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活動と生命 対 無活動と死ものみの塔 1956 | 7月15日
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です。今日,呈示されている賞を見ないクリスチャンがいます。生命の冠を見つめることは,決して悪いことでありません。その理由は,神がその冠を与えられるからです。ヱホバは,報いを求める気持を私たちの心に起させます。報いを自分のものにしなさい。その報いは,走り求めるだけの価値があります。故に,「私は真理にいるだけで本当に幸福です。それで,報いを受けようと受けまいと,私はヱホバに奉仕します」ということは益のないものです。注意して下さい。神の恵みを拒絶してはなりません。神があなたの目前に約束を与えられたのには,理由があります。そのわけは,あなたがそれを目ざして進み,それを得ようとして終まで走るためです。いつでもその報いを見つめるようにいたしなさい。いま一つの例を考えて見ましよう。父親は子供が学校の試験に合格するのを欲しています。父親は,試験に合格するなら自転車を買つて上げよう,と子供に約束します。その子供は,一生懸命に勉強し,寸刻を惜んで知識を採り入れ,試験に合格しようとします。子供は勉強しているあいだ,賞品を見つめ,賞品を夢見ます。そして,自転車が欲しかつたために,試験に合格します。ヱホバは御自分の子供たちである私たちに,よりすばらしい賞である永遠の生命を呈示されています。その賞を目前に置いて,私たちの走る励ましにすることは,正しいことです。なぜなら,私たちの競争は,極めて難しいからです。私たちはその賞を求めていますが,私たちの愛しているのは,その賞の与え主であり,その方を喜ばしたいと欲しています。
24 なぜ多くの人々は失敗するのですか。なぜなら,人々は永遠の生命という目標に注意しないからです。パウロは次のように書きました,『兄弟たちよ,私はすでに捕えたとは思つていない。ただこの一事を努めている。……前のものにむかつてからだを伸ばしつつ,目標を目ざして走り,キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。』(ピリピ 3:13,14,新口)『上に召して下さる』ことは,油注がれた級に適用します。しかし,『他の羊』に対する召も,「上から」のものです。ヱホバの召した油注がれた者たちは,天の生命である『生命の冠』を願い求めましたが,それと同じように『他の羊』は地上の永遠の生命を願い求めます。(黙示 2:10)そのちがいは何ですか。一方は他よりも勝れた賞ですが,どちらも永遠の生命をもたらします。そして,私たちの欲しているものは生命であります。ヱホバの目的,ヱホバの御国,そしてヱホバの神権的な業についての幻が,うすれて行く人がいます。それらの人々は,個人的な研究もしなければ,研究の集会にも出席しません。幻を持つていないのです。そのような人々は,首尾よく目標に達することはできません。幻を持たない民は亡びます。(シンゲン 29:18,欽定訳)競走中に,賞を見失いましたか。賞を見つめなさい。そうするならば,走路から外づれることもなく,また悪魔に惑わされて生命を失うこともないでしよう。
25 なぜ後ろを見るべきではありませんか。
25 競走についての別の規則は,後ろを見てはならない,ということです。つまり走りながら背後を見てはならない,ということです。競走をしていて,しばらくのあいだは調子良く走る人がいます。ところが,時がたつと,後ろに何かを置忘れたと感じます。そして,頭をめぐらして後ろを振向き,初め頃の生活に後戻りしよう,と考えます。それらの人々の頭には,快楽,仕事,古い世の友人,または他の事柄がこびりついているため,忠実を守るという競走から彼らは脱落してしまいます。ロトの妻は,後ろを振向いたため,ヱホバは彼女を競走から取り除かれました。あなたは,後ろのものを振向きますか。もし,後ろのものを振向くなら,あなたはつまづいてしまい,競走から脱落してしまいます。後ろの物のために,前に進むのを妨げられてはなりません。―ピリピ 3:13。
26,27 私たちの真実の敵は誰ですか。現在は,なぜ特に危険なのですか。
26 むかしの角力の試合や,拳闘の勝負をした人々は,敵を絶えず見つめました。現代の神権的な試合で,今日の多くの人々は敵を見つめるのに失敗するため罠にかかつています。ヱホバのチーム内の或る群に属する多くの人々は,敵とは独裁者とか,秘密警察とか,群衆である,と見ています。しかし,その戦における真実の敵は,人間の目に見えないものである,ということを見抜けません。あなたは無活動になりましたか。もしそうなら,私たちは肉と血を持つ敵と戦つているのでない,ということを見抜けなかつたのです。私たちは,パウロの目を通して敵を見ます。パウロは,次のように語りました,『私たちの戦いは,血肉に対するものではなく,……天上にいる悪の霊に対する戦いである。』― エペソ 6:12,新口。
27 あなたは,肉眼では見ることのできない敵を見つめず,肉と血を持つ敵を見ますか。もしそうなら,霊的な視力を失つたことになります。あなたは,見えざる敵によつて待伏の攻撃をうけました。警戒を怠らぬ目覚い兄弟たちは,ナチがドイツを支配し,暴徒がアメリカを管理していた時,すなわち殆んどどの場所でも迫害が盛に行われた時よりも,現在の方がずつと危険であることに気づいています。独裁者の国だけでなく,民主主義の国でも,悪魔や悪鬼共はかつて無い程にヱホバの業に反対しています。パウロと同じように,ペテロも次のように戒めています,『身を慎み,目をさましていなさい。あなた方の敵である悪魔が,ほえたけるししのように,食いつくすべきものを求めて歩き回つている。』(ペテロ前 5:8,新口)吠え猛ける獅子は,地面に頭をつけて吠えるため,狙われている餌物は虚をつかれてしまいます。餌物は,吠えている獅子の居場所が分らないからです! 欺かれてはなりません。目に見えない獣のような敵が,あなたの足下に忍び寄つているのを,はつきり見ることができますか。もし,その敵を見るなら,あなたは全力を出して最後の戦のために走るでしよう。まつたく,身近かに秘密警察を見る時よりも,また戸口に押し寄せた群衆を見る時以上に,あなたは力を出すことでしよう!―黙示 12:12。
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現在の活潑な訓練により生命の賞を得るものみの塔 1956 | 7月15日
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現在の活潑な訓練により生命の賞を得る
1 ヱホバとイエス・キリストは,熱心でない者をどのように見なしますか。そして,なぜですか。
熱心でない者は,ヱホバとキリスト・イエスに憎まれます。(詩 119:113。ホセア 7:8)もちろん,彼らは生命の賞を欲しています。そして,ヱホバの証者と共にいたい,と欲していますが,しかし生温い態度を取つているのです。彼らは興奮を感じたいと欲し,祝い事を好みます。しかし,彼ら自身は祝い事をするための働きをしないのです。キリスト・イエスは,熱くもなければ寒くもない彼らを御口から吐き出すでしよう。(黙示 3:14-16)彼らは競走に負けます。
2-4 私たちは何を為すべきですか。また何を持つべきですか。勝つためには何が必要ですか。
2 むかしのコリントの競技で競走した人々は,試合に全力をかけました。昔の一ギリシア人の走者は,24スティヂアムの距離を走り,最後まで耐え忍んで一着となりました。栄冠が頭上につけられた時,その走者は仆れて死にました。彼は自分の目的を達して,勝利を得たのです。しかし,私たちはどうですか。競走を第一に重んじて終まで耐え忍びますか。先ず御国とヱホバの義を求めよ。とイエスは私たちに諭しました。(マタイ 6:33)これをすることによつてのみ,私たちは勝つことができます。家族であろうと,仕事であろうと,楽しみ,欲望,いかなるものによつても,この戦に干渉させてはなりません。もし,そうするなら,あなたの勝利は覚束なくなります。
3 最終の勝利を得るまで,この戦を為し続けようと固く決意しなさい。意志の弱い走者が,頑健な体を持つても無益です。その人は,賢明な走り方をしません。あるいは,訓練中の下手な拳闘家のようです。彼は,なぐり袋を打たずに空気を打ちます。(コリント前 9:26)その人は,忍耐がないため,必らず敗けるでしよう。忍耐しようという決意が必要です。あなたの心は,競走に専念しており,ヱホバに依り頼んで強いものであり,かたく定まつてなければなりません。(詩 112:7)競技を最後まで成し遂げるために専心しなさい。全く,あらゆる妨害に打ち克つよう決意しなさい。もしそうするなら,競走に半分以上走つたことになります。走者であるあなたは,その競走に必要な走る速度を知らねばなりません。それは短距離競走ですか。それとも長距離競走ですか。走る速度を加減しなければなりませんか。あるいは全力で走らねばなりませんか。優勝する拳闘家や力士は,賢明な頭を持つているにちがいありません。なんの分別もない野牛とは違います。同じく,私たちも強い足を持ちながら,弱い心であつてはなりません。ただ家から家に歩くのではなく,私たちは強い心を持ち,聖書の話をする時には,的を当てなさい。賢明に走りなさい,競走に勝つて勝利を得るため,聖書の知識と叡智を用いなさい。あなた自身を強め,神の御言葉の知識で備えをいたしなさい。『あなた方は,ヨブの耐え忍んだことと,ヱホバの与え給うた報いについては聞き知つている。』― ヤコブ 5:11,新世。
4 イエスは,『最後まで耐え忍ぶ者は救われる。』と語られました。(マタイ 10:12,新口)あなたは,耐え忍びますか。もし耐え忍ばないなら,あなたは敗れるでしよう。パウロの次の言葉を銘記しなさい『私は確信する。死も生も,天使も支配者も,現在のものも将来のものも,力あるものも,高いものも深いものも,その他どんな被造物も,私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から,私たちを引き離すことはできないのである。』― ロマ 8:38,39,新口。
5 (イ)でたらめで発作的な訓練をするなら,なぜ勝者になれませんか。(ロ)ヘゼキヤはなぜ勝ちましたか。
5 でたらめな訓練をするなら,競走に負けます。時々,思い出したように伝道してはなりません。もし,そうするなら,あやふやな競走をしていることになります。パウロは,そうしませんでした。資格を得るために,定期的な訓練を受けなさい。発作的に走ることはできません。ちよつと全力を出して,また休むという仕方では勝は得られないでしよう。他の人に後れてきても,ちよつとのあいだうんと活動すれば,その後れを取り戻し,それからは息を抜いて,数週間ものあいだ誰にも会わなくても大丈夫だ,と思いますか。そう思うことはできません。『辺速者走ることに勝つにあらず,強き者戦に勝つにあらず。』(伝道之書 9:11)アッシリヤのセナケリブは,勝れた軍隊と力を持つていましたが,勝を得たのは包囲されていたヒゼキヤ王だつたのです。ヒゼキヤ王は,ヱホバを信じていました。ウサギとカメの話を憶えていますか。ウサギは目にとまらぬ走さで走り出ましたが,競走に勝つたのはカメでした。だが,みなさんも御存知のように,ヱホバの確かな御言葉は,人間のつくつた話よりも,ずつと勝れています。なぜヒゼキヤは勝ちましたか。彼は早かつたのですか。彼は強かつたのですか。彼は祈りを捧げて,ヱホバに従つたために勝ちました。そしてヒゼキヤはヱホバの答をうけました。ヱホバは,予言者イザヤを通してヒゼキヤに次のように告げられています,『我おのれの故によりて,僕ダビデの故によりてこの城をまもり,この城を救わん。』(イザヤ 37:35)その夜,ヱホバの御使は,18万5000人のアッシリヤ人を殺しました。(列王紀略下 19章)私たちの戦でも,一撃するだけで,敵はなくなりません。効果的な打撃を打ち続けることが是非必要です。それで,証言の業のときに,定まつた聖句だけとか,一つの聖書の話だけを用いるのは良くありません。変化したものを持つためには,ちがつた変つたものを多く持たねばならないのです。そして,良いたよりをひろめるにあたつても,又は守るにあたつても,それらを正しく用い続けなければなりません。
6 私たちは誰を恐れてはなりませんか。私たちは,誰を恐れるべきですか。
6 次のような規則もあります,拳闘の試合や,勝負をする人々は恐れを持つてはなりません。それで,証言をするときに私たちは恐れを持たず,霊的な力に確信して,真理の言葉を正しく取扱うべきです。パウロは,競走について多く語るだけでなく,試合で戦うことをも述べています。(コリント前 9:26。テモテ前 6:12。テモテ後 4:7)伝道するなら反対をうける,ということを憶えて下さい。反対されたとき,あなたはどうしますか。あなたは恐れて止めますか。もしそうするなら,あなたは失格して戦に加わることができません。ヱホバは,こう言われています,『おくびような者,信じない者……すべて偽りを言う者には,火と硫黄の燃えている池が,彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。』(黙示 21:8,新口)人間を恐れるならば,罠におちいり,生命の賞を得ることができません。(シンゲン 29:25)『ヱホバを恐るるは,智恵のはじめなり。』― 詩 111:10。
7 組単位に試合が勝つたり負けたりすることは,どんな教訓を与えていますか。
7 むかしの試合は,組<チーム>単位で勝負が決められたのであつて,ひとりの選手で勝負が決められたのではありません。投槍選手,円盤投げ選手,角力の選手,跳躍選手,拳闘選手,そして競走選手でチームは構成されました。神権制度は,大きなチームです。私たち各人は,その中の小さな一員に過ぎません。他の成員が是非とも必要です。『実際,からだは一つの肢体だけではなく,多くのものからできている。』(コリント前 12:14-26,新口)チームの成績ということだけを考えましよう。競走に勝つたり,勝利が得られたなら,それはチームの勝利であつて,個人の勝利ではありません。チームの指導者であるキリスト・イエスに誉を捧げましよう。各人はすべての人のことを考え,すべての人は各人のことを考えねばなりません。それは真実の共同動作<チームワーク>です。大きな機械は沢山の部分から成立つています。機械が円滑に動くためには,潤滑油が必要です。私たちの制度に注がれるヱホバの御霊と,その結果に生ずる一致は,丁度機械に用いられる潤滑油のようなものです。
8 悪い交際は,なぜ危険ですか。
8 試合の別の規則は,悪い交際を禁じます。古い世の友人は,ある人々から離れていません。ある人々は,愚かにも古い世の友だちと,未だに交り結をんでいます。パウロは,『まちがつてはいけない。悪い交わりは,良いならわしをそこなう。』と諭しました。(コリント前 15:33,新口)制度内の人の中で,古い世の習慣を持つている人がいます。それはみなパン種です。パン種はあなたの生活に影響を及ぼします。もし悪い交際から遠ざからないなら,あなたは競走に敗けるでしよう。(コリント前 5:9,10; 6:9,10)これは訓練を破るものであつて,私たちの霊的な筋肉を柔くしてしまいます。交際する人が,「良い人」かどうかが問題なのではありません。「良い人」なら良い仲間でしよう。だが,その人は神権的な仲間ですか。もしそうでないなら,その人を避けなさい。競走をしている者とだけ一緒に走りなさい。『類は友を呼ぶ』という古い諺を憶えていますか。みなさんは,またいつも鶴といつしよに泳いでいた白鳥の話を御存知かもしれません。鶴は農夫の畠を荒らしていたため,農夫は鶴を射殺しよう,と思いました。鶴を殺しましたが,同時に自分の大事にしていた美しい白鳥をも殺しました。ハルマゲドンの時に,美しいが不運であつたこの白鳥のような経験をうけないようにしなさい。
9 失格を避けるために,私たちは何を行うべきですか。
9 パウロは,次のように書きました,『すべて競技をする者は,何ごとにも節制をする……(そこで)自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと,ほかの人に宣べ伝えておきながら,自分は失格者になるかも知れない。』(コリント前 9:24-27,新口)昔の選手たちは,自分の行動,生活,食物の習慣,交際,飲むこと,楽しみ事を節制しました。訓練を妨げたり,無効にするあらゆるものを彼らは避けました。私たち神権的な競技者も,同様に,勝利を得る為には各々節制しなければなりません。
10,11 最大の規則,最終の規則は何ですか。これらは,互いにどう関係していますか。
10 いままで,規則やその結果について考えてきました。この研究の結びに,あらゆる規則の中でもいちばん大きな規則,すなわち愛を考えましよう。パウロの言葉によると,愛がないなら私たちは(1)やかましい鐘や騒がしい饒鉢と同じである(2)無に等しい(3)『いつさいは無益である』(コリント前 13:1-3)次のように語られたイエスは,その規則を示されました,『あなたのすべての心,すべての魂,すべての精神,そしてすべての力を捧げて,あなたは神であるヱホバを愛さねばならない。……自分自身のごとくあなたは隣人を愛さねばならない。これよりも大きないましめはない。』― マルコ 12:30,31,新世。
11 いまは,時間を空費すべき時でありません。(エペソ 5:16。黙示 10:6)規則とその適用の仕方を良く学びなさい。これらの事柄を実際に行いなさい。規則を守りなさい。そうすれば,あなたは勝利を得て災を避けるでしよう。イエスの述べられたごとく,最終の規則は,私たちが競技のすべての規則を守ることです。『もしあなたがたが私を愛するならば,私のいましめを守るべきである。』(ヨハネ 14:15,新口)すべての規則に一致すべきです。その一つでも破るならば,罰せられるでしよう。
勝を得たすばらしい闘士
12-14 イエスは,勝を得たすばらしい闘士であることを,どのように示しましたか。彼はどんな報いを得ましたか。
12 神権的な試合に参加する人々に関して,研究してきましたが,いまヱホバの側に立つた素晴らしい信仰の闘士,恐れのない戦士,そして耐え忍んだ走者のことを考えてみましよう。
13 ヱホバのチーム内の最大の競技者は,私たちの指導者なるイエス・キリストです。キリストは,私たちの模範であられる故,先ず彼のことを考えましよう。(ペテロ前 2:21)彼に対する最初の大きな障碍とは,この世界に属するすべての国を得る機会が示されたことでした。しかし,イエスは悪魔にむかつて次のように答え,かたく自分の立場を守つたのです,『サタンよ,しりぞけ。「あなた方の神ヱホバを崇拝し,ヱホバ神のみに聖なる奉仕を捧げねばならない」と聖書に記されている。』(マタイ 4:10,新世)サタンの設けた別の障碍として,ペテロと神の思いとは異る彼の人間的な考えがあります。ペテロはイエスをわきへ引き寄せ,イエスに降りかかる危害に強い異議を申し立て,『主よ,とんでもないことです。』とペテロは言いました。このため,イエスの勇気は
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