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  • 神に正される人は幸いです
    ものみの塔 1981 | 11月1日
    • た健全な諭しに従って,『特に注意されている』人との交わりを避けるでしょう。しかし,その人を完全に退けてはなりません。その人は依然としてあなたの兄弟,仲間のクリスチャンであり,キリストはその人のためにも死なれたからです。「憎しみ」の種が成長するに任せるのではなく,その人を「戒め」なければなりません。どのようにでしょうか。自分自身が立派な模範を示すことに加えて,親切に,なおかつ毅然とした態度で,「交わるのをやめなさい」という指示に従うことは,矯正手段の一つです。しかし援助するためにできることはほかにもあります。―レビ 19:17。テトス 2:7,8。

      20 あなたがある無秩序な人に,『特に注意する』としたら,あなたにはどんな責任がありますか。

      20 会衆の集会でも,野外奉仕の時でもあなたの近くにはまだ『特に注意されている』クリスチャンがいます。ですから,その人に『特に注意する』という点に関係した別の責務を果たす機会があることになります。それは「その人を敵と考えてはならず,兄弟として訓戒しつづけなさい」という責務です。(テサロニケ第二 3:14,15)神の諭しのこの面に関して自分の責任を果たさず,『特に注意されている』人を敵として扱うなら,その歩みはその人と同じほど不実なものとなるでしょう。

      21 聖書に基づくこの取決めの目的は何ですか。(民数 35:12。申命 19:11,12)

      21 その『特に注意されている』人が恥じるようになるという希望を持つことができます。あなたがその人との親ぼくのための交わりを避けているのは聖書の導きによるということをその人は悟るかもしれません。この懲らしめは,本人が『垂れ下がった手と弱ったひざをまっすぐにし,……なえたところが脱臼したりすることのないように,むしろそこがいやされるようにする』助けとなることでしょう。今日,神の会衆と交わっている非常に多くの忠節な兄弟たちのことを考えると,クリスチャンが無秩序な兄弟に『特に注意する』ことを余儀なくされる事態はまれにしかないでしょう。しかし万一そうした事態が生ずるなら,引き続き与えられる訓戒が矯正と相まって,「平和な実,すなわち義を生み出す」ことになるのです。―ヘブライ 12:11-13。

      長老たちでなる委員会との会合

      22,23 ゆゆしい罪にかかわる問題はどのように扱われますか。

      22 すでに言及したように(7節),『重大な罪を犯した』人は,「会衆の年長者たち」の注意を必要とします。(ヤコブ 5:14,15)これらの男子は,たぶらかされて大きな罪に陥ってしまった人に神からの矯正を与える良い立場にいます。彼らは,本人が必要としている霊的な助けを与えることができます。―箴 6:23。

      23 普通,3人の長老から成る委員会が重大な悪行の問題を扱うように指名されます。彼らは単なる裁判官や“霊的警察官”として行動するのではありません。彼らは羊の群れの牧者であり,個々の悪行者を扱う際にそのような者であることを証明します。文字通りの羊飼いは,復しゅうの精神や,厳しくて,粗捜しをするような精神態度は示しません。長老たちにも同様のことが言えます。彼らは非難するためではなく,援助するためにそこにいるのです。(ユダ 23)彼らの目ざすところは,もし可能であれば,罪人をその道から引き戻すことです。―ヤコブ 5:19,20。

      24 長老たちは罪を犯した人に対し何を行なおうとしますか。

      24 それでも,大きな罪を扱うに際して,長老たちは『信ずべきことばを堅く守り』,「健全な教えによって説き勧めることも,また,言い逆う者を戒めることもでき」なければなりません。(テトス 1:9)したがって彼らは,過ちを犯した人に対し,その歩み方が間違っていることや,なぜその歩み方を正す必要があるかということを聖書から率直に示すことを差し控えてはならないのです。彼らはその人が悔い改めて,神との平和な関係を取り戻すことを望みます。―ペテロ第一 3:10-12。

      25 さらに,どんな事柄を学ぶ必要がありますか。

      25 しかし,長老たちはどのように悪行者を戒めるべきでしょうか。敬神の悔い改めとは何ですか。それはどのように表われますか。長老たちは重大な罪に関する事件で悔い改めが示された場合,それをどう扱うべきですか。悪行者を会衆全体の前で戒めなければなりませんか。こうした事柄が次の記事の中で考慮されます。

  • 神に立ち返らせる悔い改め
    ものみの塔 1981 | 11月1日
    • 神に立ち返らせる悔い改め

      「神の温情があなたを悔い改めに導こうとしている」― ローマ 2:4。

      1,2 罪と神の見解に関し,わたしたちはどんなことを認識しなければなりませんか。

      わたしたちは皆,詩篇作者ダビデの次の言葉に励まされます。

      「エホバは憐れみと慈しみに富み,

      怒ることに遅く,愛ある親切の豊かな方である。

      神はわたしたちの罪に応じてわたしたちを扱われたことはない。

      わたしたちのとがに応じて,当然受けるべきものをわたしたちにもたらされたこともない。

      父がその子らを憐れむように,

      エホバはご自分を恐れる者たちを憐れんでくださった。

      神はわたしたちの造りをよくご存じであり,

      わたしたちが塵であることを覚えておられるからだ」― 詩 103:8,10,13,14,新。

      2 神はわたしたちすべてが罪人であることをご存じですが,それでもわたしたちを助けたいと願っておられ,喜んで許しを与えてくださいます。(詩 32:1,2)しかし,罪に対する神の見方全体を受け入れないとしたら,神に関するわたしたちの概念は正確なものとはなりません。詩篇 103篇はエホバが「[わたしたちの]すべてのとがを許(す)」と保証していますが,わたしたちの責務についても示し,こう述べています。「エホバの愛ある親切は,定めのない時から定めのない時に至るまで,これを恐れる者たちに及ぶ。……その命令を覚えて実行しようとする者たちに及ぶ」― 詩 103:3,17,18,新。

      3 悔い改めが肝要なのはなぜですか。

      3 重大な罪を犯しながら,悔い改めず,父親のような神の憐れみを求めることなく罪を行ない続けるならどうなるでしょうか。出エジプト記 34章6,7節(新)にはエホバに関する記述があります。その憐れみ,怒ることに遅く,とがを進んで許されるということが強調され,そのあとに,「しかし,処罰を免れさせることは決してせず」と付け加えられています。(民数 25:1-5; エゼキエル 33:12,13と比較してください。)ですから,神の憐れみにつけ込んだり,憐れみを受けて当然だと考えたりしてはなりません。では,万一真の崇拝者が罪に陥った場合にはどうすべきですか。

      神に立ち返るための処置を取る

      4 どうすれば許しを得ることができますか。(歴代下 7:13,14)

      4 神の律法に反する罪を犯したクリスチャンには許しが必要です。それを差し伸べることができるのはだれですか。事実上,神だけです。使徒ヨハネはこう書きました。「わたしたちが自分の罪を[神に]告白するなら,神は忠実で義なるかたであり,わたしたちの罪をゆるし,わたしたちをすべての不義から清めてくださいます」― ヨハネ第一 1:9; 2:1。

      5,6 ヤコブ 5章14-16節にはどんな助言がありますか。この諭しに悪行者が従うのはなぜ道理にかなったことですか。

      5 重大な罪の場合,「自分の罪を告白する」クリスチャンには付加的な処置を取る義務があるとの賢明な助言を神は与えておられます。「罪」に関連した霊的な病気に言及したと思われる文脈の中で,弟子ヤコブはこう書きました。「あなたがたの中に病気の人がいますか。その人は会衆の年長者たち[長老たち]を自分のところに呼びなさい。そして,……自分のために祈ってもらいなさい。そうすれば,信仰の祈りが病んでいる人をよくし,エホバはその人を起き上がらせてくださるでしょう。また,その人が罪を犯しているなら,それはゆるされるでしょう」― ヤコブ 5:14-16。

      6 この処置は道理にかなっています。重大な罪を犯してしまったクリスチャンは,ある程度の霊的弱さと,助けの必要なことを示しているからです。その人は「会衆の年長者たち」の信仰の祈りから益を得られるでしょう。同時に年長者たちは,その人が再び霊的な強さを得られるように,聖書に基づく諭しや助けを与える立場にいます。それに加え,神の民に非難と悲しみをもたらすために,クリスチャン会衆に対する罪となる違犯があります。このような場合,こうした罪を犯した人が長老たちの助けを求めるのはなおさら適切なことです。―コリント第二 2:10。

      7 長老たちは,助けを与えるため,どのように悪行に対する注意を喚起されますか。(箴 28:23; 29:24)

      7 大きな罪を犯したクリスチャンが,自分の方から長老たちに近付くのは,知恵と謙遜さの表われです。「自分の違犯を覆い隠している[『隠す』,ラムサ訳]者は成功しない。しかしそれを告白して捨てる者は憐れみを示される」のです。(箴 28:13,新)時には,きまりが悪かったり,罪の意識があったり,心から悲しんでいなかったりするために,罪を犯した人がヤコブの忠告に従わず,長老たちに近付かないことがあります。その罪に気付いたクリスチャンはだれでも,悪行者がその誤りから離れ,必要な霊的な助けを求めるように励まさなければなりません。それでもその悪行者が長老たちのところに行かないときには,他のクリスチャンは長老たちの注意を喚起し,必要な助けを与えられるようにしなければなりません。クリスチャンは皆,「罪人をその道の誤りから立ち返らせ」,そのようにして「その人の魂を死から救い」たいと願うべきです。―ヤコブ 5:19,20。

      神の言葉で戒める

      8 長老たちは,審理委員の会合をどのように進めますか。

      8 悪行に関する審理委員会が開かれる時に長老たちは,よく祈ってエホバの導きを求めます。愛ある牧者にふさわしい方法で,長老たちは忍耐強く,問題,つまり悪行と思われるものに関して本人と話し合います。(エフェソス 5:1,2。ペテロ第一 5:2,3)悪行があったことを確証する証人がいる場合でも,審理委員会は当人がその悪事についてだけではなく,そうするに至ったいきさつやそのことを自分がどう思っているかを率直に話すよう促します。(申命 19:15。ヨハネ 8:17)どうしてこのことが必要なのでしょうか。

      9,10 悪行を審理する委員会で,長老たちはどんなことをするよう努めますか。(詩 51:13)

      9 事件の審理に当たる長老たちは,罪を確定したり,当人に悪行を犯したことを悟らせたりはしますが,主要な関心事は迷い出たクリスチャン兄弟を助けることです。彼らは,『さわやかさがエホバのみもとから到来する』よう,その人を悔い改めへと動かすことを望んでいます。(使徒 3:19)その人が悪事を認めず,そのゆゆしさを悟らず,悔い改める必要を理解しないのであれば,『その罪に関し,義に関し,……納得させる証拠』を提出しなければならないでしょう。(ヨハネ 16:8と比較してください。)それでも神からのこうした戒めを与える際には,懲罰的であったり,苛酷であったりしてはなりません。「辛抱強さと教えの術とをつくして戒め,けん責し,説き勧めなさい」と聖書は勧めているからです。(テモテ第二 4:1,2)毅然とした態度で,親切に,忍耐強く戒めを与えれば,罪を犯した人の心を動かして,その人が悪を憎み,神に立ち返るように助けることができるかもしれません。―エレミヤ 3:12,13。

      10 エズラの模範から学ぶことができます。エズラはユダヤ人たちにその誤りをはっきり示しました。その第一の目的は彼らを恥じ入らせることではなく,彼らを思いとどまらせ,心を動かし,悪を憎んで悔い改めるように促すことでした。ユダヤ人たちはエホバに告白し,それに従って行動し,その悪を償うため自分たちにできる事柄を行なう必要がありました。(エズラ 10:7-14)それと同様に,ゆゆしい罪に関する事件を扱う審理委員会も,悪行者がその悪事の重大さを理解し,心の中で悔い改めの必要を感じ取れるよう助けることを願います。―イザヤ 1:18。

      「見守るすべての人の前で戒めなさい」

      11 聖書的な戒めを必要とするのはだれですか。

      11 悪行者との審理のための会合に関連して,長老たちはテモテにあてた使徒パウロの言葉を適用します。つまり「罪をならわしにする者たちを,見守るすべての人の前で[字義通りには『全員の目の前で』]戒めなさい。ほかの人たちも恐れの気持ちを持つようになるためです」という言葉です。(テモテ第一 5:20)これらの悪行者たちは,戒めが実際に与えられる時まで,『罪を執ように繰り返した』(改訂標準訳),あるいは「罪のうちにとどまる」(新アメリカ標準訳)人々です。

      12 審理委員会は,テモテ第一 5章20節の諭しをどのように当てはめますか。

      12 西暦1世紀当時,使徒パウロの正当な代表者であったテモテは,関係者『全員の目の前で』,記された指示通りのことを個人的に行なうことができました。そこには悪行者も出席していました。今日,こうした戒めは個人ではなく,長老たちからなる指名された委員会によって与えられます。必ずしも会衆全体がそれに関係するわけではありません。審理委員の会合の終わりごろに,罪が確定されたなら,長老たちはその悪行に関する聖書的な戒めを与えます。その罪に関して証言を行なった証人たちが居合わせており,事情を知っているそうした人々は,聖書的な戒めを聞くよう招かれます。このようにして,それは「見守るすべての人の前で」,つまり『全員の目の前で』与えられます。テモテ第一 5章20節に述べられている「ほかの人たち」は,こうして罪に関する健全な恐れを抱き,罪と,罪に至る可能性のある状況を避ける必要を理解するように助けられることでしょう。

      その人は悔い改めているか

      13 重大な罪を扱う際に長老たちはどんな挑戦に直面しますか。

      13 悪行に関する事件を扱う長老たちにとって最大級の挑戦となるのは,罪を犯した人が真の悔い改めを示しているかどうかを見極めることです。単なるうわべだけで裁いてはなりません。心を読むことはできないので,その悪事および悪事と神の律法との関係,そして罪を犯した人の言動について判断を下す際には,優れた識別力と知恵を働かせ,平衡の取れた見方をする必要があります。

      14,15 人が悔い改めているかどうかを見極める際に,長老たちが注意深くなければならないのはなぜですか。

      14 悔い改めがあるとの結論を下すに当たって,長老たちは性急であってはなりません。なぜですか。罪を犯した人が悔い改めたと誤って判断するなら,羊の群れ全体に破壊的な影響の及ぶことがあるからです。しかし,コリント会衆の悪行者に関する,聖書中の逆の例に是非とも注目してください。この人はしばらく会衆から追放されていましたが,そのあと,真の悔い改めが見られるとの理由で復帰を許されました。兄弟たちはその時,この人をどのように扱ったでしょうか。コリントの人々は,この人が悔い改めたというその判断を信頼して,当人を親切に「ゆるしてなぐさめ」,「彼に対する愛を確証する」ように励まされました。(コリント第二 2:6-8)今日,審理委員会が,悪行者は悔い改めているとの結論を下す場合にも同じことが言えます。しかし万一,長老たちが事態を誤って判断し,実際には悔い改めていない悪行者を会衆に戻すとしたら,長老たちは群れの中のすべての人の道徳的および霊的清さを危険にさらすことになるでしょう。―コリント第一 5:6。

      15 では,その悪行者が本当に悔い改めているか

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