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    ものみの塔 1968 | 6月1日
    • 言いましたが,問題には解決策があります。わたしたちが落胆している時,特に力となる聖句を覚えていらっしゃるでしょう。それは詩篇 55篇22節です。『なんぢの荷をエホバにゆだねよ さらば汝をさゝへたまはん たゞしき人のうごかさるゝことを常にゆるしたまふまじ』。この聖句は今あなたに助けとなるでしょう?」

      「自分の荷をエホバにゆだねよ,そうすればエホバは支えてくださるとありますね」。

      「そうです。どのようにエホバにゆだねることができるでしょうか」。

      「祈りによって?」

      「そうです。そして正しい者は動かされることがないとあります。動かされるとはどういう意味ですか」。

      「倒れる,まあ,つまり今のわたしのような心の状態でしょうね」。

      「あなたの場合には,それはどんな状態ですか」。

      「気落ちして元気をなくしているだけだと思います」。

      「そうです」。

      「よくわかりました。この聖句はわたしの場合にぴったりです。それを教えていただいて感謝しています」。

      「わたしもこの聖句からいつも益を受けています。荷をエホバに委ねよとあり,それはあなたも言われたとおり,祈ることですから,いま祈りによってエホバの助けを求め,またエホバへの感謝を表わしたいと思いますが」。

      「ええ,是非」。

      こうして訪問した兄弟が,相手と自分のためにエホバに祈って二人は祈りに和します。問題に悩まされていた人はこの祈りに一致して,また問題の理解に照らして事態を調整し,自分の計画を変更して問題の解決に真に努力しなければなりません。いま述べた事柄が参考になる場合があると思います。

      10 励ますことから良い結果が得られた実際の例を述べなさい。

      10 1966年にアメリカの一会衆の経験した事柄が,油そそがれた残れる者のひとりによって次のように報告されています。

      「わたしたちの会衆は30パーセントの増加をみました。おもにそれは収穫のわざにふたたび携わるように活気をとりもどした人々に由来しています。霊的に励まし,強めるための訪問が行なわれました。一つの例をあげれば,3年間不活発だった姉妹は監督にこう語っています。『真理にふたたびもどることは難しいようです。もうこんなに長い間はなれているので奉仕や集会にとても行けません』。彼女は重病の母が死ぬまで長いあいだ看病しているうちに,霊的に弱くなり不活発になったのです。しかし彼女は次のように言われて励まされました。すなわち彼女は真理から離れていたのではなく,クリスチャンに肝要な善行と愛によって宣教の一面をはたしたのであり,その愛の行ないはエホバにおぼえられています。刑務所内の兄弟たちは集会や野外奉仕に参加できませんが,それでも真理の外にいたわけではありません。彼女はこの見方を教えられて大きく励まされました。彼女は定期的に奉仕しており,集会に出席しています。このような喜ばしい経験は,兄弟に親切を示すようにとの励みになっています」。

      物質の贈り物

      11 物質の面で善を行なうことができますか。

      11 物質の面における善行も霊的な益となり祝福となります。そのことはガラテヤ人への手紙 6章10節に示されています。それは物質の面において兄弟たちとわかちあうことです。豊かに与えることは神に対する愛の表われでもあります。ヨハネの第一の手紙 3章13節から18節に照らしてみる時,そのことに疑いはありません。17節は次のように述べています。「世の富を持っていながら,兄弟が困っているのを見て,あわれみの心を閉じる者には,どうして神の愛が,彼のうちにあろうか」。18節はこれを裏づけ,さらに動機にふれています。「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく,行いと真実とをもって愛し合おうではないか」。行ないとことばが対照されていることからわかるように,惜しみなく与えることは,理論ではなくてキリスト教を実践することです。

      12 (イ)だれに対して物質的な恩恵を示すことができますか。(ロ)クリスチャンはどの“日”に物質的な面で恵みを施しますか。(ハ)何に対して感謝を表わすのは正しいですか。

      12 惜しみなく与えることは,だれに対してするべきですか。すべての兄弟に対してです。物惜しみをしない兄弟の愛を受けるのは物に乏しい人にとどまらずすべての人であり,またそうでなければなりません。ふつうには世の休日等に関連して贈り物をする習慣がありますが,そこには往々にして競争心が入り込み,贈り物のくらべ合いが行なわれます。しかし真のクリスチャンは特定の時期を待って贈り物をするのではありません。贈り物は忠実な奉仕に対する感謝の表われとして,ふさわしい人たとえば年老いた人に対していつでもすることができます。それは夫婦間の愛の表現にとどまらず,子供に対する愛情,また敬虔な原則に従って生活することを子供に教え,訓練している両親に対する愛情の表現にまで延長できます。また世話になったり,恩恵をこうむったりした,あるいは神権的に益を受けた兄弟に対しても,そのような形で感謝を表わすことができます。真のクリスチャンにとって「母の日」,「父の日」,クリスマス,復活祭などこの世の祭日は必要ありません。これらの時節に愛の動機から誠実に与える人もいます。しかしクリスチャンは,異教の起源を持つ祭日と結びつくような与え方によってそれが汚されたものになることを避けます。たとえば開拓者の忠実な奉仕など,いろいろな事柄に対する感謝の表現として愛のこもった贈り物をできます。受ける人は祝福され,与える人はなお祝福されます。すべてが益を受け,信仰を強められ,老若の別なく益を得ます。「神よ,わたしが年老いて,しらがとなるとも,あなたの力をきたらんとするすべての代に宣べ伝えるまで,わたしを見捨てないでください」。(詩 71:18)愛される兄弟に惜しみなく与えることは,愛の絆によってすべての人を結びつけるのに役だちます。

      親しく訪問する

      13 親しく訪問することはどのように善となりますか。

      13 いくつか前の節では,励ますために訪問した兄弟と訪問を受けた兄弟との間にかわされた会話をみました。信仰の仲間を訪問することは,クリスチャンの兄弟に善を行なうことの一つです。積極的な関心を払ってそのように訪問することがすすめられています。家族の中に病人が出た場合,あるいは前述の例のように気落ちしている場合など,その必要の生じている時,とくに訪問しなければなりません。イエスは,マタイの福音書 25章35節から40節において象徴的な羊とやぎの話の中でこの原則を用いられました。「あなたがたは…わたしが獄にいたときに尋ねてくれた」。信仰の仲間を訪問することは,訪問すること自体,またそれによって表わされた親切な関心,与えることのできる励ましにより,あるいは子供の世話を助けること,家事の手伝い,食事の仕度など多くの面における実際の援助によって有用なものとなります。兄弟たちを訪問することは責任上やむなく必要であるという考えからではなく,互いに対する愛の自然の表現でなければなりません。この基礎の上に立つ時,集会あるいは奉仕に姿を見せない時にだけ,兄弟を訪問するという考えを持つことはありません。クリスチャンの交わりは培うべきものであって,訪問する人にとっても訪問される人にとっても互いに大きな霊的な益となります。「わたしは,あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて,力づけたいからである。それは,あなたがたの中にいて,あなたがたとわたしとのお互の信仰によって,共に励まし合うためにほかならない」― ローマ 1:11,12。

      14 今までに述べたクリスチャン生活のいろいろな面を要約しなさい。

      14 信仰の仲間に善を行なうことの例として,わたしたちにできる幾つかのこと,たとえば巧みさをもってともに奉仕すること,良いわざをつづけるように励ますこと,物質の面でわかち合うこと,互いの霊的な益をはかって訪問することなどについて述べました。このことをする時,わたしたちは神から祝福されるでしょう。会衆はこのような善行によって建て起こされ,強められるからです。兄弟たちが巧みさを示し,励まし合い,惜しみなく与える時,そして時間をとって訪問する時,一致と愛の絆は強まります。これらのことはすべて生活の一部であり,とくにクリスチャンの生活すなわち神と人とを愛する生活の一部です。

      15 生活におけるこれらの善行の結果を要約しなさい。

      15 このような善行はエホバの祝福を得てすばらしい成果をもたらします。それは平和,力,慰めという祝福です。使徒行伝 9章31節はこの点を明らかにしています。「こうして教会は,ユダヤ,ガリラヤ,サマリヤ全地方にわたって平安を保ち,基礎がかたまり,〔エホバ〕をおそれ聖霊にはげまされて歩み,次第に信徒の数を増して行った」。〔新世訳〕平安は義の上に建てられ,エホバからこの祝福をもたらします。それによって会衆とその成員は,すべての人,外部の人に対して善を行なう,いっそう良い立場に立つことができます。信仰の仲間に善を行なうことからは,なんと良い結果が生まれるではありませんか。

  • 牧師と「ものみの塔」
    ものみの塔 1968 | 6月1日
    • 牧師と「ものみの塔」

      ● オーストラリアのエホバの証人の一婦人がある日,家から家の伝道で若い主婦と話していたところ,一人の牧師がはいってきました。それは明らかにその家族の属している教区牧師でした。その主婦はあざけるような口調で,「ほら,この婦人はエホバの証人ですよ」と告げました。婦人の奉仕者はほほえみさえ浮かべて牧師に会釈し,こう話しました。「神の奉仕者として確かにあなたも聖書を愛していられることと思いますが,ここに,聖書をさらに深く理解できるよう人々を助けるすばらしい雑誌があります」。すると牧師は静かに答えました。「そうですか。もし最新号でしたら,わたしがいただきましょう。実は以前の雑誌をみな読みましたが,説教をするのに大変役だっているのです」。その主婦はこの話を聞いて,すっかり恐縮してしまいました。どんな状況の下でも勇気を出し,心を強くし,エホバの霊により頼むことがいかに必要かをこの経験は確かに示しています。

      ― エホバの証人の1968年度年鑑より

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