-
永遠の生命の青写真目ざめよ! 1971 | 5月22日
-
-
人間にDNA青写真を与えたかただけが,その青写真を永遠の生命のためのプログラムに組み変えることができます。
人間の創造者エホバ神は,人間のすばらしいDNA青写真を知りつくしておられます。そのはずです。神はご自分でそれを設計し,その働きを開始されたのです。神の強力な聖霊の霊感のもとに,詩篇作者は創造者について次のように述べています。「われなんぢに感謝す,われは畏るべく奇しくつくられたり……われ隠れたるところにてつくられ……しとき,わが骨なんぢに隠るることなかりき……わが體いまだ全からざるに,なんぢの御目は早くよりこれをみ,日に日に形づくられしわが百體のことごとく汝の冊に録されたり」― 詩 139:14-16。
創造者は,永遠に生きることの可能性に対して消極的な態度をとられません。永遠の生命が必ず実現することを,ご自身のみことばの中で再三確信をもって述べておられます。たとえば,ロマ書 6章23節は,「神の賜物は……永遠の生命なり」と述べています。詩篇 37篇29節は,「ただしき者は国をつぎ,その中にすまひてとこしへにおよばん」と予告しています。
ですから,DNAの造り主は,人間がいつか地上で永遠に生きるようになることを約束されています。それは神が人間を創造されたときの目的でした。神は人間のからだに永久に生きるための備えをされました。もし人間が創造者に対して忠実であったならば,人間は今の時でも永遠に生きることができていたはずです。
しかし,ことはそのように運ばれませんでした。最初の人間夫婦は神の律法にそむいて,永遠に生きる機会を失いました。両人は欠陥のあるもの,不完全なものとなりました。(申命 32:5)彼らのからだは細胞を完全な状態で補充しつづける能力を失いました。それが正確にどのように生じたか,またそれにどんな専門的な問題が関係していたか,聖書は何も述べていません。しかし彼らの反逆以来,彼らのからだには永遠の生命でなく,死の「プログラム」が組まれました。
アダムの子孫は,みな自分のからだにその同じ「プログラム」を受け継ぎました。わたしたちはみなアダムの子孫です。ですからわたしたちはみな死ぬのです。ロマ書 5章12節のとおりです。「それ一人の人によりて罪は世に入り,また罪によりて死は世に入り……ゆえに死はすべての人におよべり」。わたしたちは,からだのある特徴を受け継ぐのと同じように,死を受け継ぎました。
別の命の青写真
エホバは,人々が永遠の生命の機会をもう一度得るための道をもうけられました。ほんとうに望めば,あなたもそれを得ることができます。
それには何をしなければなりませんか。まず神のことばである聖書の勉強です。聖書は命のための,もうひとつの青写真と考えることができます。聖書には,永遠の生命に通ずる,神の明確な教えが書きしるされています。もしわたしたちがこれらの教えを注意深く調べ,そしてそれに従うならば,エホバが新しい秩序において永遠の生命を与えてくださる,という確信をいだくことができます。
その確信は決して誤りではありません。エホバは,わたしたちが今生きる希望のもてる長さを限定されています。しかしエホバはそれを除くこともできます。科学者はあなたのからだの部分を永遠に生きつづけさせる方法を知りません。しかしエホバはご存じです。あなたのからだの部分はすべて,エホバの「冊」に書きしるされています。死は,おどろくべきDNAの創造者にとっては神秘でも何でもありません。エホバは,老化と死の原因,およびそれを停止させる方法を正確にご存じです。細胞の補充のバランスをどのように完全にするかもご存じです。
エホバは,正直な人々が地上で永遠に生きる時が来る,という保証をわたしたちに与えておられます。したがって,永遠の生命の見込みはむなしい希望ではありません。それは偽りではありません。神ご自身がそれを約束されたからです。神は偽ることができません。―テトス 1:2。ヘブル 6:18。
いまからあなたは,聖書を永遠の生命の青写真にすることができます。聖書を研究してください。聖書が明らかにする,神の約束と力に信頼してください。(ヨハネ 17:3。箴言 2:1-5,21,22)人間は生きた細胞の研究者になれるにすぎないということを,いつも忘れてはなりません。しかしエホバはその造り主です。エホバだけがそれを操作でき,そのおかげで,わたしたちはエホバのおたてになる新秩序で永遠の生命を得られるのです。
-
-
銃火をあびる警察官目ざめよ! 1971 | 5月22日
-
-
銃火をあびる警察官
警察官の仕事は楽ではない。ありとあらゆる難事の処理に当たり,命を危険にさらすことさえ要求される。「平常」の時においてさえ,殉職する警官が毎年少なくない。
ところが,今は平常の時ではないのである。警察官の仕事は,今までにないほど危険になってきている。アメリカではとくにそうである。1970年のある期間に,理由もなく襲撃されて殺された警官の数は,1969年同期の2倍,1968年の4倍であった。
ニューヨーク市だけでも,1970年11月までの数字を見ると,38名の警官が撃たれ,46名が切られるか刺され,390名がなぐられたり,けられたりしている。また1,030名以上が,暴力のために職務を妨害された。デトロイト市では,その種の加害行為が1年間に68%増加した。カリフォルニア州では警官の殺害事件が2倍になった。ほかの場所でもほぼ同じ傾向が見られる。
なぜそのように増加するのだろう。ひとつの原因は犯罪の激増である。犯罪活動に加わる者の数はますます増加している。この増加が,そういう人間を扱う警官の命を一段と大きな危険にさらすのである。
しかし,加害行為の増加にはもうひとつの要素が含まれている。それは犯罪の激増よりもさらに不気味なものである。
不気味な傾向
過去数年のあいだに,アメリカは,「テロリズム」と呼ばれるものの急速な増加を見た。あちこちの都市で,警官たちがむざんに殺されている。この種の攻撃の手口は,警官が犯人を逮捕するとき,犯人が警官に対してふるう暴力とは様相を異にしていることを物語っている。
たとえば,サクラメント市のある警官は,パトロールカーに乗っているところを殺された。軍隊用ライフル銃をもった者にねらい撃ちされたのである。サンフランシスコでは,警察署が爆破されて,1人の警官が死に,8人が負傷した。3人の警官は,別々の時であるが,交通違反カードを渡すときに殺された。いずれの場合も,暗殺者は,何も
-