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共に集まることを決意するものみの塔 1985 | 2月1日
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にやってきました。横丁から,さながら川のような大量の水が猛烈な勢いで流れ込んでいました。幸いにもその部分には2本のロープが張られていたので,そのロープにつかまって何とかそこを通り抜けることができました。高地へと進むにつれて水は減り,私たちはやっとのことで立ちどまり,長靴の水を出し,足の荷を軽くすることができました。
洪水の影響のない最初の道路にたどりついた時に,大会ホールに行くことを阻む別の問題に直面しました。走っていた数少ないバスはひどく混雑しており,ほとんどのタクシーは客を乗せようとしなかったのです。しかしやっとのことで,すでに客が乗っている1台のタクシーがとまってくれました。洪水の地域を出るために幾度も回り道をして,午前10時少し過ぎに大会ホールに着きました。
うれしいことにエホバの証人の大部分はすでにそこにおり,大会が始まるのを待っていました。すべての人々が,バスやバイク ― 普通は大多数の人が用いる ― では来られないので,様々な深さの水を渡り,ここに来るための努力を払ったのです。大会のプログラムに対する彼らの認識を目にするのは本当にすばらしいことでした。この地域にはわずか417人の証人しかいませんが,関心を持つ多くの人々も,洪水をものともせず共に集まって聖書の霊的な真理からさわやかなものを得ようと決意していたのです。午前中のプログラムの出席者は629人でしたが,それが午後の主要な話の時には764人にふくれあがりました。台湾省北部の私たちの地域では,おぼれたり,土砂崩れに遭ったりして30人以上の人が死亡しましたが,集まることを決意した人々の中で,被害を受けた人は一人もいませんでした。彼らはエホバ神の保護に感謝してりっぱなプログラムを楽しみました。
そうです,私たちは,自分の家やそこにある物のことを過度に思い煩うことなく大会に行こうとする決意をご覧になって,エホバが私たちすべてを保護してくださることを確信していました。そして確かに,出席者の中で,重傷を負ったり,大規模な被害を受けたりした人は一人もいませんでした。しかし私たちは皆,仲間のクリスチャンとの快い交わりや提供されたすぐれたプログラムから多くのものを得ました。このことは,何かの不都合な事情に妨げられてクリスチャンの集会や大会に行けなくなることがよくあるとしても,努力する人々は豊かな報いを受けるということを私たちに示しています。―寄稿。
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読者からの質問ものみの塔 1985 | 2月1日
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読者からの質問
■ 不滅性と永遠の命にはどんな違いがありますか。
天で霊の命を受ける油そそがれた者も,神から義と宣せられ,地上の楽園で命を受ける人間も,終わりのない命を享受することになります。ですから,結果について考えると,天での不滅性も地上での永遠の命も基本的には同じこと,すなわち永久に生きるようになることを意味します。しかし,不滅性については幾らか注解を述べることができます。
「不滅性」と訳されているギリシャ語(アタナシア)は,否定のアと「死」を意味するタナトスから成っています。ですから不滅性という語には,『死がない』,つまり不死という基本的な意味があります。もっともなこととして,エホバはすべての命の究極の源で,不滅です。(詩編 36:9; 90:1,2)この点は,今や「神の栄光の反映,またその存在そのものの厳密な描出」であられる,栄光を受けたみ子が,「王として支配する者たち[人々]の王,主として支配する者たちの主であり,ただひとり不滅性を持(つ)」方として描かれている事実によって確証されます。(ヘブライ 1:3。テモテ第一 6:15,16)いかなる被造物も,不滅性を有する方であるイエスの命を取り去ることはできません。この不滅性という点で,イエスは死ぬ可能性がある人間や霊者とは異なっています。さらにこう書かれています。『死人の中からよみがえらされた今,キリストはもはや死なないのです。死はもはや彼に対して主人ではありません』― ローマ 6:9。
不滅性はある意味では永遠の命を意味してはいるものの,不滅性には,それを所有する者が永遠に生きること以上の意味があるようです。この語は命に関するある特定の特質を示唆しているようであり,不朽と結び付けられています。聖書は,天的な報いを受ける,霊によって油そそがれたクリスチャンたちについて次のように述べています。「[人間の体の点で]朽ちるものは不朽を着け,死すべきものは不滅性を着けねばならないのです。しかし,朽ちるものが不朽を着け,また死すべきものが不滅性を着けたその時,『死は永久に呑み込まれる』と書かれていることばがそのとおりになります」― コリント第一 15:53,54。
それでも,聖書は不滅性と呼ばれる命の特質についての詳細を多く述べてはいません。不滅性を持たない人間は,たとえ地上で終わりのない命を受ける見込みを持つ完全な人間であっても,命を保つために食べたり飲んだりしなければならず,さもなければ死んで,その体は朽ちてしまうということをわたしたちは知っています。(創世記 2:9,15,16)不滅性には,そのような仕方で養われる必要のない命の特質が関係しているに違いありません。ですから,不滅になる者はすべて死ぬことはない,すなわち『死はもはや彼らに対して主人ではない』のです。その点は,彼らが不朽になるということとも調和します。不朽になるとは,彼らの霊の体,つまり組織体が本来,腐ったり滅んだり朽ちたりしないことを示唆しています。(コリント第二 5:1; 啓示 20:6と比較してください。)このようにして,不滅性と人間の永遠の命との違いを悟ることができるでしょう。
エホバ神は油そそがれた者に不滅性を報いとしてお与えになる完全な裁き主です。神が無限の知恵と洞察力により,そのような人々が徹底的に試みられ,不滅性を受ける資格を疑問の余地なく満たしているとお定めになる場合,わたしたちはその者たちが永久に忠実を保つとの確信を抱けます。終わりのない命を受けるに値するとエホバが裁かれる人々はいずれも,不滅の霊者としてであろうと,完全な人間としてであろうと,永久にエホバを崇拝することができるようになります。ですから,結局のところ,人間としての永遠の命も,天での不滅性も,終わりのない命をもたらすのです。―ヨハネ 17:3。
■ ヨハネ 20章25節から,イエスが杭につけられた時,それぞれの手に別個のくぎが刺し通されたと結論するのは正しいことですか。
マクリントクとストロング編,「聖書・神学・教会文献百科事典」は次のように注解しています。
『主を固定するのに使われたくぎが3本だったか4本だったかについて議論するため,多大の時間と手間が費やされてきた。ノンノスは3本しか用いられなかったと断言しており,グレゴリー・ナジアンゼンもその説に従っている。4本のくぎを使ったとする説のほうが一般的だが,この意見はクルティウスの長大で奇妙な論議により支持されている。くぎの数を14本にまで増やした者もいる』― 第2巻,580ページ。
マタイ 27章35節は,「イエスを杭につけてから,彼らはくじを引いてその外衣を分配し(た)」としか述べていません。マルコ,ルカ,そしてヨハネの中でも詳細はほとんど述べられていません。イエスの復活の後,トマスはこう言いました。「その手にくぎ(複数)の跡を見,わたしの指をくぎ(複数)の跡に差し入れ,手をその脇腹に差し入れない限り,わたしは決して信じない」。(ヨハネ 20:25)ですから,犯罪者たちが時としてなわで杭に縛られたことがあったにもかかわらず,イエスはくぎ付けにされました。中にはヨハネ 20章25節から,それぞれの手を刺し通すために1本ずつ,合計2本のくぎが使われたと結論する人もいます。しかし,トマスが(くぎの)複数形を使っているからといって,それをイエスの両方の手が別個のくぎで刺し通されたことを示す明確な描写として理解しなければならないでしょうか。
ルカ 24章39節で,復活させられたイエスは,「わたしの手と足を見なさい。これはわたしです」と言われました。この言葉はキリストの足もくぎ付けにされたことを示唆しています。トマスはイエスの足のくぎの跡については述べていないので,複数形の「くぎ」という語は,イエスを杭につける際に複数のくぎが用いられたことに言及したばく然とした表現だったのかもしれません。
ですから,現時点で,何本のくぎが使われたかをはっきり述べるのは全く不可能です。杭につけられたイエスを描いたどんな絵も,画家が考え出したもので,手元にある限られた事実に基づく肖像を提供しているにすぎないと理解すべきです。そのような重要でもない詳細な点について議論し,「わたしたちが……み子の死を通して神と和解した」という最も重要な真理が曇らされることを許してはなりません。―ローマ 5:10。
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