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不公正がなくなることはありますかものみの塔 1977 | 5月15日
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不公正がなくなることはありますか
「一般の人に当てはまる法体系と有力者に当てはまる法体系は異なっている」。
これは,ニューヨーク市の刑事法体系を調査した当時の州特別検察官モーリス・H・ナジャリが昨年夏の記者会見で述べた言葉です。そして,「この社会には,高貴な者に対する規準と平民に対する規準という二重の規準があると思うか」と尋ねられたナジャリは,次のように答えています。
「現在の法体系の下では確かに二重の規準があると思う。法は二重性を帯びたものであった。一つは,政治的に重視される人間に対する法体系であり,もう一つは我々のような一般人に対する法体系である」。
上記の言葉はあなたの住んでおられる地域にも当てはまりますか。そうかもしれません。どこに住む人々も不公正を経験し,腹立たしい思いをしているからです。自分自身が経験した事柄を別にしても,不公正の多くの例について耳にしていることでしょう。
例えば,著名な立法者や裁判官や政治家がわいろを受け取り,私腹を肥やしたり,自分の目的を遂げたりするために自分の影響力を利用して,法を犯した例についてご存じですか。しかし,その人は公正な処罰を受けましたか。それとも,その人に与えられた罰は,少数民族に属する人が同じ程度の罪を犯した場合に考えられる罰よりもずっと軽いものだったでしょうか。この点をもう少し“身近な”例から考えてみましょう。地元の有力者が5万㌦(約1,500万円)の公金を横領したことが明るみに出たとしましょう。その人の受ける罰は,あなたの職場の同僚や隣人がそれと同額のお金を盗んだ場合に受ける罰と同じほど重いと思われますか。
実を言えば,多くの土地で,“法の体系”は真実に公正なものとは言えなくなっています。犯罪問題に関する米国のある全国的な協議会は次のように報じています。
「この体系によって捕えられる人の中で圧倒的多数を占めるのは,貧困者,下層階級,少数民族,移民,外国人,知能の低い人,およびその他何らかの不利な条件を抱えている人々である。この体系から逃れる機会に恵まれているのは,裕福な犯罪者,法人関係の犯罪者,ホワイトカラー族の犯罪者,専門的な犯罪者,組織犯罪の片棒を担いだ者,および知能犯などである」。
この一般論を骨子として,それに肉付けをすることができます。ある調査によると,『ギャングの一味が有罪の判決を受ける可能性は,その他の犯罪者たちの五分の一にすぎない』とされています。別の調査は次の点を明らかにしています。「著名なホワイトカラー族の被告は,平均して,自分たちが盗んだ金1,000万㌦につき[懲役]一年[の刑]を受ける。……それとは対照的に,数千㌦の金を盗んで逃走した銀行強盗は平均して11年の刑を宣告された。これは,幾百幾千万㌦もの金を横領して逃走した者より五倍も長い期間[刑務所]で過ごすことを意味する」。
これは米国の場合です。しかし,ほかの国に住んでおられるなら,事態は全く異なっているとお考えになりますか。
もっとも大抵の人は,そうしたたぐいの不公正は,自分とは直接関係がないと考えることでしょう。銀行強盗を計画したり,幾百幾千万ものお金を横領しようとしたりする人はごくまれです。それでも,別の面で不公正な扱いを受けているかもしれません。
例えば,あなたは法律上の問題を処理しようとしたことがおありになるでしょう。それは,旅行や家族に関係する書類や,建物を改築するための許可証などを手に入れることだったかもしれません。あなたは,建築条例などすべての法的要求を満たしていました。では,公平かつ公正な扱いをお受けになりましたか。それとも,あなたの住む国では,そのような問題について公正な扱いを受けられるかどうかは「コネがあるかどうか」にかかっていますか。
不公正の種類や程度の差こそあれ,わたしたちすべては余りにも多くの不公正を味わってきました。そのため,だれしも「不公正がなくなることはあるのだろうか」と考えたことがあるに違いありません。
問題を解決するための助け
一般に知られている,比較的はっきりとした不公正の問題を解決しようとした人々でさえ,それを実行するのは口で言うほど容易でないことを思い知らされました。一般の人々が述べる解決策には次のようなものがあります。
『まず指導者が正直で公正になる必要がある。そうなれば,それに従う人々も公正になるだろう』。『法廷はだれに対しても平等に刑を下し,ギャングや政治家が容易に刑を免れることがないようにすべきだ』。『貧しい人も公正な裁きを受けるため,十分な法律上の援助を受けられるようにしなければならない』。『収賄罪に対する刑罰を重くし,権力の立場にある者が公正を曲げるような誘惑に陥らないようにすべきだ』。
しかし,以上のような見解は,不公正に関する肝要な点を見過ごしています。ルカ 18章にある,聖書の記述の中では,その点に注意が向けられています。その記述を手短に検討してみれば,歴史的な見地に立って不公正の問題を考えるのに役立ち,大抵の場合無視されている,問題の一面を明らかにすることになります。
その記述は,イエスが聴衆のよく知っている事柄に基づいて話した例えです。イエスはこう語りました。
「ある都市に,神への恐れをいだかず,人に敬意も持たないある裁き人がいました。ところが,その都市にひとりのやもめがいて,しきりに彼のもとに来ては,『わたしが自分の訴訟の相手に対して公正な裁きを得られるようにしてください』と言いました。さて,しばらくのあいだ彼は気がすすみませんでしたが,のちになって自分に言いました,『わたしは神を恐れたり人を敬ったりするわけではないが,とにかく,このやもめが絶えずわたしを煩わすから,彼女が公正な裁きを得られるようにしてやろう。そうすれば,とことんまでやって来てわたしをこづきまわすようなことはないだろう』」。
それからイエスは次のように諭しました。
「不義な者ではあるが,この裁き人の言ったことを聞きなさい! では,神は,日夜ご自分に向かって叫ぶその選ばれた者たちのためには,たとえ彼らについて長く忍んでおられるとしても,必ず公正が行なわれるようにしてくださらないでしょうか。あなたがたに言いますが,彼らのため速やかに公正が行なわれるようにしてくださるのです。とはいえ,人の子が到来する時,地上にほんとうに信仰を見いだすでしょうか」― ルカ 18:2-8。
イエスは,絶えず祈る必要性を強調するためにこの例えを話されました。(ルカ 18:1)しかし,この例えから公正について学ぶこともできます。
まず,この例え話は,わたしたちが平衡の取れた見方を持つのに役立つはずです。なぜならこの例え話は,1,900年前でさえ,ローマ人によって任命された行政官のような権力の立場にある人から公正な裁きを受けるのは大抵の場合困難だったことを示しているからです。そうです,不公正は古くからある問題なのです。不公正をなくそうとする努力を払ってきた政府や改革運動の数を数え上げてゆけば切りがありません。それでも,不公正は依然としてなくなっていません。この歴史的な事実を認めることはわたしたちにとって保護となります。どうしてそう言えるのですか。そうした認識があれば,事態を変革しようとする,人間による別の試みにすぐに巻き込まれることはありません。そのような試みは,これまでに試みられてきたものと余り変わらないでしょう。―箴 24:21。
また聖書に記されているこの例え話がわたしたちに強調しているのは,人類の造り主が,卑しいやもめをも含めすべての人を公正に扱うことに情け深い関心を抱いておられる,という点です。(申命 10:17,18)これは,神の裁きをよく知っていた詩篇作者が,神について,「彼は義と公正を愛される方」と述べた描写と一致します。―詩 33:5,新。
最後の点として,イエスの例えは,それがいつ起きるかを例え自体の中ではっきりと述べてはいないものの,『公正が行なわれるようにする』のが神の目的であることを信ずる根拠を与えてくれます。
「なるほど。しかし,不公正はどのようにして一掃されるのですか。そして,それはいつ実現するのですか」とお尋ねになる方もおられるでしょう。
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すべての人が公正に扱われる ― いつ,またどのようにものみの塔 1977 | 5月15日
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すべての人が公正に扱われる ― いつ,またどのように
「すべての人が公正に扱われる」,これが優れた原則ではないと言える人がいるでしょうか。しかし,現実を見れば,いまだにそのような状態が行き渡っていないことが分かります。
誠実な男女は,幾世紀もの間,不公正を少なくし,公正を行き渡らせようと努めてきました。改革運動によって政治機構は変えられ,法律上の手続きや司法体制も改変され,再組織されてきました。それでも,依然として不公正はなくならないのです。
その結果人々は,「すべての人が公正に扱われる」ことなどあり得ないという結論を下しています。中には,冷笑的になり,自分に害が及ばない限り不公正について考えようとしない人さえいます。しかし,楽観的な見方を持つ根拠がない訳ではありません。すべての人に公正を行き渡らせるために行なえる事柄があり,それは必ず行なわれるでしょう。しかしそれは,いつ,どのようにして行なわれるのですか。不公正の原因や公正な扱いを妨げる障害の幾つかを考慮してみれば,この質問に対する答えをより正しく認識することができるでしょう。また,公正を完全に行き渡らせるという問題がいかに複雑であるかをも理解できるでしょう。
上層部から始まる
著名な法律学者マービン・E・フランケルは次のように指摘しています。
「……地域社会の指導者の行動が,法と秩序に対する一般の人々の態度に及ぼす影響を無視することはできない。我々は,政府高官の正直さや忠誠心がはなはだ疑われている時代に住んでいる。そうした人の中に裁判官が含まれていない訳ではないが,裁判官がその主要な部分を占めているのではない」。
確かに,政治および法執行機関の指導者たちの間に見られる腐敗は,完全な公正の実現を妨げる主要な障害になっています。法を執行する権威を持つ者たちが,わいろを取り,有力者をえこひいきしているかぎり,すべての人が公正に扱われるような時はとても期待できません。遠い昔,聖書はこのような事態を適確に描写していました。「邪悪な者が支配を行なうと,民は溜息をつく。公正によって王は地を存立させる。しかしわいろを得ようと努める者はそれを打ち壊す」― 箴 29:2,4,新。
それで,すべての人が公正に扱われるようになるには,正直で公正な指導者が必要とされます。
すべての人に当てはまる同一の法
公正を実現する上でもう一つ妨げとなっているのは,人の地位や富によって,どれほど公正に扱われるかが左右されるという事実です。
ある土地では,“公正な裁き”を受けられるかどうかは,高い費用を支払って弁護士を雇えるかどうかにかかっています。確かに,弁護士を雇えない人のために,裁判所が有能な弁護士を付けてくれる場合もあります。しかし,そうした弁護士は大抵多忙で,その上,どんな性質の事件でも付けてもらえる訳ではありません。その結果,巧妙で専門的な弁護をしてもらう費用を支払える,犯罪組織の一員や不正直な実業家は,裁判に通用するものを“買う”ことができるのです。
米国で,一人の人のために組織された,175人からなる弁護士団の首席弁護人は,内幕を暴露する次のような言葉を述べています。
「まず第一に認めなければならないのは,この国で得られる公正な裁きの質がその人の資力と直接関係しているという点である。……刑務所に入れられるのは貧しい人々だ。それは,現行の司法制度の下で,貧しい人々は公正な裁きを受けられないからである。私は,法律関係の仕事を始めた最初の週に,裁判を傍聴するため法廷へ出掛けて行き,四人の貧しい人々が賭博のかどで重い刑を宣告されるのを見た。それから,[弁護士の]集まりに顔を出すと,そこにいた人々はみな,[賭博の]機械の周りに群がっていた」。
有罪の宣告を受けたとしても,刑の重さはある程度,その人の経済力や社会的な地位によって左右されるかもしれません。“ホワイトカラー”族が幾百幾千万㌦にも上る詐欺を働いても,時には,犯罪者は威信の失墜により十分処罰を受けているという理由で,比較的軽い刑が宣告されることもあります。しかし,一新聞は論説の中でこう述べています。
「著名な被告人は,事が公にされ,恥辱を受けるだけでも十分な懲罰である,とまことしやかに論ずることができる。その規準に従えば,最も重い刑を受けるのは,社会で一番恵まれていない人々だけであるということになる。そうした人々は,地位を失ったと主張することができないからである。“平等な裁き”を実践するのは口で唱えるほど容易ではない」。
ですから,すべての人が公正に扱われるようになるには,人の地位や資力とは無関係に,すべての人に当てはまる同一の法がなければなりません。聖書はこの重要な原則に注意を向けています。ヘブライ人の律法は次のように述べていたからです。「他国の者にも,この国に生れた者にも,あなたがたは同一のおきてを用いなければならない。わたしはあなたがたの神,[エホバ,新]だからである」― レビ 24:22,口; 19:34。民数 9:14; 15:16。
公平な判決
明確な法律があり,それがすべての人に当てはめられても,公正な判決を下すことは依然として問題となるでしょう。
1976年5月5日付のニューヨーク・ポスト紙はこう伝えています。
「レビ司法長官は,犯罪者に判決を下す点で,米国の制度が,緩慢,不安定,かつ不公平であると批判し,その制度には『宝くじに類する性質がある』と語った。……ある連邦司法区では,有罪宣告を受けた犯罪者全員の71%は刑務所に送られるが,別の司法区で刑務所に送られるのは,同様の罪状で有罪宣告を受けた人の16%にすぎない,と同長官は語った」。
このような不均衡にどう対処するかは問題です。各々の犯罪に対して,選択を許さない一定の刑を決めておくべきだ,という提案を耳にしたことがあるかもしれません。例えば,自動車を盗んだ者は一定の罰金か懲役刑を受けるとか,放火をした者は定められた年月の間禁固刑を受けると言うような規定です。そのような司法制度は簡単で公平なように思えますが,それは本当に公正であると言えますか。例えば,初めて法を犯し,誠実に後悔している人が,厚かましい犯罪者と同じ刑を受けてもよいでしょうか。
ベルリンで開かれた,犯罪学者と裁判官の会合の席上,西ドイツ法務省のリチャード・ストルム博士は,この問題に対処するための一つの試みについて語りました。それは“社会的予後”,つまり,被告の生活環境や過去の記録を分析し,それに応じて判決を下すという主旨のものでした。しかし,オランダのW・ビュークフィーゼン博士は,それが「犯罪者を二重の意味で処罰する」ことになりはしないかと尋ねました。もしそうした人々が「すでに不利な環境に置かれていたとすれば,危険性が高いと見られ,より長い刑を受けることになる」と同博士は論じました。
この問題の複雑さからも,すべての人が公正に扱われるためには,賢明で公平な裁判官が必要とされることがよく分かります。イスラエル人に与えられた,聖書の律法は,この事実に重きを置いています。神は,その中で次のように定めています。「あなたは貧しい者の訴訟において,裁判を曲げてはならない。あなたは偽り事に遠ざからなければならない。……あなたは賄賂を取ってはならない。賄賂は人の目をくらま(す)……からである」。(出エジプト 23:6-8,口)神はさらに,こう告げておられます。「あなたがたは裁きにおいて不正を行なってはならない。あなたは立場の低い者に不公平な扱いをしてはならず,大いなる者の身をひいきしてはならない。公正をもって自分の仲間を裁くべきである」― レビ 19:15,新。申命 1:15-17。
それらヘブライ人の裁き人が不公正にならないよう助けたものは何でしたか。神を畏れる敬けんな気持ちです。彼らはこう告げられていました。「あなた方が裁くのは人のためではなく,エホバのため(なの)です。この方は裁判の問題においてあなた方と共におられるのです。それで今,エホバの恐れがあなたがたに臨むように。注意深くあって,行ないなさい。わたしたちの神エホバには,不義も,えこひいきも,わいろを取ることもないからです」― 歴代下 19:6,7,新。
公正を実現するための新しい取り組み方?
これまで幾年にもわたって,様々な国における法体系は,幾多の改変を経てきました。こうした変化は,大抵,公正に関する新しい説や考えに基づいて実行に移されました。
例えば過去一世紀間に,犯罪者の社会復帰を図る努力に多くの注意が向けられ,犯罪者を罰することよりも,彼らを社会に適応させることに主眼が置かれました。この考えにはまた,刑を寛大にするよう促す傾向もあります。
確かに立派な原則ではありますが,こうした取り組み方はどれほどうまく行っていますか。法学の教授であり,刑罰問題対策委員会の委員長でもあるアラン・ダーシォウィッツはこう語っています。
「社会復帰は成功していない。最近,社会復帰に関する200件余りの研究を調査した結果,現在実施されている社会復帰の手法のいずれかが,累犯[犯罪を繰り返すこと]を減少させていると信ずる『根拠はほとんどない』という残念な結論に達した」。
革新的で“人道的”な取り組み方をした結果,常習的な犯罪者が再び野放しにされることが多々ありました。ハーバード大学の政治学の教授ジェームズ・Q・ウイルソンは,「犯罪について考える」と題する本の中で,次のような結論を述べています。「邪悪な人間は存在しており,そうした者たちを罪のない人々から隔離しておくに越したことはない。……我々は邪悪な人間をもてあそび,罪のない人々を愚弄し,打算的な人間を助長してきた。公正はないがしろにされ,我々も苦しんでいる」。これは何と当を得た言葉なのでしょう。今日多くの人々は,すべての人に公正が行なわれる時代を目撃するという望みを失っているからです。
依然として,法体系を改良しようと努めている人々の多くは,その取り組み方に手直しをするようになっています。今では,ある新聞の見出しが述べるとおり,「刑罰こそ犯罪を思いとどまらせる力」であると主張する人もいます。シカゴ大学のアイザック・エールリッヒ教授は,最近,「本質的に言って,人々に犯罪を思いとどまらせているのは,刑罰の確実性と厳しさである」ことを示す研究を完成させました。この見解に基づいて行動するなら,ある程度公正な裁きが“法廷”で行なわれていると考える根拠を一般の人々に幾らかでも与えることになります。
最近注目を集めている別の取り組み方は,賠償,つまり償いをさせることです。ザ・トロント・スター紙(1976年7月22日付)はこう伝えています。
「犯罪者は,引き起こした損害や損失に対して,被害者に直接償わねばならない,と法改革審議会は昨日発表された調査書の中で述べた。……『賠償と償いが早期に考慮されたのは,それが犯罪の被害者に一層の注意を向け,損害に対して最大限に償う責任を犯罪者と国家に負わせているからである』」。
カナダのこの新聞は,エドモントンで行なわれた試みについても述べています。その試みは,犯罪者が「刑務所に行く代わりに,働いて罰金を徐々に支払って」ゆかねばならないというものでした。
しかし,このすべては公正な裁きを行なうための新しい方法なのでしょうか。いいえ,そうではありません。賠償や埋め合わせは,古代イスラエル人に与えられた神の律法の一部となっていたからです。例えば,雄牛を盗んだ者は,それを二倍,また場合によってはそれ以上にして償わねばなりませんでした。それができない場合,その人は被害者に対する返済が完了するまで,雇われた労働者として働かねばなりませんでした。(出エジプト 22:1-9)中傷,傷害,および財産上の損害に対しても,償いをすることが求められました。(出エジプト 21:35,36。申命 22:13-19)この公正な取り決めは,被害者に保護を与え,償いをすることになり,法を犯した者には厳しい教訓となりました。また,刑務所を維持してゆくための費用を地域社会に負わせることもありませんでした。
しかし今日の人々は,イスラエルに公正を実現させた神の方法に見られる知恵を高く評価したとしても,それは過去のことであると結論するかもしれません。そして,今の複雑な時代に,すべての人に公平を行き渡らせることなどだれにもできないと考えるかもしれません。
約束された変化 ― 公正が行なわれる!
公正にかかわる現代の諸問題が複雑で失意をもたらすものであるとはいえ,希望を持つ根拠がない訳ではありません。聖書に示されている神の諭しに従えば,公正を実現する上での障害の多くを克服できることにお気付きになりましたか。その諭しを与えてくださった神ご自身が,すべての人が公正な扱いを受ける時が到来すること,しかもその時が間近に迫っていることを約束しておられます。
その祝福は,わたしたちが現存する政治および司法制度を変革し,古代イスラエルの律法に従わせることにかかっているのではありません。もちろん,公正かつ公平に物事を扱うよう個人的に努力すれば,公正を行き渡らせる点で貢献できることは確かです。それがふさわしいということは,創造者が人間に,「公正を行ない,親切を愛し,慎しみ深く[自分たちの]神とともに歩む」よう勧めておられることからも分かります。(ミカ 6:8,新)しかし,間もなく完全な公正が全地に行き渡るようになるのは,ほかならぬ神ご自身が行動を起こされるからです。
最初の記事の中で,ルカ 18章に記されている,イエスの例え話を考慮しましたが,それは「日夜ご自分に向かって叫ぶその選ばれた者たちのためには……必ず公正が行なわれるようにしてくださ(る)」神に対して,絶えず祈る必要を強調するものでした。しかし,その祈りは公正に関してだけではありません。イエスはその追随者たちに,邪悪な事物の体制全体の全き終わりについて祈るよう勧めておられたのです。イエスが前の章で語られたのは,まさにそのことに関してでした。(ルカ 17:20-30)事態を良くするためのこの徹底的な変化は,神の天的な王国政府によってもたらされます。その王国政府こそ,長年にわたる不公正の歴史を有する,人間の腐敗した諸政府を滅ぼすのです。イエスの詳細な預言と,今の時代における歴史の諸事実とは共に,わたしたちの世代が,天からの支配への転換を目撃する世代であることを証明しています。(ダニエル 2:44。マタイ 24:3-14)しかし,それによってすべての人に公正が行き渡るようになるとどうして言えるのですか。
一つの点として,公正さは上層部から始まるものだからです。わたしたちは,この政府の指導者
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