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独身で幸福な開拓者ものみの塔 1985 | 5月1日
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独身で幸福な開拓者
マーガレット・スティーブンソンの語った経験
時は1958年,場所は東アフリカのモンバサです。熱帯の炎熱はすさまじく,何もかも,かげろうで覆われています。私の周りをハエが何匹かブンブンうるさく飛び回ります。港にある,トタン屋根の粗末な税関の小屋の中は温度が摂氏40度になろうとしており,じっと待っている私のほほには汗が流れ落ちます。辺りはまるで湯気の立った毛布で包まれているかのようにむしむししていて,空気は湿ってうっとうしく,非常によどんでいて息ができないほどです。ケニアは,どこへ行ってもずっとこうなのでしょうか。
ここは独身の女性に適した所だろうかと私は考え始めてしまいました。野生動物のたくさんいる,起伏の緩やかな大平原や草木の生い茂る森林の写真,また雪を頂く山々の写真をさえ見たことがありましたが,来てみるとどうでしょう……,「何ということをしてしまったのだろう。何という所へ来てしまったのだろう」と私は心の中で思いました。
それまで住んでいたカナダのオタワとは大変な違いです。船の旅は5週間かかりました。ここまで来るだけでも1万6,000㌔の道のりがあったのです。迎えに来てくれる人がだれかいるでしょうか。モンバサにエホバの証人がいるかどうか知りませんでした。ですから,笑みをうかべた一群の人々を見た時の私の驚きと安堵の気持ちをご想像いただけるでしょう。本当に元気づけられました。それはとても温かな歓迎でした。
その晩に出席した初めての集会も,あまりにも不案内で慣れないこの国に対する不安を大いに和らげてくれました。たった二家族しか交わっていませんでしたが,その人たちは,経験を聞いたり交わったりすることに対してとても感謝を表わす,またそうしたことから大いに励みを受ける人々でした。この国にはなすべき非常に膨大な業がある,と私は思いました。それをすべて自分たちで行なうようこれら少数の勇気ある人々に任せることなどどうしてできるでしょうか。その最初の夜が大きな契機となって,私は,できる限り長くとどまって援助しようと決意することができました。
招きに応じる
「マケドニアへ渡って来てください」。その1年半ほど前になりますが,米国のワシントン州シアトルで開かれたエホバの証人の1957年の大会で,講演者からそのような招待が差し伸べられました。野外の働き人をさらに募る招きに応じて,たとえ外国の地であっても王国の良いたよりの伝道者として助けを差し伸べる立場にあるかどうかを真剣に考慮することが出席者全員に求められたのです。私はこう自問しました。『わたしを引き留めるものが実際何かあるだろうか。自分を差し出すことのできない理由が何かあるだろうか。わたしは独身で,扶養すべき家族もいない。これまでずっとわたしは,余念無く物事を行なうのが好きな人間だった。そして今,私のこたえ応じるべき要請がエホバから直接なされている』。話し手が現代の「マケドニア」と呼んだ土地を私は大急ぎで残らず書き留め始めました。話し手は,1世紀に使徒パウロが聖霊によって招かれた必要の大きな土地にちなんで現代の「マケドニア」と呼んでいたのです。―使徒 16:9,10。
勇気を奮い起こし,遠隔の地へ一人で出掛けるよう,50歳をすぎたやや虚弱な女性を動かしたものは何だろうと読者は思われることでしょう。冒険心でしょうか。いいえ,そういうことは決してありません。私は明らかに冒険好きなタイプではないからです。恐らくそれは,1954年にバプテスマを受けるところまで,非常な忍耐と深い愛とをもって私に真理を教えてくださった年配のバートレット姉妹の影響だったと思われます。バートレット姉妹はいつも全時間奉仕を励まし,その喜びと祝福を強調してくださいました。しかしそれは私にとって一大変化を意味しました。父はすでに聖書と「ものみの塔」誌に深い敬意を表していましたが,聖書の真理を支持するはっきりした立場を取るには決して至りませんでした。私もしばらくの間ちゅうちょしていました。2年半の間バートレット姉妹は家から家へ宣べ伝える業に参加するよう私を励ますことに努めてくださいました。私はその業が必要な理由を理解していましたが,ひどく怖がっていたのです。大きな研究用の書籍を4冊学び終えたあと,それでもまだ私はつじつまの合わない言い訳をしていたのですが,結局バートレット姉妹に説得され,雑誌を用いる街頭の業に参加することになりました。「あなたの中に誇りが残っているなら,街頭の業はそれを取り除いてくれます」と姉妹は言いました。エホバはわたしたちすべてに,そのご意志を成し遂げるのに必要な力を実に驚嘆すべき仕方で与えてくださいます。―フィリピ 4:13。
今振り返ってみると,開拓奉仕の業とその報いという目標が絶えず自分の前に置かれていたことをたいへんありがたく思います。宣教という業がなるほど本当に満足のゆくものであることを味わい知った私は,1956年に開拓者として全時間その業を行なうことにしました。翌年には退職することになっていたので,『今すぐ行なってもよいではないか』と考えたのです。それで開拓奉仕を行ない,それが大好きになりました。「ギレアデ宣教者学校に入学する申し込みをするべきでしょうか」と私はある円熟した夫婦に尋ねました。「それはできません。年齢が高すぎるのです」との答えでした。「では,協会の本部で働くことを申し込むべきでしょうか」。またもや答えは,「マーガレット,あなたは年齢が高すぎますよ」というものでした。『じゃあ,必要のより大きな所で奉仕するしかないわ』と私は思いました。その夫婦は賢明にも,ほかの国へ行ってみる前にどれほど順応し,さまざまな変化についていけるかをまず確かめるためカナダ国内のほかの土地へ移ることを勧めてくださいました。
任命を受けると荷物をまとめ,バンクーバーからカナダをまっすぐ4,000㌔横断してオタワへ行きました。そこで,オーブリー・クラークと妻のユーニスに会いました。二人はギレアデ学校を卒業して任命を受け,ケニアへ赴くことになっていました。積極的な人たちで,親切にも,私に役立つと思われる情報は何でも手紙で教えてあげると言ってくれました。実際的な助言や励まし,提案や警告,私がやっていけるかどうか判断するのに役立つ他の多くの事柄がぎっしり書かれた手紙を何通も受け取った後,私は出発しました。
心配で仕方がなかったか,ですって? いいえ,ちっとも……モンバサに到着する瞬間までは。でも,地元の兄弟たちが温かな人たちで,歓迎され必要とされていると私が感じるよう全員が努力を払ってくださったので,間もなく落ち着くことができました。その海岸にはわずか二日滞在しただけで,480㌔奥地にある首都のナイロビへ行きました。
畑は拡大する
ケニアではエホバの証人の業はまだ法的に認可されていなかったので,最初のうち私たちは主として非公式の証言を,それもヨーロッパ人だけに行ないました。そうした状況下では確かに大きな挑戦がありました。良いたよりを聞かなければならない人は非常に多いのに,伝える人はほんの少数だったのです。それでも,より大きな拡大のための土台が据えられつつありました。1962年に大変喜ばしい日が訪れました。聖書協会が全面的に認可され受け入れられたのです。このような自由が新たに得られたので,家から家へ行ったり,地元のアフリカ人に証言したりできるようになりました。
こうして私たちは,大きな興奮と暗記したかなりたどたどしいスワヒリ語の証言で身を固めて出掛けて行きました。人々の反応には本当に胸が躍りました。新しい聖書研究が何件も始まり,人々は喜んで学びました。しかし,種々の状況は私が慣れ親しんできたものとはずいぶん異なっていました。それで,『命を得させる真理の音信を人々は本当に必要としているのだわ』と思ったのを覚えています。
人々は愛すべき特質としてとりわけもてなしの精神に富んでいました。何杯お茶を飲んだか思い出せないほどです。お茶を飲んでいる間に,ほんのわずかな関心が大きく燃え上がることもありました。新しい人々が示す真理に対する認識は,私たちすべてが宣教の業に忠実に従うための大きな励みとなっていました。
寂しかったか
独り身で故郷から遠く離れていたので寂しかったでしょうか。とんでもありません。大勢の友人がいましたし,なすべき業が本当にたくさんありました。私たちは物事を一緒に行ない,互いに訪問し合い,忙しくしていました。これまで私にも結婚する機会は何度かありましたが,そこまで手が回りませんでした。その代わり,独身がもたらす余分の自由や機動性を活用して宣教に忙しく携わることができ,それによって大きな幸福感を味わってきました。もちろん,関心を持つ家族を再び訪問する時にはよく,『夫がいれば助かるのだけれど』と思ったものです。家族ぐるみで何かをするとき親切にも私を仲間に入れてくださる家族が幾つかあったので,独りぼっちでいることはめったにありませんでした。ここケニアには,私が特権をいただいて献身とバプテスマまで援助することのできたおよそ15人の人から成る一つの霊的な家族がいます。今でも,会衆を眺めると,そうした人々の一人と彼女の5人の子供たちが良いたよりを宣べ伝えているのを目にします。確かにこれは,あらゆる犠牲を払い,努力を傾ける価値のあることです。愛する霊的な兄弟姉妹たちと,これらの新しい人々のおかげで,生活が充実しているので,いつも何かしら行なうことがあり,寂しさを感じる暇があまりありません。
業が禁止される! とどまるか,それとも去るか
非常なショックでした。青天の霹靂で,ある朝目が覚めると,エホバの証人の業が全面的に禁止されていたのです。伝道することも大きな集まりを持つこともできなくなり,宣教者は近日中に追放されることになっており,文書は発行禁止になりました。将来は全くおぼつかないように見えました。私はどうすべきでしょうか。ものみの塔協会の支部事務所に一人の兄弟を尋ねました。その兄弟自身はケニアを去るための荷造りをしていました。「行くべきでしょうか,それともとどまるべきでしょうか」と私が尋ねると,兄弟は,「可能であれば,とどまるほうが良いのです。援助を差し伸べることはまだできると思いますよ」と答えました。『わたしは人々に仕え,良いたよりを宣べ伝えることに最善を尽くすつもりでやって来たんだわ。わたしにはまだそれができるわ』と考え,私はとどまることにしました。しかし,空港で宣教者たちに手を振って別れのあいさつをした時には,非常に大きなものを失ったように感じました。大勢のすばらしい友人や仲間が行ってしまったのです,しかもみな一度に。私はその人たちがいなくなってとても寂しく思いました。そして今でもそう感じています。
振り返ってみると,それまで私は地元の兄弟たちやとどまった人たちと仲良くし,親しい間柄になるよう自分のほうから努めていたので,本当に良かったと思います。もしそうしていなかったなら,全く独りぼっちになったことでしょう。私たちは一緒に嵐を乗り越えました。そして,わずか数か月後に問題が解決して禁令が解除され,証人の業が再び法的に認可された時には,どれほど感激し,安堵したかしれません。
援軍がさらに,少しずつやって来ました。それによって私たちは皆強められ,業も大いに強化されました。これまで業が発展してきた様子を見るのは本当に大きな喜びです。私が初めてケニアに着いた時,真理の光を人々にもたらそうと努力していたのはほんの30人ほどの兄弟や関心ある人々だけでした。現在この国には約3,000人の王国伝道者がおり,聖書研究は4,000件を優に超えています。こぢんまりした大会ではどの人も知り合いでしたが,最近のように,競技場などの大きくて色鮮やかな正面観覧席に人々がぎっしり詰まっていては,そうもいきません。最初の小さな支部事務所のことも思い出します。二部屋の小さな事務所の代わりに,今では新しい立派な支部事務所と印刷施設があります。
常に示される,支えとなるエホバの力
最近のことですが,目が悪くなり,かなり費用の掛かる手術を受けなくてはならなくなりました。私の資力はすでに底をつき始めていましたから,手術を受ければ経済的にかなりの負担が掛かるでしょう。またもや,カナダへ帰るか,開拓奉仕の任命地にとどまるよう努力するかの決定を迫られました。私はこの問題について祈りました。ですから,国外にいるカナダ市民でも年金がもらえるようカナダ政府が法律を改正しようとしているというニュースを聞いて私がどれほど小躍りしたか想像していただけると思います。エホバは逃れ道を示してくださいました。ケニアを自分の故郷とし,とどまりたいと心から願っていた私は胸が一杯になりました。
これまで何年もの間に私とエホバとの関係は深まってきました。女独りの身でアフリカの国にいるので,エホバを保護者と考えてきました。エホバもわたしたちを支えてくださいます。なぜなら,77歳の今もなお私は開拓奉仕を行なっており,これまで27年間この奉仕を行なってきたからです。問題が起きたなら正しいことにあくまで忠実であるべきことも学びました。結局のところ物事は絶えず変化しており,いつまでも同じではありません。ですから,忠実でありつづけたということは確かに喜ばしいことです。私について言えば,でき得る限りずっと,幸福な開拓者としてエホバに仕えつづけたいと思っています。
[29ページの図版]
『スワヒリ語による証言に対する人々の反応には胸が躍った』
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読者からの質問ものみの塔 1985 | 5月1日
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読者からの質問
■ 自発的断種をしても,医師がそれを元に戻せるという報道があることを考えると,避妊の一種としてクリスチャンが自発的断種を選んでも構わないのではありませんか。
聖書は神が生殖力を重視しておられることを示しています。神は人間が自らの種を繁殖させて,地を満たすことを目的とされました。(創世記 1:28; 9:6,7)後日,イスラエル人は大家族をエホバからの祝福とみなしましたし,生殖力をもてあそぶことは神の不興を買いました。(詩編 127:3-5。申命記 1:11; 23:1; 25:11,12)神の僕の中には,ヘブライ語聖書に記されているそれらの点により,自発的断種という行為に対する自分の考え方に影響を受けてきた人が少なくありません。a
しかし,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中には,この問題に関してどんなことが示されているでしょうか。一つの点として,クリスチャンはモーセの律法のもとに置かれていないことを学びます。(ガラテア 3:24,25)さらに,イエスは,生殖によってではなく,良いたよりを宣べ伝える業によってキリスト教を広めるよう強く勧めました。弟子たちの大収穫が見込まれるので,独身者として自制を示し,霊的な意味で閹人になれる人はそうなるよう,イエスは弟子たちに勧めました。同様な趣旨の事柄ですが,使徒パウロはクリスチャンに,結婚をせず,宣べ伝えて教えるためのより大きな自由を持つよう励ましました。そうすれば,霊的な子供たちを集めることになるでしょう。既婚者も,「残された時は少なくなっている」ということを覚えておかなければならず,家族生活の「思い煩いがないように」することを目標とすべきでした。―コリント第一 7:29-32,35。マタイ 9:37,38; 19:12。
この欄で前回自発的断種について取り上げた時b,ほとんどの医師はこの手術を受けると元に戻すことはできず,一生子供ができなくなるとみなしていました。しかし,過去10年間の医学の進歩により事態は幾らか変わりました。例えば,「人口報告」誌(1983年11月-12月号,ジョンズ・ホプキンズ大学)は精管切除術について次のように述べています。「最近の報告では,元に戻す手術により管が再び開通するようになった。すなわち射精された精液の中に精子が発見された男性は,67%から100%に達している。機能的成功,すなわち元に戻す手術を受けた男性の配偶者の妊娠は16%から85%に及んだ」。新しい手術法や一時的に遮断するものを移植する方法も,元に戻す手術の成功率がさらに高まることを示しているという点が指摘されています。
そのような問題についてクリスチャン・ギリシャ語聖書が直接の指針を与えていないので,クリスチャンは家族の大きさを制限することについて,また避妊について個人的な決定を下さなければなりません。断種について言えば,元に戻す手術が成功する可能性は,現在のほうが10年前よりも理論的には高くなったとはいえ,医師の側からは,生殖力の回復を保証できないという点を銘記しなければなりません。
何にも増して,夫婦はエホバのみ前と仲間のクリスチャンたちに対して,汚れない良心を保てるようでなければなりません。夫婦が断種を避妊の一形態と考えているとしても,やはり自分たちの行動が他の人に及ぼすかもしれない影響をあらゆる角度から考慮しなければなりません。普通の場合,夫婦が避妊に関する自分たちの決定を公にすることはないとはいえ,ある夫婦が自発的断種を行なったことが広く知られるようになると,会衆が大いに動揺し,その二人に対して敬意を失うでしょうか。(テモテ第一 3:2,12,13)このような私的で個人的な問題においても,こうした要素は真剣に考慮しなければなりません。最終的に,パウロの次の言葉は適切であると言えるでしょう。「その人が立つも倒れるも,それはその主人[エホバ]に対してのことなのです」― ローマ 14:4,10-12。
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