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    ものみの塔 1979 | 3月15日
    • 神と人とを喜ばせるぶどうの木とぶどう酒

      「あなたがたが多くの実を結びつづけてわたしの弟子であることを示すこと,これによってわたしの父は栄光をお受けになるのです」― ヨハネ 15:8。

      1 ゼベダイの子ヨハネを仲間に持っていたある著名な人物は,自分をどのように一本の植物に例えましたか。

      人が自分自身をぶどうの木に例えることなど,今日のわたしたちにとっては奇妙なことに思えるかもしれません。しかし,このことを行なったのは,かつて地上に住んだ人の中で最も顕著な人物でした。彼は,11人の忠節な仲間たちと共に最後のぶどう酒を飲んだとき,次のような意味深い言葉を述べました。「わたしは真のぶどうの木,わたしの父は耕作者です。わたしはぶどうの木,あなたがたはその枝です」。ゼベダイの子で,彼の仲間のひとりであったヨハネは,この考えさせられる言葉を聞いていました。そしてそれを思い出し,わたしたちのために記録してくれたのです。―ヨハネ 15:1,5。

      2,3 (イ)裁き人ギデオンの子ヨタムが語ったたとえ話によると,象徴的な木々はどの植物に支配者となることを頼んで成功しませんでしたか。(ロ)彼らは最後に一人の王を選びましたが,そのことはどんな結果に終わりますか。

      2 これより何百年か昔のこと,同じ土地に住んでいたある人が一つのたとえ話をしましたが,その中で彼もある人を一本のぶどうの木に例えています。彼もまた命が危ない状態にあったので,逃げる前の捨てぜりふとしてそのたとえ話をしました。その目的は,王を立てた者たちが,王にふさわしい人物を選ばなかったので,国家的災厄を被るということを示すことにありました。彼は自分と同族の人々を木々に例え,自分たちの支配者を求めるその人々が,最初にオリーブの木に支配者になることを頼み,次にいちじくに頼みますが,実をよく結ぶそれらの木には断わられるところを描きます。

      3 イスラエルの裁き人ギデオンの息子の中の唯一の生存者ヨタムは言葉をつづけます。「次に木々はぶどうの木に言った,『あなたが来て,わたしたちの上に女王となってくれ』。それに対しぶどうの木は言った,『わたしは神と人とを喜ばせるわたしの新しいぶどう酒を捨て置いて,他の木々の上にそよぐために出かけて行かねばいけないのでしょうか』」。こうして三人目にも断わられたその象徴的な木々は,実を結ばない野いばらを自分たちの王とするほかはない,と考えました。(士師 9:3-14,新)このように支配者の選択を誤ったので,彼らはよく実を結ぶぶどうの木が供給するような喜びのぶどう酒を飲むことはないであろうとヨタムは述べます。―士師 9:15-20。

      4 少し前,イエスはぶどうの木の産物を,何の象徴として用いておられましたか。しかしあとでどんなより明るい意味をそれに与えられましたか。

      4 そういうわけで,イスラエル国民の王となることをやはり拒絶されたイエス・キリストは,人を,つまりご自分をぶどうの木に例えた最初の人ではありませんでした。イエスは迫りくるご自分の死の記念式を紹介したばかりのところでした。その式でイエスは,普通の杯に入っていたぶどう酒を,翌日の午後流すことになっていたご自分の血を表わすためにお用いになりました。しかしそのときイエスは,象徴としてのぶどう酒に,より明るい意味を与えるために次のようにおっしゃいました。「あなたがたに言いますが,わたしの父の王国であなたがたとともにそれの新しいものを飲むその日まで,わたしは今後決してぶどうの木のこの産物を飲みません」。(マタイ 26:26-29)新しいぶどう酒はとりわけ人を元気づけます。ですから天の父の王国で飲む「ぶどう酒」の新しいものは,確かに喜びのぶどう酒にちがいありません。

      5 ぶどうの木のたとえ話の中で,イエスがご自分だけを象徴するものとしてそれをお用いになったかどうかは,何からわかりますか。

      5 その晩は過ぎ越しの晩でしたから,ぶどう酒がよく用いられ,西暦33年に行なわれた,イエスとその弟子たちのこの最後の集まりの間に,少なくとも四つのぶどう酒の杯が飲み干されました。このことからイエスの話は必然的にぶどうの木に関する新しいたとえ話の方に向きました。しかしイエスはこの例えの中で,一本のぶどうの木全体を,ご自身だけを象徴するものとしてお用いになったのではありません。この点をはっきりさせるためにイエスは弟子たちに,「わたしはぶどうの木,あなたがたはその枝です」と言われました。―ヨハネ 15:5。

      6 その席には11人の使徒しかいなかったので,イエスが言われたことは,その「ぶどうの木」には11本の枝しかないという意味でしたか。それとも,とくにマタイ 21章43節のイエスの言葉に照らして考えると,そういう意味ではないのでしょうか。

      6 しかしイエスは,このキリストという「ぶどうの木」に,そのときご自分と共に食卓に寄りかかっていた11人の忠実な使徒たちの数に相応して11本の枝しかないという意味で,そのように言われたのではありません。メシアという「ぶどうの木」は,新しいクリスチャンの国民全体を作り上げるに足る,もっと多くの枝を持つことになっていました。信仰のないユダヤ国民に向かって,「神の王国はあなたがたから取られ,その実を生み出す国民に与えられるのです」と言われたとき,イエスはこの新しい国民のことを暗示しておられました。―マタイ 21:43。

      7 詩篇 80篇8-15節では,どの国民が「ぶどうの木」に例えられていますか。神がそのことを考えてくださることを求める叫びがあったのはなぜですか。

      7 一国民を一本のぶどうの木に例えることも,別に新しいことではありませんでした。イエスご自身の天の父エホバは,この植物を一つの国民の象徴としてお用いになりました。例えばエホバは詩篇作者アサフに霊感を与えて,ご自分に次のように話しかけることをおさせになりました。「あなた[エホバ]は[モーセの日に]エジプトから一本のぶどうの木を去らせました。あなたは諸国民を[約束の地から]追い出し続けました。それを植えようとして。あなたはその前を片づけることをされました。それが根付き,地に満ちるようにと。山々はその影で覆われました。……ああ万軍の神よ,帰って来てください,お願いします。天から見下ろし,ご覧ください。このぶどうの木を顧みてください。またあなたの右手が植えた株を」。(詩 80:8-15,新)西暦前607年にエルサレムが破壊され,そのときから世の諸国民が全地を支配する異邦人時代が始まったために,イスラエル国民は異邦諸国民に大いに侵害されました。そのために詩篇作者は神がそのことを考えてくださるよう,悲痛な思いで叫び求めます。

      8 エホバはいつ新しい「ぶどうの木」をお植えになりましたか。イザヤ書 5章3-7節はその必要をどのように説明していますか。

      8 ヨルダン川におけるイエスのバプテスマのあとエホバ神がイエスに聖霊で油そそがれたとき,新しい「ぶどうの木」が植えられました。その必要は切実でした。なぜでしょうか。預言者イザヤは700余年以前にその理由となる事柄を預言していました。エホバは彼に霊感を与えて次のように語らせました。「さあ,あなたがたエルサレムの住民とユダの者たちよ,どうか,わたしとわたしのぶどう畑の間を裁け。わたしがすでに行なったのでないことで,わたしのぶどう畑のためにまだなすべき何があるのか。わたしはそれがぶどうを産み出すのを待ち望んでいたのに,しだいに野ぶどうを産み出したのはどういう訳か。そこでいま,わたしは自分のぶどう畑に行なおうとしていることをあなたがたに知らせたい。その生けがきは取り除かれることになり,それは必ず焼き払われるよう定められている。……そしてわたしはそれを打ち壊されたものとする。それは刈り込まれることも,くわを入れられることもない。そして必ずいばらと雑草が生える。そこに雨を降らせないようにとの命令をわたしは雲の上に下す。万軍のエホバのぶどう畑はイスラエルの家,ユダの者たちは彼が好まれた栽培地だからである。そして彼は裁きを待ち望まれたが,見よ,律法を破ることがあり,義を待ち望まれたが,見よ,叫びがある」― イザヤ 5:3-7,新。

      9 その後エレミヤの時代に,エホバはご自分の国民である「ぶどうの木」についてどんなことを質問されましたか。

      9 イスラエルの状態は良くならず,約100年後にエホバはイスラエルに対して次のように言うことができました。「遠い昔からわたしはあなたの[エジプトにおける奴隷の]くびきを粉々に砕き,あなたの[拘束の]綱を引きちぎった。しかしあなたは,『わたしは仕えない』と言った。あなたはすべての高い丘の上,またすべての生い茂った木の下に寝そべり,売春を行なっていたからである。わたしは,あなたをえり抜きの赤いぶどうの木として植えた。そのすべてがまことの種であった。それなのにどうしてわたしに対して自分を変え,異質のぶどうの,堕落した新芽となってしまったのか」― エレミヤ 2:20,21,新。ホセア 10:1,2。

      10 計り事が滅びうせるので,申命記 32章28-33節は,イスラエルがどんな「ぶどうの木」になったと述べていますか。

      10 それはモーセが西暦前1473年に予告していた通りでした。「彼らは計り事の滅びうせる国民であり,彼らのうちに悟りはないからである。……彼らのぶどうの木はソドムのぶどうの木から,またゴモラの段丘から来たものなのだ。彼らのぶどうは毒ぶどう,その房は苦い。彼らのぶどう酒は大蛇の毒液,またコブラの残忍な毒」― 申命 32:28-33,新。

      新しい「ぶどうの木」が必要

      11 イエスが話されたぶどう園のたとえ話によると,収穫の時にメシアは耕作人たちからどんな待遇を受けますか。

      11 西暦29年,神のみ子イエスが油そそがれた者,すなわちメシアとして来られたとき,この象徴的な国民の「ぶどうの木」は収穫の時になっていました。神の代理としてのイエスがこの「ぶどうの木」から集める実はどんな実でしょうか。西暦33年のニサン11日,つまり三年半にわたる公の宣教を終える三日前に,イエスは一つの例えを話して,ご自分がどんな待遇を受けるかをお示しになりました。神殿の中にいた祭司長や年長者たちは,イエスのなさることや教えに異議を唱えたので,イエスはご自分の意見を述べる形でその例えを次のようにお話しになりました。

      「別の例えを聞きなさい。ある人,つまり家あるじがいました。その人はぶどう園を作り,その回りにさくを巡らし,その中に酒ぶねを掘り,やぐらを立て,それを耕作人たちに貸し出して,外国に旅行に出ました。実りの季節が巡って来たとき,彼は自分の実りを得ようとして耕作人のもとに奴隷たちを派遣しました。ところが,耕作人たちは彼の奴隷たちをつかまえ,ひとりを打ちたたき,もうひとりを殺し,もうひとりに石を投げつけました。彼は再びほかの奴隷を最初より大ぜい派遣しました。しかし彼らはこれらにも同じことをしたのです。最後に彼は,『わたしの息子なら尊敬するだろう』と言って,自分の息子を彼らのもとに派遣しました。その息子を見ると,耕作人たちは互いに言いました,『これは相続人だ。さあ,こいつを殺してその相続財産を手に入れよう!』 そうして彼をつかまえ,ぶどう園から追い出して殺してしまったのです。それで,ぶどう園の持ち主が来るとき,これらの耕作人をどうするでしょうか……

      「……あなたがたは聖書の中で読んだことがないのですか。『建築者たちの退けたその石が主要な隅石となった。これはエホバから生じたのであり,わたしたちの目には驚嘆すべきものである』とあるのです。このゆえにあなたがたに言いますが,神の王国はあなたがたから取られ,その実を生み出す国民に与えられるのです。また,この石の上に落ちる人はこなごなになるでしょう。これがその上に落ちる人は,みじんに砕かれるでしょう」― マタイ 21:33-44。

      12 予表的国民のぶどう園の耕作人たちは,どんな実を納めることをしませんでしたか。それで神はどのようにして良い実を確実に受け取れるようにされましたか。

      12 エホバの国民という「ぶどう園」の耕作人であるイスラエル人は,エホバのみ子イエス・キリストにどんな実を納めるべきでしたか。それは,み子を本当の約束のメシアと信じ,イスラエル国民という「ぶどう園」を作りかつ所有しておられる方のみ子として受け入れるという実でなければなりませんでした。もしイスラエル人がその種の実を神のみ子に納めていたなら,彼らは神の真のメシア王国に入れられる結果になっていたでしょう。しかし彼らは,イスラエルにおいて予表的神の王国の著しい特色となるべき実を産出しなかったので,神の王国となる特権は,国民としての彼らから取り去られることになりました。したがって別の「ぶどう園」耕作人なる国民が作られることになりました。この新しい国民は神の王国にふさわしい実を産出するでしょう。それらの耕作人は,このぶどうの木を植えた方でありぶどう園の持ち主である神に,当然ささげるべき実をささげるでしょう。

      13 (イ)ユダヤ人の「ぶどう園」の耕作人たちは,ぶどう園の持ち主の息子の相続財産を奪い取れば何ができると考えましたか。(ロ)ある建造物の建築者たちが退けた王なる石はどのようになるとイエスは言われましたか。

      13 メシア王国の特権をだれに得させるかを神が決定されるにあたって重要なものは「実」です。ユダヤ人耕作人たちは,当然期待される実を納めなければ,そして神の王国の「相続人」であるイエスを殺してしまえば,彼の相続財産を掌握でき,モーセの律法の契約下にある予表的神の王国の支配者としての地位を守ることができると考えました。(ヨハネ 11:47-53)しかし,イエスのたとえ話から引き出された結論によると,事はそのように運びません。(マタイ 21:41)ちょうど前日,それはイエスがエルサレムへ勝利の入城をされた後のことになりますが,神の建造物の建築者たちが退けていた王なる石について,イエスは何と言っておられますか。その石は神の新しい王の建造物すなわち天に建てられる「神の王国」の主要な隅石とされると言われました。

      14 ゲッセマネで捕えられる直前であったのに,ぶどうの木とその枝のたとえ話をすることをイエスが無意味と考えられなかったのはなぜですか。

      14 エホバ神が植え育てておられた「真のぶどうの木」について言えばイエスは,ご自分がたとえ後の過ぎ越しの日に予表的国民の「ぶどうの木」のユダヤ人耕作人たちに殺されても,「真のぶどうの木」は枯死させられることはないということをご存じでした。ですからイエスは,ゲッセマネの園へ行く,そして捕えられる直前でしたが,弟子たちにぶどうの木とその枝のたとえ話をすることを無意味とはお考えになりませんでした。

      15 ヨハネ 15章1-5節によると,「真のぶどうの木」の耕作者はだれですか。彼は枝が実を結ぶかどうかによって枝をどうしますか。

      15 イエスは次のようにおっしゃいました。「わたしは真のぶどうの木,わたしの父は耕作者です。彼は,わたしにあって実を結んでいない枝をみな取り去り,実を結んでいるものをみな清めて,さらに実を結ぶようにされます。あなたがたは,わたしが話した言葉のゆえにすでに清いのです。わたしと結びついたままでいなさい。そしてわたしはあなたがたと結びついたままでいます。枝がぶどうの木にとどまっていないなら,それだけでは実を結ぶことができないと同じように,あなたがたもわたしと結びついたままでいないなら,実を結ぶことができません。わたしはぶどうの木,あなたがたはその枝です。わたしと結びついたままでおり,わたしが結びついたままでいる者,その者は多くの実を結びます。わたしから離れては,あなたがたは何も行なえないからです」― ヨハネ 15:1-5。

      植えることと栽培すること

      16,17 (イ)エホバはいつまたどのように「真のぶどうの木」をお植えになりましたか。(ロ)イエス・キリストはなぜ族長ヤコブより偉大な方でしたか。「真のぶどうの木」に「枝」ができたのはいつですか。

      16 この偉大なぶどう栽培者は,よく実を結ぶそのぶどうの木をいつ植えたのでしょうか。それは西暦29年で,バプテスマを受けたばかりのイエスに聖霊で油をそそいだときでした。(イザヤ 61:1,2)そのときエホバは,メシア王国という象徴的「ぶどうの木」の中軸をなす茎をしっかりとお植えになったのです。ここで思い出すのは,予表的イスラエル王国が,イスラエルという別名を与えられた族長ヤコブから出たということです。ヤコブは12人の息子の父となり,その息子たちからイスラエルの12部族が生まれ出ました。(使徒 7:8-14)したがってイエス・キリストはヤコブに相当しました。

      17 この大いなるヤコブはぶどうの木の中軸をなす茎でした。彼は十二使徒を選び,十二使徒はこの霊的「ぶどうの木」の「枝」になることになっていました。(ヨハネ 15:16; 6:70)だからこそイエスは過ぎ越しの夜彼らを「枝」と呼ばれたのです。しかし51日後のペンテコステの日に,12人の忠実な使徒たちは聖霊で油そそがれました。このようにして彼らは霊的イスラエルという新しい国民の二次的土台となりました。天の新しいエルサレムは彼らの上に建てられています。(啓示 21:14。エフェソス 2:20)しかし,そのペンテコステの日に,120人ほどの弟子たちから成るそのグループの他の人々も,最初に聖霊を受け異言を語った人々の中に入っていましたから,そのことによって彼らもその霊的「ぶどうの木」イエス・キリストの「枝」とされました。

      18 生来のイスラエルは,出エジプト記 19章6,7節に示されているどんな機会を捕えませんでしたか。ペテロは神のその言葉をだれに適用していますか。

      18 そのとき新しい国民,霊的イスラエルが誕生しました。生来のイスラエルは一つの国民としては,エホバが出エジプト記 19章6,7節に従いモーセを介して同国民の前に置かれた機会を捕えませんでした。それで使徒ペテロは,神が述べられたその言葉を,霊的イスラエルという新しい国民の成員に適用しました。彼はそれをどこで適用していますか。霊感による彼の最初の手紙,ペテロ第一 2章9,10節の中です。そこには次のように記述されています。「しかしあなたがたは,『選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民』であり,それは,やみからご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださったかたの『卓越性を広く宣明するため』です。というのは,あなたがたはかつては民ではありませんでしたが,今は神の民であるからです。あなたがたはあわれみを示されない者でしたが,今ではあわれみを示された者となっているからです」。

      19 イザヤ書 5章5-7節が成就したあと,霊的イスラエルの国民はどうなりましたか。エホバが予表的「ぶどう園」のイスラエルにそそがれた注意に劣らない注意を霊的イスラエルにそそがれたのはなぜですか。

      19 幸いにして,クリスチャンで成る国民,霊的イスラエルは,エホバが象徴的「ぶどう園」である生来のイスラエルに対して,イザヤ書 5章5-7節で予告した通りのことを行なわれた後も,引き続き栄えました。ご自分が植えたものの耕作者として,エホバは「真のぶどうの木」イエス・キリストの「枝」に,必要な注意を払われました。それは生来のイスラエルという以前の「ぶどう園」に西暦33年まで向けられた注意に劣らないものでした。神がそれをなさる目的は,清い,産出的な一群の「枝」,すなわちイエス・キリストの弟子たちを所有することにあります。吸根や枯れ枝はそれら「清い」枝の間に場所を占めるべきではありません。イエスがたとえ話の中で忠実な弟子たちに次のように言われたのは,そういう理由によりました。「彼は,わたしにあって実を結んでいない枝をみな取り去り,実を結んでいるものをみな清めて,さらに実を結ぶようにされます。あなたがたは,わたしが話したことばのゆえにすでに清いのです」― ヨハネ 15:2,3。

      20 ヨハネ6章67-69節に記述されているように,11人の忠実な使徒は何を受け入れたのでイエスは彼らのことを「清い」と言われましたか。

      20 裏切り者になった使徒ユダ・イスカリオテは,イエスがこの言葉を述べられたときにいませんでした。イエスは過ぎ越しの夕食が終わったときにはすでに彼をその席から退けておられました。(ヨハネ 13:26-30)残った11人の忠実な使徒たちは,イエスの言葉,すなわちメシアの告げるおとずれを心から受け入れていました。そういうわけでイエスは彼らのことを「清い」とはっきり言われたのです。例えば,北部のカペルナウムでイエスがそれらの使徒に,「あなたがたも去って行きたいと思っているわけではないでしょう」とお尋ねになったとき,シモン・ペテロは,「主よ,わたしたちはだれのところに行けばよいというのでしょう。あなたこそ永遠の命のことばを持っておられます。そしてわたしたちは,あなたが神の聖なるかたであることを信じかつ知るようになったのです」と答えています。―ヨハネ 6:67-69。

      21 したがってそれら使徒の「枝」はどんな事柄で汚れていませんでしたか。ひそかに語られたイエスの言葉は彼らに対してどんな効力を持っていたに違いありませんか。

      21 ですからそれら忠節な使徒たちには,実を結ばない不信仰の枯れ枝などありませんでした。また非聖書的なユダヤ教という,人の心をそらす吸根も彼らには付着していません。彼らは一心に「神の聖なるかた」の目的に注意をそそいでいました。イエスを「キリスト,生ける神の子」と信じていました。(マタイ 16:16)ペテロは別の時にもイエスに対して,「ご覧ください,わたしたちはすべてのものをあとにして,あなたに従ってまいりました。実際のところ,わたしたちには何があるのでしょうか」と言っています。(マタイ 19:27)そういう決意をしたことを考えると,イエスの言葉,それも使徒たちだけにひそかに話された言葉はとくに,彼らを霊的に「清い」状態にする,清める効力を有していたにちがいありません。そういう「清い」状態を保つ「枝」はすべて,エホバの「真のぶどうの木」の唯一無二の目的に全面的に与るよう心を注ぐことができます。そのことは結局,神と人とに喜びをもたらすことになるのです。

  • 神の栄光となるような実を結ぶ
    ものみの塔 1979 | 3月15日
    • 神の栄光となるような実を結ぶ

      1 エゼキエル 15章1-5節のエホバの言葉によると,エホバはぶどうの木の本来の目的が何であることを示しておられますか。

      ぶどうの木の本当の目的は何でしょうか。その昔,最初のぶどうの木を植えた方は,ご自分の預言者エゼキエルに次のようにお尋ねになりました。「人の子よ,ぶどうの木は,森林の木々の中に生じた他のすべての木,その新芽と一体どのように違うのか。仕事に用いるさおがそれから取られることがあるか。また,何かの器物を掛けるための木くぎをそれから取るだろうか。……それが無傷の時でも,何の仕事にも用いられはしない」。(エゼキエル 15:1-5,新)ですからぶどうの木の本来の目的は明らかに,ぶどう酒が造れる味のよいぶどうの実を結ぶことです。―士師 9:13。

      2 ぶどうの木のその目的と調和して,イエスはヨハネ 15章16節の中で,どんな考えでそれら「枝」なる使徒を選んだと言われましたか。

      2 イエスと使徒たちが共に行なった最後の過ぎ越しの祝いに,ぶどう酒が登場しました。その夕食のあとイエスは「真のぶどうの木」とその「枝」の例えを話されました。そのことを念頭に置いてイエスは忠実な使徒たちに次のように言うことができました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び,あなたがたが進んで行って実を結びつづけ,しかもその実が残るようにと,わたしがあなたがたを任命したのです。それは,あなたがたがわたしの名において父[ぶどうの木を植えた方]に何を求めても,[あなたがたが実を結ぶことを考えて]父がそれをあなたがたに与えてくださるためです」― ヨハネ 15:16。

      3 季節ごとに枝のせん定が行なわれるのはなぜですか。「真のぶどうの木」の,感謝の念を持つ「枝」はこのことからどんな教訓を学ぶべきですか。

      3 たくさん実を結ぶように,ぶどうの木の枝は季節ごとにせん定されます。それはイエスが霊的「ぶどうの木」として言われたことに似ています。「彼は,わたしにあって実を結んでいない枝をみな取り去り(ます)。……わたしと結びついたままでいないなら,その人は枝のようにほうり出されて枯れてしまいます。そして人々はそうした枝を寄せ集めて火の中に投げ込み,それは焼かれてしまいます」。(ヨハネ 15:2,6)では,この例えにはわたしたちに対するどんな教訓が含まれているでしょうか。仮にわたしたちの中のだれかが霊的「ぶどうの木」の「枝」で,その特権を重んじているとしたら,その人は自分が切り払われないことを願うでしょう。ですからその人は実を,しかもたくさんの実を結ぶ必要があるのです。

      その実

      4 イザヤ書 5章7節に示されているところによると,「実」とは何ですか。

      4 しかしその実とは何でしょうか。その実,すなわちぶどうの実は,キリストの弟子たちを表わしていません。霊によって生まれた弟子たちを表わすのは枝です。枝が結ぶ実は確かに,霊感によって書かれた聖書が示している事柄を表わしています。例えば,古代イスラエルをぶどう園に例えたとき,エホバはご自分が期待していた実を明示し,次のように言われました。「万軍のエホバのぶどう畑はイスラエルの家,ユダの者たちは彼が好まれた栽培地……である。そして彼は裁きを待ち望まれたが,見よ,律法を破ることがあり,義を待ち望まれたが,見よ,[古代ソドムの叫びに似た]叫びがある」― イザヤ 5:7,新。創世 18:21; 19:13。

      5 イエスの時代に,宗教指導者たちは神の律法のどんなより重要な事柄を怠っていましたか。彼らは何を教理として教えていましたか。

      5 ですからぶどうの木を植えた方であるエホバが,予表的「ぶどう園」の実の一部として期待しておられたものは,律法を破ることや不正な行為とは反対の(公正な)裁きと義でした。イエスの時代のイスラエルには裁きと義が失われていました。エルサレムで殺される少し前,イエスは偽善的な書士とパリサイ人に向かって,「あなたがたは,はっか・いのんど・クミンの十分の一を納めながら,律法のより重大な事がら,すなわち公正とあわれみと忠実を無視している」と言われました。(マタイ 23:23)神の律法を破ったことについてはイエスはさらに,「あなたがた[パリサイ人と書士]は,自分たちの伝統のゆえに神のことばを無にしています」,「人間の命令を教理として教え」ていると言われました。―マタイ 15:6,9。

      6,7 (イ)生来のイスラエルの場合と同じく,「真のぶどうの木」の「枝」にもどんな実が期待されますか。それはどのように示されなければなりませんか。(ロ)エレミヤの時代に,イスラエルは二つの面でどのように姦淫を行なっていましたか。

      6 裁き,公正,あわれみ,忠実,義,神の律法を曲げるのではなくて守ることは,エホバが予表的「ぶどう園」のイスラエルに期待された実の一部でした。終始一貫して事を行なわれるエホバが,ご自分の「真のぶどうの木」の枝にそれらとは異なる実のなることを期待されるでしょうか。そのようなことは決してありません。それらの「枝」を飾るものとしてエホバが望んでおられる実は,キリストに似た特性を持つ人格です。しかしその実は働きのない単なる性格ではありません。

      7 人格の特徴の積極的な表現も求められます。例えば,預言者エレミヤの時代に,エホバは予表的「ぶどう園」のイスラエルが納めた実に対する失望を表明し,次のように言われました。「あなたはすべての高い丘の上,またすべての生い茂った木の下に寝そべり,売春を行なっていた……。わたしは,あなたをえり抜きの赤いぶどうの木として植えた。そのすべてがまことの種であった。それなのにどうしてわたしに対して自分を変え,異質のぶどうの,堕落した新芽となってしまったのか。……『わたしは自分を汚さなかった。バアルに従って歩かなかった』などとどうしてあなたは言い得るのか」。(エレミヤ 2:20-23,新)ですからエホバが予表的イスラエルという「ぶどうの木」に期待された実の別の部分は,道徳的清さとエホバだけを崇拝することでした。ところがエホバがご覧になった枝の実はそういうものではなく,個々のイスラエル人同士が行なう淫行や姦淫,また国民全体が周囲の異教諸国と友好同盟を結んで行なう霊的姦淫でした。―ヤコブ 4:4と比較してください。

      8 イスラエル人がエホバだけを崇拝することをしていなかったと言えるのはなぜですか。

      8 さらにイスラエル国民は,自分たちが契約を結んだ神としてエホバだけを崇拝するのではなく,バアルの像に心酔してそれを慕いまた崇拝しました。要するに予表的イスラエルという「ぶどうの木」の「ぶどう」は『ソドムのぶどう』でした。ですからその「房」は苦いものでした。したがってイスラエルという「ぶどうの木」の実には,古代ソドムで行なわれたような同性愛が含まれていました。(申命 32:32,新)その望ましくない実は,神が望まれる実と著しく対照的です。

      9 「真のぶどうの木」の「枝」は,たとえ世の憎しみを招こうとも,霊的姦淫を避けるためにどのようにしなければなりませんか。

      9 変わることのない神は,ご自分の「真のぶどうの木」イエス・キリストの「枝」にも,そのような実がなることを望まれません。それで王国級の霊的イスラエルは自らを霊的に清く保たねばなりません。この世の友となって霊的姦淫を犯してはなりません。彼らに絶対的に要求されるものは,神なるエホバへの専心の献身にほかなりません。そういう実を結ぶために世が彼らを憎んでも,何を心配することがあるでしょうか。「あなたがたは世のものではなく,わたしが世から選び出したので,そのために世はあなたがたを憎むのです」。これはユダ・イスカリオテがイエスを裏切った晩,イエスが11人の忠実な使徒たちに言われた言葉です。―ヨハネ 15:19。

      10 (イ)「真のぶどうの木」の「枝」は,何から離れておりまた何に汚れていない状態という実を結ばなければなりませんか。そのためには彼らにどんな行動が要求されますか。(ロ)イスラエル国民はその種の実を産出しなかったためにどんな損失を被りましたか。

      10 彼らがこの世の政治や紛争に関与しないようにしてこの世のものとならないことは,この世の汚れやしみのない清さという実の表われです。この実は,エホバのみ子,「真のぶどうの木」,すなわちイエス・キリストによって代表されるエホバの組織に属する者たちの特色でなければなりません。彼らはイエス・キリストの手中にある神の王国に対する全き愛情を実証しなければなりません。これには神のみ子を長い約束のメシアすなわちキリストと公に認め,受け入れることが求められます。予表的「ぶどうの木」の生来のイスラエルは,この種の実をイエスに渡しませんでした。神の王国の「実」を産出しませんでした。そのために彼らは莫大な損失を被る結果になりました。神の王国は彼らから取り去られ,要求通りの実を産出する国民,すなわち霊的イスラエルに与えられたからです。(マタイ 21:43)この新しい国民は,「真のぶどうの木」と結びついていることを示す「枝」によって構成されます。彼らはすなわちメシアなるイエスをユダヤ民族がしたように退けるのではなく,公然と受け入れ,その足跡に従うことによってその結びつきを示します。

      11 (イ)マタイ 24章14節の預言があるので,『イエスを心に受け入れる』ことのほかにまだどんなことが関係していますか。(ロ)「真のぶどうの木」に関するどんな事柄が,そのぶどうの木の「枝」の義務となっていますか。

      11 したがってこのことには,単にメシアを認め心に信ずること,キリスト教世界の福音伝道者たちがよく言うように『イエスを心に受け入れる』だけのことではなく,それ以上のことが関係しています。つまり受け入れていることを,だれにでもわかる行動によって示し実証しなければなりません。(ローマ 10:10)また,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう」というイエスの預言の成就に,直接参加しなければなりません。(マタイ 24:14)もしキリストという「ぶどうの木」の,献身しバプテスマを受けて霊で油そそがれた「枝」が,予告されていたその業に活発に参加していないなら,どうして神の王国の「実」を産出していると言えるでしょうか。このことが義務として要求されるのは,彼らが,王国の良いたよりを伝道すべく主権者なる主エホバの霊で最初に油そそがれた方の「枝」であるからです。(イザヤ 61:1-3。ルカ 4:16-21)「ぶどうの木」の茎がそうであるなら,樹液を吸う「枝」もまたそうであるべきです。

      12 1914年以来,マタイ 24章14節はどのように大規模に成就されなければなりませんか。それだけの範囲に「この良いたより」を宣べ伝える責任はだれにかかっていますか。

      12 マタイ 24章14節の預言は,西暦第一世紀,すなわちキリストが昇天されて神のみ前に出られた時から,ローマ人がエルサレムを破壊した西暦70年までに,部分的に成就しました。しかしその成就は,1914年から現在に至るまでのその預言の大々的な成就を予示するものでした。1914年の秋に異邦人時代が終わり,天で神のメシア王国が誕生しました。イエス・キリストの共同相続者としての「枝」は,せいぜい14万4,000本ですから,キリストなる「ぶどうの木」がその「枝」を出しはじめてから19世紀以上たった今日では,それらの枝のわずかな残りの者が生きていて王国の実を産出しているにすぎません。(啓示 7:4-8; 14:1-3)「この王国の良いたより」をすべての国民が聞くように全世界に宣べ伝える責任は,この残りの者にかかっています。

      13 ぶどうの木の「枝」の残りの者が産出したどんな「実」によって,イエスの父は全世界で栄光をお受けになりましたか。

      13 宣べ伝えよとのご命令に従うという実を結んだことは,エホバ神に栄光を帰す結果となりました。イエスはご自分の「枝」を励ますために,「あなたがたが多くの実を結びつづけてわたしの弟子であることを示すこと,これによってわたしの父は栄光をお受けになる」と言われましたが,その通りになりました。(ヨハネ 15:8)マタイ 24章14節が最終的な成就をみる今の時代に,その「枝」の残りの者は「多くの実」を結んできたでしょうか。戦後の年西暦1919年以降の期間に関する,手元にある記録を調べるなら,わたしたちは,はい,と言う以外にはありません。その「実」の産出によって,エホバ神は全世界で栄光を受けてこられました。

      「ぶどうの木」に結びついている

      14 「枝」の残りの者が多くの実を産出するには,イエスとの固い結びつきが必要であるということを,イエスはヨハネ 15章4-6節でどのように示しておられますか。

      14 西暦1914年の第一次世界大戦ぼっ発以後の動乱期に多くの実を産出するには,「枝」はキリストなる「ぶどうの木」に強く結びついている必要がありました。キリストの次の言葉は,産出的な「枝」の残りの者に確かに当てはまりました。「わたし[真のぶどうの木]と結びついたままでいなさい。そしてわたしはあなたがたと結びついたままでいます。枝がぶどうの木にとどまっていないなら,それだけでは実を結ぶことができないのと同じように,あなたがたもわたしと結びついたままでいないなら,実を結ぶことができません。わたしはぶどうの木,あなたがたはその枝です。わたしと結びついたままでおり,わたしが結びついたままでいる者,その者は多くの実を結びます。わたしから離れては,あなたがたは何も行なえないからです。わたしと結びついたままでいないなら,その人は枝のようにほうり出されて枯れてしまいます。そして人びとはそうした枝を寄せ集めて火の中に投げ込み,それは焼かれてしまいます」― ヨハネ 15:4-6。

      15 (イ)もし使徒たちがイエスにつき従っていなかったなら,ご自分とかかわりのある何に彼らを任ずることをされなかったでしょうか。(ロ)残りの者が,国際連盟を支持すると同時に「真のぶどうの木」に結びついたままでいることができなかったのはなぜですか。

      15 イエス・キリストは,もしそれらの「枝」が苦難の時でもご自分に固くつき従わなかったなら,ご自分とかかわりを持つ天の王国を彼らに任ずることはされなかったでしょう。(ルカ 22:28-30)主権者なる主エホバの霊で油そそがれた状態を保つには,彼らは「ぶどうの木」の茎であるイエスと結びついたままでいなければなりません。そうしなければ,天の王国で彼らが将来占める場所は彼らから取り去られます。(啓示 3:5,11)したがって,1914年に異邦人時代が終わり,天における神のメシア王国の誕生が明らかにされたとき,油そそがれた「枝」の残りの者は何をしなければならなかったでしょうか。それは,栄光を受けられたイエス・キリストを,神が即位させたメシアなる王として,忠節を尽くしてたたえることでした。イエス・キリストと結びついたままでいるためには,国際連盟のような,全地を治める正当な権利を持つ王国の人間製の代用物を支持してイエスを否定するようなことは,決してすべきではありませんでした。彼らはイエスと結びついたままでいましたから,イエスも彼らとの結びつきを断たれませんでした。

      啓示 7章9-17節の「大群衆」

      16 (イ)第二次世界大戦は「大群衆」とぶどうの木の「枝」の残りの者との関係にどのように影響しましたか。(ロ)国際連合に関して「大群衆」はだれと同じ態度を取りましたか。なぜですか。

      16 平和機構としての国際連盟が存在していた期間の最後の四年間に,「真のぶどうの木」の枝が差し出した王国の実によって喜びを抱いた男女の「大群衆」が予告されていた通り形成されはじめました。油そそがれた残りの者と交わっていたために,彼らは第二次世界大戦中にひどい苦難と試練に遭いましたが,それでもそれら王国の「実」を結ぶ人々から離れ去るようなことはしませんでした。「真のぶどうの木」である即位された王に忠誠を尽くすには,その「枝」すなわち王の霊的兄弟たちに対して忠節でなければならないことを彼らは知っていました。(マタイ 25:31-40)彼らはキリストの「兄弟」たちと共に,国際連合機構という形でよみがえった世界平和と安全のための機構を受け入れることを拒みました。エホバのメシア王国のこのよみがえった代用物を支持せずに,王国相続者の残りの者と共に,エホバの証人として伝道をつづけました。

      17 (イ)ひゆ的な意味で「ぶどうの木」の下に住むということになると,「大群衆」はこの地上でどの「ぶどうの木」の下に住むほうを好みますか。(ロ)以前はどの「ぶどうの木」の下に住んでいましたか。

      17 ひゆ的な意味でこの地上で自分のぶどうの木といちじくの木の下に安らかに住まうということになると,その「大群衆」は何を好むでしょうか。彼らは「真のぶどうの木」とその「枝」の下に住まうほうを好みます。それは神の王国を表わしているからです。(ミカ 4:1-4)「真のぶどうの木」であるイエス・キリストの支配下にある,エホバの新しく誕生した王国の良いたよりを学ぶ前は,彼らは別のぶどうの木 ―「地のぶどうの木」の下に住んでいました。(啓示 14:19)それはどんな種類の「ぶどうの木」ですか。それは世界的政治機構です。人間の支配者たちはそれによって世界支配を継続しようとしており,そうすることによってエホバのメシア王国に対抗します。

      18 「真のぶどうの木」の「枝」はなぜ「大群衆」に「地のぶどうの木」の下から出ることを勧めましたか。

      18 エホバが植えられた「ぶどうの木」のよく実を結ぶ「枝」は,「地のぶどうの木」の下から出るように「大群衆」の人々に勧めました。彼らはもはや,人の命を奪うその有毒なぶどうとぶどう酒を飲み食いすべきではありません。なぜそう言えますか。なぜならその「ぶどうの木」は,啓示 14章18-20節に予告されているように滅びに定められているからです。そこにはこう記されています。

      「さらに別の使いが祭壇から現われたが,彼は火に対する権威を持っていた。そして,鋭いかまを持つ者に大声で呼ばわって言った,『あなたの鋭いかまを入れて,地のぶどうの木の房を集めなさい。そのぶどうは熟したからである』。すると使いはかまを地に突き入れて,地のぶどうの木の取り入れを行ない,それを神の怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだ。そして,その酒ぶねは都市の外で踏まれ,酒ぶねから血が出て馬のくつわに届くほどになり,千六百ファーロングの距離に及んだ」。

      ここでは一つの象徴的なぶどうの木が別の象徴的なぶどうの木に敵対しています。栄光を受けたイエス・キリストすなわち「真のぶどうの木」は,敵であるぶどうの木すなわち「地のぶどうの木」を粉砕されるのです。300余キロの長さにおよぶ深い酒ぶねを踏むのに用いられる「馬」は,イエス・キリストの軍馬とみ使いの軍隊です。―啓示 19:11-15。

      19 (イ)神の怒りの「酒ぶね」は神の霊的「ぶどう園」のために備えられているのではありません。それはなぜですか。(ロ)「大群衆」が「いばらや雑草」のようなものをそのぶどう園に持ち込むことは,なぜ彼らに害となりますか。

      19 神のその「怒りの酒ぶね」は,反キリストの「地のぶどうの木」のために備えられています。しかし一方,神は戦後の年の1919年に霊的イスラエルの残りの者に再び恵みを示されて以来,この象徴的もしくは霊的「ぶどう園」に対して何の「怒り」も抱いておられません。むしろこの霊的イスラエルの「ぶどう園」が産出的なものになってご自分の栄光となるようにこれを監督してこられました。この「ぶどう園」には,多くの実を産み出すことを妨げてその産出力を奪ってしまういばらや雑草のようなものが占める場はありません。(ルカ 6:44)したがってエホバの「ぶどう園」をいま支持している「大群衆」は,いばらや雑草のような間違ったものを持ち込むべきではありません。そういうことをすると「大群衆」が害を被る結果になるでしょう。なぜならエホバは,ご自分の霊的「ぶどう園」を十分に産出的なものにするという不変の目的に従って,そのような「いばらと雑草」と戦われるからです。エホバはそれを踏み砕き,それから火で焼くようにそれらを焼き尽くしてしまうでしょう。―イザヤ 27:4,新。

      20 「大群衆」はエホバとのどんな関係を求めるべきですか。彼らはエホバの「ぶどう園」に対するどんな歌を歌うことに加わるべきですか。

      20 「大群衆」がエホバと和解し,エホバを喜ばせる事柄を行なう力を得られるよう,エホバの「とりで」すなわち力の貯蔵所をつかむべき時は今です。エホバの「ぶどう園」霊的イスラエルに向かって今歌われている歌の歌詞を,彼らが心に銘記するのは時期にかなったことです。「その日彼女に向かってこう歌え,あなたがた民よ。『あわ立つぶどう酒のぶどう畑よ! わたし,エホバが彼女を安全に守っている。絶えずわたしは彼女に水を注ぐであろう。だれも彼女に敵して注意を向けることのないよう,わたしは夜も昼も彼女を安全に守るであろう。わたしの抱く憤激はない。戦闘においてだれがわたしにいばらと雑草を与えるだろうか。わたしはそれらを踏みつける。わたしはそれらに同時に火をつける。そうでなければ,彼にわたしのとりでを取らせ,わたしと和ぼくさせよ』。来たるべき日々においてヤコブは根付き,イスラエルは花をつけ,実にもえ出る。そして彼らは産出的な土地の表を産物で満たす」― イザヤ 27:2-6,新。

      21 (イ)霊的ヤコブもしくはイスラエルの残りの者はどの程度その生産性の高いことを示すべきですか。(ロ)エホバが彼らのために地を肥沃にされたことは,どんなことからわかりますか。

      21 今は霊的ヤコブもしくはイスラエルの残りの者が,命を支える産物で地の表を満たすことにより,自分たちの生産性の高さを示す「日」です。エホバは全地を肥沃にされました。というのは200以上の国で,残りの者が行なう王国についての証言に幾百万もの人々がこたえ,エホバを宇宙主権者とし,イエス・キリストを今全地を治める王の資格で支配する権威を与えられている方としてたたえる「大群衆」を形成する人々が現われたからです。―啓示 7:9-17。

      22 「真のぶどうの木」の「枝」の残りの者が豊かに実を結んだこと,また「大群衆」が豊かに実を結んだことは,神に対してどんな影響を及ぼしましたか。

      22 「真のぶどうの木」の「枝」が実を結んだことは,耕作者のエホバ神にとって確かに栄光となりました。クリスチャンとしての彼らの働きの結果としてその「大群衆」は,この忠節な「ぶどうの木」とその「枝」のようなすばらしいものを植え培われたこの神に栄光を帰しているのです。よく実を結ぶ「ぶどうの木」とその「枝」に倣い,「大群衆」の人々も,敬虔な人格の特性すべてを培いまたそれをエホバの栄光のために積極的に表わし示す点で豊かに実を結び,不毛の状態にならないように努力しています。

      [25ページの図版]

      よく実を結ぶ残りの者と「大群衆」は,神のみ使いが「地のぶどう」を刈り取る時に保護を受ける

  • バルク ― 預言的音信を受けた書記官
    ものみの塔 1979 | 3月15日
    • バルク ― 預言的音信を受けた書記官

      西暦前七世紀の最後の四半世紀の間,バルクは預言者エレミヤの書記官として働きました。バルクの時代のイスラエル人は,エホバの言葉を少しも顧みず,勝手気ままな道を歩んでいました。ですから,エレミヤの指示の下にバルクが記録した預言の大半は,災いの到来を指し示していました。一般の民にとって,こうした預言は鼻持ちならないものであったため,バルクは預言者エレミヤと共に不快な経験を味わうことになりました。ある時,バルクは,周囲の圧力と預言の音信の内容そのものに動揺して,正しい判断力を失ってしまい,自分に向けられた特別な預言の音信を受けることになりました。

      エホヤキム王の第四年に,エレミヤは,エルサレムがカルデヤ人の手によって滅ぼされるという預言の音信を口述し,それをバルクに記録させました。バルクは,翌年の晩秋の特別な断食の日に,自分の筆記した巻き物を携えて,神殿の中庭に姿を現わしました。なぜエレミヤではなくバルクが行ったのですか。エレミヤはそこへ行くのを妨げられていましたが,それは恐らく,神殿の役員の布告のせいでしょう。そのため,エレミヤは,集まっているイスラエルの人々にエホバの言葉を読み聞かせるべくバルクを遣わしました。公に朗読されるこの言葉を聞いた人の中に,ミカヤという名の男がいました。ミカヤは,直ちに,エホヤキム王の書記官やつかさたちにこれを報告しました。―エレミヤ 36:1-13。

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