえ憎みなさい」。(ユダ 22,23)

      ユダの仲間の信者たちが引き続き神の憐れみを受けようと思うなら,とこしえの命が危ぶまれる他の人々に対して憐れみ深くなければなりませんでした。(ヤコブ 2:13)しかし忠節な者が,『疑いを抱く者たちに引き続き憐れみを示す』には,憐れみを差し伸べるにふさわしい人々と,『夢見る者たち』とを区別する必要がありました。

      12 (イ)「不敬虔な者たち」の影響を受けていたために,一部の人々はどんな疑いを持ったかもしれませんか。(ロ)どうすれば,『ある人々を火の中からつかみ出す』ことができますか。

      12 「不敬虔な者たち」は偽りの教え,つぶやくこと,不平を言うことなどによって,霊的に不安定な人々が疑いをたくさん抱くように仕向けました。偽教師たちのおおげさな言葉によって動揺した,疑いを持つ人々は,献身したクリスチャンが本当にエホバの民かどうか疑問になり,崇拝や良いたよりの伝道に参加することをやめてしまったのかもしれません。こうした不安定な人たちは,「火」,つまり永遠の滅びの危険にさらされていました。(マタイ 18:8,9; 25:31-33,41-46と比較してください。)しかし安定したクリスチャンたち,特に会衆の長老たちは,霊的な訓戒と祈りをもって直ちに彼らの助けに赴くことにより,「彼らを火の中からつかみ出して」救うことができるでしょう。―ガラテア 6:1。ヤコブ 5:13-20。

      13 (イ)ある人々はどんな意味で『内衣を汚しました』か。(ロ)『汚された衣』を着ている人々も,どのように『救われ』るかもしれませんか。

      13 ある人々は肉を汚す者たちに屈し,彼らと共に不道徳行為に,また一部の人は霊的な姦淫に陥ってしまったのかもしれません。(ヤコブ 4:4)動物的な習慣に身をゆだねることにより,彼らはいわば『内衣を汚しました』。肌にじかに着ける衣のような,真のクリスチャンとしての内奥の人格を汚してしまったのです。(啓示 3:4,5と比較してください。)エホバの忠実な証人たちはこのようにして,クリスチャンの人格という自分自身の衣に汚点を付けないよう注意を払いました。それはエホバ神の不興を買い,滅びを招くかもしれないからです。しかしながら,敬虔な人々,とりわけ任命された長老たちは,『汚された衣』を着ている不安定な人々を情け深い態度で助け,救いの道に引き戻そうとしました。もし,不従順な人々が真の悔い改めを示したなら,神の不興を買って死ぬことから『彼らを救う』ことが可能になったでしょう。不潔な歩み方は,そのような死に至るのです。―箴言 28:13。

      栄光,威光,偉力,権威を神に帰しなさい

      14,15 (イ)ユダの油そそがれた仲間の崇拝者たちを守ってつまずかせないようにすることができたのはだれですか。人はつまずいてどんな状態に陥ることがありますか。(ロ)忠実なエホバの油そそがれた証人たちは,どのように神のみ前に『きずのない者として立つ』ことができましたか。(ハ)「大群衆」は何を待ち望んでいますか。

      14 ユダは結論として,この手紙の読者を神にゆだね,こう述べます。

      「では,あなた方をつまずかないように守り,また,きずのない者としてその栄光のみ前に大いなる喜びをもって立たせることのできる方に,すなわち,わたしたちの救い主なる唯一の神に,栄光,威光,偉力,そして権威が,わたしたちの主イエス・キリストを通して,とこしえの過去も,今も,とこしえまでも限りなくありますように。アーメン」。(ユダ 24,25)

      霊感による警告と健全な諭しを与えたあと,ユダは,霊的に危険にさらされていた仲間の信者たちを,神の世話にゆだねなければなりませんでした。その信者たちのただ中にいた「不敬虔な者たち」に首尾よく抵抗することを可能にしたのはエホバだけでした。ですからユダが,至高者に賛美を帰してその手紙を結んでいるのはふさわしいことです。

      15 ユダの仲間の,油そそがれた崇拝者たちは,『彼らをつまずかせないように守ることができる方』であるエホバに信頼を置くことができました。神は彼らが違犯に陥らないよう,また不敬虔な肉を汚す者たちの勧めによって不道徳行為に携わるという誘惑に屈しないよう,彼らを保護することができました。実際エホバは,敬虔な人々が『つまずいて』,重大な罪や,悔い改めない動物的な偽のクリスチャンたちを待ち受けている滅びに陥ることがないよう,守ることができたのです。さらにエホバは,「[神の忠実な証人たち]をきずのない者としてその栄光のみ前に」,あるいは「その栄光ある人格のみ前に」(新世界訳,1950年版[英文])「立たせる」ことがおできになりました。彼らは神の過分のご親切のゆえに,霊的に汚点のない状態で立つことができたことでしょう。(エフェソス 2:1-7。コロサイ 1:21-23)油そそがれた忠実なエホバの証人たちは,イエス・キリストによって復活させられること,また霊的に完全にされた状態で神の「栄光ある人格」のみ前に差し出していただくことを望んでいます。(ヨハネ 5:25; 11:24,25)確かに,このことは彼らに「大いなる喜び」をもたらします。同様に,「大群衆」は「大患難」において保護されてそれを通過し,ここ地上で人間としての完全さに向上するとき,「神聖な奉仕」のさらに多くの特権にあずかることを待ち望んでいます。―啓示 7:9,10,14-17。

      16 (イ)エホバを,『わたしたちの主イエス・キリストによるわたしたちの救い主なる唯一の神』と呼べるのはなぜですか。(ロ)ユダは神に何を帰しましたか。それがふさわしいと言えるのはなぜですか。

      16 ユダの言葉にあるように,エホバは『わたしたちの主イエス・キリストによるわたしたちの救い主なる唯一の神』です。聖書の中で,エホバは救い主である,と繰り返し記されています。(詩編 106:21。イザヤ 43:3。エレミヤ 14:8。ルカ 1:46,47)エホバは,主イエス・キリストによって救いをお与えになる方です。(マタイ 20:28。ヨハネ 3:16。ローマ 5:8。ヨハネ第一 4:9,14)ユダが,光輝を意味する「栄光」(ギリシャ語,ドクサ)をエホバに帰しているのは適切なことです。(詩編 29:1,2と比較してください。)さらに,王としての特質の「偉大さ」を意味する,「威光」(ギリシャ語,メガロースネー)をも神に帰しています。(行間逐語訳)これは,「とこしえの王」であられるエホバの至高の王の権威を正しく認めていることを表わします。(テモテ第一 1:17)クラトス,つまり「威力」もエホバに帰されていますが,この語は,天におけるものであれ地に対するものであれ,エホバの支配ないしは支配権を表わすようです。(ダニエル 4:25; 啓示 11:16-18と比較してください。)ユダはさらに神に「権威」(ギリシャ語,エクスーシア)を帰しています。エホバは,ご自分の意のままに行動する権威と能力を持っておられるからです。―ダニエル 4:34,35。

      17 ユダの述べた,神をたたえる言葉が(イ)「とこしえの過去も」,(ロ)「今も」,(ハ)「とこしえまでも」,ふさわしいと言えるのはなぜですか。

      17 ユダは適切にも,栄光,威光,偉力,権威を「とこしえの過去」,あるいは人の知る「どんな時よりも前」まで,エホバに帰しました。エホバは「定めのない時から定めのない時に至るまで」神だからです。(ユダ 25,新世界訳,1950年版[英文]脚注。詩編 90:2)エホバの崇拝者たちが,「今」,すなわちユダが手紙を書いたときと同様今日も,神にこれらのものを帰すのはふさわしいことでしょう。それに加え,エホバは,神をたたえるこうした言葉を「とこしえまでも」受けるにふさわしい方です。エホバは決して死なれることはなく,絶えず忠実な賛美者たちをお持ちになるからです。(ハバクク 1:12。詩編 148編)ユダの結びの言葉は事実上の祈りですが,ユダはそこに「アーメン」,つまり「そうでありますように」という言葉を付け加えています。忠実なすべてのエホバのクリスチャン証人は,ユダのこの賛美の表現に心から同意します。

      ユダの音信を心に留めなさい!

      18 ユダの手紙から,わたしたちは次のことについて何を学びましたか。(イ)偽教師たち,(ロ)「みだらな行ない」,(ハ)信仰の欠如,(ニ)権威に対する敬意,(ホ)つぶやくことと不平を言うこと,(ヘ)利己的な利益のために他の人々を称賛すること。

      18 ユダの手紙は今日のエホバの証人にとって深い意味があります。わたしたちは神の言葉に固く付き,偽教師たちを断固として避けなければなりません。(ヨブ 13:16; 27:8,9。エレミヤ 17:13。ユダ 4,19)忠実な者たちは,「みだらな行ない」に携わらせようとするどんな誘惑にも抵抗しなければなりません。(ユダ 3,4。創世記 39:7-12)信仰の欠如に屈しないようにもしたいものです。それはとこしえの命を失わせかねないからです。(ヘブライ 3:12。ユダ 5)ユダの音信は,神が定められた権威に敬意を払うように,また忠実に会衆の責任を担っている人々を悪く言うどんな誘惑にも抵抗するようにわたしたちを動かすはずです。(ヘブライ 13:17。ユダ 8,9)わたしたちはユダの手紙によって,つぶやいたり不平を言ったりするのではなく,エホバ神とわたしたちの仲間の信者たちに愛を示すよう鼓舞されるはずです。(マタイ 22:37-40。ヨハネ 13:34,35。ローマ 13:8-10。ユダ 16)ユダの言葉は,利己的な利益のために他の人々を称賛することを避けるようにも助けてくれます。そのように人々を称賛することは,わたしたちをエホバにとって忌むべきものとする,こうかつな方法の一つです。―箴言 3:32。ユダ 16。

      19 わたしたちはなぜ,神の霊感によるユダの音信を心に留めるべきですか。

      19 ですから,エホバおよびその愛するみ子の献身したクリスチャン証人として,わたしたちすべては弟子ユダの重要で愛ある音信を心に留めたいものです。(イザヤ 43:10-12; 使徒 1:8と比較してください。)その言葉は,わたしたちが「命の道筋」を歩む際の足元を一層確かにしてくれます。(詩編 16:11)わたしたちが,ユダの手紙を含む,『エホバのみ言葉に従って注意深くある』ことができますように。(詩編 119:9-16)そのようにしてわたしたちは,『信仰のために厳しい戦いをすること』において成功を収め,神の助けを得て,『自分を神の愛のうちに保つ』のです。

      次の要点を覚えていますか

      □ 『終わりの時にあざける者たちが現われる』と警告したのはだれですか。ユダがこの点に注意を向けたのはなぜですか

      □ 「極めて聖なる信仰」とは何でしたか。どのようにわたしたちはその信仰の上に自らを築き上げることができますか

      □ ユダの仲間の信者たちは,どのように『自分を神の愛のうちに保つ』ことができましたか

      □ クリスチャンであると公言するある人々には,どんな理由で憐れみが必要でしたか。『彼らを火の中からつかみ出して救う』とは,どんなことを意味していましたか

      □ ユダが,栄光,威光,偉力,権威をエホバ神に帰すのは,なぜふさわしいことでしたか

      □ わたしたちは,どのような問題を首尾よく扱う上で助けになるゆえに,ユダの音信を心に留めるべきですか

      [19ページの図版]

      西暦1世紀の忠実なエホバの証人は,偽教師たちにあざけられる場合があっても,『信仰のために厳しい戦いをした』

      [20ページの図版]

      『聖霊をもって祈りなさい』

  • “はい”がはいを意味したので
    ものみの塔 1982 | 12月1日
    • “はい”がはいを意味したので

      イエス・キリストはある時,正直であることを強く勧め,『あなた方の“はい”という言葉は,はいを意味するようにしなさい』と言われました。(マタイ 5:37)この助言に従うなら,そして聖書の音信を他の人々に伝える機会に目ざとくあるなら,クリスチャンは非常に報いの多い経験をすることがあります。その一例として,東ヨーロッパのある国から次のような報告が寄せられています。

      一人のエホバの証人は,ある婦人の家の部屋にペンキを塗りながら,エホバ神のことや人類の将来に対するそのすばらしいお目的,また聖書に書かれている他の事柄について話しました。しかし,再び訪問する取決めを設けることはできませんでした。その証人は,婦人が気立てのよい,慎み深い人であることを知っていたので,どうして婦人はそれ以上話を聞こうとしないのだろうかと不思議に思いました。

      その証人はこう報告しています。「私が仕事を終えると,婦人は代金を支払い,手を貸してくれる人がだれもいないので,部屋に家具を戻すのを手伝ってもらえないかと言いました。私は午後9時ごろもう一度お伺いしてお手伝いしましょうと約束しました」。証人は,助手として,やはりエホバの証人である別の男性を連れて,その晩再びやって来ました。男性二人がいたので家具の片付けは10分ですみました。それから二人は婦人に神の王国とそれのもたらす幾つかの祝福について手短に話して立ち去りました。

      2年後,その婦人は,部屋の塗装を再び同じ証人に依頼しました。婦人の住所と名前を書き留めながら,証人は,以前に話した聖書に関する事柄について考えたかどうかを婦人に尋ねました。婦人は,「はい,考えました。そしてもうバプテスマを受けました」と答えました。そのいきさつを尋ねられた婦人は,次のように語りました。

      「あなたは本当に聖書から多くの良い事柄を話してくださいました。私はあなたが話してくださった事柄に好感を持ちました。でも,それを真剣には受け止めませんでした。ところが,あなたが家具を元に戻すと約束してくださった時,もしこの人が約束を守ったら,この人は本当に神の僕だ,と私は考えました。あなたが助手まで連れて再び来てくださり,そのためのお金を受け取らなかった時,私は身を入れて真剣に聖書のことを考えてみようと決心しました。二,三日して,市場へ行ったところ,そこでエホバの証人の方にお会いしました。それまでにも数回聖書についてその人から話を聞いていました。……間もなくその婦人は私との聖書研究を始めてくださり,8か月後に私はバプテスマを受けました」。

      こうして,その婦人は神への献身の象徴としてバプテスマを受け,今ではエホバの証人の一人になっています。それというのも,一人のクリスチャンが約束を守ったからにほかなりません。その人の“はい”は,はいを意味しました。

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