-
清算の日の到来は保証されているものみの塔 1980 | 1月1日
-
-
清算の日の到来は保証されている
今から1,900年以上昔のこと,自国の法律によく通じていたひとりの人物が将来の清算の日に関する自分の信念を言い表わしました。それは,その人物にとって異国の地である古代アテネのアレオパゴスの法廷でのことでした。その人物とは,クリスチャンになったユダヤ人,使徒パウロのことです。
聴衆はしばらくの間,パウロが神について語る事柄に耳を傾けていました。ところがその後,パウロは創造者に関連して次のような驚くべき事を語ったのです。「なぜなら,ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったからです」― 使徒 17:31。
あざける者たちが大声を上げ始めたので,使徒はそれ以上話を続けることができなくなりました。しかし全能の神は,パウロの語った真理を用いて,パウロの弁明を聞いたある人々の心をお開きになりました。パウロがその場を去る時に,これらの人々は『彼に加わって信者とな(りました)』― 使徒 17:32-34。
ここで,次のように質問する人がいることでしょう。人の住む地を義をもって裁くために,神がお用いになる人物とはだれですか。公正が行なわれることをどうして確信できるのですか。清算の日に関する保証はどれほど確かなものですか。
神のお選びになった人物とはみ子のことです。み子は天の栄光を捨て,次いで神の力によりマリアという名のユダヤ人の処女の胎内で完全な人間の赤子として成長し始めました。(ルカ 1:30-35。フィリピ 2:7)このみ子はイエス・キリストとして知られるようになりました。
裁きを行なうご自分の権威について,イエスは次のように言明されました。「父はだれひとり裁かず,裁くことをすべて子にゆだねておられるのです」。(ヨハネ 5:22)「わたしは,自分からは何一つ行なえません。自分が聞くとおりに裁くのです。そして,わたしが行なう裁きは義にかなっています。わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わしたかたのご意志を追い求めるからです」― ヨハネ 5:30。
気遣いを示す裁き人
イエスがどんな種類の裁き人になるかについては,預言の中で次のように語られていました。「彼はその目に映る単なる外見で裁くことなく,単にその耳で聞くところによって戒めることもない。そして彼は必ず義をもって低い立場にある者たちを裁き,廉潔さをもって地の穏和な者たちのために戒めを与える」。(イザヤ 11:3,4,新)イエス・キリストが押しの強い性格や外見の魅力や美しさに動かされることはありません。イエスは,外面よりもさらに奥深い,人の心の真の動機を洞察する力を持っておられます。(啓示 2:23)巧みな言葉や論議によって,事の真相をつかみ損ない,偏った判決を下すというようなことはありません。どんなに立場の低い人であろうとも,イエス・キリストはその人を公正に扱われます。「その血は彼の目に貴い」のです。―詩 72:14,新。
イエスの裁きに全く偏りのないことを確信するだけの理由は十分にあります。イエスは,自ら進んで自分の命をなげうつという,自己犠牲的な愛に基づく最も偉大な行動を取ることによって,人類に対する気遣いを示されました。イエスは,この点で自分が行なおうとしている事柄に弟子たちの注意をひいて,こう言われました。「友のために自分の魂をなげうつこと,これより大きな愛を持つ者はいません」― ヨハネ 15:13。
高められた裁き人
当然のことながら,死者は裁き人としての職務を果たせません。使徒パウロは,神に任命された裁き人が死人の中からよみがえらされたことを明らかにしました。この復活は,将来の清算の日に関する不変の保証となっています。その保証は尋常のものではありません。500人以上の証人が,よみがえらされたみ子を目撃しているのです。ご自分が現実によみがえらされたことに一点の疑いも残らないようにと,イエス・キリストは,弟子たちと語り,自分に触ってみるよう勧め,弟子たちの面前で食事をされました。(ルカ 24:36-43)聖書は次のように伝えています。「ご自分が苦しみを経たのちに生きていることを多くの確かな証拠によって示し,四十日にわたって彼らに現われ(ました)」。(使徒 1:3)動かしがたい証拠があったため,弟子たちは,身体的な虐待を受け,ののしられ,殺すと脅されても,イエス・キリストの復活について勇敢に証言をしていきました。
イエス・キリストの弟子たちは,その復活の証人だっただけでなく,イエスの昇天の目撃証人でもありました。この昇天から10日後,120名ほどの弟子たちはみ子がみ父の右に高められたことを示す証拠を与えられました。どんな証拠が与えられたのでしょうか。天に昇られる前,イエス・キリストは弟子たちを教えてこう言われました。「エルサレムを離れないで,父が約束され,またわたしから聞いたものを待っていなさい。ヨハネはたしかに水でバプテスマを施しましたが,あなたがたはこれから幾日もたたないうちに聖霊でもってバプテスマを施されるからです」。(使徒 1:4,5)ですから,西暦33年のペンテコステの日に,120人ほどの弟子たちが約束の聖霊を受け,ペンテコステの祭りを祝うために遠くの土地からエルサレムに来ていたユダヤ人と改宗者たちに外国語で語る力がその聖霊によって与えられた時,それらの弟子たちは,み子がみ父のもとにおられることを悟ったのです。
そのわけで,当日,使徒ペテロは幾千人もの人々を前に次のように語ることができました。「このイエスを神は復活させたのであり,わたしたちはみなその事の証人です。それで,彼は神の右に高められ,約束の聖霊を父から受けたので,この,あなたがたの見聞きするものを注ぎ出されたのです」― 使徒 2:32,33。
神の公正は確かに執行される
西暦一世紀にイエス・キリストに関連して生じた,十分証明された出来事は,すべての国民に対する清算の日が必ず訪れることを確証する不変の保証となっています。神の公正の執行されるこの日を,イエス・キリストの忠実な弟子たちは期待に胸をふくらませて待ち望んでいました。クリスチャンの使徒パウロは,テサロニケ人にあてた手紙の一つでこの点にふれ,次のように書きました。
「あなたがた[信者たち]に患難をもたらす者に患難をもって報い,一方患難を忍ぶあなたがたには,主イエスがその強力な使いたちを伴い,燃える火のうちに天から表わし示される時,わたしたちとともに安らぎをもって報いることこそ,神にとって義にかなったこと……です。彼はそのさい,神を知らない者と,わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者に報復をするのです。この同じ者たちは,主のみまえから,またその力の栄光から離れて永遠の滅びという司法上の処罰を受けます。それは彼が来て,その聖なる者たちとの関係で栄光を受ける時,またその日,信仰を働かせたすべての者との関係で……彼が驚異の目で見られる時のことです」― テサロニケ第二 1:6-10。
神の公正を執行する者としてのイエス・キリストの到来とともに,すべての悪の正される時が始まります。神は,キリストを通して,「人類の隠れた事がら」をさえ裁かれます。(ローマ 2:16)待望のその日が訪れる日と時刻は分かってはいませんが,それが訪れることと,その到来が日増しに近づいていることを示す神の保証はあるのです。このことは,神の保証に調和した生活を送るようわたしたちを動かさずにはおきません。では,そのことは,わたしたちに何を求めているのでしょうか。
-
-
神の保証と調和した生活を送るものみの塔 1980 | 1月1日
-
-
神の保証と調和した生活を送る
来たるべき裁きに関する神の保証に確固とした信仰を抱いているなら,その信仰を実証する業が見られるはずです。聖書は,「霊のない体が死んだものであるように,業のない信仰も死んだものなのです」と述べています。―ヤコブ 2:26。
もし,イエス・キリストに全く偏りのない裁きを期待するのであれば,当然のこととしてわたしたち自身えこひいきを避けなければなりません。これは,すべての人にしかるべき敬意を配すること,つまり低い立場にあるとか能力が限られているとかいう理由で他の人々を見下したり,富んでいるとか著名であるというだけの理由である人々を特別に優先してはならないことを意味しています。また,自分を過度に重視する態度も避けたいものです。他の人が犯していると思われる倫理上の悪行を苦々しく思いながら,その一方で利己的にも絶えず自分の益だけを追い求めるとはなんと矛盾したことでしょう。
イエス・キリストを通してなされる神の裁きは,自分以外の人々だけを対象にしているわけではなく,わたしたちの身にも及ぶという事実をいつも念頭に置いておくのはよいことです。聖書は,「おのおのの業にしたがって公平に裁かれる父を呼び求めているのであれば,外人居留者として過ごす間,恐れの気持ちをいだいて生活しなさい」と告げています。(ペテロ第一 1:17)創造者と,その任命された裁き人に対して,健全な恐れつまり敬意を抱いているなら,他の人が何をしているか,あるいは何をしていないかといった点に目を向けることはないでしょう。むしろ,自分の生活態度に注意を払います。すべての物事は,イエス・キリストを通してエホバ神によってのみ正されるということを認識していれば,不正に過度に悩まされたり,怒りに燃えて自分の手で事態をただそうとしたりすることはないでしょう。聖書はわたしたちにこう告げています。「わたしの愛する者たち,自分で復しゅうをしてはなりません。むしろ神の憤りに道を譲りなさい。こう書いてあるからです。『復しゅうはわたしのもの,わたしが返報する,とエホバは言われる』」― ローマ 12:19。
同時に,もし,来たるべき裁きに関する神の保証と調和した生活を送ることの重要性を認識するよう他の人を援助できるなら,わたしたちは必ずやそうしたいと思うことでしょう。わたしたちに対して不正な態度を執る人々に親切に接することによっても,それを行なえます。聖書はこう勧めています。「『あなたの敵が飢えているなら,食べ
-