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人間味のある親切は幸福に肝要ものみの塔 1978 | 5月15日
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集会の後で一人の兄弟が近づいてこう言うかもしれません。「お時間のある時にお話ししたい事があるのですが」。その兄弟に対し,人間味のある親切をもって考えれば,まずたいていの場合,そのための時間は今です。問題は重大な事かもしれません。少なくともその兄弟にとってはそうです。長老に相談を持ちかけるのに,かなりの勇気を要したかもしれません。長老が,自分に都合の良い時まで延ばすならば,その時にはすでにその兄弟は考えを変えていて,もう話したくないと言うかもしれません。なぜですか。そうする勇気がなくなったかもしれず,あるいはすでに決定を下したので,今さら相談してもおそいと考えている場合もあるでしょう。必要な時に長老に助けてもらえなかったので,恨みにさえ思っているかもしれません。
個人的な心遣い
会衆の成員の個人的な必要に関する事柄で,人間味のある親切が発揮される場面はほかにもあります。集会場所の冷房が冷え過ぎると言って,長老に不快を訴える姉妹がいるかもしれず,耳の遠い兄弟は聞こえないという不満を訴えるかもしれません。彼らを“不平家”とみなすべきですか。皆の気に入るようにはできないのだから,大多数の人が満足しているならば,それで自分の務めはすんだと,長老は考えるべきですか。このような兄弟たちのためを心から思うならば,そのようには考えないでしょう。聖書の箴言は次のように述べています。「耳を閉じて貧しい者の呼ぶ声[不平不満の叫び]を聞かない者は,自分が呼ぶときに,聞かれない」。(箴 21:13,口,[新])親切な対応とは,それぞれの“不満”を考慮し,すべての人が快適でうれしく感ずるように,妥当な範囲であらゆる可能な方法をつくすことです。
この原則は,羊飼いに関するイエスのたとえ話の中に教えられています。イエスは次のように問うことをされました。「あなたがたのうち,百匹の羊を持っていて,そのうちの一匹を失ったときに,九十九匹を荒野に残し,失われたものを見つけるまでそれを捜しに行かない人がいるでしょうか。それを見つけると,その人はそれを自分の肩に載せて喜びます」。イエスは,群れの成員ひとりひとりに個人的また特別な関心を払うことの重要さを示されたのです。―ルカ 15:4-7。
良きサマリア人
人間味のある親切を強調するためにイエスの用いられたたとえ話の中で最も印象的なもののひとつは,良きサマリア人のたとえ話です。傷を負って道に倒れていた人を見つけた時,サマリア人は「哀れに思いました」。それで彼は何をしましたか。「その人に近づき,その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやりました。それから彼を自分の家畜に乗せ,宿屋に連れて行って世話をしたのです。そして次の日,デナリ[貨幣]二つを取り出し,それを宿屋の主人に渡して,こう言いました。『この人の世話をしてください。そして,なんでもこれ以外にかかるものがあれば,わたしがここに戻って来たときに返しますから』」。キリスト・イエスは,自分を義としていた人々に対し,神に喜ばれるには,伝統的な義務としての“義良さ”や律法を守ること以上のものが要求されていることを強調するため,このたとえ話をされたのです。―ルカ 10:29-37。
クリスチャンでない人が使徒に示した人間味のある親切
考慮に値する別の事態は,使徒パウロが囚人としてローマに送られる途中の出来事です。使徒 27章3節は,護送の任にあたった士官ユリウスが人間味のある親切と同情心をパウロに示したさまを描写しています。「そして次の日,わたしたちはシドンに上陸したが,ユリウスはパウロを人間味のある親切さで扱い,自分の友人たちのところに行って世話を受けることを彼に許可した」。
人を監督する立場の者は,クリスチャンでなかったこの人から学ぶことができます。彼は他の人が,人間である以上,必要としているものを理解していました。またすべての人を同じ型にはめ込むような冷たいことをしませんでした。監督者は各人が人間として必要としているもの,および各人の短所を悟ることによって,このように人間味のある親切を示すことができます。それですべての人に同じ事を要求したりはしません。ある人は新しい仕事をすぐ覚え,仕事をするのが能率的で早いかもしれません。この従業員に人間味のある親切を示すことは容易でしょう。しかしおそい人をどのように扱いますか。おそい人には余分の訓練,世話,時間が必要であり,したがって監督者は忍耐を強いられるかもしれません。良い監督者であれば各人の福祉を気遣っており,ちょっとした事でも,そのおそい人の仕事を楽しいものにする事柄を行なうでしょう。彼は自分の雇い主に対して忠義である一方,ある特定の規則に従うことよりも,従業員各自の総合的な益を図ることにいっそう心を用います。ユリウスは,友人の世話を受けることをパウロに許してもよいかどうかを知るために“規則集”を調べたりはしませんでした。そのような規則集があったとすれば,このような親切もおそらく禁じられていたことでしょう。
ローマへのこの同じ航海で,後に一行は難船し,乗船者全員が無事マルタ島の海岸に上陸しました。パウロおよび彼と共にいた人々の多くは囚人であり,すべての人は他人であったにもかかわらず,ルカの説明によれば,島の人は「人間味のある親切をひとかたならず示してくれた。というのは,雨が降っていたし,また寒くもあったので,彼らは火をたいてわたしたちみんなを迎え,何とか助けてくれた」とあります。(使徒 28:2,7,10)ここにわたしたちに対する教訓があります。人間味のある親切は,相手が自分と同じ背景あるいは宗教を持つ人でなくても示し得るということです。イエスはわたしたちに勧めてこう言われました,「あなたがたが,天におられるあなたがたの父の子であることを示すためです。父は邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ…てくださるのです」― マタイ 5:45。
もたらされる益
人間味のある親切を示す時,わたしたちは個人的にどのような益を受けますか。自分が満足を覚えるとともに平安な思いをも得て,豊かに報われます。(箴 19:22,23)エホバはわたしたちが親切を示す時,喜ばれます。(ミカ 6:8)良きサマリア人のように良い隣人となることによって,人間味のある親切を示すならば,わたしたちはエホバから,そしてたいていの場合,隣人からも祝福されます。「いつも与えなさい。そうすれば,人びとはあなたがたに与えてくれるでしょう。彼らは押し入れ,揺すり入れ,あふれるほどに量りをよくして,あなたがたのひざに注ぎ込んでくれるでしょう。あなたがたが量り出しているその量りで,今度は人びとがあなたがたに量り出してくれるのです」。(ルカ 6:38)たとえ,このような報いがすぐに明白でなくても,それにまさって平安な思いと自尊の念は,人間味のある親切を価値あるものにします。
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パナマで舌を使うものみの塔 1978 | 5月15日
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パナマで舌を使う
● 12歳になるパナマの一少女は生まれつき身体に障害があって,発育不良の両腕と両足を使うことができませんでした。しかし彼女は賢い子供で,エホバの証人と聖書を学ぶことを母親に許されていました。「ページをくって聖句をさがすことが,果たしてできるようになるものか,わたしはあやぶみました」と,少女の研究司会者である証人は語っています。「しかし彼女にとってそれは少しも問題ではありませんでした。彼女はベッドに腹ばいになり,自分の前に置いた聖書のページを,舌でめくります。それはとても能率的で,どうかするとわたしよりも先に聖句を見つけてしまうほどです」。
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