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すべての人が公正に扱われる ― いつ,またどのようにものみの塔 1977 | 5月15日
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するなら,ある程度公正な裁きが“法廷”で行なわれていると考える根拠を一般の人々に幾らかでも与えることになります。
最近注目を集めている別の取り組み方は,賠償,つまり償いをさせることです。ザ・トロント・スター紙(1976年7月22日付)はこう伝えています。
「犯罪者は,引き起こした損害や損失に対して,被害者に直接償わねばならない,と法改革審議会は昨日発表された調査書の中で述べた。……『賠償と償いが早期に考慮されたのは,それが犯罪の被害者に一層の注意を向け,損害に対して最大限に償う責任を犯罪者と国家に負わせているからである』」。
カナダのこの新聞は,エドモントンで行なわれた試みについても述べています。その試みは,犯罪者が「刑務所に行く代わりに,働いて罰金を徐々に支払って」ゆかねばならないというものでした。
しかし,このすべては公正な裁きを行なうための新しい方法なのでしょうか。いいえ,そうではありません。賠償や埋め合わせは,古代イスラエル人に与えられた神の律法の一部となっていたからです。例えば,雄牛を盗んだ者は,それを二倍,また場合によってはそれ以上にして償わねばなりませんでした。それができない場合,その人は被害者に対する返済が完了するまで,雇われた労働者として働かねばなりませんでした。(出エジプト 22:1-9)中傷,傷害,および財産上の損害に対しても,償いをすることが求められました。(出エジプト 21:35,36。申命 22:13-19)この公正な取り決めは,被害者に保護を与え,償いをすることになり,法を犯した者には厳しい教訓となりました。また,刑務所を維持してゆくための費用を地域社会に負わせることもありませんでした。
しかし今日の人々は,イスラエルに公正を実現させた神の方法に見られる知恵を高く評価したとしても,それは過去のことであると結論するかもしれません。そして,今の複雑な時代に,すべての人に公平を行き渡らせることなどだれにもできないと考えるかもしれません。
約束された変化 ― 公正が行なわれる!
公正にかかわる現代の諸問題が複雑で失意をもたらすものであるとはいえ,希望を持つ根拠がない訳ではありません。聖書に示されている神の諭しに従えば,公正を実現する上での障害の多くを克服できることにお気付きになりましたか。その諭しを与えてくださった神ご自身が,すべての人が公正な扱いを受ける時が到来すること,しかもその時が間近に迫っていることを約束しておられます。
その祝福は,わたしたちが現存する政治および司法制度を変革し,古代イスラエルの律法に従わせることにかかっているのではありません。もちろん,公正かつ公平に物事を扱うよう個人的に努力すれば,公正を行き渡らせる点で貢献できることは確かです。それがふさわしいということは,創造者が人間に,「公正を行ない,親切を愛し,慎しみ深く[自分たちの]神とともに歩む」よう勧めておられることからも分かります。(ミカ 6:8,新)しかし,間もなく完全な公正が全地に行き渡るようになるのは,ほかならぬ神ご自身が行動を起こされるからです。
最初の記事の中で,ルカ 18章に記されている,イエスの例え話を考慮しましたが,それは「日夜ご自分に向かって叫ぶその選ばれた者たちのためには……必ず公正が行なわれるようにしてくださ(る)」神に対して,絶えず祈る必要を強調するものでした。しかし,その祈りは公正に関してだけではありません。イエスはその追随者たちに,邪悪な事物の体制全体の全き終わりについて祈るよう勧めておられたのです。イエスが前の章で語られたのは,まさにそのことに関してでした。(ルカ 17:20-30)事態を良くするためのこの徹底的な変化は,神の天的な王国政府によってもたらされます。その王国政府こそ,長年にわたる不公正の歴史を有する,人間の腐敗した諸政府を滅ぼすのです。イエスの詳細な預言と,今の時代における歴史の諸事実とは共に,わたしたちの世代が,天からの支配への転換を目撃する世代であることを証明しています。(ダニエル 2:44。マタイ 24:3-14)しかし,それによってすべての人に公正が行き渡るようになるとどうして言えるのですか。
一つの点として,公正さは上層部から始まるものだからです。わたしたちは,この政府の指導者が,「公正によりまた義によりそれを固く据え,また支える」という保証を与えられています。(イザヤ 9:6,7,新)権威を行使する他の人々についてはどうですか。イザヤ 32章1節(新)は,彼らが「公正のために君として支配する」ことを叙述的に示しています。古代イスラエルでそうであったように,王国の支配の下でも,すべての人に当てはまる同一の法,あるいは司法制度が存在するようになります。
今日と同じように,不公正な扱いが横行するようなことがありますか。イザヤ 26章9節(新)は,それに対する否定的な答えを,こう述べています。「地に対し[エホバ]から裁きがある時,義を産出的な地の住民たちは必ず学ぶ(のです)」。
『なるほど,しかしそれを拒む人々はどうなるのですか』と考える人もいることでしょう。ウイルソン教授の述べるとおり,『邪悪な人間は存在している』からです。「全地をさばく者」である神は,公正と義を学び,それを実践する意志のある人々だけが生き残るよう取り計らうと約束しておられます。―創世 18:25,口。イザヤ 26:10。詩 37:9-11。
「犯罪を引き起こす性格」について研究している二人の博士は最近次のように語りました。
「犯罪をなくすために必要とされているのは……よりよい住宅やありきたりの治療法などよりも,むしろ犯人が全く新しい生活様式に“転向”すること,そして厳格な道徳教育である。……彼らの出した結論に従えば,社会復帰には……『犯罪者の性格を完全に破壊すること……』が必要である」。
それこそ,神の新秩序での命を得る資格にかなうために,以前の悪行者たちが行なわねばならない事柄です。すなわち,「神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された新しい人格」を着けることです。(エフェソス 4:24)そしてそれは,神の王国の支配下で行なわれる教育計画の一環となるに違いありません。それによって,公正な規準に従う意志のある人は,生きて行くためのその公正の規準に従って歩めるようになります。(イザヤ 2:3,4)ですから,すべての人が公正に扱われる時は,必ず到来するのです。
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聖書の‘語呂合わせ’から益を得るものみの塔 1977 | 5月15日
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聖書の‘語呂合わせ’から益を得る
聖書には語呂合わせが含まれています。つまり原語のヘブライ語で発音が同じで意味の異なる語を用いて要点を強調することが行なわれています。これらは翻訳の場合,認めるのが困難ですが,脚注または欄外の参照によってその存在が示されている場合もあります。明らかにこのような語呂合わせは,読み手あるいは聞き手に音信を深く銘記させるのに役立ちました。わたしたちがそれに気づくならば,それが使われている聖句はいっそう意義深いものとなるでしょう。
例えばエレミヤ記 1章11-13節の次の聖句を考えてごらんなさい。「[エホバ]の言葉がまたわたしたちに臨んで言う,『エレミヤよ,あなたは何を見るか』。わたしは答えた,『あめんどうの枝を見ます』。[エホバ]はわたしに言われた,『あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行なおうとして見張っているのだ』」。(口,[文語訳])
「あめんどう」の木と「見張っている」ことと一体どんな関係があるのか,人は尋ねたくなるかもしれません。原語では語呂合わせが関係しています。ヘブライ語であめんどうという木の名前は「目ざめさせるもの」という意味です。あめんどうは冬眠期のあと最初に花をつける木のひとつであるゆえに,これは適切な名称です。
ここに挙げたのは,聖書に多く見られる語呂合わせのひとつに過ぎません。もし脚注あるいは欄外に参照のある聖書を使っている方であれば,それらを見落とさないように脚注あるいは欄外の参照を調べてごらんになると,興味深い,そして有用な発見を何かするかもしれません。
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