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神のみ前で義とされる ― どのように?ものみの塔 1985 | 12月1日
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(ローマ 5:8,9)神により実際に義とされることと,義とみなされる,すなわち考えられるということとの間には大きな相違があります。(ローマ 4:7,8)罪と苦闘する正直なカトリック教徒であれば,自分が実際に義とされてはいないということを知っているはずです。(ローマ 7:14-19)実際に義とされていたなら,司祭に告解するような罪はなかったことでしょう。
さらに,カトリックの教義が聖書に沿ったものであれば,罪を意識するカトリック教徒は神に自分の罪を告白し,イエス・キリストを通して許しを求めるはずです。(ヨハネ第一 1:9-2:2)「正しさが立証される」ためのいかなる段階においても,人間の司祭が執り成しをするということには聖書の根拠がありません。それは,免罪符の教理の基盤になっている功徳の蓄積という考えに,聖書的な根拠がないのと同じです。―ヘブライ 7:26-28。
義認とはクリスチャンがキリストの犠牲の価値に基づいて義と宣せられることを意味するというプロテスタントの考えのほうが,聖書の教えに近いことは確かです。しかし,プロテスタントの諸教会の中には「信仰のみによる義認」を教えている所があり,それは,あとで論じるように,使徒パウロおよびヤコブの提出しているはっきりとした論議を見過ごしています。それらの諸教会の霊的に独り善がりな態度は,「一度の救いは,終生の救い」という言い回しに集大成されています。プロテスタントの信者の中には,救われるにはイエスを信ずるだけで十分なので,義認はバプテスマに先立つと信じる人もいます。
さらに,あるプロテスタントの教会は,信仰による義認を教える一方で,フランスの宗教改革者ジャン・カルバンに従って個々の人に関する予定説を教え,自由意志に関する聖書的な教理を否認しています。(申命記 30:19,20)ですから,カトリックの義化の概念もプロテスタントの義認の概念も,全面的に聖書と調和してはいないと言えるでしょう。
聖書はどんなことを教えているか
それでも,聖書は「正しさが立証される」こと,つまり神のみ前で人間が義にかなった立場を授けられる方法に関する教理をはっきりと教えています。わたしたちが神の目から見て義にかなった者とされなければならない理由はすでに取り上げました。それはわたしたちが一人残らず,神の子供としてではなく,「憤りの子供」として生まれてきたからです。(エフェソス 2:1-3)神の憤りがわたしたちの上にとどまるかどうかは,聖にして義なる神と和解するための憐れみ深い備えを受け入れるか,それとも退けるかにかかっています。(ヨハネ 3:36)その愛ある備えは,「キリスト・イエスの払った贖い」です。―ローマ 3:23,24。
使徒パウロはキリストの贖いの犠牲が二つの希望を開いたことを示しました。その一つは「地上のもの」,もう一つは「天にあるもの」です。パウロはこう書いています。『神は満ち満ちたさまが余すところなく彼[イエス]のうちに宿ることをよしとし,また,苦しみの杭の上で彼の流した血を通して平和を作ることにより,地上のものであれ天にあるものであれ,他のすべてのものを彼を通して再びご自分と和解させることをよしとされました』― コロサイ 1:19,20。
これら二つの希望のいずれかにあずかるには,神のみ前で義にかなった立場を得る必要があり,それには単に「イエスを信じる」以上のことが関係しています。天的希望を持つクリスチャン,および地上の楽園で永久に生きる希望を抱くクリスチャンにとってそれが一体何を意味するかは,続く二つの記事の中で考慮されます。どうぞ続く記事をお読みになり,ご自分の聖書を手にして,この雑誌をお届けしたエホバの証人にこれらの記事を説明して欲しい旨,遠慮なくお申しつけください。
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「命のために」義と宣せられるものみの塔 1985 | 12月1日
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「命のために」義と宣せられる
「正しさを立証する一つの行為を通して……及ぶ結果(は)……命のために彼らを義と宣することなのです」― ローマ 5:18。
1 だれが義に飢え渇いていますか。彼らの欲求はどのように満たされますか。
「義に飢え渇いている人たちは幸いです。その人たちは満たされるからです」。(マタイ 5:6)義に渇くそうした気持ちは,「天の王国はその人たちのもの」と言われている人々だけではなく,『地を所有する』人々の場合も十分に満たされるでしょう。(マタイ 5:10。詩編 37:29)どちらの級も,使徒ペテロが「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります」と書いて言い表わした希望にあずかります。(ペテロ第二 3:13)そうです,エホバ神は天的な新しい義の政府,つまり「天の王国」と,義の「新しい地」,つまり地上の楽園における人間社会を約束されました。
2 エホバ,義,平和な新秩序に関するわたしたちの希望の間にはどのような関係がありますか。
2 しかし,正確には義の新しい天と義の新しい地をどのように理解すべきでしょうか。それは,天的な新しい政府も,それによって支配される地上の人類も,義と不義に関する神の規準を認めなければならないことを意味します。エホバは「義の住まい」であられます。(エレミヤ 50:7)義はエホバの主権の基盤そのものであり,宇宙における王座の場所なのです。(ヨブ 37:23,24。詩編 89:14)宇宙内に平和が存在するには,エホバの被造物が,何が義にかない,何がよこしまかに関する規準を確定する神の権利を認めなければなりません。逆に言えば,義の新秩序に対するわたしたちの希望は,エホバがご自身の規準を固守されることに依存しているのです。―詩編 145:17。
3 エホバの絶対的な義を考えるとき,どんな質問が頭に浮かびますか。
3 そのようなわけで,聖にして義なる神エホバが不義の罪人をどのように扱うことができるかという質問が生じます。(イザヤ 59:2; ハバクク 1:13と比較してください。)義に関するご自身の高められた規準に忠実を保ちながら,なおかつ義の政府である「新しい天」にあずかる人々を罪人の中から選び,義の「新しい地」の一部となる人々をご自身の友として受け入れることがどうしておできになるのでしょうか。これに答えるためには,正しさが立証されること(義認あるいは義化),つまり義と宣せられることに関する聖書的な教理を理解しなければなりません。
憐れみ深い信用貸しの取り決め
4 堕落した人類が神のみ前に大きな負債を負っているとなぜ言えますか。この負債からわたしたちが自分を解放できないのはなぜですか。
4 聖書の中で罪は負債に例えられています。(マタイ 6:12,14; 18:21-35; ルカ 11:4をご覧ください。)すべての人は罪人なので,神のみ前に大きな負債を負っています。「罪の報いは死」なのです。(ローマ 6:23)アダムの子孫は先祖であるアダムによって「罪のもとに売られている」ので,人を打ちのめすようなこの負債から自分を解放するために何もすることができません。(ローマ 7:14)それをぬぐい去ることができるのは債務者の死のみです。「死んだ者は自分の罪から放免されているのです」。(ローマ 6:7)罪人の生涯になされるどんなりっぱな業も,アダムが失ったものを買い戻すことはできず,まして神のみ前における義なる立場を付与することはできません。―詩編 49:7,9。ローマ 3:20。
5 エホバはどのように,ご自身の完全な公正さを重んじながらも罪深い人類に解放を備えられましたか。
5 エホバはどのようにして,義に関するご自身の規準を曲げることなく,堕落した人類のための解放を備えることがおできになるのでしょうか。その答えで際立っているのは,エホバの知恵と過分のご親切です。使徒パウロはローマ人への手紙の中でその点を見事に説明し,このように書いています。「彼ら[罪人たち]がキリスト・イエスの払った贖いによる釈放を通し,神の過分のご親切によって義と宣せられるのは,無償の賜物としてなのです。神はこの方を,その血に対する信仰によるなだめのための捧げ物として立てられました。これはご自身の義を示すためでした。神は過去に,すなわちご自分が堪忍を働かせていた間になされた罪を許しておられたからです。こうして今の時期にご自身の義を示し,イエスに信仰を持つ人を義と宣する際にもご自分が義にかなうようにされました」― ローマ 3:24-26。
6 (イ)公正さに関するエホバの規準はキリストの犠牲によりどのように満たされましたか。したがってエホバは快く何を行なわれますか。(ロ)神はどのように,信仰を持つ人の勘定に義を信用貸しすることがおできになりますか。
6 エホバはその過分のご親切により,アダムの子孫のためにイエスの犠牲を受け入れられました。(ペテロ第一 2:24)イエスは完全な人アダムが失ったものを,完全な人として買い戻されたことからして,それは同等の,あるいは対応する犠牲でした。(出エジプト記 21:23; テモテ第一 2:6をご覧ください。)公正に関する条件が満たされたので,エホバは「イエスに信仰を持つ人」の勘定につけられていた罪を快く愛のうちに「ぬぐい去る」,あるいは『塗り消す』ようにされます。(イザヤ 44:22。使徒 3:19)そのような人が忠実を保つなら,エホバは『その罪過を彼に帰すこと』を差し控えるだけでなく,実際にその人の勘定に義を信用貸しされるのです。(コリント第二 5:19)この憐れみ深い信用貸しの取り決めにより,『多くの者が義とされてきました』。(ローマ 5:19)これが,正しさを立証すること,つまり人が無罪とみなされることを可能にする神の行為の一つの面です。(使徒 13:38,39)では,この事物の体制の期間中に正しさを立証されてきた人々,つまり義と宣せられてきた人々はだれでしょうか。
14万4,000人の「聖なる者たち」
7 キリストはどのような方法で義と宣せられましたか。そのため何が可能になりましたか。
7 もちろん,キリストご自身は真の意味で義にかなった方だったので,義の信用貸しを必要とされませんでした。(ペテロ第一 3:18)イエスは完全な人(「最後のアダム」)として死に至るまで忠実を証明し,地上の命に対するご自分の権利を犠牲にされたので,み父エホバによって復活させられました。イエスは「霊において義と宣せられ」ました。つまり,ご自身の功績に基づいて根源的に義と宣言され,「命を与える霊」としてよみがえらされました。(コリント第一 15:45。テモテ第一 3:16)そしてご自身の犠牲の死により,エホバが信仰の男女に義を信用貸しすることができるようになるための基礎を置かれたのです。―ローマ 10:4。
8,9 (イ)義の信用貸しから最初に益を受ける人々はだれですか。なぜですか。(ロ)「新しい天」を構成するのはだれですか。彼らは何を支配しますか。
8 当然ながら,義の「新しい天」,すなわち王イエス・キリストのもとにある王国政府を構成するためエホバがお選びになる者たちは,この事物の体制におけるこの憐れみ深い取り決めから最初に十分の益を得る者たちです。ダニエルの書は天で行なわれた儀式の様子を描いています。この儀式により人の子であるキリストは,「[地上の]もろもろの民,国たみ,もろもろの言語の者が皆これに仕えるため」,「支配権と尊厳と王国」をお受けになります。次いでダニエルは,『王国と支配権』が,「至上者[エホバ]の聖なる者たち」にも与えられることを示しています。―ダニエル 7:13,14,18,27。啓示 5:8-10と比較してください。
9 天のシオンの山で子羊イエス・キリストと共に支配すべく選ばれたこれらの「聖なる者たち」は,「人類の中から買い取られた」14万4,000人という数であることが明らかにされています。(啓示 14:1-5)これらの者たちはキリストと共に,エホバの新しい事物の体制の義の「新しい天」を構成します。
義とみなされる ― どのように,またなぜ?
10 (イ)正しさが立証されることについて最も明確にしているのは聖書中のどの書ですか。それはだれに宛てて書かれたものですか。(ロ)正しさが立証されるという聖書の教理に主に関係している人々はだれですか。
10 聖書の中で,神が人間を義と宣することについて最も明確にしているのはローマ人に宛てたパウロの手紙でしょう。興味深いことにパウロは,この手紙を『聖なる者となるために召された』人々に宛てています。(ローマ 1:1,7)その点は,パウロが明示しているように,『正しさが立証されること』,つまり義と宣せられることの教理が14万4,000人の「聖なる者」に関連して用いられている理由を説明するものです。
11 信仰,業,正しさが立証されることの間にはどんな関係がありますか。
11 ローマ人への手紙の中でパウロが論じていることの要点は,ユダヤ人と異邦人の別を問わず,モーセの律法に調和してなされる業であろうと,生得的な道徳の律法に対する純然たる敬意からなされる業であろうと,業によっては神のみ前に義の立場を得ることができないということです。(ローマ 2:14,15; 3:9,10,19,20)ユダヤ人も異邦人も,キリストの贖いの犠牲に対する信仰に基づいてのみ義と宣せられるのです。(ローマ 3:22-24,29,30)しかし,ローマ人への手紙の最後のほうの章(12章から15章)の諭しは,そうした信仰には,ヤコブも説明しているように,敬虔な業の裏付けがなければならないことを示しています。(ヤコブ 2:14-17)そのような業は,正しさが立証されたクリスチャンが,神によって正しさが立証されるために不可欠な信仰を持っていることをまさに証明するものです。
12,13 (イ)14万4,000人の「聖なる者たち」が義と宣せられる必要があるのはなぜですか。(ロ)彼らは,自分たちが受ける命の権利に関して何をしますか。
12 それでも,どんな差し迫った理由のために,「聖なる者となるために召され」るクリスチャンは義と宣せられる必要があるのでしょうか。これは,正しさが立証されることが勘定に書かれる第二の面です。つまり,神はある人を,ご自分の完全な人間の子として命に値する者と宣するのです。14万4,000人は,義の「新しい天」で果たすように招かれているその役割ゆえに,地上での永遠の命の希望をすべて放棄し,断念しなければなりません。(詩編 37:29; 115:16)この意味において彼らは犠牲の死を遂げます。『キリストのような死に服する』のです。―フィリピ 3:8-11。
13 さて,モーセの律法中に記された原則と調和し,エホバに差し出されるどんな犠牲にも欠陥があってはなりません。(レビ記 22:21。申命記 15:21)14万4,000人の「聖なる者たち」は,「完全にされた義人たち」として語られています。―ヘブライ 12:23。
霊的な子として養子にされる
14,15 (イ)14万4,000人は罪に関してどんな変化を経験しますか。(ロ)彼らはどのような方法で「命の新たな状態」によみがえらされますか。
14 これら「義人たち」はなお肉体を付けて生きている間に,象徴的な死を経験します。使徒パウロはこのように説明しています。「わたしたちは罪に関しては死んだのですから,どうしてなおもそのうちに生きつづけてよいでしょうか。それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスへのバプテスマを受けたわたしたちすべては,その死へのバプテスマを受けたのです。ですから,彼の死へのバプテスマを受けたことによって,わたしたちは彼と共に葬られたのです。それは,キリストが父の栄光によって死人の中からよみがえらされたのと同じように,わたしたちも命の新たな状態の中を歩むためです。……わたしたちが知るとおり,わたしたちの古い人格は彼と共に杭につけられたのであり,それは,罪深い体が無活動にされて,もはや罪に対する奴隷とはならないためです。死んだ者は自分の罪から放免されているのです」― ローマ 6:2-7。
15 14万4,000人の「聖なる者たち」は人間として生きている間,『罪に関しては死にます』。彼らのうちでこの終わりの時代に地上にとどまっているのは少数の残りの者にすぎません。それら『聖なる者となるために召された』人々は象徴的な死を遂げたあと,「命の新たな状態」へとよみがえらされます。彼らを義と宣したエホバは,ご自身の霊により,彼らを霊的な「子供」として生み出される立場におられます。彼らは「再び生まれ」,「神の子」として養子にされます。(ヨハネ 3:3。ローマ 8:9-16)a それらの人たちは霊的イスラエル人となり,新しい契約に入れられます。―エレミヤ 31:31-34。ルカ 22:20。ローマ 9:6。
祭司職と王権の相続人
16 14万4,000人の「聖なる者たち」は何の相続人となりますか。
16 神の養子にされた霊的な「子」として,14万4,000人の「聖なる者たち」は「相続人」ともなります。(ガラテア 4:5-7)パウロは霊によって生み出された仲間のクリスチャンにこう書きました。「さて,子供であるならば,相続人でもあります。実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人なのです。ただし,共に栄光を受けるため,共に苦しむならばです」。(ローマ 8:17)キリストの相続物とは何ですか。エホバは,「メルキゼデクのさまにしたがい永久に」キリストを王なる祭司とされました。(ヘブライ 6:19,20; 7:1)霊によって生み出されたクリスチャンは,キリストと「共同の相続人」なので,霊的な祭司としてもエホバから油そそがれます。(コリント第二 1:21。ペテロ第一 2:9)さらに,彼らがエホバから義と宣せられる究極的な目的の一つは,後に「一人の方イエス・キリストを通し,命にあって王として支配する」ことです。―ローマ 5:17。
17 (イ)油そそがれたクリスチャンは,義と宣せられても何を日ごとに行なう必要がありますか。(ロ)彼らはどのように報いを得ますか。
17 これら油そそがれたクリスチャンたちは,義と宣せられてはいても,なお地上にいる間,自分の罪深い傾向と闘わなければなりません。(ローマ 7:15-20)不完全さゆえに日ごとに犯す罪から自分を清めてもらうため,キリストの血を必要とします。(ヨハネ第一 1:7; 2:1,2)地上の命が尽きる時まで忠実を保つなら,彼らは文字通り死んで復活させられ,義の「新しい天」の一部として「朽ちず,汚れなく,あせることのない相続財産」を得ることになります。―ペテロ第一 1:3,4。ペテロ第二 3:13。
「神の子たちの表わし示されることを待っている」
18,19 (イ)人間という「創造物」は何を待っていますか。(ロ)「神の子たち」はどのように「表わし示され」ますか。人間という「創造物」がそのことに対する切なる希望を抱いて生活しているのはなぜですか。
18 このすべては,14万4,000人の霊的な「神の子たち」よりもはるかに数が多い,義に飢え渇き,地を所有する希望を持つ人々にどのような影響を及ぼすでしょうか。これらの人々について使徒パウロはこう書いています。「創造物は切なる期待を抱いて神の子たちの表わし示されることを待っているのです。創造物は虚無に服させられましたが……それはこの希望に基づいていたからです。すなわち,創造物そのものが腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子供の栄光ある自由を持つようになることです」― ローマ 8:19-21。
19 楽園の地で永久に生きる希望を持つ,これら人間という「創造物」は,王イエス・キリストと復活させられた「神の子たち」が『表わし示されて』,現在の邪悪な事物の体制を滅ぼし,その後に「千年のあいだ」王また祭司として支配する,間近に迫ったその時に対する「切なる期待」を抱いて生活しています。(啓示 20:4,6)キリストの千年統治の期間中,人間という『創造物そのものは腐朽への奴隷状態から自由にされます』。
20 次の記事ではどんな事柄が考慮されますか。
20 義の「新しい地」で生きる人間が最終的にどのように「神の子供の栄光ある自由」を得るのか,また,正しさが立証されるという聖書の教理はどのように今でも彼らに影響を与えるのかという点に関しては,次の記事で考慮されます。
[脚注]
a 『再び生まれる』ことに関する詳細な説明については,「ものみの塔」誌1982年2月1日号,3-14ページをご覧ください。
神が人を義と宣することに関して ―
□ 義の新しい天と義の新しい地という聖書の言葉は何を意味していますか
□ 人類がエホバの目から見て義にかなった者とされる必要があるのはなぜですか
□ 義に関するエホバの規準はどのように満たされましたか
□ 14万4,000人が,義と宣せられる最初の者であるのはなぜですか。彼らは,得た命の権利をもって何を行ないますか
□ 14万4,000人はキリストと共同の相続人として,何になりますか
[11ページの囲み記事]
正しさが立証されること,つまり義と宣せられることには二つの側面がある
(1)神がその人を無罪とみなされる
(2)神がその人を,地上における永遠の命にふさわしい完全な者と宣する
14万4,000人の油そそがれたクリスチャンは上記の二つの点において義と宣せられている。彼らは人間の命の権利を犠牲にし,「新しい天」においてキリストと共に王また祭司となるよう召された霊的な「子たち」として生み出されている
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神の友として義と宣せられるものみの塔 1985 | 12月1日
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神の友として義と宣せられる
「『アブラハムはエホバに信仰を置き,彼に対してそれは義とみなされ……』……彼は『エホバの友』と呼ばれるようになりました」― ヤコブ 2:23。
1,2 「天にあるもの」と「地上のもの」はどのように神と和解させられますか。
「神は満ち満ちたさまが余すところなく彼[キリスト]のうちに宿ることをよしとし,また,苦しみの杭の上で彼の流した血を通して平和を作ることにより,地上のものであれ天にあるものであれ,他のすべてのものを彼を通して再びご自分と和解させることをよしとされ(ました)」。(コロサイ 1:19,20)和解に関するこの神の目的はその最高潮を迎えようとしています。
2 「天にあるもの」とは霊の被造物ではありません。み使いたちはキリストの血によって贖われてはいないからです。それはむしろ,子羊の血をもって買われ,「新しい天」においてキリストと共に「王国また祭司」となる人間のことです。それらの人々はキリストの血を通してすでに完全に義と宣せられています。それに加え,エホバは過去約50年にわたり,「地上のもの」,つまり義の「新しい地」の一部となるそれらの人々に対して平和を作ってこられました。(啓示 5:9,10。ペテロ第二 3:13)「すべてのもの」,つまり地的なものと天的なものの両方をこのように集めることは,『ご自身のうちに意図された[エホバの]意向によるものです』。―エフェソス 1:9,10。
ご自身の子アダムに関する神の目的
3,4 神のみ前におけるアダムの立場はどんなものでしたか。しかしどんな点においてアダムはなお義と宣せられることが必要でしたか。
3 アダムは,完全で義にかなった,神の子である人間として創造されました。(ルカ 3:38)その義は信用貸しされたもの,あるいは単に備わっているとみなされたものではなく,先天的に備わっているものでした。エホバのみ前に罪がないというその立場から見て,アダムは義と「宣せられる」必要はありませんでした。神の正当な支配権に服していた間,アダムは自分の創造者の前で良い立場を保ちました。
4 しかし,アダムは自分が忠誠を保つ者であることをまだ証明しておらず,地上における永遠の命の権利を得るにふさわしいとも判断されていませんでした。そのためには,一定の期間にわたってエホバへの忠実さと,義を慕う気持ちを示さなければなりませんでした。そのようにして試みのもとでも自分の忠誠を証明していたなら,アダムは地上における永遠の命の権利を得たことでしょう。アダムが終わりのない命に値すると神から宣せられるような,つまりそうした言質が神から与えられるような事態が生じたことでしょう。エホバはその象徴として,アダムを「命の木」に連れてゆき,その実を食べることをアダムに許したに違いありません。―創世記 2:9,16,17; 3:22。
5 (イ)アダムは自分自身と自分の子孫の何を失いましたか。(ロ)エホバは罪と死からの救出に関するどんな希望を,人間という創造物にお与えになりましたか。
5 しかし,アダムは試された時に失敗し,そのことによって自分と自分の子孫の完全さ,義,神の子としての立場を失いました。(ローマ 5:12)その結果,アダムの子孫はすべて生まれつき神から離されており,先天的に不義です。(エフェソス 2:3。ローマ 3:10)そのため人間という創造物は「虚無に服させられました」が『希望に基づいていました』。罪と死から救出されるというその希望は,エデンでの反逆の直後に与えられました。―ローマ 8:20,21。創世記 3:15。
キリスト以前に義と宣せられる ― どうしてそうなるのか
6,7 (イ)キリストが犠牲の死を遂げられる前,ある人々はどの程度,義と宣せられましたか。(ロ)義なる立場を得た,キリスト教以前のエホバの僕の例として,どんな人がいますか。
6 罪と死からの救出に関する人類の希望は,約束の「胤」,つまり神の独り子の到来にかかっていました。(ヨハネ 3:16)キリストが犠牲の死を遂げられる前には,人間が「無罪放免と命」,あるいは「命のために彼らを義と宣すること」に達する道はありませんでした。(ローマ 5:18,改訂標準訳; 新世界訳)それにもかかわらず,キリストが人間を救出するための贖いを払う前でさえ,一部の男女は神の約束に信仰を置き,その信仰を業によって裏付けました。そのためエホバは,ご親切にも彼らの罪を赦し,彼らをご自身の僕として受け入れられました。そして愛情深くも,神から疎外された人類の大多数と比較して,彼らを相対的に罪のない者とみなされました。(詩編 32:1,2。エフェソス 2:12)神はその時点で適切な程度にまでそれらの男女を義と宣し,彼らに義なる立場をお与えになりました。
7 例えば,アベルは信仰により「義なる者と証しされました」。(ヘブライ 11:4)ノアは「信仰による義の相続人となりました」。(ヘブライ 11:7)ヨブはその失敗にもかかわらず,「とがめがなく,廉直」であったと言われています。(ヨブ 1:1,22; 7:21)ピネハスは清い崇拝に対する熱心さを示し,「そして,それは彼にとって……義とみなされることになりました」。(詩編 106:30,31。民数記 25:1-13)非ユダヤ人の娼婦ラハブは「信仰によって」,また神の民に対して示した親切な業によって義なる立場を得ました。つまり義と宣せられました。―ヘブライ 11:31。ヤコブ 2:25。
アブラハムはどのように義とみなされたか
8,9 (イ)ローマ人へのパウロの手紙の中で主要な論題となっているのは,だれの義ですか。(ロ)どのような点において,「聖なる者」が義と宣せられることはアブラハムのそれをしのいでいますか。
8 アブラハムの例は特別な注意を払うに値します。アブラハムが義と宣せられたことについては,クリスチャン・ギリシャ語聖書の二人の筆者が言及していますが,二人とも霊的イスラエルの14万4,000人の成員の一部となるよう召されていた1世紀のクリスチャンを対象にして書いていました。―ローマ 2:28,29; 9:6。ヤコブ 1:1。啓示 7:4。
9 パウロはローマ人への手紙の中で,「聖なる者となるために召され(た)」人々(1:7)は,ユダヤ人であれ異邦人であれ(1:16,17)「律法の業とは別に,信仰によって」義と宣せられる(3:28),と論じています。そしてその論議を立証するため,長い説明を始め(4:1-22),「アブラハムはエホバに信仰を働かせ,彼に対してそれは義とみなされた」と述べる創世記 15章6節を引用しています。それからパウロは4章の最後の節で,イエスは「わたしたちの罪過のために引き渡され,わたしたち[つまり「聖なる者」(ローマ 1:7)]を義と宣するためによみがえらされたのです」と述べます。「わたしたち」の中にアブラハムは含まれていないはずです。アブラハムはキリストの死と復活のずっと前に死んだからです。したがって,その後の幾つかの章で,「王として支配し」,「神の子たち」また「キリストと共同の相続人」になる見込みをもって「命のために」義と宣せられる人々について語ったパウロは,神がアブラハムに義を付与されたこととは全く別種の事柄について語っていたに違いありません。―ローマ 5:17,18; 8:14,17,28-33。
10 ヤコブはアブラハムが義と宣せられたその範囲についてどのように光を投げ掛けていますか。
10 ヤコブもまた,信仰に敬虔な業の裏付けがなければならないことを証明する一つの例として,アブラハムのことを述べています。ヤコブは創世記 15章6節を引用し,アブラハムが義と宣せられたことを述べたあと,アブラハムの正しさが立証された範囲を理解するための助けとなる注解を加えています。このように記されています。「そして,『アブラハムはエホバに信仰を置き,彼に対してそれは義とみなされた』と述べる聖句が成就され,彼は『エホバの友』と呼ばれるようになりました」。(ヤコブ 2:20-23)このようにアブラハムはその信仰により,完全な人間の命,あるいはキリストと共にあずかる王権のための権利を持つ子としてではなく,エホバの友として義と宣せられたのです。興味深いことに,ロバート・ガードルストーンは自著「旧約聖書の同義語」の中でアブラハムの義に関し,「この義は,子の立場を相続する正当な要求者としてアブラハムを神に推薦するような絶対的なものではなかった」と書きました。
エホバの覚えの書
11 エホバの覚えの書にはだれの名前が書き記されていますか。なぜですか。
11 キリスト以前の忠実な男女に相対的な義が信用貸しされたことは,彼らが神の新しい地で得るかもしれない永遠の命と関係した,真実あるいは現実の義や完全さを予表するものでした。それらの男女の名前は,その命の見込みの点から見て,エホバの覚えの書に記されているとみなせるかもしれません。(マラキ 3:16; 出エジプト記 32:32,33と比較してください。)その書には,義にかなった業により自分の信仰を実証し,地上で永遠の命を得る見込みを持つ,エホバから「義なる者たち」とみなされている人々の名前が収められています。―詩編 69:28。ハバクク 2:4。
12 復活させられる「義者」は,エホバの覚えの書に自分の名前をとどめていただくため,何をしなければなりませんか。
12 しかし,それらの名前もエホバの「命の書」にはまだ書き記されていません。(啓示 20:15)過去のそうした忠実な男女は『義者の復活』によって地上に戻って来る時,キリストの贖いの犠牲による命のためのエホバの備えを,信仰をもって受け入れるに違いありません。(使徒 24:15)このようにして彼らは,「大患難」を生き残った「大群衆」と共に,イエスの「ほかの羊」の一部となります。(ヨハネ 10:16。啓示 7:9,14)そうなることによって彼らは,エホバの覚えの書に自分たちの名前をとどめていただくのです。
生き残るために友として義とみなされる
13 りっぱな羊飼いは現在だれを連れて来ていますか。彼らはどのようにして覚えの書に名前を記入していただきますか。
13 りっぱな羊飼いイエス・キリストは今,天の王国が与えられている14万4,000人の「聖なる者たち」の「小さな群れ」のものではない「ほかの羊」を連れて来ています。(ルカ 12:32。ダニエル 7:18)これら「ほかの羊」はりっぱな羊飼いの声を聴きます。(ヨハネ 10:16)そしてエホバとそのみ子に信仰を働かせます。キリストの贖いの犠牲に基づいてエホバに命を献げます。彼らは「父と子と聖霊との名において」バプテスマを受けており,「霊の実」を培う必要性を理解しています。(マタイ 28:19,20。ガラテア 5:22,23)その人たちの名前はエホバの覚えの書の中に書き記されています。
14 「ほかの羊」がエホバのみ前にあって清い立場を保てるようにしているものは何ですか。しかし,彼らは何を神に願い求めなければなりませんか。
14 この終わりの時に集められているこれら「ほかの羊」は,使徒ヨハネが14万4,000人の霊的イスラエルの成員を見たあとに幻で目にした「大群衆」を構成します。(啓示 7:4,9)ヨハネは「大群衆」を,「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」と表現しました。(14節)子羊の流された血に対する信仰ゆえに,彼らにある程度の義が信用貸しされます。この点は,彼らの象徴的な白くて長い衣によって表わされています。それらの人たちはエホバのみ前に清い立場を得,「それゆえに」エホバは,彼らが『その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげる』ことをお許しになります。(15節)それでもなお,彼らは日々自分たちの罪をエホバに告白し,イエス・キリストを通して許しを願い求めなければなりません。―ヨハネ第一 1:9-2:2。
15 (イ)羊とやぎのたとえ話は,「ほかの羊」が神の目から見て義なる立場を得ていることをどのように示していますか。(ロ)彼らは今の時点でどの程度義と宣せられていますか。
15 「ほかの羊」が神の友であり,今でさえ神のみ前に相対的に義なる立場を得ているということは,羊とやぎの例えを含む『イエスの臨在のしるし』に関するイエスの預言の中でも明らかにされています。「羊」は,今も地上にいるキリストの14万4,000人の「兄弟たち」の残りの者に善を行なうので,イエスの父から祝福され,「義なる者たち」と呼ばれます。それらの人たちはアブラハムと同様,神の友として義とみなされ,あるいは義と宣せられます。その義なる立場は彼らにとって,「やぎ」が去って「永遠の切断」に入る時に生き残ることをも意味します。(マタイ 24:3-25:46)彼らは,現在の邪悪な事物の体制の終わりをしるしづける「大患難から出て来る」のです。―啓示 7:14。
完全さへと引き上げられる
16 「大患難」の前に大群衆は命のために義と宣せられることはないとどうして分かりますか。
16 「大患難」を生き残る「大群衆」は,まだ命のために義と宣せられているわけではありません。その点は,大群衆について記した章が,さらに,「み座の真ん中におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれる」と述べている事実から分かります。(啓示 7:17)したがって,以前に神は彼らを人類一般と比較して義なる者またご自分の友とみなされましたが,彼らが命のために義と宣せられるためには付加的な助け,または幾らかの措置を講じることが必要です。
17 (イ)「諸国民をいやす」とは何を意味していますか。(ロ)「命の書」に名前を記入していただく必要があるのはだれですか。
17 千年統治の期間中,即位された子羊キリスト・イエスは,14万4,000人の共なる王また祭司と共に,「諸国民を」霊的かつ身体的に「いやすための」プログラムを適用します。(啓示 22:1,2)その「諸国民」は,大患難を生き残る人々,ハルマゲドン後彼らから生まれるすべての子供たち,「義者と不義者との復活」によって戻って来る人々で構成されます。(使徒 24:15)キリストの血に信仰を置き,適正な「行ない」を守り通すすべての人は「命の書」に名前を書き記されることでしょう。―啓示 20:11-15。
18 地の住民は千年期の終わりにどんな状態にまで高められていますか。
18 キリストの千年統治の終わりまでに,キリストの贖いを受け入れていることを示し,エホバの規準によって生きる地の住民は,完全さへと高められていることでしょう。(啓示 20:5)それらの住民は罪を犯す前のアダムのようになります。その時のアダムのように彼らは従順に関して試みを受けることでしょう。
「神の子供」としての「栄光ある自由」
19 (イ)千年期の直後に何が生じますか。(ロ)「命の書」に名前が書かれていない人々はどうなりますか。
19 千年期の直後,キリストは完全になった人類をみ父に渡します。(コリント第一 15:28)そして,人類を最終的に試みるため『サタンが解き放されます』。(啓示 20:7,8)試みに遭って失敗するどんな人の名前も『命の書には書かれません』。そのような人たちは象徴的に言って,「第二の死を表わしている」「火の湖に投げ込まれ」ます。―啓示 20:15; 21:8。
20 (イ)エホバはだれを命のために義と宣しますか。なぜですか。(ロ)正しさが立証されることに関するエホバの憐れみ深い取り決めは,どのようにその目的を果たすことになるでしょうか。
20 エホバに忠節を示す人々の名前は,忠誠において完全な者として,また地上における永遠の命の権利に値する者として「命の書」に書き記されます。その時エホバご自身が彼らを完全な意味において義と宣するのです。(ローマ 8:33)それらの人たちは正しさが立証されてとこしえの命を得ることになるでしょう。神は彼らをご自分の地的な子として養子にされ,彼らは約束された「神の子供の栄光ある自由」に入ります。(ローマ 8:20,21)宇宙には平和と調和が回復されるでしょう。「地上のもの」と「天にあるもの」に関し,神との和解が完全に行なわれます。(コロサイ 1:20)正しさが立証されることに関するエホバの憐れみ深い取り決めは,その目的を達成しています。「あなたは神の目から見て義にかなった人ですか」という質問に対し,天と地にいるすべての創造物は,はいと答え,「み座に座しておられる方と子羊とに,祝福と誉れと栄光と偉力が限りなく永久にありますように」という言葉を加えることができるようになるでしょう。―啓示 5:13。
神のみ前における「ほかの羊」の立場について ―
□ アダムが義と宣せられなかったのはなぜですか
□ アブラハム,そしてキリスト以前の他の男女はどの程度,義と宣せられましたか
□ エホバの覚えの書にはだれの名前が書き記されていますか
□ 「ほかの羊」は今の時点においてどの程度,義なる立場を得ていますか。完全さへと引き上げられるのはいつですか
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