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  • クリスチャンは迫害を当然に予期する
    ものみの塔 1967 | 2月1日
    • ひとりになっても迫害に負けることはありません。忠実の人ヨブは,助けたり慰めたりしてくれる人がだれもいなくても,そうした試練に耐えました。そしてエホバはやさしく彼をささえられました。「あなたがたは,ヨブの忍耐のことを聞いている。また,〔エホバ〕が彼になさったことの結末を見て,〔エホバ〕がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが,わかるはずである」。(ヤコブ 5:11,〔新世訳〕)パウロもローマにおいてはそのような孤立の経験をしましたが,終わりまでそれを忍びぬきました。「わたしの第一回の弁明の際には,わたしに味方をする者はひとりもなく,みなわたしを捨てて行った。どうか,彼らが,そのために責められることがないように。しかし,わたしが御言を余すところなく宣べ伝えて,すべての異邦人に聞かせるように,主はわたしを助け,力づけて下さった。そして,わたしは,ししの口から救い出されたのである。主はわたしを,すべての悪のわざから助け出し,天にある御国に救い入れて下さるであろう」。(テモテ第二 4:16-18)現代の例をあげるなら,共産主義中国の独房でそれぞれ7年と5年を過ごしたスタンレー・ジョーンズとハロルド・キングの確固とした信仰の模範があります。確かにエホバは,ご自分に全幅の信頼をおく者を見捨てません。「〔エホバ〕はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は,わたしに何ができようか」― ヘブル 13:6,〔新世訳〕。

      21 前途に迫害があっても,なぜ確信をもって将来を見ることができますか。

      21 エホバの確かなお約束に心をとめ,迫害下で忠実をつくした兄弟たちの模範を忘れないなら,サタンの燃える怒り,死の苦闘のすべてがわたしたちに臨もうとも,わたしたちがそれを恐れる必要はありません。エホバはわたしたちが試練に会うことを許しておられます。それはわたしたちが自分の信仰を実証するためであり,また神の偉大なお名前を立証するためです。また,「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか,試練と同時に,それに耐えられるように,のがれる道も備えて下さるのである」。(コリント第一 10:13)それゆえ,わたしたちは信仰と確信に満ちて将来を見,「悪しき者の放つ火の矢を消」し得ることを確信しています。(エペソ 6:16)そして最後には喜んでこう叫ぶことができるでしょう。「しかし感謝すべきことには,神はわたしたちの主イエス・キリストによって,わたしたちに勝利を賜わったのである」― コリント第一 15:57。

  • 永遠の命をのぞみ見て奉仕する
    ものみの塔 1967 | 2月1日
    • 永遠の命をのぞみ見て奉仕する

      「あなたがたは耐え忍ぶことによって,自分の魂をかち取るであろう」― ルカ 21:19

      1 正常な人間なら命についてどう感じますか。

      正常な人間で死を望む者はいません。年齢,貧富,また健康であると病気であるとにかかわらず,生きようとする本能はきわめて強固です。このことは生活が楽で快適な環境に恵まれた富裕な国について言えるだけでなく,開発が遅れ,苦しく不安定な生活をしいられることの多い国についても言えます。生きることにはあらゆる苦難と問題が伴うにもかかわらず,『生きているかぎり希望がある』とのことわざは今日でも使われています。

      2 クリスチャンは永遠の命をどう感じますか。

      2 このような状況の下でも生きようとする努力と願いがこれほど強いなら,クリスチャンは永遠の命を求めることに対してさらに強い決意と意欲をもつべきではありませんか。そうです,永遠の命を得ようとする意欲は,長くても100年を越えることのまれな今の命に対する自然の本能とは比較にならぬほど強くてしかるべきです。「神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」との聖書の約束を読みかつ信ずる者は,人間が望み,心に描く事柄のうち最も偉大な将来の希望を持っていると言えます。―ローマ 6:23。

      3 イエスは神の永遠の命の約束に人々がどう応ずると述べましたか。

      3 聖書全編を読み通し,病気と争いから解放された,地上の楽園における永遠の命に関するすばらしい記述のすべてを理解するなら,それを疑い,命の与え主エホバを信じない人のいることがむしろ不思議です。しかしイエスはエホバの約束を受け入れ,永遠の命の道を歩む者が,きわめて少ないことを予告されました。「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく,その道は広い。そして,そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く,その道は細い。そして,それを見いだす者が少ない」― マタイ 7:13,14。

      4 (イ)クリスチャン時代以前の神のしもべは永遠の命の約束に対してどんな態度をとりましたか。(ロ)わたしたちの認識がその人々のものより強くなければならないのはなぜですか。

      4 永遠の命およびそれに伴って楽園の地で受ける祝福のすべてを真に認識しているなら,『命にいたる道』を見出した者として,いかなることがあってもそれを踏みはずすまいと堅く決意するでしょう。わたしたちは永遠の命をゴール,つまり努力の目標としています。この目標に向かって進むわたしたちは,アブラハム,イサク,ヤコブなど昔の忠実な人々に似ています。これら3人は神の約束をはるかにのぞみ見ていました。「これらの人はみな……まだ約束のものは受けていなかったが,はるかにそれを望み見て喜び,そして,地上〔その土地〕では旅人であり寄留者であることを,自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって,彼らがふるさとを求めていることを示している」。(ヘブル 11:13,14)これら忠実な人々は忍耐しました。彼らは自分の時代においては死なねばならないこと,そして約束の実現を見るには神の復活の約束に待たねばならないことを知っていました。しかし今日のわたしたちはもっと恵まれた立場にいます。わたしたちの周囲には,神の国の支配がすでに始まったこと,その支配によって今の時代のうちにサタンの支配が終わり,「新しい地」と永遠の命がもたらされることの証拠が歴然としています。(ペテロ第二 3:13)ゆえに,昔の忠実な人々が死に至るまで命の道を歩み通したなら,神の新秩序の門口にあるわたしたちはいよいよ忍耐できるはずではありませんか。

      5 命の道にしっかり足をつけていなければならないことをたとえで説明しなさい。

      5 私たちは,見いだす者が非常に少ない命に至る道に,自分の足をしっかりつけることに最大の関心をもっています。この道を行くことは見知らぬ土地を旅することに似ています。地平線上に目標を見て進み,それから目を離してはなりません。目標から目をそらすなら,道を踏みはずし,たちまち迷ってしまうでしょう。命に対する希望が強いなら,わき道にはいることはありません。パウロはこの希望を錨にたとえ,ヘブル人への手紙 6章19節でこう述べています。「この望みは,わたしたちにとって,いわば,たましいを安全にし不動にする錨であ(る)」。錨が大きな船を固定し,流れ出て岩にぶつかり破船するのを防ぐと同じく,永遠の命に対するこの希望はわたしたちをエホバ神にしっかりとつなぎ,

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