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御国の事を第一に保つものみの塔 1959 | 10月1日
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御国の事を第一に保つ
『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう。』― マタイ 6:33,新口。
1 神の御国に対する一般人の態度は何ですか。大多数の人々は,どんな立場にいますか。
大多数の人々はその生活中,キリストの支配する神の御国にはほとんど注意を払いません。更に際立つものとして,この世の考え方をつくりあげる人々は,その御国にたいする興味をすこしも持つていません。さらに,彼らはできるだけ大ぜいの人々に妨害を及ぼして,興味を持たせまいと決意しています。世界の事柄に責任を持つ人々は,人々を束縛した状態に保つため,人間の利害ということにつけこんでいます。彼らの設ける生活の仕方に従うとき,人は特定な道を否応なく通らなければならず,そして生き残るためにはその道を通らねばならぬと感じます。その結果として,また多くの場合に自分の身を守る手段として,人間は別の可能性を見ようとせず,いちばん抵抗の少い道に従いつづけようとします。
2 悪鬼の支配する考え方から離れるために,人はどんな道を選ばねばなりませんか。その道の知恵について,イエスはどんな保証を与えましたか。
2 このすべてのものの上には,この世の神がいます。その者はすべての人を御国から引きはなすことに最大の関心を払つています。しかし,神は救いの道としていま御国をさしのべられているのです。それですから,この世と同じ活動に加わらず,また悪鬼の支配する考え方にまき込まれないようにするため,神の御国の事を生活上第一のものにすることは必要です。次の言葉を述べられたイエスは,クリスチャンたちにその道を示しました,『何を食べようか,何を飲もうかと,自分の命のことで思いわずらい,何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり,からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも,刈ることもせず,倉に取りいれることもしない。それだのに,あなたがたの天の父は彼らを養つていて下さる。あなたがたは彼らよりも,はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち,だれが思いわずらつたからとて,自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また,なぜ,着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育つているか,考えて見るがよい。働きもせず,紡ぎもしない。しかし,あなたがたに言うが,栄華をきわめた時のソロモンでさえ,この花の一つほどにも着飾つてはいなかつた。きようは生えていて,あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ,神はこのように装つて下さるのなら,あなたがたに,それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ,信仰の薄い者たちよ。だから,何を食べようか,何を飲もうか,あるいは何を着ようかと言つて思いわずらうな。これらのものはみな,異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は,これらのものが,ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう。』― マタイ 6:25-33,新口。
3 イエスは,この助言を誰に与えましたか。それに従うことは,何に依存しますか。
3 ヱホバの御国の主要な代表者が与えたこのいましめは,次の約束を示します,すなわち神はこの世の束縛からの自由解放を与え,そして神の律法に従い,神の政府の事を生活中に第一とする人々の必要物をまかなうということです。(詩 18:20。シンゲン 13:13。ヘブル 11:6)イエスは,すでにヱホバの僕たちになつた者たちだけに語つていたのではありません。このいましめの言葉は,彼の『山上の垂訓』の一部です。彼は幾世紀ものあいだ,神の道に従つて良い生活を求める全国民の人々に話しかけていたのです。その理由の故に,今日キリスト・イエスに従うと称するすべての人々は,これらの言葉を真剣に考え,この世における自分自身の利害と立場と照らし合わせるべきです。ヱホバが必要なものを備えたまう力を持つておられることは,イエスがここで指摘しておられるごとく,疑問の余地がないものです。それですから,この世に依存することが必要であるなどと感ずるべきではありません。それで,クリスチャンのとる道は全く信仰を持たねばならぬものとなります。そして,自分自身の利害は進んで神の御国の事の次にしなければなりません。
4 御国のことと個人の関心事とのあいだには,どんな関係が存在しなければなりませんか。
4 この見地を取るとき,クリスチャンの持つ一切の関心事は,御国についての関心事となります。パウロは次のように述べています,『何をするにも,人にではなくヱホバに仕えるように心から働きなさい。』(コロサイ 3:23,新世)食物は自分の食欲をみたすためだけのものでなく,クリスチャンの身体が強められて自分に割り当てられた宣教の仕事をするためです。この世の仕事にたいするクリスチャンの興味は,自分自身と家族のために衣食住を得て,神の奉仕を行いつづけることができる,という程度でなければなりません。仕事の面での出世は,クリスチャンの主要な興味であつてはなりません。社会的な活動にも強く注意して,十分の制御をかけねばならず,御国の活動についての彼の考えは刺戟をうけて励まされ,正しい方に進むようにします。御国の事に献身することは,足ることを知る生活となります。どん欲と利己主義は多くのかなしみをもたらします。パウロも次のようにさとしているのです,『信心があつて足ることを知るのは,大きな利得である。』― テモテ前 6:6,新口。
5 ノアは,関心事の正しい釣合という点で,どのような模範となつていましたか。
5 正しい平衡は,信仰を持つことに依存します。もし,ノアのような信仰を持つならば,私たちはこの世の中でも生活することができます。この世は,神の与え給うた関心事を個人的な目的や利己的な目的に向けてしまいました。しかし,私たちは私たちの釣合と,神の与えたもうた責任に対する関心を保ちつづけることができます。ノアはそういたしました。ノアは結婚しており,ノアの子供たちも結婚していました。しかし,彼の家族の関心事や,家族に食物や飲物を供給しなければならぬことは,箱船を建造するという神からの任命の仕事を妨害しませんでした。彼は仕事のことに思いをめぐらしたために,その仕事は成功してノアは世の終りに生き残りました。ノアは御国のことを第一にしたため,正義の伝道者と呼ばれ,パウロは彼のことを次のように述べています。『信仰によつて,ノアは…世の罪をさばき,そして,信仰による義を受け継ぐ者となつた。』(ペテロ後 2:5。ヘブル 11:7,新口)ノアは,彼の生存した世に対して模範になつただけでなく,彼について述べたキリスト・イエスの証言の言葉からも,ノアは現在の組織制度に対する模範でもありす。(マタイ 24:37-39)それですから,神の御国の事を第一にする人々は,不安定ということを心配する必要はありまん。
6 なぜヱホバの証者は,この世の諸政府に対してそのような態度を取るのですか。しかし,ある人々は彼らの態度をどのように見なしますか。
6 ヱホバの証者は,神の御国の事を生活中に第一のものとしました。それで,事情を正しく知らないある人々はこの世の政府に対するヱホバの証者の関係と態度について疑惑の目を向けています。これらの諸国家が自給できるもので,人々の必要物を供給することができるものであるなら,神の御国は必要ではないでしよう。しかし,イエスは神の御国が来るように,そして神の御心が地にも行われるように祈れと弟子たちに教えました。(マタイ 6:10)この祈りの中に述べられている希望にクリスチャンたちが依存して,その希望にむかつて働いたにしても,彼らを非難することは全く当りません。この世の諸政府に依存する人々は,次のように自問すべきです,すなわちもしイエスが今日地上にいるなら,彼はどの国の旗を敬礼するでしようか。彼はどの国のために戦うでしようか。彼はどの政党に投票しますか。イエス・キリストの場合はちがう,というような論議は意味をなしません。イエス自身もこう言われました,『弟子はその師以上のものではないが,修業をつめば,みなその師のようになろう。』(ルカ 6:40,新口)イエス・キリストの誠実な弟子たちは,事柄にたいする彼の見方に興味を持ち,そしてイエス御自身の取る道を取ろうと努力するでしよう。クリスチャンと称する多くの人々は,キリスト・イエスの絵が神の政府を代表するものと認めず,その前に頭を下げたり敬礼したりしないでしよう。それは偶像崇拝の行ないと思われるからです。しかし,彼らはこの世の国の象徴の前では類似の行ないをするのです。神の御国の事を第一にする者たちにとつて,そのような行ないのすべては主の祈りと一致するものでなく,また神の御言葉の原則とも一致するものではありません。そして,神の関心事を滅ぼして別の主権者に仕えることになります。神の御国に真実の良心を保つクリスチャンは,このことをすることができません。
7 神の御国のことを第一に保つているヱホバの証者は,なぜ国家の安全を脅かしませんか。
7 神と神の御国の事に専心の献身を捧げても,国家の安全に危険をもたらすものではありません。イエス・キリストの宗教的な反対者たちは,イエス・キリストのことを暴動家と非難しましたが,彼は暴動家ではありません。(ルカ 23:2)彼はこの世の事柄で政治的に活動することを拒絶しました。彼は次のように言われています,『だれも,ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し,あるいは,一方に親しんで他方をうとんじるからである。』(マタイ 6:24,新口)イエスの述べたそのような助言に従うヱホバの証者は,これらの政府の関心事に介入することを拒絶しました。しかし,そのことで彼らは暴動の者となるわけではありません。過去においてヱホバの証者が,投票とか,国旗に対する敬礼とか,軍隊の参加というような愛国主義的の義務を拒絶したことは,ヱホバの証者が国の安全を危険なものにしないということを保証するものです。なぜなら,彼らはそれと同じ時に他のすべての国々でも同じ様な活動をさしひかえていたからです。それで,ある国が侵略の脅威を示しても,それはヱホバの証者の責任ではありません。国家に重大な問題を投げかけるのはヱホバの証者ではありません。全世界にわたる彼らの中立の立場は,干渉しないこと,侵略しないことを約束するものです。それらは『敵』国の署名する一切の条約よりも信頼のおける堅いものです。それは神と神の御国のことに捧げる専心の献身に依存しています。この絆を破るなら罰を受けます。
8 この世の偽わりの宗教は,諸国民の安全についての責任において,どのようにちがいますか。
8 最も悪い種類の宗教とは,国家の政治に介入して,諸国民の考えをつくりあげることを助け,互に反対させる宗教です。しかし,これらは最も顕著な宗教で,人々のあいだでいちばん尊敬されているものです。もちろん,国が侵略国になると,それらの宗教はそれについての責任をすこしも持たないと主張し,潔白であるように努めます。しかし,『霊的なみちびき』としての彼らに従う青年たちの血は,戦列の両方の側から天に上ります。『クリスチャン』兄弟は『クリスチャン』兄弟を殺すからです。(イザヤ 1:15)そのように『承認された宗教』が神の御国のことを第一にしなかつたため,地は無実な血で染まりました。進歩的で実際的な考えを持つ人々は,地上の国の利害よりも神の政府のことを重んずるヱホバの証者を非難する前に,その事柄を真剣に考慮するでしよう。
9 ある人々は御国の音信を聞かないどんな理由を挙げますか。しかし,ヱホバの証者はそのような理由をどのように見なしますか。
9 ヱホバの証者の目的とわざを良く知らない多ぜいの人々は,次のように信じています,すなわち或る宗派の会員になつているならヱホバの証者の提出する神の御国の音信を考慮しなくても良い,ということです。自分は或る教会制度の会員であるとヱホバの証者に言う人は,教会員がその信仰において誠実であると常に仮定しています。しかし,ヱホバの証者は神の御国のことを第一に保つて献身しているため,聖句について考え,注意を向けるように励まします。
10 イエスと洗礼者のヨハネは,多数のユダヤ人により,どのように見なされましたか。その結果,これらのユダヤ人たちは何を失いましたか。
10 イエスはその当時において模範を残しました。彼自身はユダヤ人であつて,その宣教の3年半のあいだ神の御国の良いたよりをユダヤ人たちに伝道しました。ユダヤ人にとつては,これは新しい教理でした。ユダヤ人にとつては,それはモーセを通して神が与えた律法から変化したものでした。多数のユダヤ人にとつては,イエス・キリストと彼に従つた者たちは背教者であつて,避けねばならぬ者または殺されるべき者でした。しかし,そのようなつらい仕打を受けても転向を拒絶して,彼の言葉に耳を傾け,モーセの律法および他のヘブル語聖書と照らし合わせて注意深く調べた人は,真実に神の代表者になりました。そして,彼らに対する神の音信を担う者と認められたのです。イエスの先駆者であつた洗礼者ヨハネは,新しい契約を受け入れるようユダヤ人に呼びかけていませんでした。イエスは,後日そのことをするよう呼びかけたのです。しかし,ヨハネは宗教的なパリサイ人やサドカイ人によつて捨てられました。彼は宗教指導者たちが幾世紀にもわたつてつくり上げた言伝えと行いを捨てるよう正直な心を持つユダヤ人に呼びかけたからです。全くの盲目であつて,自分自身の関心事に没頭し切つていて彼の言葉に耳を傾けなかつた者たちは,モーセの時代以来ユダヤ人の国民にたいする最重要な希望の機会を失つたのです。それは,メシヤが来られたときにメシヤに会うという機会を失つたのです。
11 これらのユダヤ人たちは,どんな議論にもとずいて,自分たちの道は正しいと感じましたか。しかし,イエスは彼らの認識の不足をどのように表明しましたか。
11 ユダヤ人の或る者たちは,そのような行いをしても正しいと感じたにちがいありません。彼らの国は,モーセを通して与えられた神御自身の律法の上に設立されたではありませんか。彼らの指導者たちが占めていた地位は,神によって定められたものではありませんか。しかし,イエスが長く待ち望まれていたメシヤとして自分の身を捧げたとき,彼はモーセの座に坐ると主張した人々に頼りませんでした。彼は神の政府に反対する者たちを御国の相続者にすることができませんでした。かえつて彼は,漁夫とか,さげすまれていた税金取立人とか,人々のあいだで軽んぜられていた他の者たちを御自分のもとに集められたのです。彼は御自分の使徒たちをこのように選ぶことにより,次のことを示しました,すなわち神により受けいれられることは,信仰とその信仰に一致するわざにもとずく,各個人的な事柄なのです。神は,地位とか又は宗教的な先祖の偽りの『家柄』などに従つて召しません。
12 (イ)イエスをメシヤとして受け入れなかつた事に対して,なぜユダヤ人たちには言訳がありませんでしたか。彼らの責任は,今日のクリスチャンにより,どのように見なされていますか。(ロ)今日,クリスチャンと称えるすべての人は,どんな質問を自問すべきですか。彼らは,何を失う危険にいますか。
12 しかし,メシヤのわざをしらべようとしなかつたユダヤ人に対して,神は見のがすこともせず又ゆるそうともしませんでした。イエスは,彼らにこう強くすすめました,『もし私が父のわざを行わないとすれば,私を信じなくてもよい。しかし,もし行つているなら,たとい私を信じなくても,私のわざを信じるがよい。そうすれば,父が私におり,また,私が父におることを知つて悟るであろう。』(ヨハネ 10:37,38,新口)今日すべてのクリスチャンは,イエスがユダヤ人のあいだで行つたわざの価値を認めると主張します。今日では,幾世紀という時が経つて正しく見えるからです。しかし,仮にイエスの時代に生活していたとするなら,私たちの決定はそれほど簡明なものだろうかと自問すべきでしよう。その質問に対する答は,今日神の御国のことに対する私たちの態度の中に見出されます。私たちは神にたいして正直であると真実に言えますか。それとも自分自身について正直ですか。神にささげる専心の崇拝という点においても,又神の御国の事にたいする献身という点でも霊的な助言者としての資格を持たぬ人々のゆえに,私たちは盲目にされますか。または正道からわき道にそらされますか。もしそうなら,イエスの初臨以来クリスチャン会衆にたいする最高の希望であつた機会を必ず失います。すなわち,イエスが再臨したときに彼を歓迎し,そして彼の御国支配の祝福に入るという機会を失うのです。
13 パウロとペテロは,このクリスチャンの希望を失う危険について,どのように警告しましたか。
13 パウロはこう警告しました,『哲学や空しい欺きで,あなた方をとりこにしようとする人のいることに注意しなさい。それらは人の言伝えやこの世の初歩の事柄に従うのであつて,キリストに従うものではない。』(コロサイ 2:8,新世)そのような者たちは,ペテロが次のように述べている者たちです。『まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが,あざけりながら出てきて,自分の欲情のままに生活し,「主の来臨の約束はどうなつたのか。先祖たちが眠りについてから,すべてのものは天地創造の初めからそのままであつて,変つてはいない」と言うであろう。』(ペテロ後 3:3,4,新口; エゼキエル 13:8,16)これらの者たちは御国の音信を全く排斥し,キリストの臨在を指し示す一切の証拠に注意を払わず,この世の組織制度に捕われつづけます。
14 どんな他の見地は,キリストの臨在についてある人々を躓かせますか。彼らはどんな誤解にもとずいてこの立場をとりますか。
14 他の人々は,キリストはいま臨在していないが,間もなく来るという見方でつまずいています。彼らは,イエスが与えた再臨を指し示す証跡に,その見地を立脚させています。そして,これらの状態はすでに存在していると認めているのです。しかし,それらの人々は,これらの証跡が次の事実を証明するためにイエスによつて与えられたことを認めないのです。すなわち,イエスはすでに戻られたのであつて,彼の再臨はそのような証跡の後に来るものでないという事実です。弟子たちはイエスにこう尋ねました,『あなたの臨在とこの組織制度の終りのしるしはどんなものですか。』(マタイ 24:3,新世)いまキリストを目で見ることはできません。しかし,彼がこれらの証跡をもつて現に臨在しているということを反証することはできないのです。再臨のとき,イエスは人間の目によつて見られることを望まれたなら,なぜしるしが必要ですか。
15 (イ)黙示録 1章7節とヨハネ伝 14章19節をどのように調和することができますか。(ロ)テモテ前書 6章14-16節とヘブル書 1章13節はキリストの再臨について,どのように解明を与えていますか。
15 目に見える再臨を主張する或る人々は,黙示録 1章7節を引用します。それは,こう述べています『見よ,彼は雲に乗つてこられる。すべての人の目…は彼を仰ぎ見るであろう。』(黙示 1:7,新口)しかし,イエスは死ぬ前に明白にこう語りました,『もうしばらくしたら,世はもはや私を見なくなるだろう。』(ヨハネ 14:19,新口)これは真実のことですから,黙示録の言葉は理解の目で彼を見るということです。もしそうでないなら,テモテ前書 6章14-16節のパウロの言葉は,意味をなさないものになるでしよう。彼はキリスト・イエスについて語り,『(彼は)近づきがたい光の中に住み,人間の中でだれも見た者がなく,見ることもできない方である。』キリストが人類を訪れても,人の目では見えません。それの可能なことは,イスラエルの記録からも明白です。その記録によると,神はしばしばイスラエルの国民を訪れましたが,人々は彼を見なかつたのです。(創世 50:24。ルツ記 1:6)聖書を研究している人は,みな神を見て生きる人はひとりもいない,とすぐに認めます。しかし,ヘブル人に手紙を書き送つたパウロは,イエスについて次の言葉を述べました,『御子は神の栄光の輝きであり,神の本質の真の姿』(ヘブル 1:3,新口)神の御子は復活を受けられたとき神の本質のさまに変えられました。それで,この『世が彼を二度と見ない』わけも納得できます。キリストの再臨についての不正確な見方があるにしても,神の御言葉の真理とその御国の真理に盲目となるべきではありません。神の御国の明白なまぼろしを邪魔する個人的な勝手な見方は,救いを得るために取りのぞかねばなりません。
16 ヱホバの証者は,正義を愛するすべての人々にどのように訴えますか。
16 ヱホバの証者は,人々の宗教的な背景がどのようなものであろうと,正義を愛する誠実な人々に訴えます。そして,この時代こそキリストの再臨の時であり,人類に対する神の約束を成就する時であると示す事実を考慮するようすすめます。(マタイ 24:1-51)例えば,主の模範的な祈りを考えてごらんなさい。次のように祈れと教えたイエスは,神の御こころをはつきり指し示しました,『御国がきますように,みこころが天に行われるとおり,地にも行われますように。』(マタイ 6:10,新口)神の御こころは,今日地上で行われておりますか。この世が共産主義の圧迫や,暑い戦争とか冷い戦争,あらゆる社会層における堕落的犯罪,すべての国に蔓延している病気で満ちているごとく,神の御こころはこの世に満ちていますか。誠実な人々をして,テモテ後書 3章1-5節を開かせて同じ状態が神により予告せられていたことを読ませなさい。この世から離れて,神のみこころの成就を見つめさせなさい。そのような誠実な人々をして,人間の空しい約束から離れさせ,ヱホバの証者が聖書の中で指摘するごとく新しい地に関する神の約束から元気を得るようにさせなさい。そのような者には,自分たちの聖書から,正義が全地にみちるということ,および人は永遠にわたつて恐れを感ぜず平和と繁栄の中に生活するという神の保証の言葉を読ませなさい。―ペテロ後 3:13。イザヤ 66:22。詩 78:69。黙示 21:1-4。
17 今日の世界が直面している大問題に,どのように対処すべきですか。
17 この世の宗教の誠実な会員をして,これは価値のある希望ではないか,と自問させなさい。そのような神の約束を考慮することは価値ある努力ではありませんか。そのような祝福の希望や,この希望の実現に達する道を指し示す制度を無視することは,見方が浅いことではないでしようか。真実に次のことが言えます,すなわち神の羊は散らされてこの世により荒らされたということです。そして,イエスがあわれみの心で彼らに注意を払われたと同じく,今日大いなる羊飼ヱホバ神は羊飼である御子イエス・キリストを通して,御自分の証者たちの注意を世界の隅々に向けさせ,自由をもたらす真理を宣明させています。(ヨハネ 8:32)次のように言うある人々の無責任な態度は,なんと愚かなことでしょう,『私はいま自分のできる最善をつくして,その時が来れば運を天にまかせるだけだ。』これは,いちばん抵抗のすくない道をとることであつて,その道に従うすべての者は,この世の神の仕かける罠にかならず落ちこみます。今日の世界が直面している大問題について,神の御国のことを生活中第一のものにしようと誠実に欲するすべての者は,積極的な態度で対処しなければなりません。
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この世とのまつわりに反抗するものみの塔 1959 | 10月1日
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この世とのまつわりに反抗する
1 神の友になる場合,どんな3つの妨害物がありますか。
神の御国のことを第一に保つことは,従順という積極的な行いだけを要求しているのではありません。悪行を避けることも必要なのです。この世の友となることは,神の敵になるということは神の御言葉から明白です。『世を友とするのは,神への敵対である。』(ヤコブ 4:4,新口)これは次のことを意味します。すなわち神の御こころを行うことに興味を持つクリスチャンは,神の友になる際の3つの大きな妨害物を認め,それらを避けるように学ばねばならない,ということです。それら3つの妨害物とは,悪魔サタンとその悪鬼たち,肉体である人間の不完全さ,そしてサタンが神であるこの世,というものです。―コリント後 4:4,エペソ 6:12。マタイ 26:41。
2 イエスは肉の欲,目の欲,そして持ち物の見せびらかしに対して,どのように反抗しましたか。
2 イエス御自身も次のことを認められました,『すべて世にあるもの,すなわち,肉の欲,目の欲,持ち物の誇は,父から出たものではなく,世から出たものである。』(ヨハネ第一書 2:16,新口)これらの誘惑に反抗した彼の模範は,私たちの従うべき手本です。荒野で四十日四十夜を,神の御言葉の研究に費してから,自分自身のために奇跡を行い肉の欲をみたすようにとサタンにより誘惑されました。それは荒野の石をイエスの食用となるパンに変えなさい,という誘惑でした。イエスは神の御言葉に頼つてサタンを拒絶したのです。彼は神の御言葉から,自然の食物より霊的な食物のすぐれている性質を強調しました。次にイエスは見せものになり目の欲をみたしなさいと誘惑されました。つまり,宮の狭間から身を投げよと告げられたのです。神の御力は彼を守るであろうという風にサタンが巧みに聖句を曲解したことに対し,イエスはこう答えました,『あなたはあなたの神ヱホバを試みてはならない。』最後に,イエスがサタンを崇拝するなら,この世の政府の支配者という大きな力と地位がイエスに提出されました。しかし,イエスはそれにかかわり合いを持つことを拒絶し,こう言われました,『「あなたの神ヱホバを崇拝し,ヱホバ神のみに聖なる奉仕を捧げねばならない。」と書かれている。』― マタイ 4:1-11,新世。
3 ヤコブ書 4章7節には,どんな助言が与えられていますか。障害をどのように克服すべきですか。
3 イエスが忠実な立場を取つたのでサタンは一時のあいだイエスからしりぞきました。そのことは,私たちの場合でも当てはまります。『そういうわけだから,神に従いなさい。そして,悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば,彼はあなた方から逃げ去るであろう。』(ヤコブ 4:7,新口)大多数の人々は,それぞれ重大な問題を持つています。そして,それらの問題を解決するために多数の人が知つている唯だ一つの道は,この世の事にいつそう深くかかわり合いを持つということです。これらの障害を克服するため,そしてこれらの障害の代りに人類に対する唯一つの真実の希望への興味を持つために,人間の関心事に対するこの世のかかわり合いをすくなくしなければなりません。
4 マルタは,イエスにどんな苦情を述べましたか。そのときの状態は,どんなものでしたか。
4 このイエスの経験や,彼が与えた助言は次のことを例証します。すなわち日常の普通の事柄でも,霊的な進歩の機会にたいして巧かつに食いこんできて,不必要なこまかい事柄に私たちをまきこませるのです。『一同が旅を続けているうちに,イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリヤという妹がいたが,主の足もとにすわつて,御言葉に聞き入つていた。ところが,マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし,イエスのところにきて言つた,「主よ,妹が私だけに接待をさせているのを,なんともお思いになりませんか。私の手伝いをするように妹におつしやつてください。」主は答えて言われた,「マルタよ,マルタよ,あなたは多くのことに心を配つて思いわずらつている。しかし,無くてならぬものは多くはない。いや,一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは,彼女から取り去つてはならないものである。」』― ルカ 10:38-42,新口。
5 (イ)どの面でマルタは認識の不足を示しましたか。どの面でマリヤは良い方を選びましたか。(ロ)今日,マリヤの模範にどのように従うことができますか。
5 今でも多くの家々で行われるように,当時の習慣に従つてマルタは大もてなしをしてこの有名なお客さんに山海の珍味を御馳走し,その滞在を極めて愉快なもの快適なものにしてもらおうと,こまごましたところに気を配りましたしか。し,その結果,彼女はこまかい事柄にあまり注意を払つたため,彼女自身はイエスの訪問から益を受けなかつたのです。イエスは,もてなしをしたマルタを叱つていません。また,坐つて何もせず,こまごました事を準備しなくても良いとも告げていません。彼は『無くてならぬものは多くはない。いや,一つだけである』と言われたことに注意しなさい。マルタにさとされたイエスの要旨は,マルタの家でもあり,またお客が来たのであるから,そのお客と家族の者に食物を準備するのは正しい,しかしこの場合に念入りの準備は必要でなかつたというのです。それですから,マリヤは良い方を選びました。なぜなら,彼女はイエスの居られることから得られる価値を認めたからです。マルタがマリヤと同じ認識を持つていたなら,必要なものだけを準備するのに満足して,不必要なこまかいことはイエスの言葉を聞くことのない別の時にゆずるべきでした。御国についての知らせを求めたマリヤの態度は,霊的に飢餓の状態におちいつているこの世の人々が見ならうべき手本です。滋養ゆたかな霊的な事柄の知らせを持つ人が家を訪問するとき,家の人は,すくなくとも少しの時間のあいだ,別のときに行える無用の事柄を止めて,神の神権政府を代表するこの者の訪問からあらゆる益を受けるようにするべきでしよう。
6 宗教を行う場合,どんな利己的な関心事を避けるべきですか。それについてイエスはどのように警告しましたか。個人的な関心事はいつ正しいですか。
6 そうしないなら,その人はいばらの中に播かれる種子のようになります。『御言葉を聞くが,世の心づかいと富の惑わしとが御言葉をふさぐので,実を結ばなくなる人のことである。』(マタイ 13:22,新口)一方,クリスチャンは個人的な利益を図るために宗教を行うべきではありません。イエス・キリストに従うと主張する或る人々は,利益を得ようとするために特定な教会に入ります。他の人々は,神の御力添えを得るため,または他の個人的な進歩のために自分たちの宗教を用いることができると信じています。宗教にたいするそのような興味は利己的なものであつて避けねばなりません。ちようど,パンと魚の奇跡的な食物を頂いた者たちが,次の日に彼を探し求めて来たとき,イエスはこう戒めました,『よくよくあなたがたに言つておく。あなたがたが私を尋ねてきているのは,しるしを見たためではなく,パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物のためではなく,永遠の命にいたる朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなた方に与えるものである。父なる神は,人の子にそれをゆだねられたのである。』(ヨハネ 6:26,27,新口)個人的な関心事は,神の御国の事を拡大するために制御されみちびかれて行く時のみ必要かつ正しいものです。
7 健康について正しくみちびかれない関心事は,どのように悪い害をおよぼしますか。不注意な者は,どんな状態にみちびかれて行きますか。
7 健康についての個人的な関心を持つても,正しくみちびかれない時真実の霊的ないやしにたいする欲求を殺します。その関心が考え方をすつかり抑制してしまつて,神の御言葉からの真理を排斥してしまうほどになると,肉体の病気以上の害をおよぼします。今日,多ぜいの人々は健康を得たいと欲するあまり,奇跡的な力を持つと主張する者についてのイエスの警告に注意を払いません。『その日には,多くの者が私にむかつて「主よ,主よ,私たちはあなたの名によつて預言したではありませんか。また,あなたの名によつて悪霊を追い出し,あなたの名によつて多くの力あるわざを行つたではありませんか。」と言うであろう。そのとき私は彼らにはつきり,こう言おう,「あなた方を全く知らない。不法を働く者どもよ行つてしまえ。』(マタイ 7:22,23,新口)この言葉は,いわゆる信仰治癒者について大きな疑いを投げかけるものです。そして,健康を正直に求める人は,巧かつで欺きをなすこの『肉欲』にすつかりまきこまれてしまう前に,そのような主張にたいする個人的な関心を神の御言葉の真理に照らし合わせて深く考慮すべきです。
8 聖書時代中,いやしの奇跡的な賜物はどのように用いられましたか。このことは,現代の信仰治癒者と称するものをどのように暴露しますか。
8 神の御言葉を注意深く調べると,昔に行われたいやしのわざは,すでに会衆内にいた者に対して行われなかつたということが分ります。使徒パウロはいやしの賜物を持つていましたが,それでもテモテにこう告げました,『これからは,水ばかりを飲まないで,胃のため,また,たびたびのいたみを和らげるために,少量のぶどう酒を用いなさい。』(テモテ前 5:23)テモテの場合,彼はいやしの行いをしませんでした。テモテに宛てた別の手紙の中で,彼は『トロピモは病気なので,ミレトに残してきた』と語つていました。(テモテ後 4:20,新口)この場合でも,パウロが奇跡的ないやしをしなかつたことは証明されます。このことはクリスチャン会衆内のことだけではなかつたのです。イエスの時代以前でも,そのようないやしは外部の者に対するしるしとして行われたのです。それを証明するものとしてイエスの次の言葉に気をつけてごらんなさい,『預言者エリシヤの時代に,イスラエルには多くのらい病人がいたのに,そのうちのひとりもきよめられないでただシリヤのナアマンだけがきよめられた。』(ルカ 4:27,新口)さらに,今日の『治癒者』のあいだで一般に行われている事柄とはちがい,クリスチャンたちはその奇跡的な賜物を行使しても金銭をもらつてはいけないとさとされていました。イエスは弟子たちを送り出したときに,こう言われました,『病人をいやし,死人をよみがえらせ,らい病人をきよめ,悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから,ただで与えるがよい。』― マタイ 10:8,新口。また列王紀略下 5:15-27の記録をも見なさい。
9 パウロは,御霊の奇跡的な賜物について何を表わし示しましたか。
9 神の代表者であるイエスと,クリスチャン会衆の最初の成員である弟子たちに神の力が表明されるということが奇跡的な賜物の目的でした。しかし,その目的は果されたので奇跡的な賜物はもはや必要でなく,取りさられました。次の言葉を告げたパウロは,このことにつきこう述べています,『愛はいつまでも絶えることがない。しかし,預言はすたれ,異言はやみ,知識はすたれるであろう。』(コリント前 13:8,新口)今日,御霊の最大の賜物は,伝道の賜物です。神は,年齢や国籍や,人種や社会的な地位にかかわりなく,すべての誠実な人々に伝道の賜物を与えておられるのです。(使行 2:17,18)このことから次のことが分ります。すなわち健康とか体育というような個人的な関心事は,御国のことの次のものでなければならないということです。体操とか自分自身を大切にすることは重要です。しかし,パウロは次のように指摘しています,『からだの訓練は少しは益するところがあるが,信心は,今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので万事に益となる。』(テモテ前 4:8,新口)これにはクリスチャンが平衡のとれた見方をすることが必要です。自分自身のことをなおざりにしてはいけませんが,しかしその個人的な関心事のためにクリスチャン宣教に付ずいする責任をなおざりにしてはいけません。
10 ある人々は,ヱホバの証者のわざについてどんな未熟な見方をとりますか。時には,どんなことがそのような立場をとらせますか。
10 関心事についての悪い釣合を持つとき,焦点の外ずれた見方を取るようになります,『あなたの目は,からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば,全身も明るいが,目がわるければ,からだも暗い。だから,あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。』(ルカ 11:34,35,新口)ある人々は,ヱホバの証者の行つている仕事を見て,身体に加えられる害とか批評を恐れるため,自分にはその仕事ができないと結論します。そのような『目の欲』を持つと,この世の神の仕かける罠にまきこまれてしまいます。(シンゲン 29:25。マタイ 10:28)神の御言葉の知識が円熟し,理解の増す必要は強調せられます。霊的な食事を定期的に食べることにより,信仰を強めねばならぬという意味です。その信仰のない人は,神の御こころにかたくつき従つて水の浸礼を受けるよりは,洗礼を受けない方が個人的に都合の良いことが多くあると結論するかも知れません。そのような人は,このことをするだけの十分な信仰がないから,ヱホバの証者のひとりになれないと信ずるかも知れません。その人は次のことを認識していないのでしよう,すなわち信仰は知識の上に建てられるものであり,その人は洗礼の意味と理由についての知識を得ようと努力しなかつたのです。知識の基礎が先ず置かれねばなりません。それから,その知識を働かすときに信仰が得られます。
11 この世とのまつわりに,反抗する際なぜ知識は必要な基礎ですか。
11 同じことは証言のわざに参加することについても言えます。ある人々は,この世とのまつわりに反抗しないため,必要な基礎でなければならぬ十分の知識をも得ません。その御言葉についてのそのような知識とともに,信仰がきます。信仰を持つとき伝道する能力と欲望が来ます。『人は心で信仰を働かすことにより義とせられるが,口でもつて公に言い表わして救われるのである。聖書に「彼に信仰を置く者は失望することがない」と言われている。…「ヱホバの御名を呼び求める者はみな救われるであろう。」しかし,信じていない者を,どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を,どうして信じることがあろうか。伝道する者がいなくては,どうして聞くことがあろうか。つかわされなくてはどうして聞くことがあろうか。つかわされなくては,どうして伝道することがあろうか。』(ロマ 10:10-15,新世)そのような人は,新しく生まれた信仰に強められ,その伝道には,パウロが指摘したごとく,救いをなす2つの特質があると認識します,『自分のことと教えのこととに気をつけ,それらを常に努めなさい。そうすればあなたは,自分自身とあなたの教を聞く者たちとを,救うことになる。』― テモテ前 4:16,新口。
12 ヱホバの証者は,善意者たちにどんな奉仕をいたしますか。そして,どんな心持の中にこの奉仕はなされねばなりませんか。
12 ヱホバ神が御自分の証者たちを地の果てまでつかわされるのは,誠実な人々をして関心事の正しい平衡を取らせ,すべてのことを御国のために行わせるためです。彼は幾世紀もむかしの預言者イザヤを通して,彼らにこう命じています,『門を通つて行け,通つて行け,民の道を備えよ。土を盛り,土を盛つて大路を設けよ。石を取りのぞけ。もろもろの民のために標識をあげよ。』(イザヤ 62:10,新世)神への奉仕に真実の興味を持つ人々の邪魔になつている石を取りのぞいても,それらの人々に害を加えるとかそれらの人々の信仰を嘲笑する,というようなことがあつてはなりません。道の邪魔になつているこれらの石を認めるために,御国奉仕者は神の御言葉の正確な知識を持たねばなりません。そして,これらの石を取りのぞくためには,自分の立場に確信を持ち自分のわざを行う際に巧みであると共に平衡のとれたものでなければなりません。奉仕者の立場は,聞く者をして良い事柄を正直に望ませ,そして正義に対する誠実な愛を持たせるようなものでなければなりません。それで,奉仕者は人を驚かそうとするよりも,その人の理性に訴えるようにいたします。このようにするとき,奉仕者の話を聞いている人がすぐに訪問の真実の目的が分らなくても,奉仕者は気落ちしません。議論に打ち勝つというだけでは,ヱホバの証者の目的ではなく,また意図でもありません。彼らの興味は,神が御自分の羊たちに対して持つておられる誠実な愛を表明することです。ヱホバの証者の目的は,神の御言葉から真理を提供するとき,聞く者がその真理を受け入れるか,または少くとも,心暖める御国の良いたよりを一層研究しようという気持にならせることです。彼らはその御国についての真実のまぼろしを持ち,御国のことに奉仕する重要性を認識します。善意者はヱホバの証者の新しい世の社会にひきつけられます。そして,神の新しい世の生命を与える希望について更に学び,御国のことを先ず第一に保つための備えを身につけます。
13 イエスは,どんな模範的な道をとりましたか。ヱホバの証者は,どのようにそれに従いますか。
13 その道こそ,私たちの見ならうべき模範として,イエス・キリストが残された道です。パウロはイエスの言われたことを次のように引用しています,『神よ,私につき,巻物の書物に書いてあるとおり,見よ,御旨を行うためにまいりました。』(ヘブル 10:7,新口)イエスは,その宣教中,神の御むねを行うために専心没頭しました。彼は御父に全く献身しており,その献身を象徴するものとして水の洗礼を受けていました。それで,彼は御国のことを第一に保つすべての者に対して模範を残されたのです。神に全く献身してから,水の洗礼を受けることは,神の御こころを行い始める際に先ず必要な事柄です。イエスが伝道したごとく,彼らも伝道してイエスの言葉を成就いたします。『そしてこの御国の福音はすべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。』(マタイ 24:14,新口)反対とか嘲笑あるいは迫害を受けようとも彼らは転向しません。彼らは終りが来るまで伝道を行いつづけます。
14 なぜヱホバの証者は,多くの家々を訪問しつづけますか。そのわざは,どのくらいの期間つづきますか。
14 彼らの数が増加して,人々の家を訪問する回数が多くなつても,訪問を行いつづけます。なぜなら,聞く者が神の御国を自分たちの希望として認めて受け入れることは生命を意味すると,彼らは認識しているからです。すべての人はその良いたよりを聞いて受け入れる機会が与えられねばならぬ,と彼らは認識しています。また,同じ家族内のすべての人は,彼らの訪問について同様に感じていないと,認めています。ある人は,証者に反対して,証者の来ることを禁ずるかも知れませんが,同じ家族内の別の人は再訪問することを歓迎するかも知れません。このわけで,ヱホバの証者たちは真実に神の羊である者たちのために愛の奉仕を行いつづけます。すべての羊を探し出さねばなりませんが,それは一度か二度訪問しただけではできないでしよう。神は丹念に探しつづけます。そのことは,エレミヤの預言の中に書かれています,『ヱホバ言い給う。見よ,我多くの漁る者をよび来りて彼らを漁らせ,またその後おおくの猟者を呼び来りて,彼らをもろもろの山もろもろの岡および岩の穴より猟いださしめん。』(エレミヤ 16:16)このわざは,すべての羊がこの古い世から集められる時まで続くにちがいありません。そのことは,幾世紀もむかしのイザヤが尋ねた質問に対する答からも明白に分ります。『我言いけるは,主よいつまでかくあらんか。主こたえたまわく,町はあれすたれて,住むものなく,家に人なく,国ことごとく荒地となり,人々ヱホバに遠き方までうつされ,廃りたるところ国中におおくならん時までかくあるべし。』― イザヤ 6:11,12。
15 人は,どのようにこの世とのまつわりに必ずまきこまれますか。それをどのように避けることができますか。
15 現在の世の考えとか,行い,理想に心が傾いている者たちは,この世のわずらいごとや心配に必ずまきこまれてしまい,神との立場を失うでしよう。そして,援助を是非とも必要とする者たちを助けねばならぬ能力をも失うでしよう。この世の運命論者的な見方,すなわち人は自分自身の努力によつてのみ生存することができ,もしこれらの問題に対する解決をつくり出さないならば,解決はひとつもないという考えにあざむかれて巻きこまれてはなりません。神の御言葉の真理は,今が火による試錬の時であり,各人のわざはこの終りの時のきびしい試験によつてはつきり表明されると明白に語つています。きびしい平衡を保ち,御国のことを第一に保つことによつて,クリスチャンはこの世とのまつわりに反抗し得ます。また,いまの地にみなぎつている神を認めぬ物質主義の高まりつつある潮に対しても真実の防壁として立つことができます。
16 更にどんな面で伝道する際の能率は得られますか。いつでもどんな見地を保たねばなりませんか。
16 クリスチャンが自分の語る言葉に確信を持つなら,自分の信仰の表明どおりに生活しなければなりません。彼は,神の御言葉から学んだ原則を絶えず生活内に適用し,それからその知識の拡大を図らねばなりません。彼は毎日,神権的な発展をするようにいたします。そして,この組織制度の神がヱホバの目的について建てた誤解の壁を打ちくだくあらゆる機会をも見のがしません。もし御国のことを第一に保つなら,不注意に歩かないでしよう。そして,しなければならないという義務を感ずるために野外奉仕の時間を入れるということをしないでしよう。彼はこの組織制度の全き終りが近づいており,その中にとどまる者は滅びるということを認識します。また次のことをも認めます,すなわち善意者たちに警告して,この世のまつわりから自由にならせ,ヱホバが愛の御心の中に備えたもうた避難の場所に逃げさせるには,きんべんな努力が必要であり,能率を改善しければならぬと認めます。そうするとき,彼はその正義の新しい世における自分の立場を確実にいたします,そして,ヱホバの御名をあがめただ一つの正しい模範を普意者に示すためヱホバにより用いられる,という言葉で言い表わし得ぬ特権とよろこびを持ちます。すなわち,ヱホバ神の御国のことを生活中の第一のものに保つという模範です。
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共産主義は偽りの宗教ものみの塔 1959 | 10月1日
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共産主義は偽りの宗教
ロバート・リンドナー博士は,『政治的信念と性質』という演題の下に,共産主義が多くの人々の心を動かす理由を次のように論じました,『共産主義には一宗教として ― 世俗化した宗教であるが,それでも宗教にはかわりない ― 制度化するための必要条件がすべてそろつていて,殆どその最初から,信仰と崇拝の制度としてのしるしを表わしている。そして,威厳のある神学上の制度にとつて必要とされている状態を,最も細部な点に至るまで,みなぎらせており,そうすることによつて労なく人々の心の最奥部にまで入つて行くのである。マルクス主義の歴史と,主要な宗教のそれとの類似は避けがたいものがある。重大事の前兆とか非常時態 ― 戦争,流血さわぎ,苦しみや不安 ― は,新しい信仰の苗床となるべき土を培つた。唱導者の世代という形で登場した…先駆者と予言者は,最後にはドイツの哲学者ヘーゲルという人物に体現した。彼に次いで登場したのが音信をたずさえる者,世の救い主カール・マルクスである。彼を神にするには何のわけもない。
『ところが,宗教としての共産主義の真の性質を確立するものはこれが全部ではない。他のすべての神学に加えて,共産主義は,審判と最終的なもののまぼろし,― 国家というものがついに衰微し去つて,階級のない喜びに満ちた平等の社会が出現し,共産主義に共鳴しない者たちが後々の世代にまで仲間はずれされてしまつた時がやつて来るプロレタリヤ天国の緑の牧場 ― を包含する終末論も有している。詩篇もまたその共産主義の性質の中の1つといえる。聖徒の祭日と聖典に記録された,殉教者の一団に匹敵するものが,人の心に崇拝心を呼び起す,共産主義本来の性質である。誤りのない言葉で聖なる教典に記されている断定的な教理,聖職者階級制度および儀式や議定書作成を委任された職務担当者,一連の奇跡や入門式 ― これらは,情景を完全に描写し,社会的政治的制度として変装してきた共産主義が,実際には,よろいかぶとに身をかためた正真正銘の宗教であることを宣言している。共産主義のこの真の性質を認識することと,共産主義とわれわれの知っているあらゆる偉大な神学上の制度との密接な類似点を悟ることとは,共産主義がすべての人間,とりわけ信仰を持たないもの,この深い必要が満たされないために苦しんでいる者たちを引きつける不思議を理解しはじめることである。……われわれは共産主義が成功をおさめるのを不審に思うべきではない。その成功はむしろその宗教的性質に原因しているからである。』―「あなたは一致しなければならないか」
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『あらゆる発見物』ものみの塔 1959 | 10月1日
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『あらゆる発見物』
『紀念物に照らし合わせて見る時のエジプトのヨセフ』という講演の中で,ロンドンのエイ・エス・ヤフダ教授は次のように述べました,『結論としてこう言いたい ― パレスチナ,シリア,メソポタミアそしてエジプトでなされたあらゆる発見物は,聖書を確証した。そして遂には言語学的な証跡は,考古学的な証跡を支持し,補足しているのである。私は次のことを希望する,いな確信する,将来の考古学的な発見,発掘,そして調査は,聖書の正確さを更に確立するに役立つであろう。』―「ビクトリア大学会報誌」(英文)第65巻54頁。
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