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人間各自の関心事ものみの塔 1956 | 10月15日
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れたのです。(創世 19:15-26)今日,神は正義の心を持つ人々に,個人的な関心を働かして正確な聖書の知識を得るよう告げられています。また,いまや亡びようとしているバビロンの古い世の社会からの逃れ方をも示しています。『私の民よ,彼女から離れ去つて,その罪にあずからないようにし,その災害に巻き込まれないようにせよ。』― 黙示 18:4,新口。
21 聖書は,今日における個人の責任をどのように述べていますか。
21 私たち各人は,今正しい決定をなすことができます。そうするなら,良い価値の記録をつくることになり,ヱホバ神から正義の者と認められます。もし,悪い決定をつくるなら,私たちは無資格と過失と,罪を持つようになり,神の前における私たちの立場は悪しき者の立場になります。聖書に述べられている各個人の責任に注意して下さい,『罪を犯せる魂は死べし。子は父の悪を負ず,父は子の悪を負ざるなり。義人の義(良い価値)はその人に帰し,悪人の悪(過失)は,その人に帰すべし。されど,悪人もしそのすべて行いしところの悪を離れ,わがすべての法度を守り律法と公義を行いなば,かならず生ん。死ざるべし。』― エゼキエル 18:20,21,また申命記 24章16節。エレミヤ記 31章29,30節をも見て下さい。
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共同社会即ち会衆の関心事ものみの塔 1956 | 10月15日
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共同社会即ち会衆の関心事
『実際,からだは一つの肢体だけではなく,多くのものからできている。』― コリント前 12:14,新口。
1 共同社会にいる人はなぜ一緒に生活したり,働くことを欲するのですか。これは共産主義ですか。
社交性は人間の本性に具つている基礎原則のひとつである故に,人はいつも社会的な群の中に生活しようと欲してきました。それで,人は仲間の者との交りを楽しみ,共同計画に参加することができます。そして共通の進歩のために結合した関心事が行われるのです。これは,つまりこういうことになります。各人は自分の交つている大きな群の共同関心事,もしくは集合関心事を行うために,自分の関心事の為の時間をいくらか断念しなければならない,ということです。共同社会の責任の為に自分の活動の自由をいくらか犠牲にする時,各人は集合の恩恵を受けることができます。それは,自分ひとりでする時よりも大きな幸福を与えるものです。聖書は,大いなる福利の為に共同して働くというこの原則を裏書きしています。『二人はひとりにまさる。そはその労苦の為に善き報を得ればなり。……三根の縄はたやすく断れざるなり。』(伝道之書 4:9,12)共同社会との交りが大きくなればなるほど,人は自分個人の関心事を断念します。そして,その人の共同社会の関心事は大きくなります。このことを極端に行うと共産主義になります。共産主義では,共同社会の関心事が個人の関心事よりも重んぜられており,後者はほとんど抹殺されている程です。
2 王国になつたイスラエルはどんな経験をしましたか。
2 イスラエル人たちは,大きな共同社会の関心を取ることを経験しました。その時は,裁き人の期間中,郡別であつた国家全体の共同社会から,人間の王の下に組織された国家共同社会に変つたときでした。サウロの支配した王国制度の始まる前,そしてダビデの支配した王国制度の始まる前では,イスラエル人たちの神権的な共同社会の責任は,決して多いものではなかつたのです。イスラエル人たちは,自分個人の好きな事柄を為し,『各々その目に善しと見ゆるところ』をする丈の多くの時間がありました。『当時はイスラエルに王なかりしかば,各々その目に善しと見ゆるところを為せり。』(シシ 21:25)予言者サムエルは次のことを予言していました。つまり,不完全な王の支配するそのような王国政府では,王に対する増し加わつた関心事,税の重荷,そして奉仕というものがつけ加えられるだろう,ということでした。(サムエル前 8:10-18を見なさい)サムエルの反対の言葉にも拘らず,イスラエル人たちは王国の政府を願い求めたのです。そして,不完全な王の支配を受けた大制度は510年間続いたのです。
3 『支配者の関心事』と『共同社会の関心事』についてシンゲン 29章2節を説明しなさい。
3 長いあいだ王の支配をうけたイスラエルの経験から,次のことがはつきり表明され,証明されました。つまり,良いものにせよ,悪いものにせよ,『支配者の関心事』は共同社会の関心事の一部になり,共同社会の善悪に対して責任をとる,ということです。地方的な支配者または国家的な支配者が,人々の福利を図つて支配するとき,共同社会の良い価値はつくり出され,共同社会は繁栄します。しかし,支配者が自分の権力を利己主義と悪に使用するなら,共同社会の過失はすぐにつくり出され,人々は多くの悲しみを味い,圧迫を受けました。聖書にこう書かれています,『義者ませば民よろこび,悪しきもの権をとらば民かなしむ。』(シンゲン29:2)神の御意に逆つてイスラエルの人口を数えたダビデ王の過失の故に,ヱホバは全国民に疫病を降し,7万人が死にました。(サムエル後 24:1,10,15)後日,イスラエルの北の国のひとりの王については,こう書かれていました,『オムリ,ヱホバの目の前に悪を為し,その先に在し凡ての者よりも悪き事を行えり。』(列王紀略上 16:25)良い王の記録については,こう書かれています,『アサの代になりて其国十年の間平穏なりき。アサはその神ヱホバの目に善と視,正義と視たもう事を行えり。』(歴代志略下 14:1,2)良い支配と悪い支配は,支配者たちが,その権威を行使する支配力の程度がどのようなものであろうと,全共同社会に反映します。昔から現在にいたるまで,人はそのことを経験してきました。
4 古い世の社会では何と誰が『共同社会』と『支配者』であると考えられていますか。
4 共同社会とは,共同の地区に共に住み,類似の相続に与る人間の社会的な群のことです。古い世の社会について言うなら,いちばん小さい形式の共同社会は,家族です。これから,共同社会の大きさは増して行き,村,町,都市,郡,州又は県,そして最後には全国家となります。父親は,一番小さな共同社会である家族の支配者と考えられます。これよりも大きな共同社会になるにつれ,それぞれの地位にいる支配者たちは共同社会の善と悪に大きな影響を及ばします。家族の一人が悪い犯罪をするなら,その者は自分の家族全部と,村や町の共同社会の全部に不名誉をもたらします。ヒットラーのような国家の支配者が悪くなると,国家全部が罰せられ,咎をうけました。
5 古い世の社会の関心事のいくらかの例を述べなさい。それらにより,ヱホバの証者はなんらかの義務を有するようになりますか。
5 古い世の共同社会には,今日たくさんの違つた関心事があります。そのいくらかは,次のようなものです。子供たちに一般教育を授けること,郵便施設,人や資産についての警察の保護,火事を防ぐこと,道路の建設,下水や屑物の除去,公共の健康の増進,公園の管理,自然資源の保護,支配者の選挙,税金の支払い,一般的な安全保障手段(戦争)を取ること,その他に多くの政府の事柄などです。ヱホバの証者はいまだに古い世の社会内にいるため,自分の住んでいるそれらの共同社会に関連して遂行せねばならぬ特定の義務を持つています。(ヨハネ 17:15)例えば,聖書と一致している地方的な規則や国家的な規則に対しては,彼らは全く法律に従います。そして,従順に税金を払い,また平和を維持します。しかし,古い世の共同社会の関心事を最小限にしようと,彼らは努めています。なぜそうですか。
6 ヱホバの証者はなぜ古い世の共同社会の関心事を最小限にしようと努めますか。
6 なぜなら,新しい世の社会は設立され,ヱホバの証者はその成員になつているからです。彼らは,『カイザルのもの(政府の要求)はカイザルに,神のもの(神の要求)は神に返しなさい。』というイエスの諭しの言葉に注意を払います。(マタイ 22:21,新口)神のものは,神の関心事にもとづいています。神の関心事は,地方的な共同社会の関心事よりもはるかに高いものであり,一番重要であると,私たちは認めます。聖書の研究と実際の事実から分るように,神の関心事はクリスチャン会衆で成立つ新世社会の形成であることを知ります。この理由の故に,私たちは会衆の関心事に多くの注意を向けます。いまから,詳しく調べて行きましよう。
新世社会の会衆
7 今日のヱホバの証者の大きな共同社会を説明しなさい。
7 1956年の初め頃までには,1万6044のヱホバの証者の会衆は160の国々に設立されていました。これらの会衆はみな,ヱホバの証者の新世社会として知られている全世界的な共同社会に加わつています。中心の統治体はニューヨーク・
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ジャマイカの少年は級友を教えるものみの塔 1956 | 10月15日
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ジャマイカの少年は級友を教える
『そこで,あなたがたの歩きかたによく注意して,賢くない者のようにではなく,賢い者のように歩き,今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。』エペソ書 5章15,16節(新口)に述べられているパウロのこの助言に注意を払う人々は,祝福をうけます。そのことは,次のようなジャマイカの一少年の経験によつても分ります。「私は中学生ですが,学校の授業の中に宗教的な知識の時間があります。私が初めてその授業に加わつたとき,三位一体の問題が論ぜられました。すると,幾人かの生徒は手をあげて,私がヱホバの証者であつて,三位一体を信じていないということを先生に告げたのです。先生は,なぜ信じないかね,と私に問いましたので,私は立ち上り,聖書を用いてヱホバの証者が三位一体の教えを信じない理由を語りました。生徒たちは,三位一体についてのヱホバの証者の立場が正しい,と固く信じていましたから,先生が三位一体を支持するカトリックの出版物を用いて三位一体を守ろうとしたとき,先生をなぶつてしまいました。先生は途方に暮れて,授業を止めました。その後に,私は先生のところに行き,カトリックの本には裏づけがないが,聖書は真であることを先生に説明しました。そのとき,先生はこう私に語りました。『今後,私が聖書とちがうことを言うような場合には,ちよつと知らせて下さい。そしたら,そのところを生徒たちに教えるのは,君にお願いしよう。』」
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