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第2部 ― アメリカ合衆国1976 エホバの証人の年鑑
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た。三人は1939年10月23日と24日にニューヨーク市の特別法廷で三人の裁判官(ローマ・カトリック教徒ふたりとユダヤ人)によって審理されました。裁判で,場内整理係がマジソン・スクウェア・ガーデンの妨害の起きた一画へ妨害者を取り除くために入って行ったことが明らかにされました。暴徒に襲われるにいたって,案内係は抵抗し,その急進的なグループに属する数名の人を断固とした態度をもって処理したのです。検察側の証人は多くの矛盾する証言をしました。法廷は三人の案内係を無罪としたばかりか,証人の案内係はその権限内で行動したことも明らかにしました。
世界大戦は暴力の炎をあおる
暴徒の暴力行為は1939年のエホバの証人の大会の時に勃発しましたが,彼らに対する暴力の炎があおられて非常に強くなったのは,世界が戦争に入った時でした。アメリカがドイツとイタリアと日本に宣戦を布告したのは1941年の末でしたが,国家主義の精神はそれよりもずっと以前から高まっていました。
第二次世界大戦勃発直後の数か月間に,エホバ神はご自分の民に優れた備えを設けられました。1939年11月1日号の英文の「ものみの塔」誌に「中立」と題する記事が載せられたのです。見出しの聖句には,ご自分の弟子について語ったイエス・キリストの次のことばが出ていました。『我の世のものならぬごとく,彼らも世のものならず』。(ヨハネ 17:16,文語)クリスチャンの中立に関するそうした聖書の研究は,まさに適切な時に,前途の難しい時代に対してエホバの証人にあらかじめ備えをさせるものでした。
王国農場で焼打ちの脅威にさらされる
ニューヨーク州サウス・ランシングに近い王国農場は,協会本部職員にくだもの,野菜,肉,牛乳,チーズを供給する大きな働きをしていました。ダビデ・アブールは,王国農場の平和と安全が破られた1940年の当時そこで働いていました。同兄弟はこう語っています。「1940年6月14日の旗の日の前夜,サウス・ランシングの居酒屋へウイスキーを買いに行くために毎日通る老人から,町の人々とアメリカ世界大戦参加軍人会の人々が協会の建物を焼き払い,機械を破壊する計画をしていることを知らされました」。治安官に連絡がなされました。
ついに敵が現われました。当時農場のしもべだったジョン・ボガードは,以前に,その騒動の模様を生き生きと話してくれたことがあります。「晩の6時ごろ,車が次から次へとやって来て一味が集まり始め,ついに30台から40台になりました。治安官とその部下が到着し,運転手を止めて免許証を調べ,王国農場にいかなる手出しもしないようにと警告し始めました。一味は夜遅くまで協会の土地の前を走る高速道路を車で行ったり来たりしていましたが,警官がいたために高速道路から出ることができず,農場をこわす計画は失敗しました。農場にいたわたしたちみなにとってそれはほんとうに興奮の夜でした。しかし,わたしたちはご自分の追随者に対する,『あなたがたは,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう。それでも,あなたがたの髪の毛一本すら滅びることはありません』というイエスの保証のことばを鮮明に思い出しました。―ルカ 21:17,18」。
こうして,威嚇攻撃と計画的焼打ちは回避されました。推定1,000台の車が,4,000人ぐらいの人々を乗せて,協会の王国農場の資産を破壊するためにニューヨーク州西部の各地からやって来ましたが,無駄に終わりました。「あの人たちの目的は失敗しました。そして,まさに暴徒に加わっていた人のうちいく人かが今エホバの証人になっていて,全時間奉仕者になっている人たちさえいます」とカスリン・ボガードは語っています。
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第3部 ― アメリカ合衆国1976 エホバの証人の年鑑
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第3部 ― アメリカ合衆国
リッチフィールドで暴力行為が勃発
王国農場が襲撃と焼打ちの脅威にさらされていたのと同じ頃,イリノイ州のリッチフィールドでもエホバの証人に対するいやがらせの火の手が上がりました。クラレンス・S・ハゼイは次のように回顧しています。「リッチフィールドの暴徒たちは何かの方法でわたしたちの計画をかぎつけ,わたしたちが奉仕のために町に入った時には,彼らは待ちかまえていました。町の司祭が教会の鐘を鳴らして合図すると,彼らは兄弟たちを取り巻き始め,町の刑務所に連れて行きました。数人の兄弟はひどく殴打され,暴徒たちは刑務所を焼き払うと脅しさえしました。そのうちのある者は兄弟たちの車を見つけてこわし始め,がらくた同然にしてしまいました」。
ウォルター・R・ウィスマンはこう語ります。「暴徒に殴打された後,兄弟たちは州の高速道路巡視隊によって刑務所に集められ,保護されました。一兄弟チャールズ・セルベンカは,国旗に敬礼することを拒否したため地面にたたきのめされ,顔に旗を押し付けられ,頭やからだのあたりをしたたかけられたり打たれたりしました。彼は兄弟たちのうち一番ひどく傷つけられ,殴打のあとが完全には良くならず,2,3年後に亡くなりました。後日,彼は話していましたが,これが比較的新しい兄弟にでなく自分にふりかかってよかった,自分はこれをがまんできるが,新しい人は弱くなって妥協するかもしれないから,と打たれながら思ったそうです」。
ウィスマン兄弟はさらに次のように回顧します。「リッチフィールド市は,それをやり遂げたことを非常に誇りにしていました。事実,何年も後の1950年代に,リッチフィールドは百年記念祭を催して,同市の100年の歴史で際立った出来事を描いた山車を作りましたが,その山車のひとつは1940年にエホバの証人を襲撃したことを記念するものでした。市の当局
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