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力は励ましから生まれるものみの塔 1963 | 10月15日
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16 ペテロ前書 5章では,どんな事柄が監督たちと論じられていますか。なぜですか。
16 ペテロの手紙には,監督たちのことも述べられていて彼らは励ましなどいらないかのように見のがされてはいません。それどころかペテロは,彼らが特に感謝するであろう事柄について彼らと論じました。奉仕に対する正しい見方,神と兄弟たちに対する関係,むずかしい問題や迫害に対処する方法などがそれです。「神の資産である」「あなたがたにゆだねられている群れを牧しなさい」とペテロは言いました。いまでも,自分の監督の下にある会衆内の人々が,神のものであることを思い起すとき,深く感動しない監督はいません。問題をこのように見るなら,監督は『群れの上に権力を振う』こともなければ,ごうまんになることもなく,かえって次の助言に注意します。「だからあなたがたは,神の力強い御手の下に,自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから,自分の思いわずらいを,いっさい神にゆだねるがよい」。自分ひとりで全部の荷を負わなくてもよい,ということを知るのは,けんそんな監督にとってほんとうに大きな励ましです。監督は,問題の処理について神の導きに頼り,自分の思いわずらいをいっさい神にゆだね,神の御言葉を調べて導きを求め,祈りのうちに神をさがし求めるようにすすめられています。またサタンの世から迫害される時でも監督はひとりではありません。なぜならペテロが次のように言っているからです。「同じ苦難は,全世界にいるすべての兄弟にも降りかかっていることを知り…なさい。しかし,あなたがたを,キリストにある永遠の栄光に招き入れてくださったいつくしみ深き神は,あなたがたのしばらくの苦しみの後,あなたがたの訓練をご自身で終わらせて,あなたがたをかたくし,強くされるであろう」。(ペテロ前 5:1-10,新口,新世)監督は勇気を出すよい理由があります。
17 それで実際にはだれが偉大なる力の与え主ですか。なぜそう言えますか。
17 エホバご自身が,その民に勇気を与えるかたであることは疑問の余地がありません。エホバこそ,私たちがいままで検討してきた励ましの言葉を書くように霊感を与えたかたです。神ご自身の御言葉である聖書にのせられている御約束こそ,私たちを希望で満たすものです。エホバは私たちが,生活の諸問題に首尾よく対処できるように,私たちを教えてこられました。エホバが後援してくださるのですから,たとえ世界の反対に面しても,私たちは自分の立場を固守することができます。ですから私たちはダビデと共に言います。「エホバはわが力わが盾なり,わが心これに依頼みたれば我たすけを得たり,然る故にわが心いたくよろこぶ,われ歌をもてほめまつらん。エホバはその民のちからなり」。―詩 28:7,8。
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他のひとびとを励ますものみの塔 1963 | 10月15日
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他のひとびとを励ます
1 他の人を励ますのはなぜクリスチャンの責任と言えますか。この点においてどんな立派な模範がありますか。
ほかの人々を励ます機会はだれにでもあります。そしてその機会を有効に用いるなら,どんなに感謝されることでしょう! エホバは,だれにもまして励ましを与えるかたです。私たちの弱点をゆるし,私たちの希望を強くし,また試みに耐え,前途に横たわる仕事を行なっていくために,私たちを力づけてくださいます。エホバの御子イエス・キリストも同じく,病気の者や苦しむ者にあわれみを示し,良いたよりを宣べ伝えるときに弟子たちと共に働いて模範を示し,彼らのために命を捨てることさえして,良い心の人々を励ますかたであることを証明されました。(ヨハネ 15:13)使徒たちも,自分の使命を果たすには,能率的に伝道活動を行なうというだけでなく,仲間の働き人を愛をもって励まさねばならぬことをよく認識していました。そして彼らは,徳を高める手紙や,個人的な訪問,諸会衆に対する心をふるい立たせる話などをして,励ましを与えました。(ペテロ前 5:12。ヘブル 13:22。使行 11:23; 20:2)何というすぐれた模範でしょう。私たちはぜひともそれらの模範に従わねばなりません。私たちは聖書から,神にならう者になること,御子の足跡に従うこと,使徒たちがキリストにならったと同じく使徒にならうことをすすめられているからです。それで,私たちには互いに励まし合う義務がある,ということになります。―エペソ 5:1。ペテロ前 2:21。コリント前 11:1。
2 私たちの周囲の世界では,どんながっかりするような事が行なわれていますか。なぜそういうことが一般的になっているのでしょうか。
2 しかし,私たちの周囲の世界では,人々は互いに悩まし合い,自分が出世したいばかりに,他の人の方針や技両をけなす傾向があります。他人を突き落として,自分の競争相手になれないようにします。使用人が仕事を立派にするときでも,ほめ言葉一つ与えずにおいて,一つでも間違いをすればただちに呼びつけて叱る,ということはよくあることです。主婦もまた,夫が自分のすることを当然と考えるなら,がっかりします。そのような精神は,家庭においてであろうと,実業界においてであろうと,人々が以前もっていたかも知れない仕事への喜びを奪って,彼らを落胆させ,孤独にします。その結果,世界中で毎日1万人以上が自殺すると報告されています。故意にするにせよ,無関心のためにせよ,それは仲間に対するなんという恥ずべき利己的な行為でしょう! どこが間違っているでしょうか。何が欠けていますか。励ましです。しかしなぜ励ましですか。なぜなら,励ましは愛にもとづいて与えられるものだからです。そしてこの世は愛のない世です。私たちの住むこの終りの時代に,人々が「自分を愛する者」となり,対人関係においては「恩を知らぬ者,神聖を汚す者,無情なる者」になるということは,ずっと昔に預言されていました。―テモテ後 3:1-3。
与えるという面から考える
3,4 人が励ましを与えてくれない場合,私たちはどういう態度をとるべきですか。
3 私たちの接する人がすべて励ましになる人でないことはいうまでもありません。ある人々は,自分のことばかり考えて,人に親切にする機会などわからない人かも知れず,また別の人は,他人を苦しめてもなんら良心のとがめを感じない人かも知れません。そういう人々が私たちに思いやりを示さないなら,私たちも彼らにならって愛のない者になるべきですか,それは非常に愚かな行いです! 私たちの従うべき模範は,キリストであって,利己的な人間ではありません。キリストは虐待されても,そのしかえしに虐待するようなことはされませんでした。自分の教え励ましてきた弟子たち,仲間の崇拝者たちが,彼を捨てたとき,キリストは彼らを非難し,わざを止めてしまいましたか。そうではありません。キリストは,天の御父の御旨を行なうことこそ重要なことと知っておられました。そして天の御父にご自分をゆだねられました。
4 イエスは,私たちもまた受けるよりはむしろ与えるほうの面から考えるようにすすめられました。「受けるよりは与える方が,さいわいである」。(使行 20:35,新口)多くの場合それは真実です。また励ましになることも事実です。自分を励ましてくれるべきだと考えているときに人がそうしないからといって,そのことをひどく気にするなら,落胆するでしょう。それよりむしろ人を励ます機会を求め,他の人から受ける励ましは余分のわけ前くらいに考えてはいかがでしょうか。できるときに励ましを与えない人ですら,彼ら自身が気落ちしているために与えない,ということもしばしばあることを考えてください。彼らも励ましがいるのです。そういう人々にがっかりしたり,失望するよりも,自分を落胆させるような人にでも,同情的で,力づけになるくらいのほうが,どんなにかましでしょう。励まされるのはたしかにうれしいことです。しかし励ますほうがもっとさいわいです。
5 励ましを与えるにはどんな方法がありますか
5 励ますには,多くの方法があります。心のこもった賞賛の言葉は,働く者にとって大きな意味があります。自分に示された親切やサービスに対する心からの感謝の言葉だけでも,同じことをもっと多く,しかも上手にしようという気持を人に持たせます。親切な行為が,言葉よりも雄弁に語って,関係者一同の士気をささえる場合も少なくありません。友情もまた,失望した,あるいは孤独な人々を励ますでしょう。そして,そういう人たちに良いたよりを分かつなら,彼らの見方も明るくなるでしょう。親しいほほえみだけでも人の心を暖かくします。けれども,こうしたことよりもっとよいのは,神の御言葉から希望を与えること,また言葉と手本の両方によって勧めをなし,善を行なう力と勇気を他の人にもたすことです。もし私たちが励ましを与える面から考えさえすれば,思いの外に多くの機会を見つけることができるでしょう。
家庭内で
6 ほかの人を励ます習慣をどこでつけるべきですか。なぜですか。
6 まず機会を見つける手始めとして好適の場所は自分の家です。家の中で習慣づけておくと,ほかの場所でもそれが自然に出てきます。励ましの基礎になるものはもちろん愛です。愛はまた家族を結びつけるものです。そのことについてパウロはコロサイ人に次のように書き送っています。「だから,あなたがたは,神に選ばれた者,聖なる,愛されている者であるから,あわれみの心,慈愛,謙そん,柔和,寛容を身に着けなさい。互に忍びあい,もし互に責むべきことがあれば,ゆるし合いなさい。主も[エホバ=新世]あなたがたをゆるして下さったのだから,そのように,あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に,愛を加えなさい。愛は,すべてを完全に結ぶ帯である」。(コロサイ 3:12-14,新口)この神の助言を受け入れる人々が一緒にいるということは,どんなにお互いを力づけることでしょう!
7,8 夫が妻を励ますにはどんな機会がありますか。それはなぜ大切ですか。
7 夫が妻を喜ばせたいと思い,妻が夫を喜ばせたいと願うのはしごく当然です。(コリント前 7:33,34)けれども,非常に大きな意味をもつものがしばしば軽視されることほどがっかりさせられることはありません。妻が,家の掃除をしたり,家族の食事を準備したり,その他夫を喜ばすために一生懸命働いても,それをただあたりまえのことと考えられるなら,がっかりするでしょう。しかしあなたは,妻がそうするのは当然なのに,いまさらほめる必要があるだろうか,と言われるかも知れません。聖書はこう答えています。「その子らは立ち上がって彼女を祝し,その夫もまた彼女をほめたたえて言う,『りっぱに事をなし遂げる女は多いけれども,あなたはそのすべてにまさっている』と」。―箴言 31:28,29,新口。
8 たとえ弱点のある場合でも,それを不当に誇張することによっては,家族の愛のきずなは強化されません。必要ならその問題を取りあげることもできます。しかしことにこれまでのよい働きを見,それに対する感謝の気持を表わすことを忘れてはなりません。たとえ小さなことに対する賞賛の言葉でも,これからもそういうことをもっと多く,上手にしようという気持と力を人に与えるものです。同様に,事故が起きた場合にも,励ましを与える機会があります。「彼らはもはや,ふたりではなく一体である」という言葉の意味をよくわきまえている夫は,手をかそうともしないで「お前はどうしてこうも無器用なんだ」と妻をしかったりなどしません。彼女はすでにそのことをひどく悲しく思っているかも知れません。なぜそれに油をそそぐ
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