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  • 神のさばきは真に富む人々を明らかにする
    ものみの塔 1967 | 7月15日
    • いるかが明らかになりました。ヨブは健康を取りもどし,以前の2倍の資産で祝福されました。神の恵みを得ていることはだれの目にも明らかでした。さらにヨブは新たに10人の立派な子供を得ました。「他の羊」の「大ぜいの群衆」が「ラザロ」級のもとに集められ,『ひとりの羊飼〔のもとにある〕一つの群れ』になったのと似ています。―ヨブ 42:10-17。黙示 7:9。ヨハネ 10:16。

      22 真に富むために何をすべきですか。また何を避けるべきですか。

      22 わたしたち個人個人は努力するなら真に富んだ者となることができます。そのために生活態度を改めねばならない場合もあるでしょう。わたしたちは「あふことをうる間にエホバを尋ね」ることができます。そして,『悪しき者とよこしまなる人』の誤りを避けることができます。イエスのたとえ話にある金持ちは何も学びませんでした。彼は高慢であり,どこまでも自己中心的でした。そしてラザロを自分の意のままになるこじきとみなして,その見方を改めませんでした。しかしアブラハムはただ一つのもの,「モーセと預言者」つまり聖書を指摘して彼の嘆願を退けました。ここに神の型はきわめて明瞭であり,わたしたちは「エホバにかへ(る)」ための道を見ることができます。エホバは「あはれみをほどこし……豊にゆるしをあたへ」られるのです。―イザヤ 55:6,7,文語。

      23 ラオデキヤ人にあてたイエスのたよりはこの点でどのように役だちますか。

      23 イエスはまた「ラオデキヤにある〔会衆〕」にあてたたよりの中でも,対照的な手法で真の富の認識のしかたを示しておられます。それは主として「ラザロ」級にあてられたものですが,そこに含まれる原則は神の民すべてにあてはまります。ここの会衆は真の富と偽りの富との区別を見失ってなまぬるくなり,「自分は富んでいる,豊かになった,なんの不自由もない」と自慢していました。彼らはうぬぼれ,ひとりよがりになっていました。しかし真の霊的な富で評価するなら,彼らはイエスの言われたごとく,『あわれで,貧しく,目が見えず,はだか』であり,いまにも避けられ,イエスの口から吐き出さんばかりの状態にありました。イエスの与えた解決法に注意してください。「そこで,あなたに勧める。〔真に〕富む者となるために,わたしから火で精錬された金を買い,また,あなたの裸の恥をさらさないために身につけるように,白い衣を買いなさい。また,見えるようになるため,目にぬる目薬を買いなさい」― 黙示3:14-18。

      24 『わたしから買いなさい』というイエスのことばはどんなことを求めるものですか。

      24 そうです! イエスは『わたしから買い』,わたしの代価を払いなさいと言われました。これはもっともなことです。イエスは,自ら模範を示されたとおり,身をささげてエホバに献身するよう,わたしたちに呼びかけているのです。自分の身をエホバの訓練とこらしめにゆだねるなら,わたしたちの「信仰はためされて,火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ」るでしょう。自分の『紫の衣と麻布』を誇示することではなく,小羊の犠牲の価値を信じ,『小羊の血で洗って白くした』衣をつけることによって,「正義を求め」ねばなりません。また,すなおに教えを受け,たえず目薬をぬり,神のことばにたくわえられた真理をいつもはっきり見るべく真の努力をすることによって,「謙遜を求め」ねばなりません。―ペテロ第一 1:7。黙示 7:14。ゼパニヤ 2:3。

      25 そののちイエスはどんな励みを与えられましたか。

      25 だれでもこのような道を進む者にイエスはきわめて魅力的な約束をされました。「見よ,わたしは戸の外に立って,たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら,わたしはその中にはいって彼と食を共にし,彼もまたわたしと食を共にするであろう」。(黙示 3:20)喜んでするなら,わたしたちはこの個人的な訴えに応じ,真に富む者となることができます。そして『ひとりの羊飼のもとにある一つの群れ』に属する者となり,イエスの恵みと是認を受ける親密な立場に立つことができます。

      26 どんな行動が今,緊急に求められますか。どんな特質に基づいて?

      26 自分はこれまで大いなるバビロンに捕われてきたと思うなら,直ちにイエスの訴えに応じ,エホバに献身してエホバの民に加わらねばなりません。バビロニア人は出ることを命じられていません。エホバはただ,「わたしの民よ。彼女から離れ去(れ)」と言われます。(黙示 18:4)これは信仰,神の真理のことばに一致した行ないによって裏づけられた生きた信仰の問題です。無知を口実とすることはできません。淵のような境界線は明確に引かれています。イエスは,「さばきというのは,光がこの世にきた」ことであると言われました。イエスは生涯の生活と教えとによって,ご自身が「人を照すまことの光」であることを実証されました。人々は一般に光にこようとせず,やみに属する悪いおこないを続けてきました。彼らは信仰を働かせようとしません。それでイエスは言われました。「信じない者は,すでにさばかれている」。これらの者は大いなるバビロンの中,罪に定められた状態にとどまることを選びます。これは彼ら自らの決定です。―ヨハネ 1:9; 3:18-20。

      27 現在と将来に他とは対照的な喜びにあずかるため,どんな道を進み,どんな立場を得るべきですか。

      27 しかしこれと対照的に,わたしたちは光に来て,光に従うことを学ぶべきではありませんか。それは,わたしたちの「おこないの,神にあたってなされたということが,明らかにされるため」です。(ヨハネ 3:21)それによってわたしたちは,かの大いなる都が滅びる時,あるいはハルマゲドンの時に,生命と滅びとのつらい対照を味わうのではなく,いま大いなるアブラハムであられるエホバの保護と愛の恵みを受けることができます。そして,この恵まれた立場を足台として,他とはきわめて対照的な,無限の興味と意義のある幸福な生活を始めることができます。しかもその前途には,さらに多くの対照的な喜びが約束された,神の新しい事物の制度における永遠の命の見込みがあるのです。その創造者は,「見よ,わたしはすべてのものを新たにする」と約束しておられるのです。―黙示 21:5。

  • 最も緊急な警告
    ものみの塔 1967 | 7月15日
    • 最も緊急な警告

      1 生命の危険が迫っていることを警告される時,他の事柄や活動はどうなりますか。

      自分のしていることをどんなに好んでいても,自分の境遇にどんなに満足していても,あるいは何を計画しているにしても,生命の危険が目前に迫っていることを確信したならば,人はすべてのものを投げうって安全な場所にいちもくさんに逃げます。

      2 ここで研究する警告が,かつてなかったほど緊急なものである理由を四つあげなさい。

      2 いうまでもなく,このような警告は,それが人を逃げ走らせるほどのものであるためには,確かな源から出たもので,警告の真実さを確信させる情況がそれに伴っていなければなりません。いま問題にしているのはこの

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