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人類を解放する政府目ざめよ! 1975 | 10月8日
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として用います。(詩 45:16)どんな人がそれら地上の代表者になるのでしょうか。もちろん,王なるイエス・キリストが,ごう慢で自己本位な態度の持ち主を用いることはありません。イエスは深い愛を示し,人類のために自らの命を進んでなげうたれたのですから,自分の利益のため他の人を利用しようとする人を大目に見て,ご自分の代表者にすることは決してありません。イエスの態度は,次のように述べた古代のダビデ王のようなものになります。「高ぶる目と高慢な心の人を耐え忍ぶ事はできません。わたしは国のうちの忠信な者に好意を寄せ,わたしと共に住まわせます。全き道を歩む者はわたしに仕えるでしょう」― 詩 101:5,6,口語訳。
重大な諸問題からの確かな解放
イエス・キリスト,その仲間の王なる祭司たち,そして王国の地上の代表者たちの持つ資格は,正義を愛する人々すべての福祉が守られることを保証しています。彼らは,利益を得るための競争による,どん欲な商業体制が発達するのを黙認しません。また,食糧やその他の必需品が均等に分配されるのを妨害するようなことをだれにも許しません。少数者だけでなく,全人類が貧困からの自由を味わいます。その時,すべての人があずかる豊かさに言及して,聖書はこう述べています。『万軍のエホバ……もろもろの民のために……久しくたくわえたる葡萄酒をもて宴をもうく 髄おおき肥えたるもの……の宴なり』― イザヤ 25:6。
現在見られる,人間による地球資源のずさんな管理や汚染はどうなるのでしょうか。イエス・キリストは人間となる前に,み父の傍らで創造の業に携わった,と聖書は述べています。(ヨハネ 1:3。コロサイ 1:15,16)それでイエスは,植物や動物の命をささえている各種の循環系を理解しておられます。ゆえに,王であるイエスは,地球資源のずさんな管理のみならず,汚染をも防止するための知識を人類に授けることができます。そして,地上をパラダイスのような美しい状態に変化させ,地上の産物を最も効果的に用いるのに必要とされる導きを与えることもできます。―創世 1:28; 2:15と比較してください。
イエス・キリストとその仲間の王なる祭司たちが,完全性に達するよう人間を助けるので,人間の弱さや不完全さから生ずる深刻な家庭問題や誤解や精神的苦痛などは終わりを告げます。人間が完全性に達する結果,年を取ること,病気そして死をも含め,受け継がれてきた罪に由来するその他の諸問題もすべて除き去られます。み子の手中にある王国によって,神は,「彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやな(く)」なります。―啓示 21:4。
その時,だれ一人として,犯罪や戦争や不公正や圧制の犠牲者になる恐れを抱く必要はありません。どこに行っても人々は,平和に生活する方法を学んでいるでしょう。(イザヤ 2:4)すべての人は公平に取り扱われます。聖書は,イエス・キリストが物事を扱う仕方について預言的に次のように述べています。『かれは……目みるところによりて審判をなさず 耳きくところによりて断定をなさず 正義をもて貧しき者をさばき 公平をもて国のうちの卑しき者のために断定をな(さん)』― イザヤ 11:3,4。
人類は,この古い体制下での仕事に伴いがちな,すさまじい競争や欲求不満や単調さなどに,二度と再び直面することはありません。人々は,災害によってすべてが無に帰してしまうという不安のないことを知り,生産的な仕事をすることに喜びを見いだします。預言者イザヤの語った次の言葉は,仕事に関するそうした希望を確信させるための根拠を,神が与えておられることを明らかにしています。『かれら家をたてて之にすみ葡萄園をつくりてその果をくらうべし かれらが建つるところにほかの人すまず かれらが造るところの果はほかの人くらわず そはわが民のいのちは樹の命の如く 我がえらみたる者はその手の工ふるびうするとも存うべければなり かれらの勤労はむなしからじ』― イザヤ 65:21-23。
キリストによる,神の王国こそ,人間の多くの問題に対する解決策となります。すべての人に,平和で安全で公正な状態をもたらし得るのは,その王国だけです。しかし,その王国が地上の物事を完全に掌握するのはいつのことですか。
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その解決策が実現するとき目ざめよ! 1975 | 10月8日
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その解決策が実現するとき
すべての人が共通の益を目ざし,力を合わせて働けるように,また生活から喜びを奪う争いをなくすために人類全体は一致する必要があります。そのことに異論のあろうはずはありません。幸いなことにエホバ神はみ子イエス・キリストをとおして万物をご自身と調和させるために時を定められています。このことについて,聖書には次のように記されています。「それは,定められた時の満了したときにおける管理[運営,処理]のため,[神]ご自身のうちに定められた意向にしたがってであり,すなわちそれは,すべてのもの,天にあるものと地にあるものを,キリストにおいて再び集めることです」― エフェソス 1:9,10。
キリストとの一致を目ざして,この集めることは,「定められた時」すなわち神によって定められた時の「満了したときに」始まったことに注目してください。これは西暦33年であることが判明しました。み子と同じく支配する者として天に行くことを定められた男女をエホバ神が一致させはじめたのは,そのとき,ペンテコステの日のことでした。(使徒 2:1-4,14-21。コリント第二 1:20-22。エフェソス 2:4-7)しかし神の目的はこのことに限られていません。神は,「地にあるもの」すべてをも集めてみ子との完全な一致に至らせることを望まれています。
なぜ今の世代のうちか
このようにイエス・キリストのもとに一致させることの最初の段階が神の定めの時に始められたのであれば,「地にあるもの」を最終的に一致させることも同じく時を定めて行なわれるものと,当然に期待できるのではありませんか。問題に悩み,分裂した現在の世界を見れば,この一致が是非とも,また早急に必要なことは明白ではありませんか。
たしかにわたしたちの生きている時代は,歴史上他に類を見ないものです。先例のない暴力,不安,
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