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  • エホバの証人が訪れたなら
    ものみの塔 1971 | 11月15日
    • 指針については何も討議されませんでした。次の週も,また,続く二,三週間中にも何も起こりませんでした。ところが,その時までに小さな会員証が配られ,ひとり1ペニーずつ徴収されました。聖書のことが指摘されたのは,エホバの証人を非難した時だけでした。

      「さてそのころ,わたしが働いていた刑務所の仕事場の職員のひとりがエホバのクリスチャン証人だったので,ふたりでずいぶん多くのことを話し合い,わたしは自分の生き方を変える点で助言を得ました。今ではわたしの兄弟たちとなっている人たちの寛大な取り計らいのおかげで,わたしは二,三日のうちに,聖書と『とこしえの命に導く真理』と題する本を入手しました。そして二,三週間以内に聖書研究が始まり,以来,幸いなことに,エホバの組織の助けとわたしの新しい兄弟たちの愛によって,永遠にエホバ神に仕え,かつこの良いたよりを他の人々にわかちあう,こうしたすばらしい希望を得ているのです。

      「ひとりの人はすでに自分の宗旨を変えました。彼は現在別の刑務所にいますが,別れる時,『わたしが真理を見いだすのを助けてくださって,ありがとうございました。将来どこかの集会であなたにお会いするのを楽しみにしています』と言いました。

      「別の人は同じ刑務所の司祭に,自分はもう教会には行かないこと,そして宗旨を変えてエホバの証人になるつもりであることを話しました。当然ながら,司祭はたいへん怒り,次の日曜日には,エホバの証人を非難した本のことを取り上げました。その本に聖句が一つもないことに気づた前述の受刑者は,その理由を司祭に尋ねました。いっそう怒った司祭は,英国教会員のいるすべての独房に,『エホバの証人が訪れたなら,何と言うべきか』と題する,ちらしを入れました。受刑者はろうばいさせられるどころか,エホバとその愛ある目的についてさらに学ぶことを決意しています」。

      こうして,エホバの王国に関する良いたよりは,文字どおり刑務所をも含め,およそ伝道が行なわれそうにもないような場所においてでさえ,引き続き宣べ伝えられています。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1971 | 11月15日
    • 読者からの質問

      ● ガラテヤ書 4章3節(新)またコロサイ書 2章8,20節(新)で指摘されている「世の基礎的な事柄」とはなんですか。―アメリカの一読者より

      子どもは,成年に達するまでは他の人々の監督下にあるゆえに奴隷に似ていることを示したのち,使徒パウロはガラテヤ人に対する手紙の中でこう書きました。「同様にわたしたちもまた,みどりごであった時は,世に属する基礎的な事柄によって奴隷にされたままでいました」。(ガラテヤ 4:1-3,〔新〕)次いでパウロは,神のみ子が「時満つるに」およんで到来し,ご自分の弟子となるそれらユダヤ人を,「子たること」を得させるべく,律法のもとにある状態から解放されたことを示しています。(ガラテヤ 4:3-7)同様に,コロサイ人にあてた手紙の中でパウロは,「人間の伝統にしたがい,また世の基礎的な事柄にしたがっても,キリストにしたがわない哲学やむなしい欺きを通して」奪い去られないようコロサイのクリスチャンに警告しました。「なぜなら,キリストのうちに神の特質がすべてあますところなく有形的に宿っているからです」としています。それらコロサイ人は「世の基礎的な事柄に対してキリストとともに死ん(で)」しまっているべきでした。―コロサイ 2:8,9,20,新。

      それらクリスチャンが今や享受しているものと対照されているのですから,「世の基礎的な事柄」とは,明らかに真のクリスチャンではない人たち,つまり神から離反した世の一部となっている人々の従っている基本的もしくは初歩的な原則をさしていることがわかります。アメリカ訳は「世の基礎的な事柄」というギリシア語の表現を「物事に対する唯物的見方」と訳出しています。もちろん,人のものの見方は,当人の奉ずる原則によって定まります。

      問題の聖句,つまりコロサイ書 2章8節は次のことを示しています。すなわち,そうした初歩的もしくは「基礎的な事柄」は種々の哲学,また人間の定めた規準・概念・論理・伝説に基づく,人を欺く教えなど,つまり当時のギリシア人や,ユダヤ人でない他の民族が大いに喜びとしていた事柄を含んでいます。そのうえ,コロサイ書 2章16-18節またガラテヤ書 4章4節–5章4節から明らかなとおり,救いを得るためにはクリスチャンはモーセの律法を守らねばならないという教えをはじめ,「基礎的な事柄」には,禁欲生活を要求する,聖書に基づかないユダヤ教の教えや「御使を拝する」ことも含まれていました。

      しかし,モーセの律法は神に由来しませんでしたか。確かにそうです。では,それを守るということはどうして当人が「世の基礎的な事柄」に隷従させられていることと述べられているのですか。

      モーセの律法はキリスト・イエスのうちに成就されたことを思い起こさねばなりません。キリストは,神殿およびそこでささげられた犠牲などを含む,律法の「影」がさし示していた「本体」でした。したがって,律法はその目的を果たしたので,もはやそれは物事を判断する規準ではなくなりました。(コロサイ 2:13-17)それだけではなく,使徒パウロが手紙を書き送ったそれらクリスチャンは天の霊的命にあずかるよう召されたのです。律法は人間のためのもの,つまり「肉に属する定め」で成るものであり,その幕屋(後代では神殿)さえ「世の」(ヘブル 9:1,10,王国行間逐語訳。「現世の」モファット訳)ものと言うことができました。それは人間の領域の一部,つまり人間の世のなかで建造され用いられるもの,しかし天的もしくは霊的なものではないという意味においてそう言えるのです。ところが,今やクリスチャンは,天そのものにはいられたキリスト・イエスに基づく,まさった崇拝の仕方を行なうよう召されました。(ヘブル 9:11,24)コロサイ人にあてた手紙の中で使徒パウロはイエス・キリストについて,キリストのうちに「神の特質がすべてあますところなく有形的に宿っている」と述べました。(コロサイ 2:9,新)まさにそのとおりですから,イエス・キリスト ― 人間でも,人間の定めた原則や教えでもなく,まして今や成就されたモーセの律法でもなく彼こそ神のしもべたちのための神の定めた規準として,したがって,どんな教えあるいは生き方に関してであれ,その真理を評価する十全のてだてとして認められるべきでした。

      コロサイのクリスチャンに助言した使徒パウロは,同様のことをガラテヤのクリスチャンにも書き送り,『教師』または「守役」にたとえられているもの,すなわちモーセの律法のもとに自ら進んで身を置いて子どものようになってはならないとさとしました。彼らと神との関係は今や,成長した息子と父親とのそれに似るものであり,モーセの律法はキリスト教の教えに比べると,「基礎的」なものとなりました。ゆえに,クリスチャンが人間の領域のその「弱くして賤しき〔基礎的な事柄〕」に戻るのは誤りでした。彼らは十全の真理をもっていたのです。

      同様に今日,神から離反した世を構成する人々は,神のみことばと合致しない人生観や慣行にしたがって生活しています。しかし彼らにとってそれは「上手な」生き方,つまり「目的は手段を選ばない」「この世は人がみな自分のことしか考えない,生き馬の目を抜くようなところだ」「恋愛と戦争は手段を選ばない」などのことばで象徴される行き方なのです。人々は上からの知恵,つまり霊的洞察力に欠けています。(ヤコブ 3:13-18)クリスチャンとしてわたしたちは,家族や仕事の事柄を処理したり,他の人々を取り扱ったりするさい,この世で奉じられている原則にうっかり従うことのないよう注意を払わねばなりません。わたしは,自分の行なう事柄すべてにおいて神のみことば,また神のみ子の模範や教えで徹頭徹尾導かれているだろうか。それとも,この世の俗受けする言説の影響をみずから受けるままにしているだろうか,と自問するのはクリスチャンにとって良いことです。

      ● 弟子ヤコブは,「富める者」たちに呼びかけて,「汝らは正しき者を……殺せり」と言いました。(ヤコブ 5:1,6)この手紙はクリスチャンに書き送られたものです。とすれば,ヤコブはここで何を言おうとしているのですか。

      単数形でしるされていることからすれば,「正しき者」という表現は主イエス・キリストをさすものと思われます。ユダヤ人に対して述べられた使徒ペテロの次のことばもこのことを確証しています。「汝らは,この聖者・義人[つまり,正しき者]を否みて,殺人者を釈さんことを求め,生命の君を殺した(り)」。(使行 3:14,15)同様に,弟子ステパノはサンヘドリンの前で自分の弁明のことばを聞く人たちにこう告げました。「汝らの先祖たちは預言者のうちの誰をか迫害せざりし。彼らは義人の来るを預じめ告げし者を殺し,汝らは今この義人[つまり,正しき者]を売り,かつ殺す者となれり」― 使行 7:52。

      サンヘドリン,つまりイエスに死の宣告を下したユダヤ教の高等法院が,富裕かつ著名な人たちで構成されていたのは注目に値します。(マタイ 26:59,66; 27:57。マルコ 15:43。ヨハネ 3:1; 7:45-51を比べてください。)したがって,「富める者」たちはまさしくイエス・キリストの殺害に関係しました。

      しかし,「正しき者」を殺害する行為は,必ずしもこうした神のみ子の殺害に限るべきものではありません。マタイ伝 25章40節にあるイエスのことばによれば,神のみ子はご自分の「兄弟」たち,つまり霊によってもうけられた追随者を取り扱う仕方をご自身に対する取り扱い方とみなされるのです。

      ヤコブがその手紙を書き送った当時(西暦62年以前),クリスチャンは最初,ユダヤ人によって迫害されました。クリスチャンの最初の殉教者ステパノはサンヘドリンの前で弁明したのち,ユダヤ人の暴徒によって殺されました。(使行 6:15; 7:57-60)ローマの政府当局者によるクリスチャンの迫害が始まったのは,ローマ市のおよそ4分の1を灰じんに帰した大火の生じたのち,西暦64年以後のことです。ゆえに,論理的に言って,ヤコブ

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