-
それだけの数の人間がどこに住むのか目ざめよ! 1971 | 4月22日
-
-
満たすのであってあふれるのではない
エホバ神は最終的に,何人の人間を地上に住ますよう意図されているでしょうか。聖書は何も述べていません。
しかし,その時に生きる人がみな生活を楽しむことは,まちがいありません。詩篇作者ダビデの時代に,神の忠実な民に約束されたことはその時に実現するでしょう。つまり彼らは,「安平のゆたかなるを楽し」むわけです。イエスは,マタイ伝 5章5節でこれを引用し,詩篇 37篇11節のこのことばが,きたるべき世界の状態を表わす預言であったことを示されました。もし人がいっぱいで窮屈な状態ならば,神の王国の支配下で生活する人々は,たしかに平安な生活を楽しむわけにはいきません。
エホバが人間に,「地に満てよ」と言われたことを,おもい出してください。(創世 1:28)エホバは,地にあふれなさい,とは言われなかったのです。あふれないためには,子どもを生むことをいつか止めなければならないのではないでしょうか。そうです,そうなるようにおもわれます。
ではどうすれば,子どもを生まないようにできるのですか。それです。男と女に生殖力を授けたのはだれでしょうか。それは彼らの創造者エホバ神です。エホバが最初人間に生殖力を与えたのですから,それを停止させることもできます。しかし,そのことが生ずる正確な方法と時期とについては,神のことばは何も述べていません。しかし,わたしたちが詳しいことを知らないからといって,エホバが事態を扱いうることを疑う理由にはなりません。
神は,この地を実りの多いパラダイス,永遠の命を得る地の住民すべてを養いうるパラダイスに必ず復興すると約束されました。神はそれを保証しておられます。神のことばは次のように述べています。「王座にすわっておられるかたが言われた。『見よ! わたしはすべてのものを新しくする』。また言われる。『書きしるせ,これらのことばは確かであり,真実だからである』」(黙示 21:5,新)そうです,神のお立てになる新秩序は,すべての人のために快適で楽しい住みかを備えるのです。
-
-
永遠の生命はどのようにして得られるか目ざめよ! 1971 | 4月22日
-
-
永遠の生命はどのようにして得られるか
「どうすれば永遠の命が得られるのか。それを得るには大きな変化が必要だろう」という問いが出るのは当然です。変化が必要なのは事実です。しかし,だれがその変化をもたらしますか。
医学者たちは変化をもたらすために長いあいだ働いてきました。彼らはおもに,防腐剤の使用と,公衆衛生の改善によって,人間の平均寿命を延ばしてきました。いちばん注目に価するのは,新生児と幼児の死亡率の低下です。
しかし,単なる人間の努力の結果として,あなた自身は,どのくらい長く生きることが期待できますか。アメリカーナ百科辞典(1968年版“寿命”の項)は,つぎのように報告しています。
「誕生時の人間の生きる見込みは,[進歩した]国々においては,19世紀の半ば以来ほとんど2倍になったにもかかわらず,60歳の時点における余命は,1年延びたにすぎない」。
「死にかんする生物学」という本の中で,著者のレイモンド・パールは,遺伝が長寿のひけつのおもな要素である,と述べています。パールは,ユーモアを混じえてこの真理を次のように語っています。「いちばんよい長寿保険は,…相手の両親と祖父母を注意深く選択することである」。
今日,寿命を延ばすことにかんする医学上の努力は,事実上,静止の状態にあることは明らかです。それにこのごろでは,空気,水,そして食物の汚染による危険が日ごとに高まり,寿命を縮めるおそれがあります。では,長生きをするためにはだれに待ち望んだらよいのですか。
命の源に頼る
もし人が,長寿を求めているならば,最初に人間に命を与えたかたに頼るのが,順当ではないでしょうか。創造者だけが,わたしたちの必要をつぶさに知って,それを満たすことができるのです。聖書は創造者について,「いのちの泉は汝にあり」といっています。(詩 36:9)「我らは神の中に生き,動きまた在るなり」と使徒パウロはアテネの人々に言いました。―使行 17:28。
では,神が命について言われることを調べてみるのは,道理にかなっていませんか。神のことばである聖書は,地上での永遠の命を約束する,あるいはすでに死んだ人々に関する,満足のいく希望を与える唯一の源です。
ここで,つぎのような考えが頭にうかぶかもしれません。「われわれは幾世紀ものあいだ聖書を所有してきた。しかし,人々はいまもまだ生きつづけてはいない」。聖書は,「万の事には期あり」とわたしたちに告げています。(伝道 3:1)そして,命を与える恩恵が,従順な人間すべてに臨み始めるときを示しています。聖書によるとその時は間近に迫っています。
わたしたちの先祖である最初の人間アダムは,道を踏みはずし,神から離れて独立するという反逆的な行ないをしました。彼はわが道を行くことを決意しました。彼は『知る』こと,つまり何が善か,何が悪かを自分で決め,自分で判断することを望みました。(創世 3:5,22)神は忍耐強く,人間に独立の営みを試みさせてこられました。しかし人間は今困惑の絶頂にあります。そして今はまた,神が,この世代のうちに悪を終わらせ,望む者が永遠に生きられるような状態を地にもたらすことを意図されている時でもあります。―黙示 11:18。
神はどのようにそれをなさるでしょうか。神に来て,神のことばを学ぶならば,人間に永遠の命を得させるために神がなさったご準備を知ることができます。
対応するあがないの必要
イエス・キリストは,人間に永遠の命を得させるために人間の世界に来た,と言われました。(ヨハネ 3:16,17)しかし,全人類がアダムから罪と死を受け継いでいるのに,どうして永遠の命が得られますか。イエスはつぎのように説明されました。「人の子が,仕えられるためではなく,むしろ仕え,多くの人と引き換えるあがないとして自分の魂を与えるために来たのと同じです」。(マタイ 20:28,新)そしてイエスの使徒パウロは,神の御子は「すべての人のために,対応するあがないとして,ご自分を与えられた」と言いました。(テモテ前 2:5,6,新)ご存じのように,あがなうとは,捕虜とか奴隷の身分から人々を買い取ることです。キリスト・イエスは,罪と死への奴隷状態から人間を連れ出すために,人間としてのご自分の命をあがないとして与えられたのです。(ロマ 5:21)その犠牲は,命の授与者である神との正しい関係を取りもどすという,重要な事柄のための基礎を備えます。それにしても,イエスの犠牲はなぜ「対応するあがない」と呼ばれるのですか。またそれはどのようにして,必要な解放を人間にもたらすのですか。
アダムの子孫の場合,どんな種類のあがないでもよいというわけにはいきません。それは,「対応するあがない」でなくてはなりません。どのように対応していなければなりませんか。それです。アダムは,自分自身の,そして子孫全部のどんな貴重な持ちものを失いましたか。それは人間の完全性です。ですから,真のあがないの犠牲は,その完全なアダムに対応するもの,人間として完全なものでなくてはなりません。そのときにのみ,あがないの犠牲は,同様のもの,つまり『魂には魂を』求められる神の完全な義を満足させることができるのです。―出エジプト 21:23-25。申命 19:21。
動物はあがない代になりません。人間よりも低いからです。動物は人間と同等の価値のあるものではありません。ですから聖書が言うように,「雄牛の,そして山羊の血が[実際に]罪を取り去ることは不可能」なのです。(ヘブル 10:1-4,新)また,アダムの子孫である人間も,だれひとり「対応するあがない」を支払うことができません。なぜですか。人間はみんな不完全だからです。みな罪と死を受け継いでいます。―ロマ 5:12-14。詩 49:6-9。
それで完全な人間が必要でした。神は大きな犠牲を払ってこの必要なものを備えられたのです。イエスが言われたとおりです。「神は,ご自分のただひとりもうけられた子を与えるほどに世を愛され(た)……というのは神は……世が彼を通して救われるために,ご自分の子を世に遣わされたからです」。(ヨハネ 3:16,17,新)これによって神の愛ははっきりと表わされています。神は,「彼の愛の御子」であり,「ただひとりもうけられた子」であるご自分の御子の命を与えて,あがない代を備えられたからです。―コロサイ 1:13,新。ロマ 5:6-8。
このためには,御子が,完全な人間アダムに対応する人間となる必要がありました。神は,御子の命を天からユダヤ人の処女マリヤの子宮に移すことによって,それをなし遂げられました。(ルカ 1:26-37。ヨハネ 1:14)イエスは,罪人アダムの子孫を父として命を得たのではありませんから,罪を受け継ぐことなく生まれました。彼は,いわば「きずなく汚点なき羔羊の如き」もので,その血は受け入れられる犠牲を備えることができました。―ペテロ前 1:18,19。
イエス・キリストをとおして新しい命を受け継ぐ
わたしたちは不完全な家族に属し,死を受け継いでいます。この法則は科学的にも真実であることが認められています。短命の,または病身の親は,健康な親が伝えうるような生命力を子どもに伝えることはできません。わたしたちは新しい命を受け継ぐ必要があります。わたしたちは再生を必要としています。イエスはまさにそのために地にこられたのです。しかし,新しい命を受け継ぐことはどのように備えられますか。
これを成し遂げる方法についての聖書の説明は簡単でもあり,深遠でもあります。それはちょうど,人間の死にゆく状態にかんする問題を言うことは簡単でも,それを克服するのが非常にむずかしいのと同じです。まず認めねばならないのは,アダムが罪を犯し,死の宣告を受けたとき,彼の子孫すなわち類は,みな彼の腰にあって生まれていなかったため,彼とともに死んだということです。(ヘブル 7:4-19。ロマ 7:9と比較してください)「終わりのアダム」である完全な人間イエスは,まだ生まれてはいなくても,その可能性のあるイエスの類の子孫をその腰に宿していました。イエスが完全な人間の犠牲として無実の罪で死なれたとき,存在の可能性があったその人類も彼とともに死にました。イエスは,結婚して自分自身の家族をつくることを自ら避けられました。イエスが子なくして死なれたので,彼の腰にあった人間の子孫は,アダムが今までに生み出した全人類とつりあうことになりました。―コリント前 15:45。ロマ 5:15-17と比較してください。
それでイエス・キリストは,ご自分の人間の命を,自分の子どもをもつ可能力もろとも与えることによって,アダムが失ったところの,命にかんする“親”権を買い取られたのです。イエスは,アダムの家族の者の中で,引き出すことを望んでいる人々のために,いわば“預金”をもっておられるのです。
このことがどのように正義を満足させるかを示すたとえとして,不動産を抵当にした大きな借金を残して死んだ人の場合を考えてみましょう。その人の子どもたちは,その借金を払う能力がありません。しかし,金持ちの友人が,死んだ人の債権者からその不動産を請け出し,それを受けるにふさわしい子どもたちに遺産として分配してやります。もちろんイエスの場合は,土地とか他の物質の財産を請け出してふさわしい者に与えるのではなく,命,つまり完全な人間の命を与えるのです。
イエスは「対応するあがない」を備えることによって,アダムの子孫である全人類がご自分の家族となれるように,彼らを買いもどされました。イエスは,そのあがないの犠牲の完全な価値を,天におられる義の全き神にささげることにより,それを行なわれました。彼は「天そのものにはいられ……そして今」人類の世のために「神の御前に現われてくださる」のです。―ヘブル 9:24,新。
したがってイエス・キリストは,自然の生殖によるのでなく,アダムの子孫を買いもどすことによって,地上に子どもたちをもつことができます。このことは,メシヤにかんする預言の中で予告されていました。その預言は,イエスが「とこしへのちち」として「子孫」をもつことを示しています。(イザヤ 53:10-12; 9:6,7)もし地上の子たちが死ぬなら,イエスは彼らの「とこしへのちち」とはなれません。それでこれが彼の真実の称号となるために,あがないをとおして彼を父とするようになった地上の子らは,地上で永遠に生きる機会を与えられるでしょう。
そういうわけで,死んだアダムの死にゆく子らは,イエス・キリストに対する信仰により,永遠に生きる父の家族に移ることができるのです。「このとこしへのちち」は,彼らの精神と肉体に新生命を与えることができ,以後,その生命力を彼らの中に維持することができます。(ロマ 6:23),そうです,イエス・キリストに対する信仰により,あなたは新しい命を受け継げるのです。そして,この新しい命を受け継ぐことにかんする取り決めのすべては,すばらしい方法で,エホバ神の知恵とその義を示します。なぜですか。エホバ神は,義のはかりの平衡を完全に保ちながら,同時に過分の恵みを示し,罪の
-